はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~ -20ページ目

はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

前回からのつづきです。

 

【激闘④】

1991年10月23日 日本シリーズ 第3戦
○西武1-0広島●

 

西武・渡辺久信、広島・北別府の両先発投手による息詰まる投手戦は8回に秋山幸二の一発にで決着。

 


0-0の両チーム無得点で迎えた8回表、秋山が北別府から先制のソロホームランを放ち西武が先制。



そのまま西武が1-0で勝利。

北別府は好投報われず敗戦投手に。

 

【北別府成績】

先発、7回2/3イニング1失点(自責点1)、奪三振6
敗戦投手

 

【激闘⑤】

1991年10月28日 日本シリーズ 第7戦
○西武7-1広島●

 

第5戦終了時点で広島に王手を許した西武は、第6戦を勝利し逆王手。
迎えた第7戦、広島に先制を許すも中盤に逆転しそのまま一気に逆転の日本一。


【北別府成績】
3番手として救援、1回イニング2失点(自責点3)、奪三振0
負けたら終わりの最終戦、広島は1-3の2点ビハインドで迎えた6回から北別府を中継ぎで投入。
6回は抑えるも7回に西武打線につかまり平野謙の三塁打、辻発彦の左前打で2失点、降板直後に川端順が秋山幸二に左越2ランを浴びこの回4点を追加し西武が日本一に。




そして最後に私の所有コレクションです。


EPOCH 2021年 プロ野球OBクラブ キャリアアチーブメント

野球カードにサインと「213勝」、「不動心」。

さらにアルファベットで「KITABEPPU」の名前も書かれています。
私もお気に入りの1枚です。大事にします。

杉下氏の訃報と同じ日に広島東洋カープのエースだった北別府学氏の訃報がありました。
65歳という若さでの逝去は残念でなりません。

1980年代後半から1990年代前半は私にとってのプロ野球全盛期であり、北別府氏はそのドンピシャな時期に活躍を見ていた投手の1人でした。
とにかくコントロール抜群のイメージがあり、私も野球をやっていた頃は、コントロールが安定するよう投球フォームを参考にして真似をしてみた事もあります。
もちろん北別府氏のように上手くはいきませんでしたが、参考にしたおかげ?なのか私はコントロールは良い方だったと思います(笑)。

さて、私が所有しているに西武ライオンズ関連の資料から北別府投手に関する記事が無いか探してみました。


これが意外や意外!西武が北別府投手と対戦した試合は記憶に残るような好試合が多かった事にあらためて気が付きました。
 

今回は主なものをいくつか簡単に紹介しておきます。
各詳細については、いつかブログで書くと思います。


【激闘①】

1986年10月18日 日本シリーズ第1戦
△西武2-2広島△
(延長14回:時間切れ引分)

 

第1戦から延長14回の激闘。
日本シリーズ史上、唯一第8戦までもつれこむきっかけとなった最初の試合。

 

【北別府成績】
先発、8イニング2失点(自責点2)、奪三振0
※2回:無死満塁から伊東の遊ゴロ併殺打の間に1失点。
※4回:伊東勤のスクイズで2失点目。

 

1986年日本シリーズ第1戦:ブコビッチをファーストゴロに打ち取る北別府。

 

【激闘②】

1986年10月23日 日本シリーズ 第5戦
○西武2X-1広島●
(延長12回:西武サヨナラ勝ち)


西武が投手・工藤公康のサヨナラタイムリーでシリーズ初白星。
3連敗から奇跡の4連勝大逆転日本一への始まり。


【北別府成績】
先発、11回1/3イニング1失点(自責点2)、奪三振6
敗戦投手
※3回:石毛宏典のタイムリー安打で1失点。
※12回:先頭の辻発彦に四球→伊東勤犠打で降板。
替わった直後に津田恒美が工藤公康にサヨナラタイムリーを浴び、北別府が敗戦投手に。



1986年日本シリーズ第5戦:金森を三振に打ち取る北別府。


北別府降板直後に工藤が津田からサヨナラタイムリーを放つ。

北別府続投だったら工藤は安打を打つことができたのか…。タラレバですが。

【激闘③(番外編)】

1988年プロ野球トーナメント準決勝
○西武2-0広島●

 

東京ドーム開場1年目に行われた12球団トーナメント(オープン戦扱い)。
その準決勝で郭泰源がノーヒットノーランを達成した試合。



 

【北別府成績】
先発、詳細不明

※2回に辻発彦に先制タイムリーを許し敗戦投手になっています。

 

つづく…。

先日、「フォークボールの神様」と呼ばれた元中日投手の杉下茂氏がお亡くなりになられました。
私はもちろん現役時代をを知り得ない世代で「伝説」として語り継がれていた投手のひとりでした。

その杉下氏といえば、西武黄金期の1993年から2年間投手コーチとして西武のスカイブルーのユニフォームに袖を通した時期がありましたね。

伝説の大投手が西武ライオンズの一員になった事を、当時の私は嬉しく思った記憶があります。

 

写真は日刊スポーツより


杉下氏をわざわざ縁もゆかりも無かった西武が招聘した理由の一つに森繁和投手コーチを育てる目的がありました。
投手陣だけでなくコーチとしてチームの支えにもなってくれました。

在籍していた1993年、1994年はデストラーデ、秋山幸二が抜けた後の打線で得点力がダウンしていました。
得点力が低下した分をカバーしたのが投手陣の踏ん張りでした。
「12球団ナンバーワン」と言われた強力投手陣でしたが、実際のところ先発陣は工藤公康だけは安定していたものの、渡辺久信、郭泰源、石井丈裕は全盛期のような成績が残せず信頼度も今一つで、先発投手のやりくりは簡単ではなかった2年間でした。

そんな状況の中、1993年、1994年は、プロ2年目の新谷博を先発、リリーフにフル稼働させ、1993年はルーキー・杉山賢人も加入し潮崎、鹿取と「サンフレッチェ」を確立、さらに1994年は、ダイエーからトレードで獲得した橋本武広を貴重なワンポイント左腕として使いこなし、不安定な先発陣をリリーフ陣で補い、達成したリーグ5連覇でもありました。
杉下コーチがおやじ的存在として投手陣の精神的支えにもなっていたと、
当時監督だった森祇晶氏も悼んでいましたので、杉下コーチの存在意義は大きかったと想像できます。


日刊スポーツより
森祇晶氏「おやじ的な存在。感謝しかありません」西武監督時代のコーチ杉下茂さん悼む


私の所有する新聞記事の中で42年前(1981年)のインタビュー記事を見つけたので掲載しておきます。
フォークボール誕生秘話、フォークボールにまつわる逸話などなかなか面白い内容です。

1981年(昭和56年)11月29日付け報知新聞

そして最後に私の所有コレクションです。


EPOCH 2021年 プロ野球OBクラブ キャリアアチーブメント

野球カードにサインと「1954投手五冠王」の記載があります。
これからも大事にしたいと思います。

(1981年西武ファンブックより)

田淵選手と並ぶチームの一の長身から投げおろす速球は威力がある。
大投手になるために必要な度胸も十分。
打者との駆け引きさえ学べば、1軍でも投げられる実力。

 

【アマチュア時代】
金足農高時代は、1年秋からエースとなり、2年時には秋季秋田県大会決勝まで進出。
決勝はのちに西武でチームメイトになる秋田商・高山郁夫との投げ合いの末、準優勝に終わった。
3年時は、夏の甲子園県予選で準決勝で敗退し、甲子園出場は叶わなかった。
全国的には無名な存在もプロ球団からは186センチの大型右腕として西武以外にも阪神、近鉄がマークしていた。
小野に対するプロの評価は高かったが、社会人野球の日本鋼管への就職が内定していた。
だが、球界の新盟主を目指し日本中の逸材を獲得し続ける西武が、小野への熱烈ラブコールと周辺への説得を成功させ最終的にドラフト外で西武への入団が決まった。
入団が決まると高卒のドラフト外での入団ながら、球団の期待の表れとも言える背番号「13」を与えられた。

 

【1981年の小野和幸】
西武在籍:1年目(19歳)、※新人=金足農高からドラフト外入団、背番号13
一軍成績: 1試合、1勝 0敗 0セーブ、投球イニング5回、自責点2、防御率3.60、奪三振1

 

【イースタンリーグ成績】
投手成績:32試合、15勝 8敗 1セーブ、投球イニング182回2/3、自責点57、防御率2.80、奪三振72
打撃成績:32試合、61打数6安打、打率.098、0本塁打、2打点、0盗塁

 

1981年は、高卒新人ながら、イースタンリーグの試合では積極的に登板機会を与えられると前半戦だけで12勝を挙げ期待以上の大活躍を見せた。
最終的にイースタンリーグでは、リーグ新記録のシーズン15勝をあげ最多勝を獲得。
西武二軍のイースタンリーグ初優勝に大きく貢献した。
一方でシーズンワーストタイ記録となる17被本塁打も記録していた。

一軍デビューは、ペナントレース最終戦の10月4日対ロッテ後期13回戦(西武球場)。
先発としてプロ初マウンドに立ち、5回4安打3失点(自責点2)ながらも、プロ初勝利をあげた。
3回表にはこの年の首位打者・落合博満からプロ初奪三振も記録した。

 

【当時の記事写真とコメント】

真上から投げおろす速球にかける小野

小野は1メートル86と田淵と同じチーム1の長身。
真上から投げおろす直球は威力がある。
本人は「木田(勇)投手のような、速球を武器にする投手になりたい」といっている。
今シーズン、すぐに1軍で登板するのは無理かもしれないが、下半身を鍛えれば、もっと速球が伸びよう。
林コーチは「いいボールを投げますから、ライオンズの中心投手になるでしょう」と素質をかっていた。
東北出身らしい粘り強い投手になってもらいたい。

(1981年西武ファンブックより)

投手出身だけに体にバネがある。
鍛え抜いた足腰で打つバッティングは将来が楽しみだ。

 

【アマチュア時代】
八代高時代は投手。
当時、九州で四天王と呼ばれ注目されていた4投手の一人として秋山の名も知られていた。
(秋山以外は、熊本工・大津一洋、柳川・中島輝士、都城・井上祐二)
秋山は、チームの投打の中心選手として、3年時の春季九州大会では準優勝へ導いた。
高校最後の夏の熊本県大会は決勝まで進出したが、後に西武でチームメイトになる大津一洋、伊東勤のバッテリーがいた熊本工に惜敗し甲子園出場はならなかった。
当然プロのスカウトからも注目されていた選手だったが、秋山は大学進学への意思が強かった為、ドラフトでの指名はなかった。
しかし、ドラフト終了後に一転プロ入りを表明した為、西武、巨人、阪急、広島による争奪戦となった。
最終的に「打者として育てたい」という西武の口説き文句が決め手となり、ドラフト外での入団が決まった。
西武入団と同時に三塁手へ転向。

 

【1981年の秋山幸二】
西武在籍:1年目(19歳)、※新人=八代高からドラフト外入団、背番号71
一軍成績:3試合、5打数1安打、打率.200、0本塁打、0打点、0盗塁

 

【イースタンリーグ成績】
打撃成績:56試合、170打数42安打、打率.247、7本塁打、21打点、5盗

 

高卒新人ながらイースタンリーグの試合でも積極的に起用され56試合に出場。
5月27日対巨人戦の5回には、代打で起用され本塁打を放った。


ジュニアオールスター戦へも出場
西武からは4選手が出場。
試合前の記念撮影で左から小野和幸、駒崎幸一、鴻野淳基、秋山幸二。

チームがペナントレース争いから脱落したシーズン終盤に一軍昇格。
早速、9月29日対近鉄後期13回戦(日生球場)で、7番・三塁手で先発起用された。
4回表に左中間三塁打を放ちプロ入り初安打を記録した。

 

【当時の記事写真とコメント】

長打力に磨きをかける秋山選手
秋山は投手出身だけに足腰が強い。
「田淵選手を目標にがんばります」と、長打力に磨きをかけていた。
守備は長身を利用しての一塁か。
ベテラン選手もうかうかしていられない。