いつもよりも、かなり難しい文章になってしまうことをお許し下さい。
「鬼滅の刃」のファンとして、この物語が、ただの娯楽ではないと思うに至ったことをここに書いてみたいと思います。
一番最初に友人に勧められて「鬼滅の刃」を動画で一気見した時、この作者は絶対に
<年配の人>だと思いました。
あまりに様々な設定が、日本の歴史、哲学、民俗学、宗教学を把握しているよに思えたからです。
そして、そんな分析したい気持ちは、お話を追うごとにどこかにすっ飛んでいってしまいました。
コロナ禍のこのタイミングで、この<鬼滅>が終わり、社会現象となって世界中を巻き込むことまで作者は計算していたのかもしれないとまで思います。
それを想像しただけで、全身の身の毛が逆立つ感動と言えるか、神の声に触れた畏怖の念で一杯になります。
今は、作者の意図でなく「天の意図」であると確信しています。
特筆すべきは、「鬼」との戦いの話でありながら、それは「自分を愛せ」と言う、深い深い究極の天の声を表現している点です。
根底に流れる「愛」の表現は、禰豆子を思う兄妹愛に代表されるような単純なものだけでなく、複雑な形の愛が沢山描かれています。
そして、「<己>を愛することは、すなわち<他>を愛することである」。
そして、<柱>達がお互いを支え繋がってきたように、我々に繋がって困難を克服しようと言うメッセージも描かれています。
「言霊」をご存知でしょうか?
口に出して音にしたことが、音そのものに魂が宿り、呪文のように現象を捉えていくことです。
また文字には、古来から、ただの記号でなく、深い思いや言霊と同様に「呪」と言う縛りがあるものもあります。
空海の持って帰ってきた「密教」は、まさにこの、最たるものでした。
仏教でありながら、秘密の教義であるそれは、まさに「呪」(しゅ)の世界であります。
人気の陰陽師・安倍晴明も、ものの名前や言葉に対して「呪」(しゅ)をかけていた名手でもあることは、皆さんよくご存知であると思います。
それは大多数の人が考える、わゆる「のろい」というのとは違います。
「制限」或いは「理(ことわり)」「方程式」「規則性」「思い込み」など、適切な言葉が思い浮かびませんが、とてもニュートラルな意味に捉えてください。
「鬼滅の刃」の登場人物は、どのキャラクターも難しい漢字の名を持っています。
そこに、作者のこだわりや思いが乗っていると思います。
そして、その特徴は、そのキャラクターの性質にまで及んでいます。
例えば「禰豆子」ですが、「禰」の字はそもそも「ねぐ」という古語から来る「祈る」という意味です。
「祈る」というはずなのに、なんと口には竹の筒をくわえ、祈るどころか人間の言葉も奪い取られてしまっています。
「禰」の左側には「しめすへん」がありますが、これはもともと「示」と書き、「神の詔」を招き下ろす祭壇の形から来ています。
「豆」は、本来コメと並んで神聖な食べ物とされてきたものです。
節分で撒くのが豆であるのは、その謂れからです。
まさに、「鬼」に対して「豆」であるわけです。
そして、禰豆子は自分自身が鬼でもあります。
祈りを捧げるはずの口を封じられ、自身が鬼となり自分の名前(豆)が自分を封じる結果となりました。
何重にも重ねられた「呪」でありますね。
さらにまだあります。
「ね」は十二支の「子」。
時刻で言えば真夜中。
すなわち翌日に切り替わるその刹那を指します。
正確には、23時から翌日の1時までの2時間を指します。
その次の時刻は「丑」→「寅」と続きますが、丑寅の時間は、「丑三つ時」と言われるように、あの世と、この世の繋がる時間とされています。
そして、その後<明け六つ>の「卯」で夜が明けます。
この十二支を方角に充てた場合、「丑寅」の方角はいわゆる「鬼門」と言われ、昔から日本では、土地、建物など、この方角を封じることが大事とされています。
桃太郎の「鬼」のイメージは、角が生えて、虎の皮のパンツを履いています。
「牛」(丑)と「虎」(寅)だからです。
まさに、鬼の隣でまだ鬼に完全になっていない手前の「子」(ね)。
なので、禰豆子は、「ね」の音から始まる名前でなければならなかったのではないでしょうか?
次に「鬼舞辻無惨」です。
「鬼が舞う」は、まさにその通りと思います。
「辻」ですが(ごめんなさい、漢字が変換できないので違っています)、交差点のことを「辻」と言います。
昔は、「十字路には鬼が住む」と思われていました。
道が交差するところ、或いは橋のタモトなど、どこかとどこかを繋ぐ所も同様です。
「お前は橋のたもとから拾ってきた子だ」と言われたという経験をお持ちの方も多いと思います。
「実の子で無い子」を、昔は<鬼っ子>とも言いました。
ですので、<橋>や<辻>と<鬼>も縁のある言葉でもあります。
何かの流れが変わる瞬間や切れ目に、見えないけれど異界と、この世界が繋がる<時>や、<空間>があると思われていました。
なので、時代劇などに出てくる「辻斬り」(つじぎり)というのも、交差点で斬られたわけではなく、犯人が分からない状態で斬られてしまった(=鬼に殺された)事を指します。
鬼舞辻・・・鬼が舞う交差点は、まさにその通りのことです。
そして、一般的に「無惨」という言葉ですが、これは仏教用語から来ています。
仏教では「無」が多く出てきます。
お馴染みの「般若心経」では21回「無」が出てきます。
そもそも、この世は「無」だから仕方がありません。
肝心の「無惨」ですが、本来は「無慙」と書きます。
意味は、「罪を犯しても恥じることのないこと」という意味です。
同じ「ざん」と言う音を使った、「懺悔」(ざんげ)という言葉があります。
仏教では、「サンゲ」と発音します。
もともと、仏教用語はサンスクリット語を漢訳(漢字を無理やりあてている)しているので、「ざん」の漢字は違いますが、同じニュアンスのようです。
宗教的な「懺悔」は、一般的な意味と同様、仏様や神様の前で自分の過去の行いを反省するわけです。
登場キャラクターの多くは、自分の過去の行いを何かしら悔いていることが描かれています。
また、それが今の生き方のきっかけや、エネルギーだったりします。
こと、鬼に関しては、鬼になった悲しい過去、過酷な環境があったことが描かれています。
柱たちとの大きな差は、「受け入れようとしている」か、「言い訳をしているか」ですよね。
山伏達が山で修行をする時、声に出していう言葉があります。
「サンゲ、サンゲ、ロッコンショウジョウ」(懺悔、懺悔、六根清浄)
六根とは、人の五感(視覚、嗅覚、触覚、味覚、聴覚)に、それらの感覚から生まれる「意識」を合わせた6つを指します。
まさに「全集中」です。
「清浄」は、読んで字のごとく、清らかにするという意味です。
ちなみに「六根清浄」は、「どっこいしょ」の語源です。
山伏がどうしてそれをずっと口にしながら修行するか、大自然の過酷な環境での修行は人知の越える世界です。
自然の前に自分の気持ちを清く保たないと、必ず「魔」の世界へ連れて行かれてしまうからでしょう。
「魔」すなわち「死」です。
天台宗の千日回峰行という過酷な修行があります。
千日の間、険しい山をお経を唱えながら疾走し、行をこなし、厳しい決まり事の中で過ごします。
この苦行を達成したお坊さんが、後に取材に答えていましたが、真っ暗な闇夜の中で山を走っていると、<異形のもの>が寄ってくることがあるというのです。
それは、まさに「鬼」では無いのでしょうか?
主人公の炭次郎は嗅覚が異常に発達し、善逸は聴覚、伊之助は触覚が発達しています。
そして「全集中」。
それは、山伏の世界です。
柱の一人、悲鳴嶼行冥が、まさに行者です。
しかも、視覚が<無い>と言うのも特徴です。
また、柱たちと神様との関係を指摘する人もたくさんいらしゃいます。
元々神様を数える単位として「柱」を使いますので、まず「鬼」に対して「神」の意味なんだろうということは想像がつきます。
柱それぞれの出身地も山岳部が多く、いわゆる「詣出られていた」ような場所でもあります。
都内に出身を持つ柱も、それぞれ詣出られていたような場所が近くにあるような所です。
長くなりましたので、次に続きます。