被災者と支援者
近隣の皆様にご提供いただいた物資を、山形県の東北広域震災NGOセンターに搬入予定でおりましたが、なかなか日程などのめどが立たなかったことから、仲間からの情報提供により秋田県庁への搬入を取り付けました。
秋田県庁ではその時点、
「とにかく寒さを防ぐ、暖かい衣類が必要」
とのニーズであり、当方の資源にも一番適していました。
まずは、自力で仕分けに取り掛かりました。
これまでの災害支援で言われている、捨てるようなものを提供された袋は、残念ながら、当方にもありました。
加えて、良い品だけれども、汚れがあるものも除外しました。
その結果、三分の一程度に選択していたように思います。
ただ、集まった物資に対する全部の作業は、私たち個人が手におえるものではないとの判断から、町会長に公民館を借りる手配をし、19日の土曜日に集まれる仲間を募りました。
どの程度の方が来てくださるか皆目見当はつかず、最悪、当方から2人と物資提供を呼びかけてくださった隣人の3人かね・・・
と、覚悟しておりましたが、
ママ友が他に3人、
パパ友が三々五々合計10人以上が手伝ってくださいました。
この周囲を巻き込んだ作業は、思わぬ副産物がいくつもありました。
① 土曜日、たまたま公民館で、婦人会主催の「フラワーアレンジメント教室」が行われており、参加していらしたご年配の方々も、教室終了後に衣類を持参してくださいました。
実は、集まっていた衣類は育児世代が中心であり、ご年配向きの物資が不足していることに懸念がありました。ご婦人方の協力により対象年齢層が厚くなり、大いに助かりました。
② その婦人会が、私たちの活動を目にすることで、自分たちも何かしようと「義捐金」活動を始めてくださいました。
③ 町会長も公民館に立ち寄ってくださり、しっかり当事者意識を発揮してくださいました。
(はじめ、公民館をお借りする連絡の際、ギョッとされたお声のトーンでした ^^;)
④ 当方がかつて隣町から当地に引っ越した経緯があり、2つの小中学校区共同作業となったことは、有事の近隣地域の連携を図る素地となります。
このように、皆さんが、テレビで災害を「見ているだけの人」から、
自分たちも何か貢献できないかという「行動する人」に変わってくださったのです。
このことは、「被災地のために皆で協力体制を築けた」ことに終わりません。
もしかしたら、いつか自分たちも被災者になる可能性があります。そのときに、
① 情報の共有により年齢層を問わない地域住民の状況把握がしやすくなること。
② 狭域・広域の地域の方々との連携が違和感無くはかれること。
③ どのように支援の要請をする必要があるのか、段階的、将来的展望を視野に自ら発信できる様になること。
④ 遠隔地の方々との相互支援関係、強いネットワークが築けていること。
が、被害を最小に、復興を迅速にする最大の手がかりとなるのではないかと考えられます。
これら、皆様のご協力により、晩には秋田に向かって出発し、翌朝、
「県庁では大歓迎で迎えられ、荷物はスタッフ&ボランティアの方々の手で、受付をしているとき、あっていう間に車~運び出され写真を撮る間も」無かったそうです。
(ついでに申しますと、この際、我が家の貴重な寝袋が一つ行方不明に
きっと、誰かのお役にたってね (/_;)/~~ )
そして、大船渡の友人からは、電気の復旧により連絡をもらうことが出来ました。
その友人との話で、
次の展開として、避難所から脱して個人の生活が始まるにあたり、徐々に必要とされるものは何であるか、
どのように支援できるか、現場主導で検討しているところです。
そして、せっかくの地域の動きは、一過性に終わっては被災地の方々だけが頑張らなくてはならない状況に陥りかねません。
実にたくさんの地域で被災者支援の輪が広がり、行政単位での支援も行われています。
一例として、千代田区議が閉館した赤プリを被災者に提供できないか提案し、それが実現するようです。
しかし、当地は日用品の調達がしにくい場所ではないかとの懸念があり、民間から、サポートが必要との補完的な支援態勢の動きもあります。
各地域の市民も継続的に被災者支援に取り組むことは、自分たちにとっても災害への危機意識をもち、地域の連携を強めることにつながり、被災地・支援地、相互にとって得るものが大きいと思います。
私たちの力で出来ることと、できないこと、どちらかといえばできないことのほうが多いですが、
被災地の方々の喜びが目に見える形でこちらに伝われば、支援者の皆さんも常日頃の心がけで
『何ができるか』
石川さんのおっしゃるように、「いたわり」を心根に、意識し続けることが出来るのではないだろうかと考える次第です。
まだまだ、やらなくてはならないことはいっぱいありますよね。
日本全部で、粘りましょう。
中野