体罰問題
前回、石川さんが社会の中における力構造を述べてくださっていらっしゃいますので、
私の方は大人と子どもにおける状況での一考察とします。
体罰問題
これは、教師ならパワハラも含まれますよね。
家庭であれば、「不適切な養育」の中でも、
「虐待」といわれるものになる要素が多くなってきます。
いずれも教師と子ども、親と子どもの間に
深い信頼関係がある時には
場合によっては壁を乗り越える作用をもたらすかもしれません。
しかし、多くの場合は力を振るわれる側は、
大きな無力感や相手に対する失望、人間不信などに陥り、
自己肯定感、自尊感情を傷つけられることになるように感じます。
でも、教師も親も、
「あなたのため」
との言い分がありそうで、
確かに部分的な心情にその存在を否定するものではありませんが、
意図に反して前述のように子どもの心を傷つける結果を招いてしまいます。
では、なぜこのような事態に陥るのか。
自分の人生の主役は自分をおいて他には誰もいません。
なので、本人からみたら、周囲のアクターは全て脇役です。
その脇役の役割は何かと言えば、
『本人のためにどのような貢献ができるか?』
に尽きるはずです。
しかし、その脇役であるはずのひとが自分の人生をその上に重ねてしまい、
自分の人生の配下にしてしまうことが問題なのではないでしょうか。
これは大人と子ども間の体罰、虐待のみならず、
子ども間、社会におけるイジメにも通ずると思います。
それぞれはみな自分自身を誠実に自己実現することで社会に貢献し、
他者に対しても尊重と誠実なサポート役を果たすならば、
それぞれが自己の意思によって自らの価値を最大に生かすことができ、
社会での支配的な関係の問題は相当程度軽微なものになるのではないでしょうか
中野
怒らないと仕事にならないなんて
いつかみかんを栽培したいと本気で願っている、石川です
今回も、前回に続いて“体罰の構造”について解明を試みたいと思います。
前回の記事
では、教育に携わる者の多くが、
指導する相手のためだと言い訳をしながら、
実際には、自身の対話を続ける能力の欠如のために、
暴力を振るってしまう現象について、述べました。
加えて、もう一つ忘れてはならない重要な要素として、
暴力行動に至る前段階の“怒り”の感情表現があります
この“怒り”の表現は、人間関係に重大な影響を与えます。
それを示す私自身のエピソードを紹介したいと思います。
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今から10年以上前のことになりますが、
私は某家電メーカーの経営管理部門に所属していました。
製造部門を統括し、業務上の具体的な指示を与える立場です。
しかし、製造現場には10年以上勤務を続けるベテラン社員が多くいて
若輩者の私の指示通りに動いてくれません。
(例によって、私の見た目に貫禄がないことも一因だったのでしょう)
繰り返し理で説いても背反されるので、業を煮やした私は、
大先輩に対して怒りをあからさまに表し、叱責しました。
するとどうでしょう、それ以降は気味が悪いほどに
私の指示を素直に聞くようになりました。
同様の方法は、20年選手のパワハラ&セクハラ上司に対しても有効で、
一度会議室に呼びつけて怒りを見せただけで、
以後は非常に大人しくなってピタッとハラスメントが止みました。
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これらの事例からも、怒りの表現は対人関係に多大な影響を与え、
相手を従わせることに決定的な役割を果たすことが、
おわかりいただけると思います。
(日本の企業組織の幼稚さについては、また別のお話で・・・)
対人関係における、怒り→暴力行為に至るまでのフローをまとめると、
下記のようになります。
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① 相手が自分の期待した行動をとらない
② 相手を従わせるため、怒りを表現する
③ それでも相手が言うことを聞かない場合に、暴力を振るう
↓↓
④ 相手が服従する or さらに対立を深める
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・・・これは“ニワトリのつつき”で有名な、
野生の動物たちが行っている、「順位制」の行動に他なりません。
このように、心理学的かつ生物学的に人間の暴力行動を捉えない限り、
人間社会で起きる体罰やハラスメントの問題を正確に理解することはできません。
いま、社会で欠如しているのは、こういった視点でしょう。
以下、次回へ続く。