トスカニーニによる「オテロ」(1947)。
LM6107-1~6107-2。
「オテロ」はヴェルディの最高傑作といわれている作品で、彼のそれまでの熟練されたオペラ作曲家としての技量と、より革新的なものを追求した作品となっています。
この作品において、ジュゼッペ・ヴェルディの作品としては音楽と歌が、以前よりも緊密に結びつくことにより、緊張感のある1個の有機体として、彼の歌劇の頂点を極めます。台本もシェイクスピアを原作とし、アリゴ・ボイトが手掛けたことによって、程度が高いものになりました。
音楽も、見方によっては「ワーグナーの音楽と詩の統一」という考えに近づいたとも思え、歌劇というよりも一遍の音楽劇として見たほうが良いのかもしれません。各場面の音楽も創意工夫があり、聴いていて飽きません(劇の内容は中々恐ろしいので、全てを聴くのには、若干勇気がいりますが( ;´꒳`;))。
しかしこれはワーグナーの作品ではないわけで、間延びする音楽空間ではなく、きりっとした造形で緊張感を持って演奏する方が良いと思います。特にキビキビした統率力のある指揮者がこの曲を振ると、素晴らしい効果を発揮します。
カラヤンやトスカニーニの演奏を聴くと、この音楽は彼らのために書かれたのではないか、と思わせるものがあり、特にトスカニーニの演奏はこの曲の古典的模範といっても差し支えないでしょう。ちなみにトスカニーニはこの「オテロ」初演時に、オーケストラのチェロ奏者として参加しています。現場では73歳のジュゼッペ・ヴェルディが直接監修に当たっていました。
↑、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)。イタリアのオペラ王。ドイツのワーグナー、イタリアのヴェルディが、おそらくオペラ作曲家の最高峰です。
『≪オテロ≫のリハーサルの時だった。第一幕のオテロとデズデモナの愛の二重奏はチェロの四重奏によって導かれるが、そこでヴェルディが「第二チェロ!」と声を上げた。名指しされたトスカニーニは驚いた。老巨匠は若き第二チェロ奏者に言った。「君の音は柔らかすぎる。もっと大きく弾きなさい」。楽譜にはピアノと書かれていたが、ヴェルディはもっとはっきりした音を欲していたのだ。あるいは、実際の劇場では大きめに弾くべきだと教えたのかもしれない。このヴェルディとの直接のコンタクトは、トスカニーニに強烈な印象を残した。ヨーロッパ音楽界が大注目する≪オテロ≫の世界初演は、1887年2月5日、フランコ・ファッチョの指揮、フランチェスコ・タマ―ニョのタイトル・ロールによって盛大に行われたのであった。』(「トスカニーニ・大指揮者の生涯と時代」、山田治生著。)
トスカニーニの芸風と曲調の一致、と同時に初演時のヴェルディの指示などを見ていたこの大指揮者にとって、そのことは演奏時に強みともいえますし、実際、「オテロ」は彼にうってつけの音楽だといえます。
↑、冒頭の嵐シーンから一部切り抜き。ヴェネツィアの軍人でムーア人(黒人、あるいはアラブ人ともいわれる)であるオテロがトルコ艦隊を撃破して帰還するシーン。嵐のなか、民衆がムーア人を偉大なる英雄として迎えます。嵐の強烈さは自然の嵐の強烈さなのか、民衆がオテロを迎える熱烈さなのか、分からないような雰囲気があります。ヴェルディは、この冒頭の強烈なシーンで、聴いている人々を熱狂的に歌劇の中に引きずり込むと、切れ目ない音楽をドラマティックに展開させます。その展開の自然な流れはワーグナーの影響が大きい、といっても過言ではないでしょう。
「オテロ」はイヤーゴの奸計によって、妻の貞操を疑い殺害、騙されていたオテロ自身も後を追うという悲劇的オペラです。
このオペラは天才指揮者、C・クライバーの十八番の1つで、1976年のスカラ座のライヴが映像に残っています(非常に力強い舞台です)。音はモノラル、映像も鈍いですが、興味ある人は一度観てみる価値があると思います。↓、リンクです。

レナート・チェリーニの指揮する「イル・トロヴァトーレ」(1952)。
ALP1112-1113。
ヴェルディのオペラで、音源だけ聴いていても面白い作品の1つです。「アイーダ」などを音源だけで聴くのは中々大変ですが、「オテロ」や「トロヴァトーレ」などは音だけを聴いていても、面白いです。
しかし、この作品については昔、自分もブログに書きましたが・・・台本がひどく、その辺の理解が大変ではあります。
「普通、≪イル・トロヴァトーレ≫は台本が常軌を逸しており、しかも、肝心なのは歌のパフォーマンスのみであるため、(台本のほうは)重要性に乏しいオペラの典型とみなされている。」(「オペラティック」、ミシェル・レリス著、大原宣久、三枝大修訳。)
しかしなぜ、このような台本にヴェルディが音楽をつけたのかといえば、登場する主要人物4人レオノーラ(S)、マンリーコ(T)、ルーナ伯爵(Br)、アズチェーナ(MS)に熱い歌がつけられるからであり(バスのフェルランドを加えれば5人分となる)、その歌の競演こそが実に歌劇的だから、といえると思います。
それゆえ、演奏は良い歌手をそろえることが必須で、指揮も「オテロ」のように指揮主体でなく、歌手にのびのびと歌を歌わせてこそ威力を発揮する作品といえます。
「≪トロヴァトーレ≫については、作劇法の上では失敗作だが数多くの<美しいシーン>があり、その音楽的成果だけは見るべきものがある、という意見が一般に定着している。
・・・(中略)・・・
ヴェルディのオペラの中で、たぶん音楽面では一番人気のこのオペラほど、強烈な自己表現力で歌のエネルギーを噴出し、声帯をこれでもかと震わせて力を誇示する傾向の強いオペラは、まずない。作曲家ヴェルディが、歌の力を借りてこのオペラを、<展開>したことは疑いなく、ここで彼はメロディの発想力の頂点に立って、古典的な5つの声域(ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バス、バリトン)にとってこの上なく魅力的でほとんど理想的ともいえる、ベルカント唱法のパートを造り出している。」
とはドイツの批評家、アッティラ・チャンパイの言葉です(「トロヴァトーレ」、アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント著、岡美和子訳)。彼は続けてこういいます。
「<若い>世代の多くの指揮者たち、つまり2つの世界大戦の後1960年以降に活動を始め、迷いなく<美の美学>を追求している世代の指揮者たちは、(古い主観的な歌唱法に対して)根強い不安感を持っており、それが歌手たちの勝手気ままな自己表現の傾向を、ヴェルディのオペラの本質的特徴として見のがす結果になっている。そのためベルカント唱法は久しく新味をなくし、心ならずもパロディ化して、声の露出狂のごとくになってしまった。オペラの新たな上演場所として、ますます定着しつつあるレコード・スタジオが、大戦後の急激なベルカント唱法の衰えに拍車をかけたのは、まぎれもない事実である。スタジオでは美的条件が変わったために、生き生きと舞台ばえするものをやるより、むしろ過去現在も1音1音を正確に仕上げることを一番の原則としてより新しいリアルな(<ハイ・ファイ>)音の理想を追求するようになったからだ。これがけっきょく、声の雰囲気を奪う作用をもたらしたことは、疑う余地がない。
・・・(中略)・・・
この新しいステレオ録音(1962年頃始まった)では、歌手の虚栄心と無能力、内容の乏しいただののど自慢、音楽的無知を示す、聴くに耐えない実例の数々があげられる。」
以上の批評は自分にいわせればほとんど完璧な内容で、書いてある通りだと思います。非常に的確な文章です。
一応・・・自分の書いた過去記事です↓(今読むとひどい文章で、相当に恥ずかしいですが・・・(;^ω^)・・・一応リンク作りました。1と2に分かれています。トロヴァトーレについては主にマリア・カラスの録音についてです)。
さて前置きが長くなりましたが、今回聴いた「トロヴァトーレ」の録音はモノラル時代の名盤といわれた録音です(他には1957年のプレヴィターリ、1961年のファブリティースが良いといいますが、自分まだ未聴)。
ユッシ・ビョルリング、ジンカ・ミラノフ、レナード・ウォーレンなどの名歌手を集めて、皆が大変に生きの良い歌唱を聴かせてくれます。歌手については、この盤に敵するものはないといわれているようです。わけてもユッシ・ビョルリングが素晴らしく、ムラのない柔らかい美声は奇跡ともいえましょう。
↑、ユッシ・ビョルリング。20世紀最大のマンリーコ役の1人。「彼は嘆きの歌の美しさを、自在に表現できる―――それは≪トロヴァトーレ≫歌手にとって、理想的な条件である―――最後のテノールの一人である。」(「トロヴァトーレ」、アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント著、岡美和子訳)。
ビョルリングはボエームのロドルフォや、カヴァレリア・ルスティカーナのトリッドウなんかも本当に素晴らしいです。自分が非常に好きな歌手の1人です。
↑、CDなどにあまり復刻されてないモノラル録音ですが、レコードで聴く限り音質も良いし、何より歌手たちが素晴らしいです。ミラノフなども良く声が出ています。
第3幕のラスト、自分の母アズチェーナが火刑にされるのを聞き、助けようとする、その決意をマンリーコが歌います。ここではビョルリングの声を中心に入れてみました。声に張りがあり、のびのびとしていますが、決して硬くならず柔軟性があります。近頃こういう歌手はいなくなりました。
トロヴァトーレは各主役歌手たちが、それぞれ歌でもって自己を強く主張するために、「歌による戦い」のような様を示します。そこがこの作品の面白い部分で、聴きどころだと思います(*^^*)。




