ヒマジンノ国 -29ページ目

 ヒマジンノ国

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日本でも、一般人のワクチン接種が始まったようです。自分は怖いので、打とうとは考えていません。自分が通っているところの整体の先生も、通常何年もかかるワクチン製造なのに、今回のものは急いで作ったのもので「怖い」といっていました。後遺症についても、今は大丈夫でも数年たつとどうなるか分かりません。

 

接種の是非は個々人が選択するしかないんですけども。

 

なんでもペンタゴンがコロナを感知する、埋め込み用のチップを開発しているとかで、不気味なものがあります。ペンタゴンはトランプ政権と絡んで、正義の味方扱いでしたが、最近の話を聞く限り、どうなっているかちょっと分からないです。色々「陰謀論」の話も追いはしますが、近ごろは複雑すぎて分からないことが多いです。陰謀論もピンキリです。

 

どうなることやら・・・しかし・・・現実の生活を優先しないといけないのは変わらないでしょうかね。

 

全然違う話をします。

 

自分の父親は自分が19歳の時に亡くなりました(他の方のブログに高校生のときに亡くなったと書きましたが、大学生の時の間違いです)。

 

父は糖尿病になり、その後交通事故にも会いました。交通事故で体に水がたまるようになり、そこから筋肉が溶けていくので体はガリガリ、糖尿病で目が見えなくなるので、いつも絶望していました。最後は歩行も排泄も自分では困難でした。本当に苦しんで亡くなりました。

 

48歳で亡くなったんですが、自分は来年その年齢に追いつきそうです。

 

先日訃報を聞いた、「おととひの世界」のカラヤンさんとは、たまに「良いね」とこちらがして、そのお返しをもらうぐらいでした。個人的に単なる一読者にすぎませんが、カラヤンさんが歩行も困難になり、体に力が入らない話をブログにあげていらっしゃったのを読んで、自分の父親のこと思い出しました。

 

つらいですね。

 

しかし、カラヤンさんも最後まで生きる努力をしていらっしゃったのが、忘れられないです。

 

本当に残念です。ご冥福をお祈りいたします。


本日、アメブロ界隈で有名な、「おととひの世界」のブログ主カラヤンさんが、4月8日に亡くなられたと聞きました。

 

ブログの最後の方は読んでいる方もつらかったですが、ご本人のことを考えると、かける言葉が見つけられません。

 

 

 

 

最近聴いて1番感銘を受けたレコードのことを書きます。
 

 
ロベルト・シュトルツ指揮によるによる、レハールのオペレッタ「メリー・ウィドウ」(1958)。
 
SXL2022ー2023。デッカ。
 
 
オーストリア生まれの作曲家、ロベルト・シュトルツ(1880ー1975)の指揮による、フランツ・レハールのオペレッタ、「メリー・ウィドウ」の録音。オペレッタ、銀の時代最高傑作ともいうべきこの作品、「メリー・ウィドウ」の初演は1905年、12月30日。指揮者は作曲家レハール本人で、副指揮者は、このロベルト・シュトルツ氏だったそうです。
 
シュトルツ氏は若い時に晩年のヨハン・シュトラウスとも面会したそうで、自身もワルツやオペレッタを作曲した彼は、正にウィーンの伝統を引き継ぐ存在でした。1880年生まれといえば、指揮者であればフルトヴェングラーやブルーノ・ワルター、あるいはオットー・クレンペラーなどと同世代です。そんな人間が1975年まで生きていたのですから、ほぼ生きた伝説だった、といっても過言ではないでしょう。
 
本職は作曲家ですが、ワルツなどの指揮もしました。指揮のスタイルは本当に力づくでない、洒落たもの。
 
 
 
↑、ドイツやオーストリアでは切手になるような有名人らしいです。
 
レコードを初めてかけて驚いたのが、その瀟洒な雰囲気と鮮明な音質です。傷が多い盤で、ノイズがたくさん発生するのですが、それでもデッカ・レコードのオリジナル盤。初期ステレオの3大メーカー、コロンビア、HMV、デッカ。それぞれ特徴のある音質が楽しさの限りですが、生々しいリアリティはこのデッカのレコードが1番です。
 
レコードをかけてスピーカーから飛び出してきた、甘美な雰囲気。そのリアルさ。デッカの特徴である、音楽の細部の立体感を伴って、今まさに、古き良き時代の音楽が眼前に現れたようでした。この演奏に比べればボスコフスキーでさえずっと近代的です。
 
最近かなりの回顧主義に陥っている自分にとって、このような感銘を受けられることは大変幸せです。
 
20世紀も中葉になってしまうと、効率主義や知性主義が蔓延しだしますが、ここにあるのはそういう「主義」や「せわしさ」とは無縁の音楽だと思います。
 
理屈を忘れて、楽しむことができました。
 
主人公のハンナを歌うのが、ウィーンの華といわれたヒルデ・ギューデン(1917-1988)。この役はシュワルツコップが有名ですが、個人的にはギューデンの方がずっと好きです(シュワルツコップが悪いということではないです、名唱だと思います)。シュワルツコップという人は生真面目な人なので、歌が少し硬いんですが、ギューデンになると、いたずらっ子のような感じを出せるので、役にふさわしいと思います。
 
シュワルツコップは音楽的な美しさというべきですが、ドラマ的なチャーミングさではギューデンの方が上といいたい。声から笑顔が見えるようです。
 
 
↑、ヒルデ・ギューデン。
 
19世紀のパリの下町から発生したオペレッタは、貴族的な娯楽ではなくブルジョワの娯楽でした。それを芸術にまで高めたのがオッフェンバックで、キャバレーやカフェ・コンセールの影響を色濃く受けていました。オペラ座にもブルジョワたちは出入りしていましたが、オペラは貴族と皇帝寄り(貴族の没落はすでに始まっていました)ですから、「オペラ」という作品自体、取り澄ましていたのです。しかし新たに生活が充実した一般の人々にも、現実を忘れさせてくれる、開放的な楽しみは必要だったのです。そしてなおかつ、それが「芸術的たらん」としようとするところに、名作オペレッタの面白さがあると考えます。
 
ベル・エポックの絵画版がロートレックであったとすれば、音楽版がオッフェンバックだったといっても良いかもしれません。
 
オペレッタはのちにイギリスとオーストリアに広がりますが、ウィーンにおいてはフレンチ・カンカンよりもワルツということになり、作品の中に取り入れられていきます。
 
ワルツを含む、オペレッタといえば、ヨハン・シュトラウス。フランツ・レハールはもう少し後の作曲家でした(レハールはハンガリー生まれですが、ドイツ人)。
 
レハールのメリー・ウィドウは「ワルツ」とキャバレーの「カンカン」両方が取り入れられています。しかし改めて聴くと、フレンチ・カンカンが出てくるとやや俗っぽさが増すというか、そういう印象は出ますね。ワルツの方が幾分上品です。しかしカンカンはエネルギーが出るので、華やかになり、通俗的な楽しさが増します。
 
「メリー・ウィドウ」は、哀愁を帯びた懐かしいメロディと共に、ワルツやキャバレーの印象を織り交ぜた、忘れ得ぬ名作オペレッタといえるでしょう。
 
 
↑、前奏の冒頭。雰囲気は古い映画っぽい感じというか・・・。それがかなり生々しい感触で蘇ります。華やかですし、ヴァイオリンは溶けるように甘美です。
 
ただ・・・ノイズは多いです・・・(;^ω^)すいません。洗って落ちるノイズではないので・・・。
 
 
「Vilja, o Vilja, du Waldmägdelein, fass’ mich und lass’ mich Dein  Trautliebster sein,
 
 ヴィリア、おお、ヴィリア、森の妖精よ。私をつかまえ、お前の恋人にして
 おくれ。

 Vilja, o Vilja, was thust Du mir an?
 Bang fleht ein liebdranker Mann!
 
 ヴィリアよ、私にどんな魔法をかけたのだ。恋の病の男はうったえたので 
 す。」
 
 
↑、有名な「ヴィリアの歌」。
 
富豪の未亡人となった、ハンナ・グラヴァリは社交界で昔の恋人、ダニロ・ダニロヴィチ伯爵と出会います。かつて平民のハンナは、貴族のダニロと、身分の差のせいで結婚できませんでした。再びめぐってきたチャンスに、ハンナが歌うのは、狩人が森の妖精ヴィリアへの恋心を歌う、「ヴィリアの歌」です。子守歌とも民謡ともとれる懐かしい旋律が魅力で、「メリー・ウィドウ」を特徴づける曲の1つです。
 
「Das Waldmägdelein streckte die Hand nach ihm aus,
 und zog ihn hinein in ihr felsiges Haus;
 
 森の妖精は彼をとらえ、岩屋の中にひきこみ

 dem Burschen die Sinne vergangen fest sind,
 so liebt und so küßt gar kein irdisches Kind.
 
 若者が気も遠くなるほど、彼にキスをした。

 Als sie sich dann satt geküßt,
 verschwand sie zu derselben Frist!

 
 こんな風に普通の娘はキスをしない。彼女が接吻に満足してから、じきに消  
 え去った。」
 
レハールは今まで単に楽しいだけのオペレッタに、一抹の哀愁を加え、このジャンルに新しい境地をもたらしたのでした。
レコードを聴いた感想を書きます。
 

 
ヨーゼフ・クリップスの演奏する、モーツアルト交響曲集(1971-1973)。交響曲21番から41番まで。
 
6599 702-6599 709。フィリップスのLP。
 
 
ウィーン生まれで、生粋のエレガントなスタイルを持った名指揮者、ヨーゼフ・クリップス(1902-1974)による演奏で、モーツアルトの主要交響曲を集めたボックスセットです。オーケストラは旧アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(現、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)。
 
 
21番から順に41番まで収められています(37番は欠番なので無し)。内容の充実度からいえば、カール・ベームがDGに入れた全集と充分に比較しうるレベルにあると断言できます。
 
ベームの演奏もドイツの伝統を感じさせるものでしたが、クリップスも同様にオーストリアの伝統を引き継いだ演奏です。
 
クリップスの演奏はやや遅めのテンポで、曲の立体的な構築性を重要視し、思いのほか立派な演奏に仕上げていきます。安定したその構築性を生かした上で、格段のモーツアルトの美しいフレーズを魅力的に歌わせていきます。構造性はしっかりしていますが、各楽器の歌わせ方などは柔らかく、芯があります。おかげで淡く煌めくメローディーが、しっとりと重なっていく様子が手に取るように分かるのが、素晴らしいです。
 
この歌わせ方、メロディーの角をとって、おっとりした雰囲気を醸し出すやり方が、ウィーン風の香りをふりまいていきます。加えて、丁度良い程度の残響が、音楽の壮麗さを際立たせ、オランダのコンセルトヘボウから、ウィーンの貴族のような感触を引き出すことに成功しているわけです。聴き手はこの美しい雰囲気に、身を浸す喜びを感じることができます。
 
モーツアルトの、完全に蒸留された喜びというは、中々他の作曲家からは聴けぬ、特別なものがあります。
 
後期ロマン派のマーラーやブルックナーの作品は別として、本来交響曲は人間感情を司るものであったと思います。ベートーヴェンの第5交響曲からは人間の克己心を読み取ることができるし、ブラームスの第4交響曲からは万感の諦念を感じ取ることができます。
 
しかしこのモーツアルトの音楽ほど、「生の喜び」を表現した音楽は少ないように思います。特に交響曲38番「プラハ」に煌めく感情は、まさに「喜び」そのものを表していて、これと同じものを他の作曲家から聴くことは難しいと思います。ハイドンやベートーヴェンにも似たような音楽はありますが、ハイドンは素朴、ベートーヴェンはどこか理屈っぽいので、モーツアルトの描く「喜び」は、理屈抜きに、人間が生まれた時から持つ、「歓喜の情」そのもの、といえるのではないでしょうか。
 
 
 
↑、モーツアルトの交響曲27番。20分程度の曲で、中期の交響曲の中では平均的なスケールでしょうか。有名な29番、25番の陰に隠れた存在です。しかしこうやって聴くと、名曲だと思います。
 
自分が他に所有している27番の音源はベームとレヴァインだけですが、これはクリップスが1番素晴らしいと思います。溢れ出る「喜び」の感情が切迫した迫力で表現されていきます。他の曲の演奏が意外と遅いテンポでしたので、クリップスとしてもこれは意外です。こういうスタイルがモーツアルト演奏の1つの理想かと思います(旧スタイルとして)。
 
音楽の充実感と切迫感を持った表現です。このスタイルではやはりブルーノ・ワルターが素晴らしかったですが、ここでのクリップスの演奏はそれに迫る勢いです。ベームの演奏は立派ですが、ゆっくりしているのでやや魅力に欠き、レヴァインは颯爽としていますが充実度不足でしたので、クリップスは丁度それらの良いところをとったような感じです。
 
自分は名演と断定します。
 
 
ベルンハルト・パウムガルトナーによる「モーツアルトの夕べ」(1961)。
 
SLPM138695B。DGのLP。
 
 
モーツアルトに関する著作などがあり、その道の権威といわれたベルンハルト・パウムガルトナー(1887-1971)による「モーツアルト・マチネ」と呼ばれるコンサートの録音です。
 
彼もまた、オーストリア人でザルツブルグを中心に活躍しました。モーツアルトを演奏するためにカメラータ・アカデミカを設立、この録音でも登場しています。ここに収められているのは 交響曲第26番、30番、《牧人の王》よりアミンタのアリア、レチタティーヴォとアリア KV 294、ディヴェルティメント KV 136。アリアをリタ・シュトライヒが歌っています。
 
演奏は格調高く品が良いです。
 
 
↑、モーツアルトが16歳の時に書いたといわれる、ディヴェルティメントからです。瑞々しい華やかな感情が、爽やかに流れ出る名曲です。春にふさわしい曲ですね。しかし、この音楽の流麗さ・・・本当に16歳で書ける曲なんでしょうか(^^;。

いくつか同時に本を読んでいますが、もう1年以上も読み終わってない本もあります(^^;。その中でも比較的最近読み終わった本の感想を、書いておきます。

 

 

ポーランドの作家、オルガ・トカルチュク(1962-)の小説は2冊目。以前に読み終わった、「昼の家、夜の家」の感想はブログに書いたことがあります。

 

その後2018年にトカルチュクはノーベル文学賞を受賞し、世界的に有名になったようです。

 

 

元々心理学を専攻し、セラピストとして活動していたようですが、後に小説家に転職したとのこと。「昼の家、夜の家」はポーランドのノヴァ・ルタという場所を舞台にしながら、複数の関連性があり、象徴性を内包したモチーフ、キノコ、オオカミ、聖人などについて書かれた物語が、緩い関連性を持ちながら、全体としてまとまりのある作品になっていました。

 

今回の「逃亡派」もほぼ手法は同じといえると思います。そのテーマは「旅」です。「旅」をモチーフにして、そこから派生する、地図、人体の地図である臓器たち、など各テーマが、それぞれ部分として小文になって成り立っており、それが表面的には関係ないにしろ、象徴的な意味合いにおいて、関連させられています。

 

象徴性があるということは、厳密な意味が決められることはないということでもあるので、そこには「モチーフ」を主体にした、無限大のイメージがついて回るということになります。

 

個人的には「昼の家、夜の家」のほうが物悲しいとはいえ、ほのぼのとしていて好きでした。今作は自分の感覚からすると割とグロテスクなことも書かれていたりして、好みからは外れるような気がします。しかしその分、哲学的な側面は強くなり、深くなったと思いました。

 

一見無関係に見えながら、それぞれに語られる物語の異なったモチーフの関連性が深くなったという印象があります。

 

異なる世界が実は心の深いところで繋がっていると感じさせます。

 

しかしここでいう「逃亡派」(実際の逃亡派の、本来のセクトの意味は本書の解説にあります。ここではあくまで個人的な感想と解釈で書いています)の「逃亡」は、現実世界からの逃避、というような感じもついて回ります。「逃亡」とは時に「分離」でもあって、まとまりよりも、「前進」であり、「回帰」ではありません。

 

ですがこれら小文が内面的なつながりを持つことによって、実は「まとまり」でもあるということでもあります。全体は細部に宿る、あるいは、細部は全体の一部である、ということを思い起こさせる小説です。確かにこれは物語の小宇宙かもしれません。

 

読後の感慨はノヴァ・ルタの物語よりもこちらの方が深いです。深層心理に影響するような部分があると思える小説です。

 

どの断片も決して何かしらを決めてかかるような内容ではなく、詩的で、読者に判断を委ねているような側面があります。ですから読み手によって色々な取り方があるように配慮されているように思います。

 

読み終わるまで割と時間がかかりましたが、読んで良かったと思える内容でした。

 

今日は暖かい日です。近所の枝垂れ桜も満開でした。

 

 

最近は腰痛のせいで、整体に通っています。かなり良くなってきたので、一安心かと思っています。

 

整体をされながら、色々細かい健康についてのポイントを先生の方から話してくれます。少しコロナの話なんかも聞きました。

 

コロナで重症化したり、亡くなったりする場合はセロトニンが少ない人が多いそうです(ビタミンⅮが少ないともいわれます。ビタミンDも日光を受けると体内でできるそうです)。セロトニンは人間が日光を浴びると体内で生成される物質らしく、幸せホルモンなどと呼ばれているそうです。起床して15分から30分ぐらいで良いので朝日を浴びると、セロトニンは出来やすいそうです。頭の回転を速め、ストレスを軽減するそうです。生きる気力が沸く、ということだと思います。

 

やはり、天気の良い日は外出はしたいと思いますね。今日みたいな日はお花見も良いということじゃないでしょうか。

 

自分は最近、肉食をかなり減らしました。そしたらどうも爪に異変が出ていたようで、先生に「スプーン爪」になっているなどといわれてしまいました。体内の鉄分が減ると、爪の中央がへこんで、爪がスプーン状になることをいうらしいです。鉄分は血を作るのに必要だそうで、鉄分が少ない人は貧血になったり、活力が足りなくなったりするらしいです。

 

 

鉄分はレバーや牛ヒレ肉に多いらしく、最近全くといっていいほど食べていないです。以前外食の牛丼屋で、久しぶりに小さな牛皿を付けたんですが、やたらおいしかったのを思い出します。死ぬほど甘いというか。普段全く食べていないと、こんなに違うのかと驚きました。牛肉をとったのはそれが最後かもしれません。

 

肉でなくとも鉄分を取る方法はあるらしいので、そちらを試しています。プルーンなど良いらしいです。

 

また、お酒は非常に弱いのですが、昔は毎日ちょっとづつは飲んでいました。しかし最近は酒を飲まない日が増えました。どうもお酒は肉食や、魚を食べることと関係あるように思います。肉をとると酒が欲しくなる、ということはあると思います。

 

生活の無駄を省きたいので、丁度良いんですけど。体質改善と健康のために、もうちょっと色々な努力が必要だと思っています(;´∀`)。

米国の映画俳優、ジーン・ケリー(1912-1996)の出演する作品を何本か観ました。

 

ジーン・ケリーは多才な俳優で、元来ダンスや振付が得意ですが、脚本や監督までできる、マルチなスターだったそうです。しかし、スクリーン内の映画俳優として、彼が目立つのは、やはりダンスシーンで、活気に溢れた場面を作り出します。

 

鑑賞したのは以下の5本。

 

錨をあげて(1945)

踊る大紐育(1949)

私を野球に連れて行って(1949)

巴里のアメリカ人(1951)

雨に唄えば(1952)

 

 

どれも面白かったのですが、世間的に有名で「名作」とされているのが、おそらく「巴里のアメリカ人」と「雨に唄えば」だと思います。

 

特に「巴里のアメリカ人」は音楽がジョージ・ガーシュイン、作詞がその兄のアイラ・ガーシュインということで、芸術的にも高いかもしれないですね。有名な「散歩の主題」に乗って、パリを意気揚々とジーン・ケリーが闊歩します。ガーシュインのピアノ協奏曲も作中に登場し、なかなか興味深いです。

 

また、この作品はラストに15分を超えるバレー・シーンがあり、そこが異色でもあるそうです。

 

 

しかし「巴里のアメリカ人」については、個人的に・・・ストーリーに馴染めなくて、世評ほど気に入りませんでした。2人の男性が思いを寄せるヒロインが、はっきりしない性格に描かれていて、現代だと通じない話じゃないの?などと思ってしまいました。パトロンを袖にする主人公もあまり好感を持てませんでした。

 

ただ映画を観た後は、ガーシュインのアルバムを聴きたくなりますね。映画を観た後だと交響詩「巴里のアメリカ人」の聴こえ方が変わった気がします。

 

「雨に唄えば」も確かに雨にずぶぬれになって唄う、ジーン・ケリーが印象に残っています。

 

「巴里のアメリカ人」以外で、有名作曲家の音楽が出てくるのが「踊る大紐育」で、音楽はバーンスタインの「オン・ザ・タウン」です。ただこちらはモノクロなので、少しがっかりしました。

 

なんだこうだで、自分には世評が高い作品よりも、映画としては「錨を上げて」と「私を野球に連れて行って」の方が面白かったですね(^^;。おそらく観た順番にもよると思うんですよね。

 

「錨を上げて」は初めてジーン・ケリーを観た映画です。同時に唄を歌うフランク・シナトラ(1915-1998)も初めて観た映画でした。初めて観た作品の方が、どうしても印象には残ってしまいました。

 

 

多少冗長ですけど、ジーン・ケリーもフランク・シナトラもとにかく楽しそうにしているのが、自分には好みです。「錨を上げて」、「私を野球に連れて行って」、「踊る大紐育」はこのジーン・ケリーとフランク・シナトラのコンビで撮影されています。

 

ジーン・ケリーが女性慣れした色男役で、フランク・シナトラが初心な女性慣れしない青年役というのが、お馴染みのパターンです。おまけに2人とも、ちょっとドジなんですね。

 

 

↑、名コンビでした。

 

 

最後はそれぞれお似合いの女性を見つけてハッピー・エンドです。

 

この辺の作品はハリウッドのミュージカル映画黄金期のものなんでしょうか。ダンスを踊るジーン・ケリーのエネルギーには圧倒されますね。ジーン・ケリーやフランク・シナトラの明朗で屈託のない笑顔などが印象に残っていて、楽しかったです(^^)/。

 

 

 
↑、ジョージ・ガーシュインの「巴里のアメリカ人」冒頭です。おのぼりさんのアメリカ人が、旅行で訪れたパリを意気揚々と闊歩する、「散歩の主題」で始まります。パリの喧騒が描かれ、自動車のクラクションがリズムにのって楽しげに鳴らされます。クラクションは本物の自動車のものが使われます。音楽からは当時の最先端の「ノリ」みたいのが感じられます。
 

自分は映画を観てからこの音楽の意味が分かるようになりました(映画と音楽の内容は、必ずしも一致はしていません)。ガーシュインは元々ブロードウェイのミュージカルで成功していただけあって、ジャズなどの当時のアメリカの娯楽音楽の雰囲気を持ち合わせたまま、クラシック音楽の影響を受けた、色彩的で楽しい音楽に仕上げていると思います。パリの雑踏を闊歩するアメリカ人、ということを意識して聴くと分かる音楽だと思います。映像が音楽になった感じですね。

 

演奏はアンドレ・プレヴィン、ピッツバーグ交響楽団(1986)。

 

 

↑、尊敬するラヴェル(中央)と共に写真に写っているガーシュイン(右端、左端はマーラーの友人だったオスカー・フリード)。ガーシュインによる「巴里のアメリカ人」は作曲家本人がパリを訪れた印象を音化したものです。1928年に発表されました。

世界名作映画全集VOL3に突入です。VOL1は8割が西部劇、VOL2はドラマとミュージカルがメインでした。

 

 

VOL3もドラマがメインですが、もう少しマニアックな作品が多いように見えます。

 

今回も映画を観た感想を書きます。

 

 

「グランドホテル」、1932年公開の米国映画。

 

ベルリンの高級ホテル「グランドホテル」に滞在する様々な人々の、交錯するドラマを描いた作品。場所を一ヶ所に決めて、そこで繰り広げられる人間模様を描く映画のスタイルを「グランド・ホテル型」というらしいのですが、この作品がその元祖になるそうです。

 

詩的リアリズムの元祖「巴里の屋根の下」、あるいはロードムービーの元祖「或る夜の出来事」のような元祖ムービーの1つといえるんでしょうね。「グランド・ホテル型」は日本だと三谷幸喜監督なんかが、得意としている手法でしょうか。

 

内容はぼちぼちです。特に面白いとも、面白くないとも・・・。映画は最近の作品の方が洗練されていて、俳優の演技もうまいですね。昔の映画はストーリーもそうですが、俳優の演技なんかもあっさりしています。グランドホテルも現代の映画を知っている人にしてみれば、物足りないかもしれないです。

 

ただその分、一般人の我々との距離が近い気がする部分があります。

 

最近の映画俳優など、体は筋肉ムキムキで、スーパーボディーに「完璧に」仕上げられていたりします。ストーリーも緻密です。しかし昔の俳優は、服を脱ぐと割と体に贅肉がついていたり・・・ストーリーも単純だったりもします。完璧を求める人には最近のものが良いのかもしれないですが、昔の映画は見ていると妙な安心感があります。我々とそう変わらない、と思える部分が見える時があるんですね。

 

映画の内容も向きになって、評論するものじゃないような気がしてしまいますね。内容はこのまま、受け止めたいと思います。

 

この映画は当時のスターが名を連ねたということらしいですが、正直俳優の名前は全然分かりません。一応自分も男ですし、分かるのは少しばかりの女優の名前ぐらい。

 

グレタ・ガルボとジョーン・クロフォードを始めて観ました。名前だけ知っていたんですが、動くのを観るのは初めてです。

 

 

↑、グレタ・ガルボ(1905-1990)。サイレントからトーキー初期に活躍した女優で、36歳で引退したそうです。「グランドホテル」では情緒不安定な人気バレリーナを演じていて、それらしく見えました。印象に残る演技でした。

 

 

↑、ジョーン・クロフォード(1904-1977)。「グランドホテル」ではフラッパーなファッションで登場します。しかし、フラッパーというのは自分には理解しづらいです。ヒッピーの旧型?体制への反発と、おしゃれを当時流に合成した感じなのでしょうか。クロフォード自身は、目元が涼しい感じの美女で、いかにも秘書ぽいし、それらしい役回りです。後に、実際に、ペプシコーラの社長と結婚して、社長夫人になったそうです。社長夫人は似合いそうですね。

 

 

「ナイアガラ」、1953年の米国映画。サスペンス仕立ての、マリリン・モンロー(1926-1962)が出演している映画です。

 

マリリン・モンローの出ている映画は何本か観てるんですが、これが今のところ1番印象に残っています。ストーリーは大したことなくて、普通のレベル。マリリン・モンローを観る映画かも。マリリン・モンローが悪女として、セクシーにふるまっています。

 

しかし、面白いのはその辺だけかも。途中で死んでしまうしね・・・。

 

 

↑、ロケーションはナイアガラの滝です。たれ目のベビーフェイス、おでこツルツルのブロンド、モンローがお尻をプリプリさせて歩き回ります(有名なモンロー・ウォークです。左右のヒールの高さをわざと変えて、お尻を振って歩いたといいます)。一時期日本で「エロカッコいい」というダサい言葉が流行りましたが、それをいうのなら、モンローは「エロ可愛い」感じですね。男の視線を釘付けにしちゃう。永遠のセックス・シンボル。

 

 

実際の主役はむしろ健気な妻を演じる、ジーン・ピータース(1926-2000)で、最後まで活躍します。

 

 

↑、ポリー役のジーン・ピータースはアメリカの良い妻という感じです。役得かも。

 

ナイアガラの滝に休暇を取りに来た2組のカップルが、犯罪に巻き込まれていく物語です。ナイアガラの滝を使ったラストの展開とか、それなりに見せ場はあります。しかしまあ、想像の範囲内でしょうか。

 

ジョセフ・コットンは良い味は出ているかもね。

 

最近観た中で1番ショックな映画だったのが「赤い風車」(1952)という作品です。題名の「赤い風車」は19世紀にあったフランスのキャバレー「ムーラン・ルージュ」を直訳しただけのもの。

 

映画の内容自体はそれほどでもないのかもしれません。この作品はアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)のことを描いている伝記映画です。自分はロートレックは全くノーマークでしたので、映画を観てその生涯に驚きを覚えました。

 

映画にショックを受けたというよりも、ロートレックの生涯にショックを受けたということです。なんともはや、恥ずかしい話です。

 

昔の映画には伝記映画も良くあるので、脚色はしてあるとはいえ、ロートレックのことを知るにはかなり面白かったです。ロートレックは元々フランスの名家出身で、大変裕福な出です。しかし13歳と14歳のときにそれぞれ左足と右足を骨折、それ以後足が成長しなくなるという不幸に会います。しかし、上半身は普通に成長するので異様な容姿となっていきました。

 

 

↑、実際のロートレックの写真。足だけが子供のまま。両親の近親婚が原因だったのでは?などどいわれているそうです。

 

成人後、自ら何事かをなすため、パリへと出向き、画家を目指しますが、自己を卑下する彼はキャバレーに通い、売春婦と関係を持ち、酒におぼれました。しかし絵書きの実力は確かだったようで、後に残る作品を制作しました。特に広告(ポスター)を芸術にまで高めた、といわれており、それがあの有名なムーラン・ルージュのポスターです。

 

 

映画の監督はジョン・ヒューストン。ロートレック役をホセ・ファーラーが演じています。

 

 

↑、長身のホセ・ファーラーは膝立ちでロートレックを演じたそうです。

 

自分は一応芸術系の学部を出ました。とはいえ、アートよりもデザイン系でしたけどね(^^;。

 

広告芸術ならミュシャの話なんかは同級生から出ましたけど、ロートレックのことは出ませんでしたね。ミュシャだと神話的で、いかにもユーゲント・シュティールっぽいです。ヨーロッパの綺麗な側面です。しかしロートレックの作品はもっとリアルで、生々しいですね。現代からいえばベル・エポックとなるんでしょうが、しかし、何か屈折したものは感じてしまいます。

 

そこには人間のナマの生が存在しているように思えます。

 

 

↑、キャバレー、ムーラン・ルージュのスターだったジャンヌ・アヴリル。スターというより、不気味な女性に見えます。映画中でも出てきます。

 

↓、映画の中ではザ・ザ・ガボールがジャンヌを演じていて、かなり美化されている気もしました。冒頭の登場シーンは印象的でした。

 

 

映画はまあまあな内容。すごく良い作品ということでもないんでしょうが、自分にはショックだったことは確かです。

 

伝記映画は勉強になるんですよね。ネルソン提督(美女ありき)とか、ロンメル(砂漠の鬼将軍)のことも映画で覚えました。興味の枠が広がった感じがしています。

世界名作映画全集のVOL2が見終わりました。これでやっと100本古い映画を観終わりました。まだVOL3が残っていますけど。

 

今回も印象に残った映画の感想を書いていきます。

 

 

「イヴのすべて」(1950)。ベティ・デイヴィスが出演する、米国映画。

 

実在の女優をモデルとして、ブロードウェイで成功していく1人の女性を描いた名作。しかし、展開を書いてしまうと、作品の性格上、観る価値もかなり失せてしまうので、そこは避けますね。

 

 

↑、無名の、舞台に憧れる女性を、アン・バクスターが演じています(中央)。ベティ・デイヴィスは貫禄ある演技です(右)。

 

10年ぐらい前に、ミラ・ジョヴォビッチが主演する「パーフェクト・ゲッタウェイ」を劇場で観ましたけど、その作品を思い出しました。

 

映画を観る側というのは、主人公に感情移入するし、期待もします。その辺の盲点などを突きながら、色々と考えさせられる作品に仕上がっていると思います。クールといえばクールな内容ですね。一応、知性主義ともいえるのかな。

 

人間の本性とか、それってどんなものかと考えさせられます。逆にいえばこの映画そのものが、ハリウッドなどに対する皮肉なのかもしれませんね。映画を観る側も性格を問われます。自分て嫌な奴だな・・・とか。

 

単純な成功物語では描けないような、人間性などが表現されています。かなり印象に残りました。

 

 

↑、ベティ・デイヴィスは迫力ありますね(^^;)。

 

 

↑、マリリン・モンローが端役で出ていたのを後で調べて知りました(^^;)。観ているときは全然分かりませんでした。駆け出しのころのようです。

 

 

フランスの名優、ジャン・ギャバンが主演する「望郷」(1937)。フランス映画。

 

ジャン・ギャバンの主演する映画を観るのはこれで2本目。結構面白かったです。

 

 

↑、フランスの名優、ジャン・ギャバン(1904-1976)。渋い演技で、魅せます。現代人から見ればただのおじさんにしか見えないかもしれません(^^)。

 

パリのギャング、ペペ・ル・モコをジャン・ギャバンが演じています。無法地帯のアルジェのカスバに逃げ込んだペペは、現地の顔役となり、うまくフランス警察から逃げおおせていました。しかし、カスバから離れれば捕まることが目に見えているペペは、簡単にそこから出ようとはしません。

 

 

しかし、そこにパリから訪れる、美女ギャビー(ミレーユ・バラン)。彼女に恋をしたペペは、それを利用した刑事スリマンの罠にはまり・・・。

 

撮影は実際のカスバで行われたそうで、独特の雰囲気などが好きです。ストーリーはちょっと心理描写不足という声もあるようですが・・・ギャングも、人間の根本的な心情には敵わず、人生を左右されるというドラマは描けていると思います。ジャン・ギャバンは相変わらず渋いです。

 

 

↑、美しく、迷路のような街カスバの、1937年当時の、美しいカットがたくさんある映画でした。楽しかったです(^^)/。