ヒマジンノ国 -28ページ目

 ヒマジンノ国

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例年この時期、近所の公園で菖蒲祭りがあります。しかし今年はコロナで中止でした。毎年、出店も出て、人でごった返すんですが今年はそこそこの人出でとどまりました。
 
以下は昨日撮った写真です。
 

 
 
菖蒲?アヤメ?・・・正直花の名前は分かりません。
 
 
 
 
来年は無事に開催されるのかなー?

オリンピックのことなんてまず興味がなくて、今までのブログでもほとんど触れたことがないです。色々情報が欲しくて、今でもツイッターなどを見るんですが、最近はオリンピックの話題は嫌でも目につきますね。

 

「開催すべし」が保守で、「開催すべきでない」がリベラルみたいないわれ方ですね。自分も元々は開催するなら成功した方が良いと思っていました。

 

どうしても開催しないといけない、という話は結局「お金」が原因の話なんでしょうね。アスリートのことではなく。1984年のロスサンゼルス・オリンピック以来民間企業が出資するようになって、それなりの収益をださないと企業などは黙っていない、ということでしょうか。

 

 

この前ある雑誌の編集と話をしましたが、電通なんかも相当出資していて、オリンピックを開催しないと、かなり苦しいらしいという話でした。

 

今回の東京オリンピックは、今までも何かと問題は多かったですので、最後までケチがついている形でしょうか。

 

政府の顧問だった高橋洋一氏が「さざ波」発言で辞任しましたけど、「さざ波」発言はともかく、あの界隈の人たち(一括りにするのは違うかもですが・・・(;^ω^))は経済のためにオリンピックは必要だし、そのためにコロナ騒動を収める必要があるといいます。そのためにワクチン接種をすべし、という考え方なんですね。

 

個人的には前にも書いてきましたが、人間の生活のことを何でも「お金」や「効率」第1主義で解決しようというのは反対です。

 

こういう人たちは色々いうんですが、結局「経済至上主義」に落ち着いていきます。食べ物のことも、儲かるならGMO作物でも良いとか、食物自給率が低くても諸外国から食べ物を買えば問題ないとか。ワクチンも実際まだ問題あるかないかは良く分からないはずなのにね。「お上」のやることはおおよそで正しい、みたいな感じがあるんですけど、「万が一」みたいなことが本当に起こらないかは、分からないと思います。

 

彼らはしたり顔で「問題ない」といいますけれど、個人的には「怖い」と思うんですよね。お金が必要な世の中ですから、彼らのいうことを全部否定する気はないのですが、せめて人間の「衣食住」、「医政教」などについては、全部「効率の問題」だけでかたずけてしまうのは反対です。

 

「利便」や「効率化」を「進歩」だと思っているんでしょうが、自分は違うと思うのですね。

 

こういう人たちの発言を聞いていると、もう開催しなくてもいいかなと思い始めたりもします。オリンピックの問題も「お金」の話ばかりな気がするもので。オリンピックを開催するために、色んな綺麗ごとを政治家は並べますが、結局「お金」のことなんじゃないのかね?と思っている自分がいます。

 

多くの日本の大企業が出資しているのですから、潤った方が良いのでしょうが、それにしても「嘘」が多いのではと感じています。

 

オリンピックも「選手」のためというより「企業」のため。「コロナに打ち勝つ」とか無理やり理屈をつけますが、もう、オリンピック自体が根本から矛盾しているような気がしてますね。

 

初め、今度の東京オリンピックは、「コンパクトでお金がかからないオリンピック」という触れ込みで、それなら本来のオリンピックという理念にも近づいた気もして、良いかなと思ってましたけど。蓋を開けると、経費は1・6兆円ですか?史上最高額の夏季オリンピックになるかもとかいうんですよね。「噓つきは泥棒の始まり」じゃないですけど、そのお金は一体どこへ行ったのか。

 

こんな話ばかり聞かされるとね、正直オリンピックなんてどうでも良いと思いますよ。恥ずかしい話だよな、と思います。

 

 

ゲオルク・ショルティの「パルシファル」(1971-1972)。

 

SET550-554。

 

 

最近はデッカのレコードにはまっています。コロンビアやHMVに先駆けて、商業用のステレオ録音を開発していたデッカの録音は、音が生々しく、細部までくっきりとし、分離も最高です。そういった点では明らかに、EMI(コロンビア、HMV)に先んじていたわけです。

 

ジョン・カルショーが手掛けたショルティの「ニーベルングの指輪」全曲録音(1958-1965)は、そのようなデッカの音の特性を生かした、実にフレッシュなものです。

 

当初「指輪(リング)」の録音はドイツのワーグナー・スペシャリスト、ハンス・クナッパーツブッシュに依頼しましたが、断られてしまいます。そこで白羽の矢立ったのが、まだ若い、ゲオルク・ショルティ(1912-1997)です。クレメンス・クラウス、ヨーゼフ・カイルベルト、ハンス・クナッパーツブッシュはドイツの精神を体現した指揮者であって、そのワーグナー演奏はバイロイトの伝統に基づいていました。

 

彼らはワーグナーのオーケストレイションを生かし、それぞれの楽器の演奏が、ライトモティーフの意味を表せるように独特の風味を利かせていました。「黄金の輝き」のライトモティーフなら、それこそ、本当に「黄金が輝いていること」を思わせるような、独特の響きを出していました(カラヤンやベームはやっていない)。他のライトモティーフの演奏についても、色々な工夫がありました。そこに作曲当時ワーグナーが考えていた、神話時代を音楽でリアルに再現する、という意図が見事に集約していたわけです。

 

 

↑、クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、カイルベルトの「リング」の録音。ドイツの伝統を感じさせる演奏です。

 

 

↑、ゲオルク・ショルティ。20世紀を代表する指揮者です。楽譜をそのまま音化するタイプの指揮者で、力づくでザッハリヒな印象があります。彼の評判はデッカの名録音と切り離して語ることができないほど、近代の「録音時代」に育てられた存在といって良いと思います。

 

しかしイギリス人のショルティ(1972年に英国に帰化、元はハンガリー出身)には、そういった精神的背景はありませんでした。結果デッカのプロデューサー、カルショーの目指した「リング」全曲の録音というのは、ステレオの高度な「ハイ・ファイ」効果を生かした、家庭用の「歌劇場の代理品」といもいうべき、鮮明極まるものになりました。ドイツ的な背景のないショルティに指揮させることにより、1音1音、楽譜を鮮明に録音した、生々しい音響空間を家庭に持ち込むことに成功したのです。そこにはドイツ風の「ワーグナー」はありませんが、非常にフレッシュな現代的な「ワーグナー」を体験できる状況が生まれたわけです(無国籍な演奏、別のいい方をすれば、ユニヴァ―サルな演奏ともいえる)。

 

この一大プロジェクトの成功によって、ショルティはワーグナー指揮者として認められることとなり、一連のワーグナー作品をショルティで録音しようという新たなプロジェクトが始まりました。

 

「トリスタン」、「タンホイザー」の後に録音されたこの「パルシファル」の録音は、ショルティ自身がやや大人しくなった頃の録音で、終始ゆったりしたテンポで通しています(曲調のせいもあると思います)。

 

ショルティの「リング」がいかほど有名で、名盤といわれてきても、その裏では、批判がずっとささやかれ続けてきました。曲の意味を探っていこうとするよりは、オーケストラを豪快に鳴らすことを優先し、多くの場面で必要以上の力みが感じられます(曲の意味を壊してしまう)。自分はショルティの「リング」を聴いていると、いささか疲れます。

 

それに比べると「パルシファル」のショルティは無駄に力みかえることが皆無で、曲調に対する深いえぐりはないものの、ウィーン・フィルの透明な美感を効果的に発揮していて、美しいです。

 

場面転換の音楽や、クリングゾルとの対決シーンなどの音響的な迫力を発揮するシーンでは充分な迫力を見せます。音質も良く(ケネス・ウィルキンソンによる録音)、「リング」のようなメリハリの効いた録音というよりは、全体をまとめた、デッカとしては珍しい、丸みのある柔らかい録音だと思います。「パルシファル」という音楽の特性を考えた時、これは妥当でしょう。

 

歌手についてはデッカのオールスター・キャストで、花の乙女にルチア・ポップや、キリ・テ・カナワまで使っています。主役級ではパルシファル役のルネ・コロやクンドリ役のクリスタ・ルードウィッヒはかなり良いです。グルネマンツ役のゴットロープ・フリックはちょっと落ちると思います。伝説的ワーグナー歌手の1人、ハンス・ホッタ―はティトゥレル役です。

 

昔からステレオの「パルシファル」の名盤は2種類いわれてきたように思います。過去記事です、↓。

 

二種類のパルシファル | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

 

ドイツのバイロイトの正当な流れを引き継いで、曲の深い意味とスケールの大きさを併せ持ったハンス・クナッパーツブッシュ盤、室内楽的で静謐なカラヤン盤ぐらいでしょうか。一時期ブーレーズの演奏なども話題になりましたが、最近は聞かなくなりました。

 

ショルティ盤も発売されてから長らく話題になっていないように思いますが・・・(;^ω^)。デッカ特有の透明でフレッシュな音質で、よどみなく流れて、音響的にはかなり美しく仕上がっていると思います。デッカのレコードとしてはかなり楽しめると思います。

 

 

 
 
 
↑、聖金曜日の音楽。魔王クリングゾルと淫婦クンドリから聖槍(ロンギヌスの槍のこと、同時にこの作品「パルシファル」では男性器の暗喩でもある)を取り戻した、聖者パルシファルが騎士グルネマンツから祝福を受ける場面。ここで香油を塗られたパルシファルは、アルフォンタスに変わって新たな聖杯城の王となります。
 
ワーグナーは「リング」のチュートン式汎神話論から離れ、キリスト教的な精神に則った作品を、人生の最後に書きあげました。しかし、ニーチェはこれを激しく批判し、ドビュッシーはその非現実的な内容に毒つきました。
 
確かにパルシファルはキリストを思わせる雰囲気がありますが、ここで描かれている内容というものは、人間の「性の浄化」こそが「聖」であるという、キリスト教の内面的な精神を象徴的に描いたもの、という認識です。それは「キリスト教」という限定的な宗教観を超えて、多くの人類に、共通する普遍性を備えている内容だと思います。
 
心に染み入るような美しい音楽がここにはあります。
 

 
トスカニーニによる「オテロ」(1947)。
 
LM6107-1~6107-2。
 
 
「オテロ」はヴェルディの最高傑作といわれている作品で、彼のそれまでの熟練されたオペラ作曲家としての技量と、より革新的なものを追求した作品となっています。
 
この作品において、ジュゼッペ・ヴェルディの作品としては音楽と歌が、以前よりも緊密に結びつくことにより、緊張感のある1個の有機体として、彼の歌劇の頂点を極めます。台本もシェイクスピアを原作とし、アリゴ・ボイトが手掛けたことによって、程度が高いものになりました。
 
音楽も、見方によっては「ワーグナーの音楽と詩の統一」という考えに近づいたとも思え、歌劇というよりも一遍の音楽劇として見たほうが良いのかもしれません。各場面の音楽も創意工夫があり、聴いていて飽きません(劇の内容は中々恐ろしいので、全てを聴くのには、若干勇気がいりますが( ;´꒳`;))。
 
しかしこれはワーグナーの作品ではないわけで、間延びする音楽空間ではなく、きりっとした造形で緊張感を持って演奏する方が良いと思います。特にキビキビした統率力のある指揮者がこの曲を振ると、素晴らしい効果を発揮します。
 
カラヤンやトスカニーニの演奏を聴くと、この音楽は彼らのために書かれたのではないか、と思わせるものがあり、特にトスカニーニの演奏はこの曲の古典的模範といっても差し支えないでしょう。ちなみにトスカニーニはこの「オテロ」初演時に、オーケストラのチェロ奏者として参加しています。現場では73歳のジュゼッペ・ヴェルディが直接監修に当たっていました。
 
 
↑、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)。イタリアのオペラ王。ドイツのワーグナー、イタリアのヴェルディが、おそらくオペラ作曲家の最高峰です。
 
『≪オテロ≫のリハーサルの時だった。第一幕のオテロとデズデモナの愛の二重奏はチェロの四重奏によって導かれるが、そこでヴェルディが「第二チェロ!」と声を上げた。名指しされたトスカニーニは驚いた。老巨匠は若き第二チェロ奏者に言った。「君の音は柔らかすぎる。もっと大きく弾きなさい」。楽譜にはピアノと書かれていたが、ヴェルディはもっとはっきりした音を欲していたのだ。あるいは、実際の劇場では大きめに弾くべきだと教えたのかもしれない。このヴェルディとの直接のコンタクトは、トスカニーニに強烈な印象を残した。ヨーロッパ音楽界が大注目する≪オテロ≫の世界初演は、1887年2月5日、フランコ・ファッチョの指揮、フランチェスコ・タマ―ニョのタイトル・ロールによって盛大に行われたのであった。』(「トスカニーニ・大指揮者の生涯と時代」、山田治生著。)
 
トスカニーニの芸風と曲調の一致、と同時に初演時のヴェルディの指示などを見ていたこの大指揮者にとって、そのことは演奏時に強みともいえますし、実際、「オテロ」は彼にうってつけの音楽だといえます。
 
 
 
↑、冒頭の嵐シーンから一部切り抜き。ヴェネツィアの軍人でムーア人(黒人、あるいはアラブ人ともいわれる)であるオテロがトルコ艦隊を撃破して帰還するシーン。嵐のなか、民衆がムーア人を偉大なる英雄として迎えます。嵐の強烈さは自然の嵐の強烈さなのか、民衆がオテロを迎える熱烈さなのか、分からないような雰囲気があります。ヴェルディは、この冒頭の強烈なシーンで、聴いている人々を熱狂的に歌劇の中に引きずり込むと、切れ目ない音楽をドラマティックに展開させます。その展開の自然な流れはワーグナーの影響が大きい、といっても過言ではないでしょう。
 
「オテロ」はイヤーゴの奸計によって、妻の貞操を疑い殺害、騙されていたオテロ自身も後を追うという悲劇的オペラです。
 
このオペラは天才指揮者、C・クライバーの十八番の1つで、1976年のスカラ座のライヴが映像に残っています(非常に力強い舞台です)。音はモノラル、映像も鈍いですが、興味ある人は一度観てみる価値があると思います。↓、リンクです。
 
 
 
レナート・チェリーニの指揮する「イル・トロヴァトーレ」(1952)。
 
ALP1112-1113。
 
 
ヴェルディのオペラで、音源だけ聴いていても面白い作品の1つです。「アイーダ」などを音源だけで聴くのは中々大変ですが、「オテロ」や「トロヴァトーレ」などは音だけを聴いていても、面白いです。
 
しかし、この作品については昔、自分もブログに書きましたが・・・台本がひどく、その辺の理解が大変ではあります。
 
「普通、≪イル・トロヴァトーレ≫は台本が常軌を逸しており、しかも、肝心なのは歌のパフォーマンスのみであるため、(台本のほうは)重要性に乏しいオペラの典型とみなされている。」(「オペラティック」、ミシェル・レリス著、大原宣久、三枝大修訳。)
 
しかしなぜ、このような台本にヴェルディが音楽をつけたのかといえば、登場する主要人物4人レオノーラ(S)、マンリーコ(T)、ルーナ伯爵(Br)、アズチェーナ(MS)に熱い歌がつけられるからであり(バスのフェルランドを加えれば5人分となる)、その歌の競演こそが実に歌劇的だから、といえると思います。
 
それゆえ、演奏は良い歌手をそろえることが必須で、指揮も「オテロ」のように指揮主体でなく、歌手にのびのびと歌を歌わせてこそ威力を発揮する作品といえます。
 
「≪トロヴァトーレ≫については、作劇法の上では失敗作だが数多くの<美しいシーン>があり、その音楽的成果だけは見るべきものがある、という意見が一般に定着している。
 
・・・(中略)・・・
 
ヴェルディのオペラの中で、たぶん音楽面では一番人気のこのオペラほど、強烈な自己表現力で歌のエネルギーを噴出し、声帯をこれでもかと震わせて力を誇示する傾向の強いオペラは、まずない。作曲家ヴェルディが、歌の力を借りてこのオペラを、<展開>したことは疑いなく、ここで彼はメロディの発想力の頂点に立って、古典的な5つの声域(ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バス、バリトン)にとってこの上なく魅力的でほとんど理想的ともいえる、ベルカント唱法のパートを造り出している。」
 
とはドイツの批評家、アッティラ・チャンパイの言葉です(「トロヴァトーレ」、アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント著、岡美和子訳)。彼は続けてこういいます。
 
「<若い>世代の多くの指揮者たち、つまり2つの世界大戦の後1960年以降に活動を始め、迷いなく<美の美学>を追求している世代の指揮者たちは、(古い主観的な歌唱法に対して)根強い不安感を持っており、それが歌手たちの勝手気ままな自己表現の傾向を、ヴェルディのオペラの本質的特徴として見のがす結果になっている。そのためベルカント唱法は久しく新味をなくし、心ならずもパロディ化して、声の露出狂のごとくになってしまった。オペラの新たな上演場所として、ますます定着しつつあるレコード・スタジオが、大戦後の急激なベルカント唱法の衰えに拍車をかけたのは、まぎれもない事実である。スタジオでは美的条件が変わったために、生き生きと舞台ばえするものをやるより、むしろ過去現在も1音1音を正確に仕上げることを一番の原則としてより新しいリアルな(<ハイ・ファイ>)音の理想を追求するようになったからだ。これがけっきょく、声の雰囲気を奪う作用をもたらしたことは、疑う余地がない。
 
・・・(中略)・・・
 
この新しいステレオ録音(1962年頃始まった)では、歌手の虚栄心と無能力、内容の乏しいただののど自慢、音楽的無知を示す、聴くに耐えない実例の数々があげられる。」
 
以上の批評は自分にいわせればほとんど完璧な内容で、書いてある通りだと思います。非常に的確な文章です。
 
一応・・・自分の書いた過去記事です↓(今読むとひどい文章で、相当に恥ずかしいですが・・・(;^ω^)・・・一応リンク作りました。1と2に分かれています。トロヴァトーレについては主にマリア・カラスの録音についてです)。
 
 
さて前置きが長くなりましたが、今回聴いた「トロヴァトーレ」の録音はモノラル時代の名盤といわれた録音です(他には1957年のプレヴィターリ、1961年のファブリティースが良いといいますが、自分まだ未聴)。
 
ユッシ・ビョルリング、ジンカ・ミラノフ、レナード・ウォーレンなどの名歌手を集めて、皆が大変に生きの良い歌唱を聴かせてくれます。歌手については、この盤に敵するものはないといわれているようです。わけてもユッシ・ビョルリングが素晴らしく、ムラのない柔らかい美声は奇跡ともいえましょう。
 
 
↑、ユッシ・ビョルリング。20世紀最大のマンリーコ役の1人。「彼は嘆きの歌の美しさを、自在に表現できる―――それは≪トロヴァトーレ≫歌手にとって、理想的な条件である―――最後のテノールの一人である。」(「トロヴァトーレ」、アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント著、岡美和子訳)。
 
ビョルリングはボエームのロドルフォや、カヴァレリア・ルスティカーナのトリッドウなんかも本当に素晴らしいです。自分が非常に好きな歌手の1人です。
 
 
 
↑、CDなどにあまり復刻されてないモノラル録音ですが、レコードで聴く限り音質も良いし、何より歌手たちが素晴らしいです。ミラノフなども良く声が出ています。
 
第3幕のラスト、自分の母アズチェーナが火刑にされるのを聞き、助けようとする、その決意をマンリーコが歌います。ここではビョルリングの声を中心に入れてみました。声に張りがあり、のびのびとしていますが、決して硬くならず柔軟性があります。近頃こういう歌手はいなくなりました。
 
トロヴァトーレは各主役歌手たちが、それぞれ歌でもって自己を強く主張するために、「歌による戦い」のような様を示します。そこがこの作品の面白い部分で、聴きどころだと思います(*^^*)。
 

 
ヨーゼフ・カイルベルトによる「名演集」。
 
SNA25016ーTー1~SNA25016ーTー5。LP5枚組。
 
 
今回オリジナルではありませんが、テレフンケンのレコードを初めて買いました。音質は思っていた以上に優秀で、線の太い力強い音が飛び出してきました。さすがにドイツの有名メーカーです。
 
これは、そのテレフンケンを代表するアーティストの1人、ヨーゼフ・カイルベルト(1908-1968)の演奏を集めたボックスになります。
 
カイルベルトはカラヤンと同じ年に生まれましたが、早くに亡くなったために、いささか地味な存在として扱われています。しかし、フランツ・コンヴィチュニー、ヨーゼフ・クリップス、あるいはクレメンス・クラウスなど、ドイツ(あるいはオーストリア)の伝統を正当に引き継いだ名指揮者に、彼も数えられることは間違いがなく、その芸術は素晴らしいと思ます。
 
この時代の演奏家は今の時代ほど、インターナショナルなことを意識せずに済んだのだろうと思いますね。今の指揮者はオーケストラの音色を、大衆を意識して、各自指揮者の好みにデザインしていることが多いように思えます。個人的な考えですが、カラヤンやチェリビダッケの影響が大きいのだと感じています(いわるゆる指揮のスペシャリストというような感じです、曲は指揮そのものの魅力を引き出す手引きに過ぎないというやり方)。指揮と曲とが一体ではなく、それぞれ独自の位置を占め始めているような感じでしょうか。アバドの晩年は非常にカラフルな演奏でしたし、作曲家ごとに雰囲気を変えていました。サイモン・ラトルは時にモダンとピリオドをない交ぜにしたような、ガラス細工のような演奏で、ティーレマンやネルソンスのような異常に丁寧な演奏は、チェリビダッケの演奏を無視しては語れない気がします。最近の指揮者はそれぞれ独自のカラーを、意識的に出していると思う時があります。
 
この流行のスタイルはスター指揮者といわれる人に増えましたかね。チェリビダッケはスターとはまた違いましたけど(;^ω^)・・・。こういうやり方だと、曲そのものを聴かせる、というより、指揮者の高度な技術を聴かせる感じになっていきやすいですね。
 
しかし、カイルベルトやコンヴィチュニーなどは、曲と指揮の間柄がまだまだ曖昧で、ドイツ人がドイツ人のために演奏しているという感じでしょうか。オーケストラの音色も地のまま。しかしその分脚色されないドイツ音楽の魅力があるということでしょう。彼らの個性も意識して表現されたものでなく、自然と滲み出てくる感じだと思います。
 
カイルベルトの演奏は、重厚で力強く、太い音が魅力で、男性的な迫力が良く出ます。音楽を鋭くまとめてしまうハンガリー系の指揮者たち、セルやショルティ、あるいは伝統とユニヴァーサルな傾向を合成させたカラヤンとはまた一味違う、豪放磊落さで、男らしい演奏だと思います。
 
このボックスの収録曲は以下の通り。
 
ハイドン交響曲101番「時計」(1957)バンベルグ響。モーツアルト、ジュピター交響曲(1959)バンベルグ響。
ベートーヴェン交響曲8番(1958)ハンブルグ響。エグモント序曲、レオノーレ序曲(1960)ベルリン・フィル。
ブラームス交響曲1番(1950)ベルリン・フィル。
スメタナ、モルダウ。ドヴォルザーク、スロヴェニア舞曲(スラヴ舞曲、1956)バンベルグ響。
メンデルスゾーン、ボヘミアの森と草原序曲、フィンガルの洞窟序曲(1961)バンベルグ響。
R・シュトラウス、ティル・オイレンシュピーの愉快な悪戯、ドン・ファン(1961)ベルリン・フィル。
 
LP自体、全てステレオ表記になっていますが、モノラル音源をいくつか含んでいます(疑似ステレオ盤かは不明)。
 
どの演奏も面白いです。しかし、個人的にモーツアルトはちょっと落ちますね。モーツアルトは古典的で音楽の内部には引き締まった力が宿っていますが、その部分に演奏家が注力しすぎると、曲が少し乱暴に響きます。カイルベルトは男らしすぎるというか。そうなるとモーツアルト独特の、フレッシュな官能性が後退します。この作曲家の曲を聴く楽しみが後退しますね。いうなればもっとユニセックス的な雰囲気がモーツアルトにはあります。片や、同じ古典の、ハイドンは力強さが躍動感となって、良かったです。
 
ベートーヴェンとブラームスは特別素晴らしいと思います。筋肉質のカイルベルトの演奏が生きます。躍動感と重厚さが、充実した音楽を作り出していきます。ブラームスはアナログ盤で聴いたもののうち、これが1番面白いと思ったぐらいです(カラヤンやクレンペラーと比べても「面白さ」ではこれが1番かと思いました)。1つはっきりといえるのは、この手の指揮者の演奏は演奏のどの部分にも「意味」があるということです。
 
近ごろの指揮者は時に曲の「意味」より「美しさ」を優先することがあります。変な例えですが、漢字の「訓読み」ではなく「音読み」を優先するみたいな。しかしカイルベルトの指揮は一時も「曲の意味」を離れることがありません。「曲」そのものを聴きたいという人には、やはりこういうスタイルの演奏が良いと思いますね。誠実さがあります。曲の意味がぐんぐん伝わってきます。
 
スメタナやメンデスゾーンも良いですが、カイルベルトはR・シュトラウスも素晴らしいと思います。R・シュトラウスも正直、名指揮者のカール・ベームよりも良いのではないかと思うぐらいです。最近手に入れたのですがシュトラウスのオペラも素晴らしいので、カイルベルトはこれらも得意にしているといって良いと思います。
 
R・シュトラウスの管弦楽は非常に精緻ですが、旋律の線が細いので聴き取りにくい時が多々あります。ベームの演奏だとそれが割とそのまま出ますが、カイルベルトだとしっかりとした太い線で表現してくれるので、聴きやすいです。ここではモーツアルトの時のように曲の官能性が壊れることも無いので、楽しめます。
 
 
 
 
↑、ベートーヴェンのエグモント序曲。筋肉質の力強い演奏です。野太い遠吠えのような迫力と、力感ある躍動を感じさせます。こういう演奏はベート―ヴェンに合いますね。名演です(パチノイズあります(;^ω^))。

 

「オペレッタの幕開け」、森佳子著。

 

オッフェンバックと日本近代、という副題がついています。後半に日本のオペレッタ受容の歴史が語られますが、基本的に、この本の7割ぐらいはオペレッタの創設者、ジャック・オッフェンバック(1819-1880)についての解説になっています。書き手の熱が伝わってくる、かなり面白い本で、この本を読んでオッフェンバックに非常に興味を覚えました。

 

 

自分が聴いた彼の作品は「地獄のオルフェ(天国と地獄)」と「ホフマン物語」だけです。ただ日本ではこの2作品ぐらい知っていれば充分なのかもしれません。しかし、この本で紹介されている、オッフェンバックの主要な作品だけでも20作あり、そのうち8作ほどに、この本の中で詳しい解説がついています。「美しきエレーヌ」など聴いてみたいと思ました。

 

オッフェンバックが生きていた時代、フランスはマイアベーアの作品などを始めとする、グランドオペラの全盛期でした。しかし現代、この時代のグランドオペラはほとんど残っていません(面白くないらしいです)。それに比べると、オッフェンバクの作品は現代でもいくつかは残っており、この類まれな人物の才能を感じさせます。

 

オペレッタという作品ジャンルがオペラよりも劣るとされる時、こうした事実は我々に色んな事を教えてくれます。オペラ座はグランドオペラという、いわば当時の国の規範となるような作品を上映する場でした(国による検閲があった)。しかしオッフェンバックが活躍したのは2流劇場とも呼ばれる、場末の劇場で、彼は直接的に「民衆」の好みを反映させた作品を書いたといえます。

 

そこには「嘘の理想」ではなく「本当の庶民の願望」があるわけです。

 

今日オペレッタといえばドイツ風の、ヨハン・シュトラウスやレハールなどの洗練された感性の作品と思われがちです。

 

一聴オッフェンバックの作品は、卑俗で、取るに足らない内容と音楽に見えます。ところが、よくよく聴いてみると、実際は泥臭い力強さと独創性を備え、その脚本は批判精神と哲学に富んでいることが、今日の我々にさえ分かるわけです。この強烈な批判精神こそが、フランス的とでもいうべものでしょう。オッフェンバックはユダヤ人でしたが、その精神はフランス人そのものです。

 

彼の最後の未完の作品となった「ホフマン物語」(ギローのおかげで本格的なオペラとなった、つまりそれはレティタチーヴォを備えているということ)は幻想的な雰囲気があるとはいえ、その内容は決して耽美的ではなく、骨っぽいほどの批判精神が込められています。

 

この本の内容ではないのですが、批評家のショーンバーグは次のようにいっています。

 

<『ホフマン物語』にはオリンピアのコロラトゥーラ・アリアや舟歌のような、外向的な部分があるにしても、奇妙な終末観がただよっている。このオペラでは、人間はどれほど努力しても、自分の運命を自由にすることができない。『ホフマン物語』には、リンドルフ、コッペリウス、ダッペルトゥット、ミラクル博士といったいろいろな名前の不吉な運命の力がみなぎっている。この力に対してホフマンは勝つことができない。彼はこの邪悪な力によって何度も串刺しにされる。彼は同じカギ針に何度も衝動的に喰いついては、同じ恐ろしい結果に見舞われる魚である。オッフェンバックの音楽は、最後の幕で高揚して雄弁となり、酔っ払って無力のホフマンの傍らをこっそり離れたリンドルフが、永久に続く筋書きを再び繰り返すという最後の情景は、聴き手の口中に苦い後味を残す。>(大作曲家の生涯、H・ショーンバーグ著、亀井旭、玉木祐一訳。)

 

一見下らなくて、妄想的とも見える作品の中にオッフェンバックは独自の哲学と、見識を詰め込んでいます。それらは表に見える場合もあれば、よくよく考えて見なけば分からないような場合もあります。そこに彼の作品の深みがあるように思えます。

 

オッフェンバック自身がかなり頭の回転が速い人物で、独特の魅力を持った存在だったということが分かる本でした。

 

 

「偉大なるヴァイオリニストたち」、ジャン=ミシェル・モルク著、藤本優子訳。

 

ヤマハから出版されている一連の「偉大なる」シリーズの、1番初めに出版された本だと思います。ピアニストや指揮者のシリーズよりも内容は良いと思います。

 

日本だと、どうしても某有名音楽関係の出版社の本に頼りがちで、聴き手が聴く演奏家のタイプが画一化しやすいですが、このようなヤマハのシリーズ本があるのがありがたいです。同じ名前を何度も聞かされるよりは、初めて聞く名前などが嬉しいです。他にも女性歌手のシリーズが出ると助かるんですけどね。

 

残りの人生でどれぐらい音楽を聴けるか分かりませんが、自分が聴くヴァイオリニストの参考にしようと思って買いました。しかし読んでみると・・・やはり沢山いるんですね(汗)。まあ、ここに書かれている人物の音源をどれぐらい聴けるか分かりませんが、何も知らないというよりまし、というところでしょう。特にレコード屋に行くと知らない名前のヴァイオリニストがいっぱいいますが、その中の何人かはこの本を読んで正体(?)を知りました。

 

自分はヴァイオリン曲よりもピアノ曲の方に流れがちです。ただアナログ盤ではヴァイオリンの音が良く入るので、CDで聴いていた時より興味が湧くようになりました。初めてボベスコの演奏をレコードで聴いたとき、実際目の前で鳴っているようにしか思えなかったものです。

 

ただその分、弦関係のレコードは割高で、中々手が出ないのですけど・・・。特に女流は高い(;^ω^)。女流でなくとも、カンポーリが演奏したクライスラーのアルバムや、ミッシャ・エルマンなんかのアルバムも、モノ盤なのに1万ぐらいはします。今日売ってるの見ましたけど、簡単には手は出せないですね。躊躇します。

 

この本はかなり面白いし、ヴァイオリニストの参考になる本だと思います(続巻も出ています)。ただ今のところ自分はまだ生かし切れていませんけどね。もうちょっと頑張っていきたいと思います。

 

ワクチン接種は自己判断です。同時に、ここに書くことが全てではありません。ただ、個人的にワクチンは接種しないつもりですので、その簡単な理由などを書きたいと思います。

 

今回のコロナワクチンは約1年という短期間で開発されました。故に長期的な副作用についてはまだ何の確認もされていないのと同じだと思います。通常新しいワクチンは5年から10年という長い時間をかけて、各種の治験を行います(もっと時間がかかるケースは良くあるようです)。それで問題があれば新薬は取り下げられますし、それだけ時間をかけても開発できないワクチンもあるそうです。5年で開発が成功したワクチンがあれば、開発自体が相当うまくいった例でしょう。

 

仮に副作用が少ないと認められて、実際治療に使われた後に副作用が出て、問題になるケースがあります。ワクチンではありませんが、肺がん薬イレッサが薬害を起こしたケースなどがあります。薬の開発は人命に直結するだけに慎重にされるべきだと思います。

 

イレッサについては日本国内でも問題になりました。少しだけ引用しておきます。

 

以下はサイトからの引用です。

 

<(イレッサは)承認前から副作用が少ないと宣伝されましたが、2011年9月までに公式発表だけでも834人が副作用である間質性肺炎で死亡しました。特に初期の頃に死亡者が集中しており、承認から半年で180人、1年で294年が亡くなっています。この死亡者数は、他の抗がん剤より著しく多く、イレッサの間質性肺炎による最近の副作用死数と比較しても10倍近い死亡者数となっています。

 

このように被害が発生・拡大したのは、承認前の動物実験、国内外の臨床試験、EAP(拡大治験プログラム)による国内外の使用患者において、致死的な間質性肺炎の発症を示す情報が蓄積され、死亡者が出ていたにもかかわらず、アストラゼネカ社が、利潤追求のために安全性を軽視して、承認前から、「副作用の少ない抗がん剤」という宣伝広告を行ったうえ、添付文書等における十分な警告などの安全性確保措置を怠ったからです。>

 

利益追求のために、安全性の問題を隠匿することもあるということです。

 

そして、そのアストラゼネカの新型コロナウィルスワクチンは、アデノウィルスベクターワクチンという、これまで承認例がほとんどないタイプのワクチンだそうです。このワクチンは、新型コロナウィルスの遺伝子を人間に導入し、人間の細胞で新型コロナウィルスのタンパク質を作らせ、そのことによって免疫を得ようとするものですが、このワクチンを打たれた人間は定義上遺伝子組換え動物になることを国立遺伝学研究所の川上浩一教授が指摘しています。

 

また、ファイザーとモデルナの新型コロナウィルスワクチンはmRNAワクチンという、人間に接種されたことがこれまでなかったタイプのワクチンです(人類初となるということ)。このワクチンについては、逆転写により人間のDNAが改変される危険性がフランスのクリスチャン・ペロンヌなど複数の医学博士によって指摘されているそうです。ワクチン推進者はこれを「虚偽情報」であると一方的にレッテル張りし、打ち消しに躍起になっていますが、mRNAが人間のDNAを改変し得ることは、科学的に確認された厳然たる事実とのこと(各種意見あります)。

 

上にも書きましたが、ファイザーのmRNAワクチンというのが実は今回初めて「人間用」に開発されたワクチンで、今まで成功したことがなかったものとされています。

 

自分も医学的知識があるわけではないのですが、コロナウィルスはRNA型のウィルスといわれるそうです。これは変異が早いそうで、おそらくその変異に対応するために、遺伝子を操作するようなワクチンにしたというようなことかと勝手に理解しています。

 

ちょっと古い情報ですが、2018年にノーベル生理学・医学賞を獲得した本庶佑京都大学教授は次のように述べています。

 

 

変異と副作用が問題

 

コロナとの闘いを勝利に導くには、「予防」「治療」「診断」の3つの対策を立て直さなければなりません。

 

まず私が警鐘を鳴らしたいのは、予防に関して「ワクチン」への過度な期待は禁物だということです。安倍晋三首相は記者会見で、「東京五輪を完全な形で開催するならワクチンの開発がとても重要だ」と述べていましたが、それは非常にハードルが高いと言わざるを得ない。その理由から説明しましょう。

 

そもそも、新型コロナウィルスはインフルエンザウィルスやHIVウィルスと同じように、「DNA」ではなく、「RNA」を遺伝子に持つウィルスです。このRNAウィルスの場合、効果的なワクチンを作るのは難しいことが知られています。

 

ビル・ゲイツは、HIVワクチンなどの開発にこれまで何百憶円と注ぎ込みましたが、それでも、ほとんど成功していません。

 

なぜか。端的に言えば、二重らせんという安定的な構造を持つDNAに対し、一重らせんのRNAは、その構造が不安定で、遺伝子が変異しやすい。インフルエンザのワクチンを打っても効かないことが多いのは、流行している間に、ウィルスの遺伝子が変異していくからです。遺伝子が変異してしまうと、ワクチンが効きにくくなったり、まったく効かなくなったりするのです。

 

新型コロナも、変異のスピードが非常に速い。中国で発生して以来、世界各地に広がっていく過程で変異を繰り返し、5月末ですでに数百の変異があるという報告があります。

 

ワクチンが完成しても、開発当初とは異なる遺伝子のウィルスが蔓延しているかもしれない。そうなると、一部のウィルスにしか効かないことも十分にあり得ます。

 

もう一つ、ワクチンには「副作用」という大きな問題があります。ワクチン開発では良いところまで行きながら、臨床の段階で副作用が出て、100億円、1000億円ものお金がパーになったというケースは枚挙に暇がない。1976年に米国で新型インフルエンザの流行に備え、見切り発車で全国民へのワクチン接種を始めたものの、ギラン・バレー症候群などの副作用が出て投与中止になるという悲劇的な事件が起きたこともあります。

 

ただ、こうした副作用はワクチンには付き物なのです。実際、副作用の被害を受けられた方は大勢いる。だから反ワクチン運動なども起きてしまうわけです。ただ、私はそういった不利益を考慮しても、基本的には、一種の「社会防衛」としてワクチンの開発自体はやるべきだと思います。

 

ところが今の日本では、首を傾げざるを得ないようなことが行われている。日本で開発し、治験までやると言っているグループがありますが、あまりに現実離れした話でしょう。

 

ワクチンの有効性を評価するには、数千人健常な人を集め、打ったグループと打たなかったグループ、双方の感染率を比べなければいけません。しかし、この比較試験を感染が抑えられている今の日本でやるのは非常に難しいと思います。

 

今の日本で、仮にワクチンを打った3000人に感染者がゼロだったとしても、ワクチンを打たなかった3000人に何人の感染者が出たら有効と言えるのか。ブラジルのような感染者数が爆発的に増えている地域であれば、はっきりした差が出るかもしれない。しかし日本での比較試験はほぼ不可能と言っていいのです。

 

こうした開発の高いハードルを考えた時、東京五輪までの1年でワクチンを開発・製造するということが、いかに困難か想像がつくのではないでしょうか。期待を煽るような報道を見るにつけ、政治家や行政は、この現実を理解しているのだろうかと心配になるのです。

 

ワクチンより治療薬を

 

では、新型コロナの対策を諦めなければいけないのかと言われれば、そうではありません。私は、当面ワクチン開発よりも、「治療薬」のほうに期待すべきだと考えています。「既存薬」の中には、すでに効果が報告されているものもあり、治験を進めれば、新型コロナに有効な薬が見つかる可能性はあります。

 

例えば、国産薬として注目されている「アビガン」は、抗インフルエンザ薬としてすでに承認された薬で、どういう人に副作用があるかもわかっています。

 

コロナに使う場合には、「適応外使用」にあたるので、保険が適用されませんが、それでも患者さんが希望すれば、医師の裁量で投与できる。こういった薬を使わない手はありません。

 

ただ、治療薬の保険適用には、ワクチン開発と同じく比較試験の壁が立ちはだかります。アビガンについても、大学病院で比較試験が進められていますが、症状の改善が見られる中で、投与しない対照群の充分なデータを蓄積できていません。安倍首相も当初「5月中にもアビガンを承認」と希望的観測を述べていたものの、遅れが出ているというのが現実でしょう。

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本庶佑教授のお話は日本のワクチン開発に関してです。しかし現在日本ではワクチンは出来ていません。

 

ただかなり前倒しで日本でも開発をしようという話は聞いています。しかし、個人的にはむしろ、安全性を旦保するためには、遅れても良いと思いますね。アビガンについてはもしかしたら、年内にも使用が認められるかもしれないそうです。

 

では今ある外国製のワクチンが安全かといえば、実際これは分からないわけです。人類初のmRANワクチンの開発を、大した治験も行わずに、人間に接種するというのは、最近よくいわれますが、本当の人間を使った「人体実験」であるといっても良いようなことです。

 

今後何かしら被害が出ても、そう簡単に副作用がワクチンにあることを、製薬会社が認めるとは思えません。

 

本庶佑教授はこの発言をしている時点で、ワクチンよりもアビガン(当時話題になっていました)などの治療薬で対処する方が良いといっています。ワクチンでもコロナが無くなるとは思えません。コロナと共存しながら、治療薬を開発していく方が安全性などを考えても理にかなっている気がします(手に入る治療薬ではイベルメクチンが効くのではないかといわれています)。

 

そういう意味ではワクチンでさえ、一時しのぎのためのものでしかありません。インフルエンザウィルスでさえワクチンがあるのに撲滅できていません。RNAウィルスは変異しやすく、撲滅は無理だろうといわれているようです。地球上から撲滅したといわれている天然痘などはDNAウィルスで変異が少ないそうです。

 

コロナウィルスとは我々はやむを得ず共存するしかないと思います。その際、薬で体を壊しても意味がないのですから、安全性を確認した治療薬を使いながら普段通りの生活が本当にできないのか、政府なり、専門家なりがちゃんと調べてから数年後のワクチン開発を目指すというのはまだ分かります。確かにコロナは異常事態とはいえ、「国民全体にワクチンを打とう」というような、今ある性急さもまた異常のように見えます。

 

マスコミについてもコロナを不安を煽るような報道ではなく、ワクチン自体の内容(遺伝子に変化が出るかもしれないというような可能性など)にももっと時間を割いて、各個人がちゃんと考えて後悔なくワクチンを「打つ打たない」、という選択肢を作るようにすべきではないかと思います。最近のマスコミは個人の権利を守るといいながら、自分たちの好きなように世論誘導をしており、偽善的としかいえません。

 

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<政治の怠慢ではないのか?>

 

ここから先はあくまで個人的な感想にもなりますが、コロナウィルスに対して一発逆転のワクチンという発想自体、ちょっと怖いものがあります。実際今あるアビガンやイベルメクチンという薬なら、副作用も分かっているわけですし、安全性の確認もやり易いと思います。

 

どうしてこういう方向性をもっと追及できないのかなあ、というのは個人的な疑問です。

 

日本でのコロナ死亡者は海外ほど多くはありませんし、海外と他のやりようがあると思うのです。日本独自のやり方でやって良いと思います。しかし、政治家はなぜか不思議なぐらい、コロナ発生以来、「ワクチン」一本槍の発言が多かったように思います(世界的に見ても)。どうしたって利権がらみではないかと思ってしまいます。国内についていうのなら、もっと初めから、渡航者の制限、治療薬の活用などを同時に行っていれば、今あるような危険とも思われるワクチン接種などする必要はなかったのではなかったのか、というのが自分の本音です。

また緊急事態宣言が発出されるんですね。ここ数年見てきて、個人的に日本政府をあまり信用できなくなってきているので、結局こんなんか、みたいな感じです。別にクーデターしろとか、政府転覆しろとか、そういうことをいいたいわけでもないですけど、今の政府を信じていたら、そのうち全員身ぐるみはがされそうで怖いと思いますけどね。政府自体が、何だかふわっとしてますよ。まともじゃないです(お前がいうな、っていうところでしょうか(;^ω^))。

 

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今日は、いわゆる「陰謀論」のシリーズです。

 

少し前にも書きましたが、自分は世間で「陰謀論」といわれるものを追っています。陰謀論の基本はまだ、「トランプ路線」になることが多いですね。

 

書いても信じてもらえないような話ばかりですね。ブログで細かいところまで書くのは難しいです。実際「公の証拠」など未だに何もなく・・・ということなので。

 

大統領選後、いわれてきていたのは、前トランプ大統領のチームが軍隊などを動かし、極秘作戦で、さらわれた子供たちを救い出し、時にそれに加担した有名人などを逮捕しているという話です。「陰謀論」など信じていない人にとってみては「なんじゃそら」の世界です。細かい話は面倒なので、興味がある人は自分で調べてみてほしいと思います。・・・すいません、丸投げでございます(;^ω^)。

 

その辺の話で最近1番面白かったのが、前トランプ大統領をずっと擁護してきた、リン・ウッド弁護士のテレビ番組(HBO)でのスピーチです。公の場において、これほどピザゲートや悪魔崇拝についてはっきりと発言した例は今までにはないのでは?という感じがしました。

 

彼はスピーチの中で非常にはっきりと次のようにっています。「イルミナティ」とも非常にはっきりといい切っています。

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<私を脅しても、私は語り続ける。彼らは私を「Qアノン陰謀論者」と非難した。何故だか分かるかい? 彼らは私を「嘘つき」にしたいんだ。

彼らは私を攻撃する。彼らはQを攻撃できない。何故ならQこそが真実だからだ。これは子供たちの命に関わることなんだ。

このビデオを送りつけてやれ。ハリウッドに送ってやれ。ビルゲイツやイルミナティの奴らにも送りつけてやれ。

彼らに真実を聞かせてやれ。彼らが私にしたこともだ。私は奴らのことなんて、これっぽっちも恐れはしない。

バチカンに送りつけてやれ。

政治家の奴らにもだ。クリントン、オバマ、バイデン、ブッシュ、奴らに送りつけてやれ。

奴らが子供の性的人身売買の黒幕だ。

アメリカに真実をもたらす時が来たんだ。>

 

ビル・ゲイツ、イルミナティ、クリントン、オバマ、バイデン、ブッシュ、ローマ法王庁、ウィンザー城(イギリス王室)を名指しで非難しています。

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一部ですが以下のような感じです。

 

 

↑、ローマ教皇がすでに捕まっている、という話がずいぶん前から出回っていますが、個人的には確かめようがないです(;^ω^)当たり前か。正直良く分からないところ。しかし、リン・ウッド氏の発言は、その辺踏まえているのかな、という感じですね。

 

余談ですが、陰謀論を信じている人の中には出てくる情報に何でも飛びついてどんどん書いてくる人もいますけど、ああいうのは良く分かりませんね。そういう人に限って、「陰謀論」を信じない人は「自頭」で考えてない、とかっていうんですね。しかしお互い様じゃないのかね?って思いますけどね。結局我々は2次情報以上で知るしかないもんなあ。確かに推論で書くしかないんですけども。

 

・・・まあ、自分も人のことはいえないかもなんですけどね(;^ω^)。同じ穴のムジナ。

 

しかし、現場で見てきているわけじゃあるまいし・・・前のめりすぎんかって感じです。正直苦手だと思うことが多いです。

 

 

↑、子供を拷問し、殺し、食する。悪魔の所業とでもいうべきことを、有名人らがしてきたことを示唆しています(ピザゲート)。それを暴露することによって、人類が覚醒するといいたいらしいです。

 

 

↑、彼らには「死刑」しかないといっています。しかし今回この番組を観ていて、もしかしたらトランプの精神的バックはシェア・インターナショナルのマイトレーヤかもしれないという気がして、仕方ないんですけどね。違うかなあ・・・?

 

どのみち、必要なことなら「善」とか「悪」などと問わず起こるんでしょうけども。自然法則は本来フレキシブルなものだと思います。

 

日本のやりすぎ都市伝説みたいなおちゃらけた感じでなくて、真剣なんですね。さて、どうなっていくのでしょうか。

運動不足解消のためにウォーキングをしています。以前は市民ジムで水泳をしていましたが、同じところをグルグル回るのが苦痛で、最近はウォーキングに変更しました。
 
昨日はウォーキングのために埼玉県の森林公園に行ってきました。
 

 
東武線の森林公園駅からバスで15分ぐらいです。本当に森しかない公園です。とにかく広くて、一日歩いていても全部回れるかどうか分かりません。
 
 
 
丁度春の花が咲く頃合いで、沢山の人が訪れていました。上はネモフィラの花。
 
 
一番沢山咲いていたのがアイランドポピーでした(下)。
 
 
 
一日歩いて、かなりの距離を徒歩で移動したつもりでいましたが、せいぜい8キロ強。歩数は2万6千歩でした。でも疲れました。
 
 
ジネット・ヌヴ―のレコードの音を入れてみたので、改めて書いてみようかと思います。
 
どんな人が死に、どんな人が生き残るかなんて本当に分かりません。人間肩書や収入なんかは、必ずしも問題ではありませんね。本当に色々思うところがあります。人の記憶に残ることをなした人は、身分に関わらず、尊敬に値します。人の心を動かす力のある人たちです。私たちはその思いを胸に刻んで、生きていきます。バトンをつながれた、ということです。
 

 
ジネット・ヌヴ―による「シベリウス・ヴァイオリン協奏曲」(1945)。
 
GRー2084。
 
 
国内盤です。
 
「テンペラメント」という言葉があります。クラシック演奏の評論ときによく出てくる言葉です。英語で「気質」という意味があるようですが、音楽評論の場合「情熱がある」ときを指します。
 
ヴァイオリニストの場合、「情熱的な演奏」という言葉を聞いて、一番頭に浮かぶのはフランス人の女流ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴーです。
 
彼女の演奏するヴァイオリンの音色には、非常に強い熱が加わわります。初めて聴いたときはとても驚いたのですが、今でもこういう音を出す人を、自分は彼女以外、誰も知りません。命の炎がゆらめくようです。近代の、楽譜を丁寧に演奏する方法では、こういうタイプの人は非常に出にくいと思います。確かにミス無く弾くととても綺麗なんですが、綺麗な表現にとどまることが多いですね。
 
 
ターラのLPからブラームスを聴きます。
 
TALTLP001ー002。
 
 
ブラームスの協奏曲(1948)はヌヴ―の音が遠いので、ソナタを(1949)。
 
 
↑、音色に濃い密な感情が乗っているのが分かります。伴奏は兄のジャン=ポール・ヌヴ―。(息をするような音が入ってますが、LPに収録されているものです。)
 
テレビ番組でピアノ演奏を競わせて、ミスを数える番組がありましたが、本当に下らないと思ったものでした。
 
正確に弾くのは大事だけど、そこが最大の目標ではないんですね。別の目標があるのなら、一定のレベルの演奏家ならば、「間違いもまた尊い」というところ。独創性があると芸術は面白いと思います。
 
ジネット・ヌヴ―(1919-1949)は1949年10月28日、伴奏者の兄ジャンと共に乗った航空機が、ポルトガル領のアゾレス諸島に墜落し、その生涯を終えました。たった30年の生涯です。
 
同じフランス人のヴァイオリニスト、ジャック・ティボーなどと同じく、悲劇です(ティボーは日本に向かうエール・フランスに乗り込みましたが、墜落)。
 
ヌヴ―を聴けば分かりますが、録音が残っている女流ヴァイオリニストとして、彼女がもっと長く生きられたのなら、多分他の演奏者の追随を許さない存在になっていたことは容易に想像がつきます。
 
 
<ジョルジュ・エネスコに注目され弟子入りを許された。11歳でパリ音楽院のジョール・ブシュリノのクラスに入学。その後、ナディア・ブーランジェの下で勉強を続け、1933年にロンドンに行くとカール・フレッシュの門下で4年間の研鑽を積む。「あなたは天から与えられた才能の持ち主だ。私はその才能をいじる気は毛頭ない。あれこれ技術的な助言をするにとどめておこう」とフレッシュは言った。>(「偉大なるヴァイオリニストたち」ジャン・ミシェル=モルク著、藤本優子訳)
 
一言でいえば、生まれた時から特別な才能を持っていた、「天才」であったわけです。フルトヴェングラーやC・クライバーのように。
 
30年間の生涯で、わずかしか録音は残っていませんが、その中の1つ、シベリウスのヴァイオリン協奏曲は聴き手に心から離れない印象を残すと思います。
 
 
 
↑、シベリウスのヴァイオリン協奏曲は第1楽章の中間部にカデンツァ(ヴァイオリン独奏部)があります。そこでのヌヴ―の表現は他人の追随を許さないでしょう。現代の楽譜に忠実な演奏は保守的で、受け身の表現となりがちですが、ヌヴ―は違います。強い情熱(パブロ・カザルスはヌヴ―の情熱を「聖なる狂気」と呼びました)で、体当たりでもするかのように弾き切っています。これほど生命力を感じさせる演奏はめったにありません。
 
こういうのを聴くと、彼女の夭折は「命の尊さ」という言葉の意味、そのものさえも感じさせます。