来年(2026年)のNHK大河ドラマは、豊臣秀吉の弟、秀長が主人公の様です。
秀長の優秀さは良く語られる話で、弟がいなかったら秀吉は天下を取れなかったと分析する歴史家も何人もいるほどです。
そんな秀長は、隠れた築城の名手で、たくさんの土木専門家を育てた側面もある武将でもあります。
この間の熊本地震でも完全に崩れなかった熊本城の石垣を作った加藤清正も秀長公に育てられた築城の武将の一人です。
その育てられた武将の一人が、藤堂高虎(写真)です。
藤堂高虎は、転々と主君を変えた武将としても有名で、本人が飽きっぽかったわけではなく、一言「不運の武将」とも言えるのではないでしょうか?
その藤堂高虎が、慕っていたのが秀長公だったようですが、この秀長公も52歳の道半ばで病死してしまいます。(毒殺説あり)
高虎は結局、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄(津田信澄)、豊臣秀長、豊臣秀保、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光まで、7家11代の主君に仕えたとされています。
藤堂高虎の居城であった津城は、もともと織田信長の弟がその礎を作り、江戸時代になって高虎によって近代城郭として整備されます。
石垣のラインの綺麗さは、小さいながらも品格があります。
この「お城」といえばの「石垣」ですが、「石垣」といえば「穴太衆(あのうしゅう)」。
熊本城の改修にもこの「穴太衆」が招集されました。
滋賀県の粟田建設がその技術の遺伝子を継承(15代目)しているそうです。
穴太衆が世に知られたのは、かの信長の居城、安土城の築城の折からです。
室町時代の末期、延暦寺の土木営繕を担っていたのが穴太衆で、信長が安土に築城を始めた時に、その石垣の普請に駆り出されました。
大津坂本を拠点として活動していたのが穴太衆でした。
今は幻の安土城ですが、遺構から再現されたCGや図面を見る限り、登城する石段の組み方がとても独特で、しかも綺麗なことに驚愕します。
以前にその話もブログに書いているので、過去ログを追ってみてください。
さて、なぜこの穴太衆が坂本にいたか?
昔、「仁徳天皇陵」と言われてた「百舌鳥箸墓古墳群」は、なんで作られたかという話に通じますが、諸説あるものの、私はそれが「灌漑施設整備の残土処理だった」説が一番好きです。
もともと湿地だった大阪平野の河川を整備し、用水路や川をしっかり作ることで土地利用の範囲を広げたと言われる、大工事を可能にしたのが、当時大量に日本に入ってきた渡来人だったということです。
その規模は、2000人以上という、当時の人口を考えたら果てしもない数だと言われています。
それだって、入ってきた人たちの一部が大阪近辺にいるわけで、全国としては考えたら、もっと入ってきたと思われます。
なぜそんなに大量に?と思いますが、時は韓国がまだ三つに分かれていた時代、三ヶ国の間での戦いで敗れた国民と王家が日本に亡命してきていたという説があります。
その王家の一部が北九州や中国地方などの瀬戸内周辺、琵琶湖周辺に周辺に住っていた様です。
天皇家もだいたい神武天皇から12代は奈良地方に居住していますが、その後北上し琵琶湖周辺に移ります(近江国滋賀郡)。
古代の人たちの移動は、私たちが想像するよりもはるかに活発で、江戸時代の飛脚は3日で江戸から大阪まで手紙を運んでいた様です。
ある意味、今と同じか早いくらい。
古代人の人骨を解析している研究家が、今まで出土した骨の遺伝子を解析した結果、弥生時代の始まりの頃、それまで徐々に入ってきていた渡来人は一気に膨れ上がり、全人口の6割超の割合を占める外国人が入ってきていた様です。
そのため、言葉の齟齬が起きたために、中央政府が共通語を定めた様な記録が残っているそうです。
それが、ホツマツタエの始まりなのではないでしょうか?
さて、穴太衆もそういった渡来の技術者集団の一つだということは周知の事実ですが、何度も日本には大量に移民のある時期がある様です。
その度に、新しい技術や珍しいものが入ってきていました。
そして、そのたびに多少なりとも争いが起きています。
国内の勢力争いにおける紛争の根源は、そういった種族の違いからくるものが多いと感じています。
当時の人たちは、姿形は似ていたのに何でお互いの種族を見分けていたかといえば、苗字や家紋などに現れる出身地にそのルーツを見極め、手を組んだり争ったりしていたと想像します。
豊臣秀吉の父親は、「木下弥右衛門」とも、別に「竹阿弥」という人物とも言われ、それが弟の秀長と異父兄弟と言われる所以です。
ですが、「弥右衛門」が「竹阿弥」に改名したのが正解ではないかと私は思います。
この「竹阿弥」ですが、「阿弥」という僧に付けられるとされる文字が入っている人たちを「阿弥衆」と言います。
別名「同朋衆」とも言われ、元々は将軍などの側近として仕え、身の回りの雑務、芸能、作庭、美術品鑑定などを担当していました。
この同朋衆は、後の時代に慣習として引き継がれています。
例えば、身の回りの雑務は江戸城の「茶坊主」、作庭は「お庭番」、「美術品鑑定」は茶道に繋がり利休が武士の中で活躍していました。そして「芸能」は正に能や狂言のお抱え。
これらに共通している裏の仕事は「諜報活動」です。
そして、必ず宗教家(僧、修験道、御師、神職)としての側面を持つのも特徴です。
なぜなら、彼らはどこへ移動してもおかしくないからです。
ついでに言うと、織田信長の出自は福井県越前町の劔神社と言われています。
そして、前出の神功皇后の出征の時代(三韓征伐)、この神社の神官が織田信長の祖先であったと言い伝えられています。
ここのご祭神は素戔嗚命であります。
劔神社御由緒(神社サイトより)
当社の鎮座地である越前町織田は、織田信長公の祖先の故郷です。越前町織田荘の荘官として、また越前国二の宮劔神社の神官として神社に仕えてきた由緒ある家柄でした。
応永年間(1394〜1427)、神官の子に常昌という立派な人物がいましたが、時の越前の守護斯波氏にその才能を見出され、家臣として取り立てられて、尾張の国に派遣されました。苗字は故郷の地名をとって織田を名乗るようになりました。
織田氏は尾張で次第に勢力を伸ばし、守護代を勤めるまでになりました。信長公の時には尾張一円を掌握し、更に日本全国に雄飛するまでになりました。
信長公は戦国の乱世にあっても、劔神社を氏神として深く尊崇し、武運を祈ると共に、多くの神領を寄進し社殿を造立するなど、劔神社の保護と治安に尽くしています。
天正十年(1582)、信長公は本能寺の変であえない最期を遂げ、天下統一の夢は消えましたが、織田の人々は信長公の功績と威徳を偲び、御霊を境内の小松建勲神社に合祀しました。
ちなみに織田氏の家紋は「織田木瓜紋(五つ木瓜紋)」ですが、当社の神紋も同じ紋章であり、昔から深いつながりがあることを示しています。
話を戻します。
秀吉の父がお役目をしていた、この同朋衆は1866年に廃止になりますが、1183年に僧の俊乗房重源が治承4年(1180年)に東大寺が焼き討ちにあって焼失し、その勧進のために貴賤を問わず「阿弥」の号を付与しました。
そのため室町時代には、武士や、農民など様々な職種の人たちが「阿弥」を名乗ることができました。
要は、「誰でもいいから東大寺のためにお金を集める係をやってくれ」ということです。
「貴賤を問わず」というところが大事で、秀吉の父親は「サンカ」だったという話を聞いたことがありますが、そうなれば話はつながります。
「サンカ」について話すと長くなりますが、山の中で生活する住所を持たない民族で、昭和までいたとされています。
この話は深いのでまたいずれ。
Wikiによる「竹阿弥」については以下の通り
『祖父物語』では「竹アミ」は「信長の同朋衆、尾州ハサマ村の人」[3]、『諸系譜』では「春日井郡迫間村[4]人、織田備後守信秀ノ同朋衆タリ、後中村ニ住シ、お仲、入聟トナル」とある[5]。『太閤素生記』では、下記のように、竹阿弥は(木下弥右衛門と同じく)尾張国中村(中々村)[6]生まれで、織田信秀の同朋衆であったとし、病気で職を辞して故郷に退いていて、前夫と死別した仲と再婚し、入婿となったと書かれている。
話を戻すと、琵琶湖西岸は本当に渡来の色の濃い土地柄で、確実に半島出身者のものであると確認されている古墳が、いくつもわかっています。
その一つに、あの小野妹子の墓があります。
その後裔になる小野氏が管理していたのが東京の多摩地域から神奈川県川崎市にかけての一帶。
現在の聖蹟桜ヶ丘にある「小野神社」が武蔵国一宮です。
その小野氏の一つ「横山氏」が東京八王子の街の礎を作ったとされています。
横山神社は、東京都八王子市元横山町にある八幡八雲神社の境内社になっています。
話は、かなりそれましたが、その琵琶湖西岸、坂本辺りを拠点としていたのが穴太衆ということになります。
琵琶湖を挟んだちょうど反対あたりにあたる近江八幡近くに建設されたのが、安土城です。
八幡神社は、応神天皇、神功皇后を祀っています。
彼らも渡来人との縁が深く、神功皇后は三韓征伐と言って海を渡り半島へ攻めて行っています。
様々ないわくのあるこの三韓征伐ですが、参謀は武内宿禰ですが、この人の官位に棟梁乃臣というのがあります。
竹内宿禰しかもらっていない官位の様ですが、字面だけ見れば大工の棟梁なのか?と私は思います。
勝手な推測で、やはり渡来系の技術者の血筋と思えます。
戦国時代の築城が、日本の土木技術を向上させたと言ってもいいくらい、各地にたくさんのお城が築かれました。
戦は、水を確保することも大切で、そのための河川の工事や、井戸の掘削なども同様に発達しました。
そういう工事を請け負うのは、農民でもある一般の人です。
戦場や、築城に駆り出されることは、ある意味先端の技術に触れる機会でもあります。
また、農閑期の食い扶持にもなれば、農民は頑張って働くと思います。
そこで繋がったのが、「そろばんの歴史」でした。
全く関係なかったのですが、歴史を調べた年代が、この戦国時代にすっぽりはまり、なんとまた滋賀県にご縁があったことに気がついてしまったので、追記しておきます。
そもそもそろばんがどこで始まったかといえば、メソポタミアまで遡ります。
そのころは「砂そろばん」という玉のない代わりに砂を使うものでした。
その後エジプト王国、ギリシャ王国に移り、5カケル6の碁盤の線上に小さな石を置くものに変化したのが紀元前5世紀ごろ。
紀元後の2世紀あたりで中国に渡り、玉が溝にはまっている形のものが発展し、10世紀になって今の算盤の原型が出来上がります。
日本に渡ってきて、日本の和算に大きな影響を与えたとされるのが1299年。
ちょうど蒙古襲来くらいの時代です。
算盤の伝来とされているのが、1572年だそうです。
この年、日本ではあの有名な「三方原の戦い」がありました。
加賀の前田利家が、陣中で使った携帯そろばんが、縦7センチ、横13センチのもので、桁は銅でできていて、珠は獣の毛でできていたという記録が残っています。
そして、今の算盤の原型となる純国産の算盤が作られたのが、慶長17年(1612年)。
なんと、滋賀県の園城寺(通称三井寺)に大きな算盤の石碑があるそうです。
何度も園城寺さんには訪れていますが、あったかなあ??
元和8年(1622年)には、毛利重能が「割算書」という、最古の算盤の使い方を書いた本を出しました。
そうそう、なんで「算盤」を「そろばん」と読み下しなのか調べましたが、出てきません。
「さんばん」が訛ったんだろうという説が有力らしいですが、私はちょっと違うアイデアを思い浮かびました。
だって、「ん」はどうやっても「ろ」っていうのは大変なんだもん。
数の「十」を「そ」と読みます。
更にゼロを零(れい)と読みます。
十零「それい」盤が「そろ」ばんになったのではないでしょうか?
今は玉の数も違いますが、10新法の盤ですよね。
だったらそれでもいいんじゃないかと。(ダジャレ)
漢詩読み(音読み)は「さんばん」と言われていたのかもしれませんが、徐々に日常用語だった「それいばん」の方が勢力を広めて、「そろばん」になったのかもしれないという、MAO説を唱えてみました。
違うと思うけどね。
ということで、戦争の時代がこうした技術や知識が進化するのは今も昔も同じで、現代でも軍事技術が民間に降りてきて生活を潤しています。
今、こうやって使っているインターネットも最初は軍事技術でした。
それを知らない若い人が多いですよね。
私が初めてインターネットを引いた時、まだまだアップとダウンが分かれていて、電話回線をわざわざ繋いでピーヒョロピーヒョロと鳴る電子音を聞かされていた時代です。
プロバイダーは、一次プロバイダーからようやく民間に降りてきて企業以外でも使えるようになりました。
ついこの間の話なのに。
その前は、コンピューターは「電算機」と言われ、電産機室はクーラーがガンガンに効いていました。
そして、画面じゃなくて紙を吐き出していたんです。
穴の空いた紙をダダダダダダダって。
キーボードはないので、キーパンチャーっていう仕事の人が、紙に穴をあけてコンピュータに指示を与えます。
ゼロ、とイチの、穴がある・なしで計算する二進法なのは変わらないね。
あー、戦国時代の話でしたね、大きく逸れてしまいました。
すみません。
ということで、銀河の歴史がまた1ページ。
ではまた。

