杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -5ページ目

脳の研究の最先端を紹介すると同時に、「まだまだ脳については全然わかっていない」ということも教えてくれる良書。

 

脳の働きは、コンピュータの仕組みに例えられることがある。それは、脳にある神経細胞(ニューロン)を伝わる電気的な信号(デジタルな信号)によって、身体にさまざまな指令が伝えられるからだろう。だから、これまでの脳研究はニューロンを中心に行われてきた。

 

しかし、顕微鏡技術の発展によって、実はニューロン以外の「細胞外スペース」を通して伝わる「アナログ信号」が、脳の働きにとって重要な役割を果たしていることがわかってきた。本書は、その研究の最先端を紹介するものである。

 

さて、いま世の中では、AI技術の発展に象徴される「デジタル」の可能性が花開く一方で、「人間らしさ」という言葉に象徴されるような「アナログ」の大切さが見直されている。そして脳の研究においても同様の流れが生まれていることは興味深い。

 

脳を研究しているのは、あくまで脳が生み出している「意識」であり、その「意識」が向けられたものが「発見」される。その前提にはもちろん技術の進歩があるのだが、その使い方はやはり人間の「意識」に依存しており、その意味で、私たちの生きる「世界」は、一面において人間の「意識」が作り出すものだと言える。

 

本書によれば、脳の中ではさまざまな細胞同士がやりとりをしているという。これを僕なりに人間同士のコミュニケーションに例えれば、「言葉による意味のやりとり」がニューロンによるデジタル信号で、「場の雰囲気や気分などの伝達」は細胞外スペースを通したアナログ信号にあたる、と言えるかもしれない。

 

目に見えないもの、言語化できないもの、どうにもよくわからないものが、実は重要な役割を果たしている。このことは脳の仕組みに限らず言えることだろう。

 

少し本筋とはズレてしまうが、僕が本書の中で面白いと思ったのは、いわゆるアカデミックな研究に内在する弊害についても指摘されている点である。それは次のように述べられている。

 

研究者の間では、今でも脳組織を単なる生理食塩水とみなすことが暗黙の了解となっています。おかしいと思いながらも、それを認めざるを得ないというような状況なのです。なぜならば、すでにその前提で書かれた論文がたくさんあるからなのです。(194頁)

 

これは僕も常々思っていることで、「先行研究を無条件に土台とすることの危うさ」とも言える。土台が崩れれば、その上に築かれたものも全て崩れる。それを避けようとするあまり、すでに明らかであるはずの「土台の誤り」が無視される。その傾向は、権威のピラミッドが強固な分野ほど強いように思われる。当然ながら研究は停滞するか、誤った方向へと向かうことになる。

 

そのような状況を打開するためにも、本書のように、一般の人が最先端の研究にふれる機会を提供することは、これからますます重要になってくるはずである。「専門家であるがゆえの妄信」あるいは「専門性を盾にした倫理の破壊」ということは往々にして起こり得る。ナチスが高度な専門家集団でもあったことを忘れてはならない。なんだかずいぶん本書の内容から離れてしまったが(笑)、日本のコロナ対応を見ていると、ついそんなことを考えずにはいられないのである。

 

「『人工知能』という言い方はあっても『人工知性』とは言わない」と著者は指摘する。それは彼によれば、「知能とは、答えがあることに(素早く、正確に)答える能力」であり、「知性とは、答えがないことに答えを出そうとする営み」だからである。今日のような時代の転換期に求められるのは、明らかに後者の「知性」だろう。そしてその「知性」の働きに大きく関わるのが、本書のタイトルでもある「脳を司る『脳』」である。

 

決してスルスルと読める本ではないが、ここはひとつ「ノー」と言わずに読んでみて欲しい。

 

脳を司る「脳」 最新研究で見えてきた、驚くべき脳のはたらき (ブルーバックス)

 

「貨幣をどのようにして増殖させるのか。資本主義の原理はこの単純なメカニズムでしかない」

 

冒頭に置かれたこの言葉に、ショックを受ける人もいるかもしれない。高度成長期には表面化しにくかったこの本質が、その建前を取り払い露呈してきたのが今という時代なのだろう。

 

「働き方改革」が叫ばれているが、著者は次のように述べる。

 

「むしろいま多くの人たちが望んでいるのは、「労働時間なんて気にしないでもやりたいと言えるような労働をやりたい」ということではないかと感じる」

 

いや、ほんまにそう、と思わずつぶやいてしまった。それは言い換えれば、「自分の〝生き方〟と結び合った労働」ということであろう。

 

矛盾なき社会など存在しない。にもかかわらず、それを追求しようとすればするほど、矛盾をかかえた存在としての人間は疎外されていくのではないか。そうではなく、「むしろ矛盾を少なくする、健全さを少しでもいいから大きくする」。

 

それを実現させるには、社会全体を覆いつくす巨大なシステムではなく、顔の見える具体的なつながりを主軸に置かなければならないだろう。

 

「究極的には、「自分たちの労働を手段にしている社会でいいのか」、そこのところを問わなければいけない」

 

著者のこの言葉を、自分の生き方と重ね合わせて考えたい。

 

 

資本主義を乗りこえる (内山節と語る未来社会のデザイン 2)

 

国家というシステムが機能しなくなりつつある時代を鋭く指摘する講演録。

 

民主的な手続きによって成立した政権が、結果的に独裁的な政治を行う矛盾。それは民主主義の未成熟さではなく、民主主義に内在された必然的帰結である、と著者は述べているのだと思う。

 

本書では、政治、宗教、労働、文化などがバラバラに分離された社会から、それらを一体的に含み込んだ共同体への伝統回帰が展望される。それは単に昔に戻ることではなく、新しい技術を用いた「生き方としての伝統回帰」の試みである。

 

また、いま日本で問題になっている「高齢化問題」とは、単にお年寄りが増えるということではなく、その本質は「サラリーマンが高齢化することの問題」であるという指摘にははっとさせられる。

 

現状の政治の問題は認識しながらも、自分のポジションを失うことの怖れから変化を拒む心理など、現代日本の問題点がさまざまな論点から語られる。問題の根深さにうなりながらも、あたたかな希望の光も感じられる読後感。

 

平易で読みやすく、広くおすすめできる一冊。

 

 

民主主義を問いなおす (内山節と語る未来社会のデザイン 1)

 

行きつけの喫茶店のスタッフさんにすすめられて買った漫画。

 

若い頃に抱いていた閉塞感、生きることに対する切実さ、思いのほか身近にある〝悲劇〟を思い起こさせてくれる傑作だと思った。

 

主人公は若草ハルナという少女だが、彼女をとりまく登場人物はみな個性的で、読む人によって誰もが主人公となりうるほどの存在感を放つ。

 

平凡に見える学校生活の中で、着々と進んで行く悲劇への準備。河原のヤブに転がる白骨死体。物語は序盤から死の臭いを漂わせる。

 

あの頃、死はもっと身近にあった。その身近さは、若くて強い生命力の裏返しだったのかもしれない。その生命力が躍動することなく閉じ込められた、この世界。魂の牢獄。それを作者は「平坦な戦場」と表現する。

 

そこを〝無事に〟くぐり抜けた人間が大人になる。死は遠ざかる。だがその時、魂はまだ生きているだろうか。

 

「なんでこんなところにいるんだろう?」

 

物語のトリックスターである山田君は、水族館の水槽に閉じこめられた魚たちに、自分の姿を見る。

 

作者の魂が込められた作品に、外部の評価など何の意味も持たない。魂を水槽に閉じ込めることはできない。時間も空間も超えていく作品というのは、そういうもののことだろう。

 

リバーズ・エッジ

 

急速に消えゆく土葬の風習を記録した労作。

 

重いテーマには違いないが、平易な言葉で綴られており、決して難解ではない。初めて知る土葬の風習に好奇心をくすぐられ、そこに込められた人々の願いに心動かされる場面もしばしばであった。

 

本書によれば、日本の火葬率は2005年時点で99.8%。「土葬はいずれなくなるだろう」と著者も考えていたそうだが、近年、その衰退のスピードは想像以上に凄まじいという。

 

2013年に「まだ土葬が九割以上残っています」と誇らしげに語っていたある地区の住職が、2019年には、「もう土葬は残っていません」とうなだれていたというエピソードは、読む人に衝撃を与える。

 

この土葬の急激な消滅が、本書の価値をより高いものにしていることは言うまでもない。失われゆくものを記録してきた柳田國男、宮本常一らの民俗学的業績に連なる貴重な仕事だと思う。

 

本書では土葬以外にもさまざまな弔いの方法にふれられているが、印象的だったのは、与論島の人々の風葬に対するこだわりである。

 

風葬では死者を野ざらしにするわけだから、土葬よりもある意味で雑な弔い方のように思われる。ところが、現地のある人はこう言ったという。

 

「(死者を)土に埋めることは、犬や猫じゃなるまいし、亡くなった父や母に対してたいへん申し訳ない。そんなことをすれば先祖に祟られるという気持ちだったのです」

 

そういう考え方もあるのか!と僕は目を見開かされる思いがした。著者の高橋さんも、「この返答には、正直なところたいへん驚いた」と述べ、「少なくとも明治時代、風葬から土葬への移行期の与論島の人々にとって、風葬は、土葬と比べることのできないほど、はるかに自然で正しいと弔い方だったのである」とまとめている。

 

このように、自分のこれまでの価値観や考え方がひっくり返される瞬間、これこそが読書の醍醐味だろう。それは、自分の知識を増やすというより、自分の知識が及ばない世界の大きさに気づく体験である。

 

考えてみれば、僕らは「あの世」のことを何一つ知ることができない。にもかかわらず、人々は太古の昔から、死者をよりよい場所へ送るための橋渡しを試みてきた。

 

そのような「未知の世界への旅立ち」の時に、当時の人々が身近に触れ、その生活を支えてきた「土」に身を委ねるのは、とても自然なことのようにも思える。

 

とすると、これからの僕たちは、何に身を委ねてあの世へ旅立ってゆくのだろうか。そうした死の地点から、自らの生を捉え直すきっかけをくれる一冊である。

 

土葬の村 (講談社現代新書)

 

ネットを見ていたら、こんな記事があった。

 

イーロン・マスク現実を知る「自動運転は難しいね」

 

 

僕も何度か、自動運転技術を搭載した車に乗せてもらったことがある。

 

メーカーや車種によって精度の違いはあるらしいが、乗ってみた感想は「けっこういい線いってるやん」という感じだった。

 

道路のレーンの真ん中を走る、前方の車との車間距離をとる、そのための速度調整など、高速道路ではほぼ完全に「おまかせ」で走行できるくらいの技術は完成しているように見えた。

 

しかし一般道ともなると、整備されていない道路もたくさんあるし、イレギュラーな判断を迫られる状況もたくさん出てくる。「人間が運転するのを補助する役割」としては使えるが、一般道の完全な無人走行となると、これはほとんど「無理でしょう」という気がする。

 

無人運転の自動車は、公道で走らせるという実践的なトライアンドエラーの経験を積むことがむずかしい。というのも、たった1回の失敗が人命を奪うことにつながりかねないからである。しかも実践的なトライアンドエラーができたところで、イレギュラーな状況は無限に発生する。その全てに対応することなど不可能なのである。

 

ひとつの「失敗」の代償が小さく、取り返しのつくものであれば問題ないかもしれないが、自動運転技術の場合、それが文字通り「致命的」な結果をもたらす。そうである以上、無人の自動運転車が公道をバンバン走るという未来は、きっとやって来ないだろう。

 

もちろん、「公道」の方を無人運転車用に改造してしまうという手はある。だがそれではもはや、みんなが考えていた「自動運転車」とは別のものである。

 

実は、僕がこの記事を読んで最初に思い浮かべたのは「書き起こしソフト」のことであった。インタビューの録音テープなどの音声を読み込んで、自動でテキストに起こしてくれるソフトのことである。

 

実はこれも、自動運転技術と同じような問題を抱えている。

 

実際のところ、書き起こしソフトの精度もかなりいいところまで来ている。音量や滑舌に問題がなく、特殊な用語や方言を用いていなければ、「だいたい間違いなく書き起こしてくれる」くらいの精度はある。

 

しかし、仕事で使う音源の書き起こしを、完全にこのソフトに任せられるかといえば、「全く無理です」と言うほかない。

 

僕も仕事で書き起こしをすることがあるので、知り合いに「書き起こしソフトって使えるんですか?」と聞かれることがある。僕はそのたびに、「全然使えません」と答えている。

 

もちろん使いようによっては時間の短縮にはなる。たとえば、ソフトが書き起こしたものを、後で人間が聞き直して修正するような形で、である。しかし、人間がその音源を全く聞かずに済むということは、仕事の上ではあり得ない。これもまた自動運転と同様に、「取り返しのつかない失敗」につながる可能性があるからである。

 

音源の99.9%が完璧に書き起こされていたとしても、その取材において最も重要な0.1%の部分が誤っていれば、それは完全なる失敗となる。そうでなくても、音源には、テキストだけには還元できない、話者の微妙な息づかいや気持ちの変化が記録されている。それはやっぱり、人間がその耳と心で拾い上げるしかないのである。

 

AIが発達してくると、こうした「自動○○」という技術がどんどん出てくるのだろう。しまいには、自分の人生を代わりに生きてくれる「自動生活技術」なるものまで生まれてくるかもしれない。映画のマトリックスがまさにそういう世界なのかもしれない。けれども、「そんなのイヤだ!」と心の底から言えない世界が、現実にはたくさん存在しているのではないだろうか。

 

マトリックスのような世界は、一般的には「ディストピア」と呼ばれる。しかし、今ここにある現実が、その「ディストピア」以上に苦しい世界に感じられているとき、そのディストピアはもはやディストピアではなくなっている。

 

ユートピアもディストピアも、結局それは、人間にとってのユートピアであり、ディストピアである。

 

そこに「人間」がいなければ、その世界にいるのは一体誰なのだろうか。

「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる漫画家・水木しげる。彼が提唱した「幸福の七カ条」がある。

 

幸福の七カ条

第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

第二条 しないではいられないことをし続けなさい。

第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。

第四条 好きの力を信じる。

第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

第六条 なまけ者になりなさい。

第七条 目に見えない世界を信じる。

 

これをたまたまTwitterで見て興味が湧き、手に取ったのが本書『水木サンの幸福論』である。

 

本書は二部構成になっていて、この「幸福の七カ条」について説明されているのが第一部「水木さんの幸福論」。これが9ページから25ページまでと短い。

 

「なんだよ!」と思いきや、続く第二部「私の履歴書」にこそ、水木しげるの幸福論の味わいが詰まっているのである。

 

本書では一貫して、「好きなこと、熱中できることをし続けること」の大切さが語られる。それは漫画家として成功を収めた彼だからこそ、説得力を持つ内容と言えるだろう。しかし、水木さん自身は「成功=幸福」とは考えない。むしろ「成功しなくていいんです」と言う。そんなことよりも、「全身全霊で打ち込めることを探しなさい」と語るのである。

 

「そんなの、東大生が『学歴なんてどうでもいいんです』と言うようなもんだろ!」と腐りたくなるところだが、「私の履歴書」で語られる彼の戦争体験、会社員時代のダメっぷりを読むと、そんな陰気な妬みは吹っ飛んでしまう。

 

特に、左腕を失い死の淵をさまよった戦争体験は悲惨としか言いようがないが、水木さんの語りはどこかあっけらかんとしている。評論家の呉智英さんが、水木さんを評して「ほがらかなニヒリズム」と言ったそうだが、まさに、である。

 

本書の主題は幸福論だが、水木さんの語る戦争体験を読むだけでも大きな価値があると思う。なぜなら、残念なことではあるが、それを「昔話」として読めない現実が、僕らが生きるこの時代にも展開しているからである。

 

たとえば、水木さんと同じく、戦争で九死に一生を得た兄の宗平さんとの対話が、次のように紹介されている。

 

宗平●状況によっては早めに引きさがって新しく出直すこともできるのに、玉砕しろとか、退却すれば助かるのに、勝ち目がない戦闘を無理強いしたりとか、変な命令も多かったね。

 

しげる●指揮官にアホな人が多かった。水木サンはそう思っています!死んでいった人たちへの鎮魂の思いは強まるばかりです。

 

これを読んで、現在のコロナ禍で行われようとしている東京オリンピックを想起する人も多いのではないか。びっくりするほどの「歴史は繰り返す感」である。

 

人間の幸福は社会と切り離しては語れない。だからこそ、歴史の大きなうねりに翻弄されながらも、自分の幸福=好きなことを手放さなかった水木さんの生き方に、ひとつのロールモデルとしてのリアリティを感じるのかもしれない。

 

水木サンの幸福論 (角川文庫)

 

思えばずいぶんブログをさぼっておりました(笑)。

 

ある意味で、僕のブログは時間が止まったようになっていたわけですが、コロナのおかげで、人生の時間が止まったようになってしまっている人もいるのではないでしょうか。

 

誰もが経験していることだと思いますが、人間はあまりに衝撃的な出来事が起こると、まるで時間が止まったように感じます。

 

僕の場合、「時間が止まった瞬間」と言ったときにまず思い出すのは、「ドラクエIII」での悲劇的なエピソードです。

 

ドラクエIIIといえば、言わずとしれたファミコンの名作RPG。当時小学4年生ぐらいだった僕は、みんなと同じように予約してすぐに購入。おそらく全国でも屈指のやり込みプレイヤーにまで成長したのでした。

 

ドラクエIIIが画期的だったのは「セーブシステム」。それまでは、ゲームの続きをするときには「ふっかつのじゅもん」と呼ばれる50文字ものパスワードを入力する必要がありました。まあこれが間違える間違える……(笑)。せっかくいいところまで進んだのに、ふっかつのじゅもんを間違えて書き写してしまい、二度と冒険に戻れなくなった勇者たちは数知れません。現在のようにパソコンでコピペ……なんてことができない時代、僕らはせっせと紙にえんぴつで書き写していたのです。

 

そんな僕らを歓喜させたのが、ドラクエIIIのセーブシステムでした。ゲームの中で「ぼうけんのしょ」に記録しておけば、自動的に現在の状態が保存され、次回はパスワードを入力することなく、冒険の続きを始められるようになったのです。

 

ところが、同時に別の問題も発生しました。この「ぼうけんのしょ」と呼ばれるセーブが、突然消えてしまうことがあるのです。これはどうすることもできません。

 

ゲームの電源を入れた瞬間、呪いがかかった時の音楽とともに、「おきのどくですが ぼうけんのしょ1は きえてしまいました」のメッセージが出てきた時は、本当に心臓が止まるくらいびっくりし、悲しかったことを覚えています。

 

この時も一瞬時間が止まりますが、僕が経験した「時間が止まった瞬間」は、さらに過酷なものでした。

 

「ぼうけんのしょ」は、3つまで作ることができます。セーブが消えてしまうことに備えて、その3つをフルに使うのです。

 

具体的には、「ぼうけんのしょ1」でゲームを進めたら、それを「ぼうけんのしょ2」と「ぼうけんのしょ3」にコピーする。そしてまた「ぼうけんのしょ1」でゲームを進めたら、「ぼうけんのしょ2」と「ぼうけんのしょ3」を消して、そこに「ぼうけんのしょ1」をコピーしておく……という具合です。

 

悲劇は突然やってきました。いつものようにウキウキしながらテレビの前に座り、リズミカルに「ぼうけんのしょ2」と「ぼうけんのしょ3」を消去します。そして「ぼうけんのしょ1」をそこにコピーする……のが正しい手順です。

 

ところが、その時は「ぼうけんのしょ2」「ぼうけんのしょ3」を消したリズムのまま、手が勝手に動いて、「ぼうけんのしょ1」まで自分で消してしまったのです。

 

これまでの冒険の記録が、全て消え去ってしまいました。いや、自ら消し去ってしまいました。すでにレベル20くらいまで行っていて、これからダーマの神殿で転職するぜ……!というくらいのタイミング。感覚的には、一週間やってきた仕事が、全て無駄になったような感じでしょうか。

 

「………………」

 

完全に時間が止まった瞬間でした。

 

セーブが消えてしまった時の「呪い」の音楽も流れない。「おきのどくですが……」というメッセージも表示されない。真っ暗な画面に「ぼうけんのしょをつくる」の文字だけが並んでいる。

 

自分でやったことなので、誰を責めることもできません。自分のこの手で、これまでの冒険の記録を全て葬り去ってしまったわけです。

 

まさに自業自得。でも僕はふたたび「ぼうけんのしょをつくる」をクリックし、新たに冒険を始め、やがて無事に世界を救ったのでした。

 

いやあ、あの時は本当に辛かった……。

 

これが、「時間が止まった瞬間」と言ったときに、僕が一番最初に思い出すエピソードです。

 

ついでに言うと、僕は、兄貴がやっていた「ファイナルファンタジーⅣ」のセーブデータも消してしまったことがあります。しかも、ラスボス直前まで進んでいたやつです。この時も誤って自分の手で消してしまった気がします。

 

「めちゃめちゃ怒られる……。いや、殺されるかも……」

 

と思いつつも、思い切って兄貴に正直に言い、謝りました。そうしたら意外にも、「ほんまか……。まあ、しゃーないな。これから気をつけろよ」と言って許してくれたのです!僕が弟にセーブを消されたら、絶対に大激怒まちがいナシです。

 

「神なのかな?」と思ったことは言うまでもありません。

 

それ以降、僕は「ウチの兄貴は世界一やさしい」と公言してはばかりません。今でもそう思っています。

 

止まった時間を再び動かしてくれるのは、勇気とやさしさなのかもしれません。

僕は日課(生活のスケジュール)を考えるのが好きだ。……などと書くと、さぞ規則正しい生活をしているのだろうと思われるかもしれないが、これがめちゃくちゃなのである。自分で考えた日課を全然こなせない。

23時に寝たかと思えば、その翌日は深夜2時に寝たりする。6時に起きたその翌日は、10時に起きたりする。だがいずれにせよ、だいたい7時間半くらいで目が覚めるらしい、ということは最近分かってきた。

日課といえば、僕の師であり盟友でもある浅井公平さんのブログが大変面白く、学びが多いのでぜひ読んで欲しい。何かを成し遂げるには必死で自分を追い込まなければならない、と思っている人にとっては目からウロコのはずである。

 


日課を考えるということは、「自分の身体のリズムを知る」ということであり、もっと言えば「生命のリズムを知る」ということにつながっていると思う。そのリズムは人それぞれ違うのであり、だからこそ自分で研究するしかない。そこが面白いのだろう。

リズムは生命そのものである。時間にリズムがあるのではなく、リズムが時間なのだ。

本川達雄さんが『ゾウの時間 ネズミの時間』の中で言うには、哺乳類はその寿命の長さにかかわらず、だいたい心臓が20億回打つと死ぬらしい。だから、ネズミのように心臓のリズムが早ければ寿命は短くなるし、ゾウのように遅ければ寿命は長くなる。とはいえ、「物理的な寿命が短いといったって、一生を生き切った感覚は、存外ゾウもネズミも変わらないのではないか」と本川さんは言う。

ユクスキュルは『生物から見た世界』の中で、生物ごとに異なる時間を生きていると主張する。人間にとっての18年が、ダニにとっては一瞬のように感じられているかもしれない、と言うのである。そのような生物ごとの世界を、ユクスキュルは「環世界」と呼ぶ。

そしてもっと厳密に言えば、この「環世界」は、人間同士であってもそれぞれ違うはずなのだ。ユクスキュルは、その例として職業ごとの環世界を挙げているが、さらに突き詰めれば、人それぞれに異なる環世界が本当はあるのだろう。

そしてここで重要なのは、この環世界は決して閉じた世界なのではなく、あくまで世界とのつながりの中で成立している、ということである。要するに、「その生物と、世界の全体との関係性のありよう」が、それぞれの環世界を成立させているのである。

だから、ある人が「8時に起きて、24時に寝るのがベストだ!」と思っても、季節によって日の出と日の入りの時間は変わってくる。それに伴い、身体のリズムも変化していくだろう。必然的に、その人が「ベストだ!」と思っていた状態も維持できなくなるはずである。

身体のリズムは地球のリズムと不可分であり、究極的には宇宙のリズムと不可分である。「時計の時間」は絶対的なものではなく、単にそのリズムをカウントしているにすぎない。

僕が日課に興味があるのは、まず第一に機嫌よく生きるためであり、そのためには身体と魂への配慮が欠かせない。それが結果的に仕事のパフォーマンスを向上させるかもしれないし(今のところ全く成果は見られないけれども……)、もっと言えば「どういう仕事をするのか」ということにも関わってくる。いや、そちらのほうがむしろ本質的だろう。

鬱にもいろいろあるけれど、その要因の最たるものは「魂からの苦情」ではないだろうか。それはだいたい身体を通して意識へと伝えられる。日課を考えることは、もしかすると、魂の機嫌を伺うことでもあるのかもしれない。

僕のような意志薄弱な人間は、日課を決めても全然それを守れない。にもかかわらずそれを懲りずに考えるのは、魂に対して「気に掛けてますよ」というメッセージを自分に送っているのかもしれない。そのこと自体に意味があるのかもしれない。

 

日課を考えることは、一般的に、時計の時間に自分の生活を合わせることだと考えられる。しかしそうではなく、時計の時間をめやすにしながら、自分の生命のリズムを探求すること。それが日課を考えることの本当の意味なのかもしれない。それは自分の生きる時間を、再定義し直す営みとも言えるかもしれない。

 

 

 

主人公の吉田浩文さんは、祖父の代から潜水業を営む一家の三代目として生まれた。その意味では、彼は潜水士のサラブレッドと言えるかもしれない。

 

水中での動きには自信のあった吉田さんだったが、父親ははるかに速かったという。その父親が、「おめえのじいさんは俺よりも速えぞ」と言ったというエピソードは、まるで強さを極めようとする、格闘マンガの一場面を想起させた。

 

しかし吉田さんの人生は、「サラブレッド」という言葉のイメージからはかけ離れたものであった。いわゆる「下積み」から這い上がれる気配も見えず、父や祖父には到底追いつけそうにない状況の中で、彼は家の仕事から離れ、独立の道を選ぶ。だがそれはいばらの道にほかならなかった。

 

そこに引き寄せられるようにやってきたのが「遺体の引き上げ」という仕事だった。持ち前の技術の高さは関係者を唸らせ、遺族らに感謝されることもあった。だがその仕事につきまとうある種の過酷さは、吉田さんの精神と身体を次第に蝕んでいった。

 

脳裏に焼き付く死者の表情。損傷のひどい遺体を前にした時の恐怖。かろうじて心のバランスを保とうと、引き上げの現場で「笑う」吉田さんの姿は、周囲から奇異の目で見られた。不吉な仕事であるかのような偏見もあった。遺族から捜索費用を回収できず、借金はふくらんでいった。

 

そうした中でも、吉田さんは非凡な才能を発揮し続ける。警察がいくら探しても見つからない遺体を、吉田さんは「なぜか」見つけることができた。小学1年生の時、「人命救助がしたい」と作文に書いた吉田さんにとって、それは天職であったかもしれなかった。

 

死者やその遺族との関わりの中で、吉田さんは多くのことを学んた。「遺体に育てられた男」というのは、著者である矢田さんの表現である。やがてその仕事は、父や祖父と比較されることのない、彼独自のアイデンティティの拠り所にさえなっていった。

 

その後、東日本大震災が起こり、吉田さんらの暮らす閖上地区は巨大津波によって壊滅、多くの死者、行方不明者を出した。吉田さん自身も被災者となり、家族と共に避難所に身を寄せながらも、行方不明者の捜索に尽力することになる。

 

およそこのような流れで物語は展開するが、吉田さんの経歴を改めて振り返ると、まるで震災の発生を知っていた神様が、そこで吉田さんに役割を担わせるべく、あらかじめ準備をさせていたかのようにさえ思えてくる。

 

地震の発生、津波の襲来、その後の被災状況の描写は圧巻で、僕はただ、その場に立ち尽くすようにして読み進めるしかなかった。多くの人生が、避けようのない運命の渦に飲み込まれた。そして助かった人もまた、「誰もが取り返しのつかなさの中を生きていた」。著者によるこの言葉が、僕には強く印象に残った。

 

「誰もが取り返しのつかなさの中を生きていた」

 

この言葉は、被災者の置かれた状況、そこでの心情のありようを超えて、一種の普遍性を孕んでいる気がした。もちろん、震災がもたらした「取り返しのつかなさ」は、計り知れないものがある。と同時に、本当は全ての人が、それぞれの「取り返しのつかなさ」の中を生きている。それが人生というものではないだろうか。

 

「取り返しのつかなさ」は、「かけがえのなさ」と表裏一体のものでもある。「取り返しのつかない」悲しみは、その対象が「かけがえのない」存在であったことの、何よりの証だろう。しかしそのような「かけがえのなさ」を、普段はあまり意識することなく生活しているのが人間というものである。だが僕はこの『潜匠』を読んで、そのことを改めて意識させられた。

 

物語の序盤、吉田さんは、遺体を発見できなかった遺族の姿を見て、「家族がみつからないということの取り返しのつかなさ」を痛感する。「この人は親として何か月ものあいだ懸命に息子を探し続けるかもしれない。いや、ひょっとするとこのまま一生浜辺をさまよい続けるのかもしれない」と。この部分は、吉田さんが震災の行方不明者を必死で一人でも多く引き上げようとする伏線にもなっている。

 

だから吉田さんにとって、遺体を引き上げるということは、死者の魂を救うことでありながら、同時に遺族の魂を救うことでもあったのだと思う。どちらの魂も、決してこの世をさまよい続ける必要のないように。それは、人生の「取り返しのつかなさ」に対する、ささやかな救済でしかないのかもしれない。だがそのために、彼は潜り続けたのではないだろうか。

 

最後に、著者である矢田海里さんは、僕の尊敬する友人でもある。きれいに収まる結末を用意しなかったのも彼らしいし、特に終盤、あくまで自分は悲しみの側、弱さの側に立つのだという、覚悟のようなものが感じられた。

 

全ての人間は文脈の中で生きている。文脈なき生は存在しない。しかしその生の文脈が語られる人間と、語られない人間がいることもまた確かである。そうだとすれば、ひとりの人間の生きる文脈を書き綴ることは、その人間の魂を救済することにつながるのかもしれない。

 

このセンシティブで難しいテーマを、よくぞここまで魅力的な作品に仕上げたものだと思う。矢田さんが優れた書き手であることは知っていたけれど、この完成度には驚いた。大いに心を動かされた。よくぞここまで、吉田さんの記憶の海に潜り、彼の人生の文脈を拾い上げてきたものだと思う。

 

冒頭からぐいぐい引き込まれ、最後まで一気に読み切ってしまった。いずれ、ノンフィクションの金字塔と呼ばれるようになる作品だと僕は思う。

 

 

潜匠 遺体引き上げダイバーの見た光景

矢田海里『潜匠 遺体引き上げダイバーの見た光景』(柏書房)