西武ライオンズタイムマシーン(第317回):1980年 根本陸夫 | はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

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(1980年西武ファンブックより)
選手の特徴を生かした采配が見もの。
ベテランと若手をうまく使い分けて、優勝目指してがんばる。

 

【1980年の根本陸夫】
西武監督:2年目(54歳)、背番号81


【1980年監督成績】(※西武成績)
シーズン成績:130試合、62勝64敗4分、勝率.492、4位(1位近鉄と8.0ゲーム差)
前期成績:65試合、27勝34敗 4分、勝率.443、6位(1位ロッテと7.5ゲーム差)
後期成績:65試合、35勝30敗 0分、勝率.538、4位(1位近鉄と2.0ゲーム差)


前年最下位からの巻き返しを狙った1980年シーズンだったが、開幕戦から2連敗すると、開幕7試合目からは早くも5連敗を喫した。
開幕からの11試合で2勝8敗1分とスタートでいきなりつまずいた。
その後は何とか踏ん張ってはいたが、4月(8勝12敗1分)、5月(10勝12敗2分)、6月(8勝10敗1分け)と毎月少しずつ借金が増え続けて、結局、前期は最下位で終えた。

 

後期に入ると、スティーブが新加入。

田淵幸一も復調しようやく打線が機能し始めた。
8月に入ると7日の対近鉄戦で7回にプロ野球タイ記録(当時)の1イニング5本塁打、8月12日の対ロッテ戦ではプロ野球新記録(当時)の24試合連続本塁打、さらに8月31日の対ロッテ戦ではリーグ新の1シーズン9満塁本塁打と日本タイ記録の月間48本塁打をマークするなど、記録ずくめの快進撃で8月は14勝8敗の成績で首位に浮上した。
9月に入っても首位争いを続け9月26日時点で2位のロッテに2.5ゲーム差を付け、あと残り14試合を乗り切れば初優勝が見えていた。
しかし、そこから6連敗を喫し首位から陥落すると、一気に優勝争いから後退。
残り3試合の時点で近鉄との直接対決2試合を残していた為、まだ優勝の望みは残っていたが、10月8日対近鉄戦に敗れ後期優勝が消滅し、10月11日近鉄戦(最終戦)では目の前で胴上げ見るという悔しさを残したままシーズンを終えた。
後期は、1位近鉄とはわずか2.0ゲーム差だったが、順位は4位に終わった。
また前後期を合算したシーズン成績は4位だった。

根本監督は、シーズン終了後、翌シーズンも指揮官としての続投が決まっていた。
監督業の一方で、球団管理部長も兼任していた為、着々とチーム作りも進めていた。
1980年のドラフト会議では、目玉の1人でもあった原辰徳(東海大)には目もくれず、どうしても獲得したかったというプリンスホテルの石毛宏典を1位で指名し、阪急との競合の末、根本監督自ら当たりくじを引き当てた。
また、巨人との争奪戦の末、秋山幸二をドラフト外での入団に成功した。
さらに当時熊本工業高校の定時制に通学していた伊東勤を所沢高等学校に転校させ、西武の練習生として採用させた。
伊東は、翌1981年のドラフト会議で西武1位指名で入団させるなど、根本はフロントとしても大いに手腕を発揮していた。

 

【1980年当時の記事写真とコメント】

 

 

機知に富んだ采配で優勝に向かって全力前進
今シーズンはベテランも若手も区別しないと宣言。
実力のある選手をどんどんゲームに使うという厳しい姿勢でのぞんでいる。
選手の能力、個性を見抜く目も鋭く、定評がある。
今年は粘り強いガッツのあるチームにするのが目標。
ふだん大声を出さない監督が、ちょっと怠慢なプレーを見ると、叱咤激励の声を飛ばす。
タイロン、ダンカンを加えた重量打線をバックに、東尾、松沼(兄)、森を軸とした投手陣をどう回転させるか。
優勝を狙う采配が楽しみである。

 

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