危険な遊び
カンポックリというおもちゃを作ったことがある。大きな空き缶を2つ用意して穴を開け、紐を通してそれを持ち、高下駄のようにカッポカッポと歩くのである。
それを履いて逃げたり追いかけたりするのだが、下手をすると捻挫をする恐れがあって、結構危ない。それでも、いざその遊びが始まると、逃げる方も追いかける方も危険性を忘れて必死に走ったものである。
同じような遊び道具に竹馬があるが、どういう訳かそれで遊んだという記憶がない。竹や木ぎれを調達するのが難しかったのか、メンテナンスが面倒だったのか、町内では誰もしなかった。
竹馬作りは、現職を退いて学童の指導員になった時に経験した。竹と木ぎれを縄で縛っただけのものはすぐにダメになったが、ドリルで穴を開けてボルトを通したものは充分持ち堪えた。昔は、そんな道具はなかったのであり、縄が緩むごとに縛り直していたのである。
人がたくさんいれば、「さざえ」という遊びをよくやった。地面に棒で大きな「さざえ」の模様を描いて、AとBの2チームに分かれてする遊びである。
ルールは簡単である。Aチーム全員がBチームを掻い潜りながら自陣に戻ればAチームの勝ちになり、全員が倒されればBチームの勝ちになる。
Bチームは、押し出しや引き込みによってAチームを倒していくが、力の弱い子でもチームに貢献できる要素があった。
この遊びは「にくだん」に似ているが、誰もが入れる共通の島があったり、捕虜を助ける事が出来たりと、バリエーションがあった。
男の子ばかりが集まると、「どうま」という激しい遊びをしたものである。しかし、首の骨が折れる可能性があったので、学校では禁止になった。
今では、そのような体を使った遊びは、ほとんどしなくなっている。賭博性のある遊びや危険性のある遊びは敬遠されて、オンラインゲームやテレビゲームばかりがもてはやされるのは時代の流れなのか。
タバコ屋のおじさん
町内に醤油や砂糖を売っている食品雑貨のような店があった。そこはタバコも置いていて、父親と母親が愛用していた「いこい」と「新生」をよく買いに行かされた。
店は若い旦那さんと奥さんの二人で経営していたが、どちらかというと奥さんの方が取り仕切っていた。日頃、旦那さんはあまり表には出て来ず接客もそこそこであり、身を入れて商売をしているようには見えなかった。
ある日、何かのお使いでその店に入ったのだが、おじさんが私の持っているものに偶然気づいた。そして、目を輝かせた。それは、駄菓子屋で買った竹ひご飛行機の紙袋であった。
おじさんは、竹ひご飛行機を作るのを得意としていて、商売そっちのけで熱心に語り出した。自分は以前に大きな大会に出て2位になったこともあり、竹ひご飛行機については誰にも負けないと自負したのである。
その話を聞いて、早速私も飛ばしてみたいと思った。設計図と葛藤しながら自力で作ってみたが、非常に雑な作りになってしまった。
実際、私の飛行機は、あまり飛ばなかった。張ってある紙に皺があり、竹とパイプの接続も適当だったので歪な形になっていた。重心の調整もせずに無理矢理飛ばしたので、瞬く間に墜落したのである。
その飛行機をおじさんに見せに行ったが、「こういうものは、時間を掛けて丁寧に作らんと飛ばんよ」と、親身にアドバイスをしてくれた。
後日、おじさんは、自分で作ったものを私に見せてくれた。それは寸分の狂いもない完璧な飛行機だった。プロペラは何のブレもなくきれいに回り、主翼も尾翼も均等に出来ていて、私たちのものとはまったく異なる出来具合であった。
この日の夕方、近くにある盲学校のグランドでの初飛行となった。おじさんは風向きを調べ、飛行機を地面に置いた。滑走させてからの離陸である。
それは、一瞬だった。飛行機は『ブーン』と唸りを上げながら地面から離れ、見事に上空へ飛んで行った。
「あっ」おじさんが声をあげた。2階建ての校舎の屋根に、飛行機が当たったのである。予想以上に旋回がずれて、その衝撃で飛行機は墜落してしまった。
紙が張ってある主翼の片側に穴が開き、おじさんは「今日はこれで終わりやね」と、笑いながら言った。そして、飛行機を大事そうに抱えて、家に帰って行ったのである。
家出
原因は何だったのか忘れたが、小学3年生の時に母親と言い争いになったことがある。母親は自分の非を認めない時があって、その理不尽さに反抗した訳である。
怒った母親から「あんたみたいな子はもういらん。言うこと聞かんのやったら、この家から出ていき」と言われて、渋々出ていった。夕方の6時頃である。
当然、行く所がないので、近くの電信柱の影に身を隠していた。そこには小さな街灯が一つあるだけで、周りは薄暗かった。
腹が減ってきて何かを買って食べたいが、お金がない。心細く不安な中、母親に対して『僕は悪くない』と意地を張っていたので、このままずっとここに朝まで居ようと思った。
そうこうしている内に、父親が麻雀から帰ってきた。私が8時過ぎになってもひとりで外にいるので、『なぜ家に入らないのか』と不思議な顔をして聞いてきた。訳を話したら、「分かったさかい、もう帰ろ」と言ってくれた。
いっしょに家の中に入ったが、母親がまだ怒っていた。「もう許したれ」と父親が言ったが、母親は頑として態度を変えなかった。
父親が少しムッとして、「ええ加減にせえよ。ほんまは、お前の方が悪いんと違うんかい」と母親に言った。憤慨した母親は、「大体、あんたが麻雀ばっかりしてるさかい、こんな子どもになるんや」と切り返した。それで今度は、父親と母親の言い争いになった。
私は、『何や知らんけど、僕は関係ないし』と二人の喧嘩を尻目に、遅い晩ご飯を食べたのである。
テレビ
テレビの開局は、1953年になる。NHKがその先駆けであるが、日本テレビやTBSなどもほどなく放送を始めた。
当時は生放送であり、放送事故も多かったようである。実際に、喜劇の舞台で役者が取り返しのつかない大きなミスをするのを私は観ている。客は思わぬ出来事に大笑いであった。
テレビがあれば、わざわざ映画館に行かずともドラマや映画が観られる。掛かるのは電気代だけであり、私の両親はいち早くテレビを購入して毎日のように観ていた。両親と同様に幼い私もテレビに釘付けになった。
主に歌謡番組やスポーツ、ドラマを好んだが、日本のドラマでは「番頭はんと丁稚どん」、外国のドラマでは「ララミー牧場」を欠かさず観ていたのであり、今でもはっきりとその映像が浮かび上がる。
その事については、私の随筆である「証」の中の「記憶の宝箱」において詳しく述べているので、ここでは書かないでおく。
夏休みに入ると、昔の日本の映画を毎日のように放映していて、友だちといっしょによく観た。
小学校の低学年では内容が理解できないものも確かにあったが、名作と呼ばれる映画をたくさん観ることができた。
「二十四の瞳」のような反戦がテーマになる映画や「私は嘘は申しません」などのようなコミカルな映画もあって、今日は何の映画になるのか心待ちしていた。
世の中にはテレビを毛嫌いして観ない人もいるが、私にとっては必需品である。日本のニュースはもちろん、世界各国で起こっている出来事をいち早く知ることができて、何よりの情報源になっている。
スポンサーのCMも生活の情報として役立っているのであり、気に入らない番組ならリモコンで違う局にするか電源を落とせば良いのである。
最近は、歌番組やドラマをまったく観なくなった。興味を持って観ているのは、ドキュメンタリーかバラエティ番組ぐらいである。
ペコちゃん
昭和34年に、カルピスのように水で薄めて飲む「ハイカップ」という乳酸菌飲料が販売された。
その当時、米国アニメの「ポパイ」のスポンサーであった不二家がその人気に乗じて出したものと思われるが、販売を上げるためのキャンペーンも行っていた。
それは、その王冠を1つ会社に送れば、ペコちゃん若しくはポコちゃんのTシャツが当たるかも知れないというものであった。
3万名にプレゼントされるということで母親に頼んで送ってもらったが、運良くペコちゃんのTシャツが当たった。
しかし、私が望んだのはポコちゃんの方であったので、仕方なく妹にやった。その後、王冠を数回送ったが、結局、ポコちゃんのTシャツが来ることはなかった。
グリコのチョコボールの景品に「おしゃべり九官鳥」というのもあった。プラスチックの九官鳥に「しゃべる」機能が付いていて、目新しいこともあり本当に欲しいと思った。箱に付いているハートマークを5枚集めて送ったが、結局当たらなかった。
もうひとつ同じように応募したものが、森永の「コーラス」という乳酸菌飲料の景品である。回転しながら下で停止するというマジックヨーヨーで、これも残念ながら当たらなかった。
同級生の中に運良く当たった人がいて、これ見よがしに実物を学校に持って来て自慢していた。少し悔しかった。















