東北関東大震災にあったお子さんたち
本日の読売朝刊記事で、
下校前の災害発生によって学校単位で避難することができた結果、震災孤児が数百人に上るもようとありました。
1995年の阪神淡路大震災時には68人のお子さんが孤児となられ、大半が親戚や知人の家庭の一員に迎えられたとのこと。
お子さんも、知る方にそばにいてもらえたことは、大変心強かったのではないかと思われます。
しかし、大人でも大変な避難所生活。
お子さんは適応力があるとの一面があるように思いますが、
津波から逃れる恐怖体験、追い討ちを掛ける原発事故、一番近い肉親をなくした悲しみ・不安や孤独、たびたびの移転先に適応するための緊張感、、、
お子さんたちは、出来事のすべてを小さな体の奥底に封じ込めていると考えられます。
阪神淡路大震災時に、被災されたお子さんたちを家族に迎えて下さった方が多数いらしたことは、本当に良かったと思います。
ただ、そのようなご家庭の方々のケアは、なされていたのでしょうか。
自ら、さまざまな事情を持つ里子を育てておられた津崎哲郎氏は、「ためし行動」は起こるものとおっしゃっています。
今回の震災のように、高度のストレスを体験されたお子さんも、意識のあるなしにかかわらず、自らの存在を確かめたいと、
里親さんを困らせる「ためし行動」が起こる可能性は大いにあろうと考えられます。
私のような一個人は、そのような調査ができる立場ではありませんが、
阪神淡路大震災でお子さんたちを育てられたご家庭に様子を伺う必要なないのだろうか?と思います。
もし、そのような困る状況がなければ、それは何よりですが、
もしあったとすれば、今回お子さんたちを引き取られる、より多くのご家庭の方に丸投げで放置してはならず、
そのようなケースの存在をお知らせし、ネットワークや公的なケアの体制を整えるべきです。
せっかくお子さんのつらい気持ちを少しでも和らげてあげたいと願うご家庭の方々が、行き詰ってしまうような状況を放置してはなりません。
生活の中に起こるさまざまな出来事や困ったことなどを一個人が溜め込むのではなく、共有し、心のうちを吐露できる方策が必要です。
それが、お子さんたちが安心して生活できる場を得る、大切な支援だと思います。
中野
大学院の役割とは
石川です。
このたび法政大学 大学院の修士課程を修了することになりました、
去る24日に予定されていた卒業式は、震災の影響で中止となり、
政策創造研究科内で学位授与を行う簡潔な式が行われました。
『被災地と日本に対して大学院になにができるのか。』
学位記授与の後に、教授方から最後のお話をきくことができました。
先生方からの回答がそこにあったと思います。
その中から、私の心に強く銘記された内容について、
短くまとめて列挙させていただきます。
◆今回の震災は、日本にとって戦後最大のインパクトを与える大事件であること。
◆被災者たちへの助け合いや、被災者同士の譲り合いに、日本人特有のソーシャル・キャピタル(人同士の絆)が寄与していること。
◆震災の影響によりキャリア・ショック(積み上げてきたキャリアが断絶すること)が生じていること。
◆現地に赴いて行動し、実際に役に立つことの尊さ(江頭2:50を見よ)。
◆こんな時期だからこそ、企業の資質と社会貢献の力が問われること。
◆こうしている間にも、地球の各地では、別の事件・事象が進行していること。
思えば指導者に恵まれた2年間でした。
先生方のお話をもっと聞いていたいと、最後に感じてしまいましたが、
研究者として、実践家として、一人立ちしなければなりません。
今こそ、学んだ学術と理論を実践に役立てる時です。
被災者と支援者
近隣の皆様にご提供いただいた物資を、山形県の東北広域震災NGOセンターに搬入予定でおりましたが、なかなか日程などのめどが立たなかったことから、仲間からの情報提供により秋田県庁への搬入を取り付けました。
秋田県庁ではその時点、
「とにかく寒さを防ぐ、暖かい衣類が必要」
とのニーズであり、当方の資源にも一番適していました。
まずは、自力で仕分けに取り掛かりました。
これまでの災害支援で言われている、捨てるようなものを提供された袋は、残念ながら、当方にもありました。
加えて、良い品だけれども、汚れがあるものも除外しました。
その結果、三分の一程度に選択していたように思います。
ただ、集まった物資に対する全部の作業は、私たち個人が手におえるものではないとの判断から、町会長に公民館を借りる手配をし、19日の土曜日に集まれる仲間を募りました。
どの程度の方が来てくださるか皆目見当はつかず、最悪、当方から2人と物資提供を呼びかけてくださった隣人の3人かね・・・
と、覚悟しておりましたが、
ママ友が他に3人、
パパ友が三々五々合計10人以上が手伝ってくださいました。
この周囲を巻き込んだ作業は、思わぬ副産物がいくつもありました。
① 土曜日、たまたま公民館で、婦人会主催の「フラワーアレンジメント教室」が行われており、参加していらしたご年配の方々も、教室終了後に衣類を持参してくださいました。
実は、集まっていた衣類は育児世代が中心であり、ご年配向きの物資が不足していることに懸念がありました。ご婦人方の協力により対象年齢層が厚くなり、大いに助かりました。
② その婦人会が、私たちの活動を目にすることで、自分たちも何かしようと「義捐金」活動を始めてくださいました。
③ 町会長も公民館に立ち寄ってくださり、しっかり当事者意識を発揮してくださいました。
(はじめ、公民館をお借りする連絡の際、ギョッとされたお声のトーンでした ^^;)
④ 当方がかつて隣町から当地に引っ越した経緯があり、2つの小中学校区共同作業となったことは、有事の近隣地域の連携を図る素地となります。
このように、皆さんが、テレビで災害を「見ているだけの人」から、
自分たちも何か貢献できないかという「行動する人」に変わってくださったのです。
このことは、「被災地のために皆で協力体制を築けた」ことに終わりません。
もしかしたら、いつか自分たちも被災者になる可能性があります。そのときに、
① 情報の共有により年齢層を問わない地域住民の状況把握がしやすくなること。
② 狭域・広域の地域の方々との連携が違和感無くはかれること。
③ どのように支援の要請をする必要があるのか、段階的、将来的展望を視野に自ら発信できる様になること。
④ 遠隔地の方々との相互支援関係、強いネットワークが築けていること。
が、被害を最小に、復興を迅速にする最大の手がかりとなるのではないかと考えられます。
これら、皆様のご協力により、晩には秋田に向かって出発し、翌朝、
「県庁では大歓迎で迎えられ、荷物はスタッフ&ボランティアの方々の手で、受付をしているとき、あっていう間に車~運び出され写真を撮る間も」無かったそうです。
(ついでに申しますと、この際、我が家の貴重な寝袋が一つ行方不明に
きっと、誰かのお役にたってね (/_;)/~~ )
そして、大船渡の友人からは、電気の復旧により連絡をもらうことが出来ました。
その友人との話で、
次の展開として、避難所から脱して個人の生活が始まるにあたり、徐々に必要とされるものは何であるか、
どのように支援できるか、現場主導で検討しているところです。
そして、せっかくの地域の動きは、一過性に終わっては被災地の方々だけが頑張らなくてはならない状況に陥りかねません。
実にたくさんの地域で被災者支援の輪が広がり、行政単位での支援も行われています。
一例として、千代田区議が閉館した赤プリを被災者に提供できないか提案し、それが実現するようです。
しかし、当地は日用品の調達がしにくい場所ではないかとの懸念があり、民間から、サポートが必要との補完的な支援態勢の動きもあります。
各地域の市民も継続的に被災者支援に取り組むことは、自分たちにとっても災害への危機意識をもち、地域の連携を強めることにつながり、被災地・支援地、相互にとって得るものが大きいと思います。
私たちの力で出来ることと、できないこと、どちらかといえばできないことのほうが多いですが、
被災地の方々の喜びが目に見える形でこちらに伝われば、支援者の皆さんも常日頃の心がけで
『何ができるか』
石川さんのおっしゃるように、「いたわり」を心根に、意識し続けることが出来るのではないだろうかと考える次第です。
まだまだ、やらなくてはならないことはいっぱいありますよね。
日本全部で、粘りましょう。
中野