(1981年西武ファンブックより)
足のある有望選手の加入で、機動力と大砲をうまくミックスして優勝をねらうとキッパリ。
もともと選手の素質を見抜く能力は天下一品。
試合の流れに応じて、機知に富んだ采配を振るってくれることだろう。
【1981年の根本陸夫】
西武監督:3年目(55歳)、背番号81
【1981年監督成績】(※西武成績)
シーズン成績:130試合、61勝61敗 8分、勝率.500、4位(1位日本ハムと7.0ゲーム差)
・前期成績:65試合、33勝28敗 4分、勝率.541、2位(1位ロッテと2.0ゲーム差)
・後期成績:65試合、28勝33敗 4分、勝率.459、5位(1位日本ハムと9.5ゲーム差)
1981年は、ライオンズ監督として4年目のシーズン(※1978年クラウンライター時代含む)だった。
新加入の石毛ら新人選手と現役大リーガー・テリーの活躍で前期は、最後まで優勝争いを演じた。
惜しくも2位で終わったが、チームは確実に力をつけていた。
そして期待された後期だったが、借金5の5位と優勝争いに加わることすらできず期待はずれの結果に終わった。
最終的に年間順位は4位で終わったが、勝率は初の勝率5割を達成した。
チームの選手層も若手、ベテラン、外国人と厚みを増し、1979年球団発足当時と比べると選手の駒ははるかに揃った。
1981年シーズンは、投打がかみ合わずに落とした試合も多かっただけに、あとは個々をチームとして機能させる事が翌シーズン以降の課題となった。
球団が西武に替わり本格的にチーム作りを開始した1979年からの3年間に指揮をとった根本は「育成の時代は終わった。あとは勝つ野球をやるだけだ」と語り、1981年限りで監督を退任。
翌年からフロント入りし管理部長に専任することになった。
1981年10月7日付 報知新聞
そして根本の後任は「勝てる監督」として、根本が広島監督時代にコーチでもあった広岡達朗を招聘。
管理部長(実質GM的存在)=根本陸夫
監督=広岡達朗
バッテリーコーチ(ヘッド格)=森昌彦(森祇晶)
この人事こそが後年迎えることになる西武黄金期への第一歩を踏み出した瞬間でもありました。
1981年10月30日付 報知新聞
当時新聞記事には「東尾放出も」なんて衝撃的な見出しが躍っていました。
その後、東尾は1980年代黄金期のエースとして大活躍。
放出しなくて良かったですね。
【1981年当時の記事写真】
選手にさとすように教える根本監督
選手が到着する前に首脳陣とこの日の練習の打ち合わせ。
コーチ陣から監督へどしどし意見が出される。
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