ヒマジンノ国 -32ページ目

 ヒマジンノ国

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週末は忙しく、ブログを準備する時間がありませんでした。週1ぐらいでブログを更新したいと考えてやっていますが、簡単じゃないですね(;^ω^)。

 

よく見ると自分は10年以上アメブロをやっているようです。その割に記事が650程度しかないという。アクセスが多いわけでもないのに何のために続けているのだろうか・・・?

 

聴かなければならないレコードと、読まなければならない本がたまっています。年末までに全部消化できるか分からないなあ。

 

 

アメリカの大統領選挙はバイデンが勝ちそうな勢いですね。それに対して現職のトランプ大統領は選挙に不正があったとして、裁判で訴えるとか。

 

確かにトランプは郵便票による水増しが不正になると、選挙前から訴えていました。実際に郵便票が増えてから、バイデンの追い上げが始まったようには見えます。ただトランプ自身は支持者に郵便票を避けるようにいっていたようですから、バイデン票が増えるというのも、充分ありうるのかもしれません。

 

最高裁判事は事前に、トランプ大統領が、定員の9人のうち、6名までを保守系に入れ替えており、おそらくはこういう事態のための措置だとも思われます。そのため開票でバイデンが勝ったとしても、来年1月20日のトランプの任期終了までは、何があるか分からない状況になってきました。裁判で開票結果が引っ繰り返る可能性もあります。

 

おおよそマスコミは日本を含め、国際的にバイデン贔屓になっているようです。トランプはマスコミを支配するオールド勢力と戦ってきたという話がずっといわれてきましたので、それを裏付ける形でないかと思えました。やはり日本のメディアも同じということですね。

 

仮にバイデンが大統領になると、以前のようなより不安定な国際情勢に戻るのではないかと思い不安です。トランプ政権になって、中東へのアメリカの軍事的介入が減り、極東でも北朝鮮は比較的静かになりました。世界は幾分落ち着いたように見えていました。

 

代わりに中国の横暴があぶりだされた形になり、問題がよりリアルに見えるようになってきたと思っていました。

 

 

トランプ以前の大統領は上の表のように必ず何かしらの紛争を繰り返してきました。アメリカが戦争ビジネスで儲けてきたといわれる所以です。しかしトランプ政権になってそれはぷっつりと止まり、彼はこれらの人々に相当に恨まれていた可能性があります。

 

日本の政治も、こういったアメリカの政権にずっとひきづられてきた経緯もあり、自分はまた逆戻りするのは好みません。前も少し書きましたが、安倍政権もオバマ政権とつるんでいた時は本当に嫌でした。しかし、安倍さんもトランプに会いに行ってから若干変わったように見えました。

 

バイデンが大統領になると世界が5年以上前の状況に戻ってしまうのではないかと危惧しています。また中東で紛争が始まったりしないかと不安ですね。バイデン大統領の登場は、個人的に、それほど歓迎できることではないと思っています。

 

 

ちょっとだけ気になることを簡単に書いておきます。

 

種苗法改正など一度押し戻した案が何の議論もなく、また、元の位置に押し返されてしまうことには反対です。女優の柴咲コウさんの発言が反日だというような意見などで、糾弾されるのも行き過ぎでしょう。本当に気の毒だとは思います(追記:柴咲さんが北海道で、中国の実業家と交流があった、という報道がありました。彼女が中国で牧場経営を彼らとしているという話です。細部は分からないのでコメントは難しいですが、これが本当なら「反日」というレッテル張りをされるのも分からなくありません。確問題があるのかもしれません)。

 

確か彼女も、自分の近しい人に「癌になった人がいたから」という理由が、発言の理由の一部だったと思います(遺伝子組み合えの食の安全性、ということだと思いますね)。

 

確かに今日、何でも意見が「党派」的に扱われすぎて、その意見の内容が伝わらないことが多く、そこが問題かと思います。

 

古くなった今日の種子法が改正されたりすることに、意味はありますでしょうが、同時に失われていくものがあります。すでに国内でもアグリバイオといっていいんでしょうか、つくばSDや三井化学アグロなどの国内企業が、遺伝子組み換えではないものの、商品として適したハイブリッド種を栽培し始めています。これらは、大手牛丼チェーンなどに渡っているといいます。安価で大量生産できるというものです。

 

特につくばSDのやり方はモンサントモデル(モンサントは悪名高い国際企業です)といわれており、今後どうなっていくか気になるところです。元々国内には昔から育ててきた「原種」と呼ばれてきた作物があるということらしく、これらを元にして品種改良をしてきたようです。しかしこういうのは時間がかかるし、儲からないので、結局種子法が改定されたといっていいのかもしれません。

 

しかし、原種の方が、食の安全を守るには良いと思います。

 

ただ、今後はどうなるか分かりません。状況さえ許せば「遺伝子組み換え」などの作物を作る企業も出てくると思います。今後は国産と銘打ってあっても、遺伝子組み換えが嫌な人は1度調べなければなりません。既に日本では309種類の(世界で最も多いとされる)遺伝子組み換えの作物が商業用に認められています。

 

また、既にゲノム編集で作られた作物は外国から、国内に輸入されており、ポテトチップの製造などに使われています。日本は2018年にゲノム編集は遺伝子組み換えでない、としているようです。しかしこれらのものを食べて安全かはまだまだ疑問です。

 

生物多様性のセーフティネットとして「カルタヘナ議定書」がありますが、モンサントなどはゲノム編集は「遺伝子組み換えでない」という趣旨の発言をしています。しかしEUでは司法裁判所が判断をし、ゲノム編集も遺伝子組み換えである、としています。

 

どうしても「お金」は必要ですし、稼ぐ必要はあるでしょうが、実際問題になってくるのは「我々の口に何が入ってくるか」ということです(ここが結局この手の法律の論点となる片方の重要な一点だと思います)。

 

日本がカルタヘナ議定書に従っているといっても、実際に何が行われているかが一番の問題になります。今後5年、10年してどうなっているか疑問です。子供や孫が何を食べるのかという問題につながっていくかと思います。個人的には儲からなくても、体に安全な食を確保できるものを、国で守っていくことの方が重要と考えています。食を経済問題ですべて扱ってしまわないようにした方が良いというのが、自分の感想です。

 

 

内閣府はムーンショットなる計画を公に発表しています(インターネットで確認できます)。内容は最新技術と我々の生活を融合して、将来に備えるものですが、人間とロボットを一体化させる、ほとんどトランス・ヒューマニズムに近いものなどを提案してきているようにも見えます。

 

こうした人間や、あるいは都市の高度なハイテク化は今日、国を問わないように思えるようになりました。また逆にいえば、こういう発想を日本の政治家や官僚だけで考えだしてきたかは、非常に疑問です。

 

テスラ社のイーロン・マスク、あるいはトランプ支持者のピーター・ティールという存在。また、一時期ソフトバンクの孫正義氏は「次世代はAIが重要になる」というようなことをしきりに話していた気がします。また中国の高度にIDを管理された都市の発想(アリババなどが提唱している)。これらは国を超えて動ける、資本家たちの目論見のように思えます。所詮国同士の諍いなど、いずれは問題ないとでもいいたげです。

 

 

食についても実際大手の企業たちがこれらを管理したがっている可能性はあります。ムーンショットを読んでいるといかにも素晴らしい技術革新に見えるように書いてありますが、本当に安全なものでしょうか。

 

国も種子法廃止の際、全国8ヵ所で三井化学アグロの民間の品種を優秀なものとして、説明して回ったそうです。

 

本音をいうと、こんな「ムーンショット」計画などいうものを勝手に国が提示してくること自体がちょっと変だとは思うんですが。いつ国民のコンセンサスを取りましたか?もっといえば世界政府への道筋みたいなのは見え隠れしますかね。

 

まあ、しかし、これらは個人的な見解ということですかね・・・。

 

自分のいっていることの真偽は別としても、食べ物の問題は我々の生に直結する問題だと思うんですよね。憲法なんかもそうですが。

 

いつも同じことを書くのですが、本当にこういうことは、党派の問題を超えて、ちゃんと議論すべきだと思いますね。

 

あんまり書きたくないことでしたが、一応書き残しておきます。

 
ML4533。
 
 
このLPもまた、前回のリパッティ同様、詳しい方からいただいたものです。

 

ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973は個人的に好きなヴァイオリニストで、いくつかCDで保有しています。しかし今回、プロコフィエフは初めて聴きました。

 

 

↑、ヨーゼフ・シゲティ。クライスラー、ハイフェッツと並ぶ20世紀の巨匠です。技術的に達者な演奏家、というよりも、内容で聴かせる、「音楽家」だった、という評論は良く読みます。彼の演奏スタイルは、テンペラメントによるよりも、味わい深い演奏による、というべきでしょうか?

 

プロコフィエフ(1891-1953)はショスタコービッチと並ぶ、ソヴィエトを代表する作曲家です。前衛的な手法を好み、アヴァンギャルドな印象があります。彼は2曲のヴァイオリン協奏曲を作曲しており、これは1番の方ですね。

 

名曲ですが、この曲が世界的に知られるようになったのは1924年にこのシゲティが、プラハの国際現代音楽祭で弾いたからだといわれており、シゲティ自身は、作曲家からお墨付きをもらっています。これは1935年に録音されたものです(世界初録音。後にステレオ録音していますが、自分は当然未聴です)。

 

シゲティはヴァイオリニストとしては技術が劣るとされますが、彼独特の厳しい弾き方は、彼を20世紀を代表するヴァイオリニストとしています。彼は曲想にへばりつくように弾き、そこから独特の深い味わいを引き出します。特に晩年の演奏がそうでした(純銀の糸を張りつめたような音色、といわれた)。

 

このプロコフィエフは彼が若いころの演奏ですが、厳しさは出ており、曲調を詰めていくような深みが出ていると思います。

 

 

↑、懐かしいメロディで始まる曲の冒頭シーン。レコードに傷があって、周期的に大きなノイズが入っています(;^ω^)。古いレコードなので、すいません。曲、演奏共に、古き良き時代の雰囲気があります。

 

前衛的とはいいながら、プロコフィエフには懐かしい郷愁的な気持ちがあり、その雰囲気と、不協和音を含む大胆な和声を組みし、だれ過ぎない爽やかな曲に仕上げていると思います。

 

 

プロコフィエフのヴァイオリン・コンチェルトはリサ・バティアシュヴィリ(1979-)のものが好きでたまに聴きます(以前少し書きました)。彼女の録音した、「ヴィジョンズ・オブ・プロコフィエフ」(2015・2017)とショスタコービッチを収めた、「時の谺」(2011)と題されるアルバムは出来が良く、素晴らしいと思います。個人的にはヒラリー・ハーンよりも好みのヴァイオリニストです。CDでしか出ていませんが、線は細いものの、ヴァイオリンの音色も立体的に撮れているように思います。

 

最近の演奏家の特性からすると、ロマン派の作品よりはショスタコービッチ、プロコフィエフのようなリアルな表現の作品や、現代音楽ようなものの方が、合うのかもしれません。ロマン派の作品は感情表現ができないと退屈します。バティアシュヴィリもチャイコフスキー、シベリウス、ブラームスなどを聴きましたが、平均的な出来栄えでした。正確な演奏で、響きに磨きがかけてあり、非常に美しいですが、感情表現が薄く、自分は感情移入しづらいです。

 

正確な演奏と、感傷的にならない最近の演奏家は、ロマン派に向かないケースが多いように思います。

 

 

↑、ジョージア(旧グルジア)出身のヴァイオリニストです。現代音楽などを得意としています。

 
 
 
↑、プロコフィエフのヴァイオリン・コンチェルト1番、曲の終わりの部分です。第1楽章と、フィナーレのコーダに、透明感ある美しい部分があります。これはその後者です。全体で見るとシゲティのような深みはありませんが、コーダの持つ透明感は、バティアシュヴィリのような現代のヴァイオリニストで聴くと、ひときわ美しいように思います。この辺は無理に感情移入して演奏するよりも、爽やかに流したほうが好きです。
 
淡い幻想的な管弦楽の中を、まるで小鳥がさえずるように、美しいヴァイオリンのソロが歌っていきます。神秘的な音楽です。コンチェルトは2番も録音されており、そちらも名演だと思います。
 
FJLP5050。
 
 

アルフレッド・コルト―(1877-1962)による「ショパン、24の練習曲」。

 

同じ音源のLPをこれで3種類目かもしれません(;^ω^)。買ってしまいました。我ながら中々のお馬鹿です。

 

・・・おそらくこれはフランスの初期盤だと思います。コルトーの初期盤は探していたので、どんな感じに聴こえるのか、これで確かめてみようと思いました。

 

この録音は元々SP(1933、1934年録音)ですので、LPでは完全なオリジナルとはいきません。同じ音源は、LPであれば、他には国内初期盤を保有していますが、国内盤もかなり美しいです。CDも当然のように持っています(;^ω^)。

 

このフランス盤は国内盤に比べると音が固い気がします。エッジも効いていて、くっきりした音質でした。やはりLPの音質そのものは、このフランス盤が上でしょうか。

 

しかし、国内盤もこれに比べてそれほど遜色ないと思いました。むしろ音が丸っこく、滑らかさが増して、好みはこちらかもと思ったりしたのでした。

 

 

↑、アルフレッド・コルトー。存命時は相当な大人物だったそうです。フランスの批評家のロンペッシュは、その存在感をピエール・ブーレーズになぞらえています。しかし、ちょっと面白い顔ですね( `・ω・) ウーム…。

 
 
↑、作品25の12番。フランス盤はまだノイズが多いので、国内盤で録音してみました。それでも結構ノイズは入ってますが・・・(;^ω^)。さすがにちょっと古さは感じますでしょうか。
 
演奏そのものは、現代の演奏家が弾くショパンとは全く異なると感じます。ミスタッチなど気にせず、曲想を深く自由に表現していくところに、面白さがあるのではないでしょうか。曲想から無限の憧れを引き出しているように思えます。また、多彩なニュアンスや色彩が現れ、零り落ちるような情緒があります。フランスの歴史上、最大のピアニストかもしれません。
 
 
ML4633。
 
 
ディヌ・リパッティ(1917-1950)による、バッハとモーツアルト(おそらく1950年の録音)。これは詳しい方からいただいたものです。ありがとうございましたm(__)m。
 
しかしながら、リパッティについては自分はあまり熱心な聴き手ではないので、自分が何か書くということに少し抵抗があります。命を削った演奏という感じがあり、それが自分にとって、少し抵抗がある、ということなのかもしれません。
 
わずか33歳で天命を全うしたディヌ・リパッティ(リンパ肉芽腫症で夭折)は、まさにに一時の命の輝きというか、命がけの演奏という感触が録音に残っているように思います。
 
病に侵されながらも、リパッティはまるで使命感のようなものに駆られて、1950年5月から9月にかけて、遺言のような録音を残しています。同年、9月16日のラスト・リサイタルも録音になっています。
 
演奏は無垢で透明、そこに気高い気品が備わっているように思います。決して大言壮語せず、誠実の極みともいえる演奏です。
 
 
↑、コルトーとリパッティ。1933年、ウィーン国際コンクールで1位でなく、2位になったことに猛反対したのが、アルフレッド・コルトーだったそうです。コルトーはまだ17歳だったリパッティをパリに呼び寄せて、学ばせました。
 
 
↑、バッハ、「主よ、人の望みの喜びよ」から冒頭部分です。これぐらい清らかで透明な演奏も珍しいでしょう。こちらもノイズあります、すいません(;^ω^)。
 
涙無しには聴けません。病に侵されている人物の演奏とは思えない、ともいえるんでしょうか。本人が病身だと思えないような、優しさを感じます。既に現世を離れているかのようです。
 
 
 
今日はちょっとミーハーな演奏を聴きます。
 
ヒラリー・ハーンが1996、1997年に録音したバッハが、アナログ・レコ―ドになりました。これが結構良いんじゃないかな、て思っています。

バッハの無伴奏の3曲(ソナタ第3番、パルティータ第2番&第3番)です。残りの3曲は2017年に録音し、こちらはすでにレコード化されています(デッカ)。
 
バッハの無伴奏はヴァイオリニストの最高峰の作品で、円熟期のソリストが録音するものとして知られていました(ヴァイオリンのみの音楽で、全6曲、2時間にもなる大曲です)。
 
しかしヒラリー・ハーンはこの録音時17歳で、自身のデビュー盤としての録音ということで、当時の話題をさらいました。
 
最近はユリア・フィッシャーが21歳で全曲を入れるなど、この曲の録音の低年齢化が見られます。技術水準が上がった結果でしょう。この曲の録音の低年齢化について、良し悪しはあるでしょうが、そこには従来の演奏とはまた違った魅力があります。エネスコとかシゲティの対極にある演奏でしょうか。
 
しかしこれは不思議な演奏で、自己の感情とか、考えみたいなものがほとんど入ってない演奏です。まだ17歳のハーンが何の疑いもなく弾き切っている感じで、何の色付けもないバッハです。その分の純度みたいのが感じられます。2017年の録音はもっと粘った、楽器の音色に耽溺するような感じでしたが、こちらはもっとあっさりとしています。しかし音色の美しさは素晴らしいと思いますし、LP化によってそれが生かされていると思います。デッカの音より品があって、バッハにふさわしいと思います。レコード化は成功じゃないでしょうか。
 
 
 
↑、ヴァイオリンの音色が、空気を切り裂くように響くのが、LP盤の魅力です。CDで聴いていた時より、味わいが深いと思いました。
 
ヒラリー・ハーンは比較的新しい世代では、女流として、ナンバー・ワンの呼び声が高い人でしょう。奇異なことをしない人で、ある意味安全運転ともいえる演奏をします。個人的にはもっと即興性が欲しいときもあります。
 
 
 
 
エレーヌ・グリモーによる「メッセンジャー」。
 
最近のドイツ・グラモフォンは、多分会社の意向なんでしょうが、現代作曲家の作品を取り上げることが多くなりました。アルヴォ・ペルト、ギヤ・カンチェリ、ジョン・ココリアーノなど。グリモーも、ニティン・ソーニーとか、このアルバムに収められている、ヴァレンティン・シルヴェストロフなどを演奏しています。
 
現代頭打ちのクラシック音楽界を打破したいのかもしれません。
 
前半はモーツアルトのソロ・ピアノ曲と20番のコンチェルト、後半がウクライナの作曲家、ヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937-)の作品になっています。自分は、シルヴェストロフの作品をグリモーの前回のアルバム、「メモリー」で初めて知りました。
 
良く聴かれる現代作曲家の曲は、大まかに分けると、大体2つに分かれるように思います。現代人の心の傷を描いたものか、或いはその反作用として、深い癒しを描いたものか、です。
 
20世紀以降の人類の悲劇は人類の心に忘れがたい、深い心の傷を負わせた、そう現代作曲家はいわんばかりに、晦渋な音楽を書きます。しかしこういった作品は決して楽しみでは聴けません。これでは聴き手は増えません。ポスト・クラシカルなどは逆に、その傷を埋め合わせるかのように、キレイで甘美な曲を書きます。このアルバムを聴く限り、シルヴェストロフは後者のように思えました。
 
「メッセンジャー」はこのヴァレンティン・シルヴェストロフの代表作とされ、亡くなった妻に捧げられています。アンビエント(環境音楽)思わせる、感覚的な音楽で、静謐で甘美な音響空間に、ピアノの適度なモノローグが挿入されていきます。
 
豊かで美しい作品だと思います。ただ、こういう曲は一曲聴けば充分というところでしょうか。構造性が弱く、ひたすら感覚的に訴えてくるので、繰り返し聴くにはちょっとべた付きます。
 
前半にモーツアルトがあるのでそれを目論んだ構成になっていますね。動きの多いモーツアルトの音楽を聴いて、その疲れをとるかのような、シルヴェストロフの音楽です。
 
 
 
↑、シルヴェストロフのメッセンジャーの一部です。映画音楽を思わせるような美しさだと思いました。
 

 

最近のツイッターなどを見ていると、お互いが罪を擦り付け合うようになっている気がしています。個人的にはそういうところから、できるだけ離れたいとは思っています。

 

ツイッターのやり取りだけで、訴える、訴えない、などというのも見ました。どちらが正しかろうと、多分それは「時間、時間」で変わっていくというものです。

 

ちょっと悩みましたが、「悪」について、かつて読んでいた神示などから抜き出してみます。

 

「目に見えないこと」を信じるようになったのは、それなりの理由が、自分にはあります。その理由は書くと長くなるので今回は止めますが、もうかれこれ、20年以上前の話にはなります。以下の文章も20年以上前のものなので、悪しからず。以前書いた「艮(ウシトラ)の金神」からのものとされる、「艮(とどめ)の文」と呼ばれるものです。

 

分かりにくいところもあると思いますが、その「神」が語るという体裁です。

 

この世の終末と、世の中の立て替え、立て直し、ということがテーマです。抜粋した文章は、途中からなので、やや唐突かもしれません。

 

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「そなたらが壊し来た自然(至善)と申すのは、この方(艮の金神)が自らの内に産み生んだ有の世界でござるから、この方にしか作り替えることは出来んのでござるぞ。そなたらのイノチもこの方次第でござるのぞ。そなたらの出来ることは、自らの心の立替え立て直しだけでござるのぞ。」

 

<悪について>

 

「(我々の住んでいるこの世界というものは)そなたらの内の通りに外が形になって居るのでござるのぞ。この方がそなたの内の通りにそなたらの外に見せて居ったのじゃ。そなたの内に不調和がござれば、世界の調和が壊れるから、そなたら自らが内を調和に戻せるように、そなたらの内の不調和を外に見せて教えて居ったのでござるぞ。この方を忘れ去って居るそなたら人間が、自ら外にあるものを、自然や動物や他人や世界や神を、そなたらの力で変えられるなどと申す思い上がった考えは、キレイサッパリ捨てなされ。そなたらはそなたらの力では外を変えることはできんのぞ。そなたらが自然や地球を元に戻せると申すなど、とんでもない取り違いでござるぞ。そなたらの魔釣りが自然を壊した原因でござるのぞ。そなたらが魔釣りに居るから、この方が、自らの胎内にある自然を壊して教え来たのでござるぞ。そなたが内に悪を持って居れば、外に悪を見たいと申して居るのと同じことでござるのぞ。この方は、そなたらの見たいものを見せて差し上げるのて居るのでござるぞ。そなたらが見たいと申すから外に悪を創りて差し上げたのに悪を消そうと致すのはいかなることでござるか。

 

そなたが外の悪を裁けば裁くほど外に悪が現れる道理。そなたらが内に悪を持たねば悪は外には現れなかったのでござるぞ。すべてのすべてがそなたら自ら希望したしたことでござるのぞ。最後の最後はこの方自らがすべてを元に戻すから、そなたらがどんなに外を壊そうとも、この方にとっては大きな問題ではござらん。外に見える環境破壊と申すのは、そなた自身の心の破壊の映しでござるぞ。そなたらの魔釣りをそのままにしておいて地球環境云々と大騒ぎ致しても、何も知らぬ大アホ集団の茶番劇でござる。自らが自然を操作できると申す、人が人を変えられると申す、そなたらの我善し勝手な取り違いが今今の混乱を創りだした原因でござるぞ。そなたらは魔釣りに居るから、自らの肉の身を失うことを恐れて、悪くなることを避けようとして、地震や天気や人の心や自らの未来を予知なさろうとして居るが、犯罪や戦争や破壊をして居る者を排除しようとなさって居るが、そなたが真釣りに居れば、そのようなことは不要なことでござるのぞ。」

 

 

「犯罪人同士の足の引っ張り合いの茶番劇はもうやめなされ。調和を乱して居る者が、調和を乱す者を裁いてもただの戯れ言でござるぞ。調和を乱すと申しても、そなたらの思って居る調和とは違うぞ。そなたらは、調和を乱した今の世で、恐れや弱みをつっつきあって、脅し合って、コントールし合って、制限し合って、自らだけが安定しようと、自分だけ善しで人を脅し、人の気持ちを考えると申して自分を殺して意見を言わず、人のわがままに合わせて混乱を避けた積りになって、善悪の世界だけの表向きの調和や平和を創りだして居るだけでござるぞ。人を説得するのも、人の説得を受け入れるのも、コントロールゲームでござる。脅す方も脅される方も同じゲームをして居るだけぞ。我善しの、調和を乱した世をますます進めるだけでござるぞ。お互い様でござる。自業自得でござる。どっちが悪いかと申すなら、両方悪いのでござる。お互いに自ら自身のせいでござるから、今の世でも責任転換や争いがあるのはオカシキことでござるのぞ。自らの真釣り外しを知らん者ばかりであるから、今の乱れた世と成ったのぞ。自分勝手な者の気持ちを考えて自らの正直な気持ちを言わぬなら、自分勝手な世を許すことになるぞ。

 

自分を殺して人を立てるのは調和ではござらん。人を殺して自らを立てるのも調和ではござらん。自分も人も立てるのが調和でござる。自分も人もうまくいくのが天国でござるのぞ。そんなことができるわけはござらん等と申すそなたは、不調和の身魂でござる。善悪二元のそなたの眼では調和のミロクは見えんぞ。その態度を改めて行動せよ。そなたらは戦争を反対しているが、武器を使わずとも、喧嘩をせずとも、内の葛藤が戦争そのものでござるのぞ。そなたらの内の戦いが口論、喧嘩、武器、軍隊、核兵器を作り出して居る元ぞ。そなたら一人一人の内の葛藤が外の戦争の素でござるのぞ。外の戦争の被害者と申す者は一人としてござらんぞ。全員が加害者でござる。自らが自らの加害者でござるのじゃ。戦争をして居る者を責める資格はござらんぞ。戦争犯罪人を裁く資格はござらんぞ。悪を裁くことが悪でござるから、悪人が悪人を裁いても無効でござる。ただの遊びでござる。善悪の法律には何の根拠もござらんぞ。そなたらは、人生はサバイバルじゃなどと申して、何でもかんでも戦って、勝手に自らを苦しめて居るのでござるぞ。この方から見れば、そなたら自らわざわざ戒律を創って、制限を創って、枠を嵌めて、苦し苦しの遊びをしておいて、自由にならんと申して戦いを挑み、自らが創り出した一人芝居の戦争の責任を人になすりつけて居る、大アホ集団の茶番劇でござるぞ。戦って居るから戦いが無くならんのでござるぞ。調和を乱す者は最後に勝手に潰れるから、そなたがわざわざ戦って潰さんでも宜しいぞ。戦争をしたくないならば、そなたの内の戦争をやめなされ。」

 

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<自分の個人的な意見として>

 

上述の文は、いくらか過激に見える部分もあるかと思いますが、一応理解できる範囲で書くのならば、「悪」とはまず自分自身の内にあるものであり、外の世界はその映しになっているということ。つまり、人間が自分の内から「悪」を無くせば、「悪」そのものがなくなる可能性があること。あるいは「悪」のスケールが小さくなっていくということ。

 

同時に「悪」とは各自に与えられた課題であり、問題であるということ。その解決には「自らの内面の葛藤」を無くして初めて得られるものだということ(そのための行動は必要です)。

 

逆に「悪」を自分以外にせいにして、潰して無くそうとする、攻撃して無くそうとすると、逆に「悪」がどんどん増えていくということ、などでしょうか。

 

そのためには戦っているもの同士が「話し合い」をしたり、無理に自分に従わせよう、などとしない方が良いということでしょうかね。

 

戦って相手を潰すのでなく、まずは「自分自身の課題」として受け止め、それを「まずは自分が」解決していく方法を考えていくことを「身魂の立て替え」などといっていると思います(自分から頭を下げたりすることも、必要になるでしょう)。

 

人を説得するのも、人の説得を受け入れるのも、コントロールゲームでござる。脅す方も脅される方も同じゲームをして居るだけぞ。我善しの、調和を乱した世をますます進めるだけでござるぞ。お互い様でござる。」

 

とかいう部分を読むと、最近のツイッター(特に政治など)のやりあいなどはこのまんま、と思えてきます。確かに最近のツイッターは「いいたいことを我慢する」みたいなことは無くなってきていますかね。それはそれで時の流れなんでしょうけど。一種の「毒出し」とでもいうべきでしょうか。しかし相手を攻撃しても何も解決はしないでしょう。どんどん過激になっていくだけかもしれません。

 

そして自分の内に「悪」を抱えたままでいると、何かしらそれを解決しなければならない状態に巡り合わされる、ということでもあるかと思います。そしてそのことを嫌がって攻撃し続ける限り、永久にその中から逃れることは出来ないのではないでしょうか。

 
SXL2050-2053B。ドイツ・デッカ。
 
 
R・シュトラウスのオペラ、「アラベラ」。
 
R・シュトラウス後期のオペラで、台本作家のホフマンスタールとの、最後の共作となった作品です。ホフマンスタールは自分の息子の葬儀で倒れ、55歳の若さで他界してしまいました。このオペラ初演の直前でした。
 
薔薇の騎士の延長線上にある美しい作品で、陶酔的で叙情性のある音楽が、全編を覆います。落ちぶれた退役軍人のヴァルトナー伯爵には、2人の娘がいましたが、2人の娘を嫁にやる金もなく、妹のズデンカを男として育て、片や姉のアラベラは、気位の高い美しい女性として育ちました。
 
アラベラはマンドリーカという自分にふさわしい男性を見つけますが、彼女に好意を抱いていた士官マッテオは、そのためにふられてしまい、失意を覚えます。
 
その落ち込みぶりを心配したのは、妹のズデンカの方で、彼女はひそかにマッテオを愛していたのでした。物語はこの4人を中心に、簡単ないざこざから、ハッピーエンドに至るまでを描いています。
 
この録音は1957年のもので、アラベラにリーザ・デラ・カーザ、ズデンカにヒルデ・ギューデン、マンドリーカにジョージ・ロンドンを迎え、万全の配役でしょう。指揮者はゲオルク・ショルティで、彼特有の鋭利な指揮はやや抑えられ、ウィーン・フィルからくっきりした、色彩的な響きを引き出しています。
 
アラベラを歌う、リーザ・デラ・カーザ(1919-2012)はR・シュトラウスの作品を得意としており、薔薇の騎士のマルシャリンなども良いですが、当時はこのアラベラが容姿共に最高の当たり役とされており、ウィーンでは聴き物だったそうです。
 
 
(↑、自分は持ってないですが、(;^ω^)、グラモフォン盤のデラ・カーザの写真です。欲しいです。男性はフィッシャー・ディースカウ。↓、同じくカーザとディースカウ。)
 
 
音楽は薔薇の騎士ほど大掛かりでなく、初めて聴く人には分かりにくいかもしれません。聴きどころはいくつかあると思いますが、第1幕、アラベラとズデンカ姉妹の2重唱が特に素晴らしいと思います。
 

 
↑、自分にふさわしい男などいないと思っていたアラベラの前に、マンドリーカが突如現れ、「私にふさわしい人が・・・」と歌いだすアラベラ。
 
 
 
↑、その様子を見ていたズデンカは、自分の最愛の姉を心配し、心を合わせて歌いだします。「私の望みは姉が幸せになることだけ・・・」と。
 
こういうアリアは、この作曲家の得意な音楽です。女性の声の、官能美を駆使した、シュトラウス音楽の粋です。

 

サー・トーマス・ビーチャムによる、リスト「ファウスト交響曲」(1958)。

 

ALP1737、1734(本来ステレオですが、自分が所持しているのはモノラル盤)。

 

 

フランツ・リストによる、「ファウスト交響曲」。

 

これはゲーテの戯曲「ファウスト」にインスパイアされた作品で、ファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレス(それぞれ、この作品に登場する主要人物と、悪魔の名前)と名付けられた、巨大な3つの楽章から構成されています。リストはダンテの「神曲」と、このゲーテの「ファウスト」を殊の外愛していたといわれており、親友でもあったベルリオーズの作品に触発されて、この作品を書いたようです。

 

曲は物語の内容を追ったものではなく、登場する3人のメイン人物の性格描写に捧げられており、リアルで真摯な筆致が聴き物かもしれません。

 

しかしリストは、通常よくいわれるように、作曲家として、いささか魅力に欠くところがあります。ファウスト交響曲は、統一した主題と、同時にソナタ形式で書かれているとはいわれますが、主題と旋律の、「含み」と「魅力」に欠き、まとまった感動を与えるには散漫な感じがします(素直な書き方のように見えます)。

 

どちらかといえば、彼の主張した「交響詩」に近い楽章が3つ、並列に並べられているような音楽で、終楽章に、有名な戯曲の終わりの句・・・

 

「すべての物質的現象は映像にすぎぬ・・・」

 

・・・(マーラーが第8で作曲したものと同じもの)に作曲がされていますが、やや唐突な印象もあります。

 

ただ、第1楽章はまるで現代音楽のように始まり、その辺はリストの天才性を感じさせます。

 

(↑、ラトルによるCD、1994年録音。)

 

 

↑、フランツ・リスト(1811-1886)。ショパンと並ぶ史上最大のピアニスト。ピアノをオーケストラのように弾いた、初めての人物(H・ショーンバーグ)。音楽史に居並ぶロマン派、伝説的天才の1人ですが、ピアノ曲以外の作曲は賛否があります。当時は、コンサートを聴きに来た女性たちを、演奏で失神させるほどのスターでした(彼に匹敵するのは、マイケル・ジャクソンぐらいですね)。

 

 

シャルル・ミンシュによる、ベルリオーズ「ロメオとジュリエット」(1953)。

 

LM6011、6012(ボストン響とミンシュがベルリオーズを録音した、記念すべき第1弾の録音。ちょっと硬さを感じさせる音質ですが、どの部分も音の分離が良く、コーラス、管弦楽共によく入っています)。

 

 

ベルリオーズ、「ロメオとジュリエット」。

 

この作品こそは、ワーグナー、リスト共に非常に影響を受けた作品で、おそらくリストの「ファウスト交響曲」も、この作品があったからこそ、生まれたのだと思います(あるいは、ワーグナーの、あのトリスタンでさえも・・・!)。

 

ベルリオーズはシェイクスピアの「ロメオとジュリエット」を非常に愛しており、その作品の賛歌ともいうべき作品を書きました。リストの「ファウスト」も同じといって良いでしょう。しかしこれらの音楽の難点は、作品の主題(音楽的な意味ではなく)を、純粋音楽以外の「文学」に頼っており、これらの文学を知らない聴衆にしてみれば、このような音楽を聴いて、その音楽が一体何をいっているのか、分からないところにあります。

 

このように、「音楽」と「文学(必ずしも文学とは限らないが)」という、ダブル・スタンダードの視点を持った作品を「標題音楽」といいます。

 

そして歴史的に、このような作品を意図的に作り出した作曲家こそ、このエクトル・ベルリオーズであり、この後のリスト、ワーグナー、R・シュトラウスの先駆けとなりました。

 

彼の有名な「幻想交響曲」には、各楽章ごとに文章で説明がついています(音楽を文章で説明することについては、元を正せば、ベートーヴェンの田園まで遡ってしまいますが・・・)。

 

「幻想交響曲」という作品は、音楽の内容を、音楽以外の「言語」、で語っているわけです。しかし、ベルリオーズのやっかいなところは、仮に音楽のみで何をいっているか分からない、としても、その音楽に狂気じみた興奮があり、それが筋書きを知らない聴き手にも、興奮をもたらすところにあります。彼がロマンティックな悪魔といわれるゆえんです。

 

この「ロメオとジュリエット」は、オペラのように筋書きが作品内で語られることはありません。しかしフィナーレにおいて、シェイクスピアの原作を知らない人には全く意味の分からない、登場人物たちによる合唱が入り(まるでオラトリオのようです)、また前半にも明らかな描写音楽がいくつも現れます。そのため少なくとも、聴き手は「ロメオとジュリエット」というシェイクスピアの作品の存在は知っておかなければなりません(ファウストも同様です)。聴衆に教養を求めてきているわけです。

 

それ故敷居が高く、演奏される機会も稀です。内容も非常に大規模で、聴き手がこれを理解するのも中々大変ではあります。

 

しかし・・・です。色々文句は出ますが、結局、誰が何をいったところで、この作品が傑作なのは間違いがなく、初演から現在まで、消えることなく残っているわけです。

 

異論は百も承知でいいますが、個人的にはこの「ロメオとジュリエット」は、有名なチャイコフスキーや、プロコフィエフの作品(彼らもロメオとジュリエットを作曲している、他にもグノーなど・・・自分はグノーは未聴ですが(;^ω^)。)と比べても、この作品の方が優れていると思います。非常に意欲的に書かれており、どの部分もインスピレーションに溢れ、ベルリオーズ特有の「白熱する興奮」が、各所に散りばめられています。

 

そして何より、最も美しいのは「愛の情景」と題された、第6楽章でしょう。

 

モンタギュー家とキャピレット家のいさかい描いたイントロ、そしてキャピレット家の舞踏会の喧騒が第2部で描かれると、有名なバルコニーのシーンを描く、当該の第6楽章(第3部)に入ります。

 

喧騒を離れるロメオの孤独な心情が、瑞々しい美しい音楽で描かれていきます。この辺りの描写の素晴らしさは、ベルリオーズでしか描けないところです。

 

これを、「今世紀におけるもっとも美しいフレーズ」と語ったのは、リヒャルト・ワーグナーでした。

 

 

 

(↑、第6楽章から切り抜き。1分ずつしかアップできないです。

 

ここは交響曲でいう緩徐楽章になります。15分以上かかる長い音楽です。1人孤独になるロメオですが、ジュリエットの部屋の下まで、偶然に訪れます。それに気づくジュリエット。この楽章は、遂に、2人が愛を誓い合うシーンです。ノイズがパチパチいってます、失礼・・・(;^ω^)。)

 
 
(↑、第3部のクライマックス。徐々に高揚するパッセージが、濃厚な愛の溜息となって、全ての想いを押し流していきます。
 
こういうのを聴くと、ベルリオーズから離れられなくなりますね。ミンシュの生気に満ちた、線の太い表現が素晴らしいです。ミンシュは後にステレオでも入れています。)
 
この後のマブのスケルツオなども良い曲です。
 
(↑、ピエール・モントゥーも好きな演奏です。)
 
 
↑、エクトル・ベルリオーズ(1803-1869)。ロマン派の始祖で、これも伝説的天才の1人。極度の誇大妄想癖を持っており、それが作品に反映されています。しかしその作品の構造は、実は非常に古典的で、美しいといわれています。

音楽の聴き方は色々あると考えています。

 

人間は物事全て知ることは出来ないし、理解もできないのだろう、という思いが自分にはあります。世の中のこと全てを理解したい、人は出来ればそうしたいと思うのかもしれませんが、自分が思うには・・・おそらく無理なのではないかと。

 

むしろ知らないことがあると知ること。その方が最近は良いのだと感じています。海に住んでいるものは(例えばお魚とか)、海のこと全て(全体)を知りえません。音楽の聴き手に、音楽のこと全てが分かるのかと尋ねれば、それは多分・・・そうはいかないでしょう。

 

しかし逆に、その一部を知るのなら、それらがその他のもの、全体の部分部分と関係をし、無限の広がりを持っていることを知ります。確かにそう感じるには、基礎的な知識なり、考えなりが必要です。ただそのこともまた、自分にとって、全体の一部でしかありません。

 

人が他者との違いを認識できるのは、それぞれが違う個性だからです。最近はそのことを理解する方が、自分の心に落ち着きをもたらすということを、認識することが多くなりました。争う気持ちから離れられるからです。

 

いくつか目的をもって聴いている演奏家もいますが、どちらかといえばレコード屋で気になったものを買ってきて、こまめに聴くことを優先しています(以上はあくまで個人的な見解です)。

 

 

英国のピアニスト、クリフォード・カーゾン(1907-1982)のレコードを聴きました。シュナーベルとランドフスカに師事したピアニストで、録音嫌いだったといわれます。彼を録音に引っ張り出してきたのは、名プロデュサーのジョン・カルショーで、おかげでデッカにいくらかの録音を残しているようです。

 

 

デッカ、LXT2948。

 

 

自分が聴いたのは、ベートーヴェンのコンチェルト4番(1954)と、グリーグ(1959)のコンチェルトです。モーツアルトが良いらしいですね。カーゾンもレコード屋で見つけて、直感的に聴いてみたいと思ったレコードです。

 

聴いてみて思うのは、端正な音色、正確な打鍵、そして無駄のない知性。ベートーヴェン4番は、デッカ・モノラルLXTの雰囲気ある音色で、楽しめます。ただ、カーゾン特有の美しい音色がモノラルのせいで、抑えられているような気もします。

 

 

デッカ、SXL2173。

 

 

こちらはグリーグ。ED4くらいでしょうか。当然オリジナルではないのですが、音質が素晴らしく、カーゾンの持つクリアで結晶化したピアノの音色が美しくとらえられています。こうやって聴くと、洗練された都会的センスのようなものを感じます。シュナーベルや、ランドフスカに師事したように、造形の端正さはありますが、ずっと近代化されているように思いました。

 

指揮者のエイヴィン・フィエルスタードはノルウェイの指揮者で、練られたアンサンブルが味の濃い魅力を発揮しています。カーゾン、フェイエルスタード共に透明感が抜群で、この曲にふさわしいように思いました。最近の愛聴盤です。

 

 
(↑、初めて動画を載せてみます(;^ω^)。通好みのピアニストかもしれませんが、こうして美しいピアノの音色を聴くと他の録音も聴きたくなりました。涼しい朝には良く合うように思います。パチパチいっているのは、ノイズです。)