札幌のイタリアンレストラン Mano e Mano のブログ
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各種パスタ、ピザ、ヘルシーな野菜のリゾット等、美味しくて体に優しいメニューがいっぱいです。

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シェフ自慢の料理やデザートを多数取り揃えております。
季節の美味しさを活かしたイタリアンを 是非ご賞味下さいませ。
心よりお待ち申し上げます。


●ランチセット(サラダ、デザート、コーヒー付き)

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①わたりガニ入りペスカトーレ(スパゲッティ)…¥1480
②トマトとクリームのピンクソース(リングイネ)…¥1580
③野菜と小エビのペペロンチーノ…¥1480


●パーティープラン
<ご予算に合わせてご相談に応じます>¥3000~(4名様以上より受け賜わります)
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それから

店の前の植え込みは春になると少しずつ色を取り戻します。気がつけば、入り口のライトに絡まった蔦の緑があふれておりました。

閉店のお知らせをしてからというもの、連日名残を惜しみにいらっしゃるお客様で店は大変な賑わいでした。どうしてもお席をご用意できなくて泣く泣くお断りしたお客様も多数いらっしゃり、閉店の日を繰延にしたいと思ったほどでした。本当に申し訳ございませんでした。

毎日のようにお客様から労いの花束をいただきました。花の色にどれほど悲しみが癒されたことでしょう。


最後のディナー営業は今は亡き恩人の遺影に献杯して始まりました。
5時半のオープンを待たずして続々とお客様がいらっしゃり、小さい店は満席でスタートです。最終日にはたくさんケーキを焼いてねとシ
ェフにお願いしておいたらショーケースに並べきれないほど、でもこれでお客様のリクエストにもしっかりお応えできます。
次々入るオーダーに厨房はフル回転、オーブンの熱が不思議と今夜だけは心地良く感じます。



これで最後かと思うといつものメニューがなおさら愛しく思えて涙がこぼれました。

今夜はいつにもましてたくさんの写真をとりましたが、これは小さい店の良さが表れた1枚です。マーノはお客様同士が仲良くなれる店でした。「シェフもママも飲もうよ!」、何度となくおしゃって下さるお客様と語り合った日々はかけがえがありません。
閉店を決めてからの癒えない悲しみに身も心もぼろぼろになりながらも、お客様からいただいた愛でなんとかこの日を迎えることができました。22年の長きに渡り御愛顧いただきましたこと、心より感謝申し上げます。

最後のお客様をお見送りしたのは25時、ふと見上げれば柔らかい店の灯りが。こんなにしみじみと眺めたことはなかったと今気がつきました。

店の歴史は私ども夫婦の歴史と重なっております。若かったあの頃と同じように、希望を胸に新たな歴史を刻んでまいります。皆さまと再びお目にかかれるよう、マーノでつないだ手と手を離さぬよう、今日の日はさよならまた会う日まで。
マーノ・エ・マーノ店主 佐々木淳穂・智美

手と手

シェフは北イタリアで修行中に、いつか店を持つならば名前は「Mano e Mano(手と手)」と決めていたそうです。ふるさと北海道で夫婦で開いた店は今年で22周年目、たくさんの手と手をつなげてくれました。


修行の地・伊マントヴァの1つ星レストラン 小さなホテルも併設されていました。



マーノ・エ・マーノは平成29年5月25日をもちまして、西18丁目での営業を終える決断をいたしました。
こう決めるまで、数ヶ月悩みに悩みました。マーノを愛して下さった皆さまのお顔を思い浮かべて涙する日々が続きました。けれど、これは決して悲しい別れではありません。つないだ手と手は決して離れないと信じております。
店のオーブンの火を落とすまで、皆さんに心を込めてお料理を提供いたします。残りわずかになりましたが、ご来店を心よりお待ちいたしております。


おとなになってから老人になってからあなたを支えてくれるのは、こども時代の「あなた」です。

製紙メイカーに勤めていた父の転勤で小学生の頃仙台に住んでいた。まだ政令指定都市になる前の仙台は市電も走っていたし、舗装していない道路もあちこちにあった。
私のうちは四方を生け垣と白い木の柵に囲まれた和洋折衷の平屋の一軒家だった。前庭と裏庭には四季折々の花が咲いて、大工仕事は玄人はだしの腕前の父が作った愛犬の立派な家もあった。
隣にはやはり転勤族で同い年のひとりっこのさっちゃんが住んでいた。うちも十分広かったのだがさっちゃんの家はうちの倍くらい広いし、朝、運転手の斎藤さんが黒塗りの車でお迎えにきて出掛けていく姿はほんとうに立派で、さっちゃんのパパは偉いんだと子供心に思ったものである。
両家の境の生け垣にはひとがひとり通れるほどの隙間があり、私達はそこを行き来して友情を深めていった。
さっちゃんのうちには腰の曲がったおばあちゃんがいて、腰は曲がっているけれど広い庭で鍬をふるって畑仕事もしたし、私達に色々な遊びも教えてくれた。そうそう井戸の水の汲み方もおばあちゃんから教わった。春は土筆を摘んでお浸しに、夏はいちじくをもいで甘露煮、秋は焚き火、冬は瓢箪池の薄氷を割って遊んだ。
暇さえあればさっちゃんと遊んでいたけれど、私はひとりで過ごすことも大好きだった。お人形遊び、お絵かき、ままごと、そしてなによりも本を読むのが好きだった。
父にねだって岩波書店の本を片っ端から揃え、ドリトル先生、メリー・ポピンズ、大草原の小さな家などなど、この頃に出会えたことを40年以上たった今でも本当に感謝している。

その後、さっちゃんと私は相前後して東京に居を移すことになる。さっちゃんと過ごした時間は3年ほどであるが、あの頃の甘やかな記憶が今の私を支えているように思えてならない。四季折々の暮らしのなかで育んだ感性が今の私の土台なのだ。

タイトルの言葉は、児童文学者の石井桃子先生のものだ。わたしはこの言葉にどれほど勇気をもらったことか。わたしには幸せだったこども時代があるのだから、どんなに辛くとも前に進もうと思わせてくれる魔法の言葉である。         (吉田)





初めて大丸に出店した時のお疲れ様会
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