地域づくり情報誌『かがり火』で対談させていただいたライターの矢田海里さんが、本を出版されました!
被災地に10年通い続けて書き上げられた、渾身のノンフィクションです。
重いテーマではありますが、興味のある方はぜひ読んでみてください!
ちなみに『かがり火』での対談は下記から読めますのでこちらもぜひ。
地域づくり情報誌『かがり火』で対談させていただいたライターの矢田海里さんが、本を出版されました!
被災地に10年通い続けて書き上げられた、渾身のノンフィクションです。
重いテーマではありますが、興味のある方はぜひ読んでみてください!
ちなみに『かがり火』での対談は下記から読めますのでこちらもぜひ。
立石BASEに行ってきました!
もう居心地が良すぎて、油断すると永遠に居着いてしまいそうです(笑)。
ゆず茶が美味で2杯いただきました〜♪
また機を見て遊びに行きたいと思います!
■立石BASE Twitter
https://twitter.com/Tateishibase281
僕も少しだけお手伝いさせていただいている「立石BASE」。
クラウドファンディングでも多くの方々にご支援いただき、本日2月13日にプレオープンしました!
所在地は葛飾区立石2-8-1の奥の方の家。
営業時間は11:00〜19:00、不定休。
「看板を出していますので、それを目印にいらしてください。改装途中ですので、立石BASEを知ってくださっている温かな皆様限定です。お越しいただける際は、できればメッセージをいただければ嬉しいです。ご来店、お待ちしてます!!」
とのこと。お近くの方はぜひ!
■立石BASEツイッター
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「どうせ死ぬんだ(笑)」
小説家の中山七里さんが、あるインタビューで言った言葉だった、と記憶している。改めて検索してみたが出てこないので、間違っていたらスミマセン。
一見投げやりに聞こえる言葉だが、そのインタビューではポジティブな文脈で使われていた気がする。「どうせいつか死ぬんだから、好きな人がいたらその人と一緒にいればいいし、好きなことがあればそれをやればいい」というような感じで。
こうしてずっと覚えているということは、僕にとって印象的な言葉だったのだろう。けれども、中山さんのように、それを自分の生き方に反映してきたかというと、かなりアヤシイ。そこまで割り切れない自分と共に生きてきたような気もする。
きのう、あるZoomでの集まりの中で、こんな話があった。
生きる意味に答えなどない。だがひとつ言えるのは、それを問わなければならなくなったのが現代という時代。かつての社会では、生きる意味は問うまでもなく、共同体が教えてくれた。自然の循環、人間世界の循環の中では、どのような死も意味を持つ。一方で、動物たちは「生きる意味」など問う必要もなく生きている。人間はそういう生き方に理想の姿を見たのではないか。人間はただ生まれて、ただ死んでいくということでしかない。だがその中で、自分の役割を見出し、それをこなしながら、ただ生きている。
僕はこの話を聞いて、中山七里さんの「どうせ死ぬんだ(笑)」を思い出したのである。
中山さんの言葉を読んだ時、僕はそれを、人生をより充実したものにするための言葉として受け取ったような気がする。その意味で、「どうせ死ぬんだから、好きなように生きればいい」と。だがそうではなく、「そもそも人生を充実させる必要などないのだ」という前提から、この言葉を受け止める方が面白いような気がした。中山さんも、そういう意味でこの言葉を使ったような気がするが、どんな言葉も、その意味を最終的に決定させるのは、その聞き手である。
逆説的だが、人生を意味で満たそうとすると、意味のために生きようとしてしまい、本当の意味での生きる意味を失ってしまうのかもしれない。……書いている自分も意味がよくわからないが、ここはかまわず進めてしまおう。要するに、人生に意味なんてない。死ねば何も残らないだろう。そう思うと、逆に安心して生きられる、という構造がある気がするのである。
「どうせ死ぬんだから、好きなことをすればいい」と思うと、「やっぱり好きなことをしなければ!」と思いそうになるが、そうではなく、「どうせ死ぬんだから、好きなことをしてもいいし、しなくてもいい。じゃあしてみてもいいかな!どうせしなくてもいいんだし。まあしたかったらすればいいし、したくなかったらしなければいいや!どうせ死ぬんだし!」というわけである。
「というわけである」という言葉がこれほどむなしい響きを持ったことはかつてない気がする。
答えのないことを考えると、こういうことになるのだろう。多分明日になったら全然違うことを思っている自信がある。そもそもこの文章自体に意味があるのか?と考えると、それはもう僕が決めることではないことが分かる。
もちろん僕が「書いてよかったー」と思うことで意味を見出したり、「何の意味もなかったな」と思うこともできる。だがそれとは別に、これを読んだ人が「よくわからんけど謎の元気出たよ!」と思えば意味があるのかもしれないし、「本当に時間の無駄でした」と思われれば意味がなかったとも言えるかもしれない。
そんなことを考えていると、なんだかどうでもよくなってくる。自分が死ぬ時になって、「そう言えばあんな意味のない文章を書いたりしたなあ……。あんなの一体誰が読むんだ(笑)」と思えば、ちょっといい思い出になるかもしれない。
世界は一体、何重の入れ子構造になっているのだろう。そんなことを考えていると、頭がクラクラしてくるのである。
■人生の選択は検証できない
レストランに行った時、すぐに注文が決まる人と、迷いに迷って時間をかける人がいる。
もちろん「どちらが良い」ということはないのだが、これを人生に置き換えて考えてみると、なかなか重要なテーマが見えてくるような気がする。
「すぐ注文が決まる」という人は、「自分はこういうのが好き」というのがだいたい決まっているケースが多いのではないだろうか。あるいは直感のままに動くことができる人なのかもしれない。「一番安いやつ!」という明確な基準で決めている場合もあるだろう。
ちなみに僕はどちらかと言うと、「迷いに迷って……」派である。できることなら、全てのメニューを把握した上で、一番美味しいものを選びたい。要するに欲深いのである。とはいえ、実際には財布と相談の上、一番安いのに落ち着くことが多いのだが……。もしも財布が許すならば、たとえば前回注文したA定食がすごく美味しかったとしても、2回目には、「実はB定食の方が美味しいかもしれない……」と、食べたことのないメニューを注文したくなるタイプである。
しかし、2回目に注文したB定食が、「すごく美味しかったA定食」を上回ることはあまりない。そのたびに「しまった〜!」と悔いることになる。仲の良い友人には、「またか!」とよく笑われたものだ。
これが行きつけの小さな定食屋なら問題ない。メニューもそんなに多くないので、何度も店に通い、全部のメニューを試した上で、「やっぱこれが一番好きだな!」というのを確定させることができる。ミッション・コンプリートである。
だが仮に、メニューの数が無限にあったらどうだろうか。
「これは美味い!最高だ!」と思うメニューに出会ったとしても、「いや、もっと最高なメニューがあるかもしれない……!」と、ひたすら新しいメニューに手を出していくことになるだろう。しかし一度「最高だ!」という料理に出会ったならば、それを超えるものに出会うことはかなりまれだろう。そうすると、「うーん、やっぱりアレには及ばんな……」というのを無限に繰り返すことになる。
無限にあるメニューに対して、もし自分の命も無限ならば、それらを無限に試すことができる。しかし残念ながらというか、幸いにしてというか、人間の命は有限である。どこかで終わりが来る。そのことをふまえた上で、「最高!」と思った料理を脇にやり、まだ食べたことのない新しいメニューに手を出し続けることは、その人に幸福感を与えてくれるだろうか。
それはそれで喜怒哀楽を満喫できて幸せな気もするし、やっぱり「最高!」と思えるものを何度も食べられることの方が幸せな気もする。これもまた正解のない問いである。
確か東京新聞のコラムだったと思うが、哲学者の内山節先生が、「全ての職業を経験することができない以上、どのような職業を選んだとしても、それは偶然である」ということを書いていた気がする。そう、世の中にはたくさんの職業があって、名前のついていないような仕事も含めれば、それこそ実質的に無限に近い数の職業があることになる。
そして僕たちは、それがどんなに好きな職業であったとしても、「全て」の中からそれを選んだわけではない。とすれば、その人は偶然見たり、知ったり、体験したものの中から、たまたま「最高だ!」と思えたものを選んだことになる。それが本当に「ベスト」かどうかは、検証しようがないのである。
■選択するのをやめる
その意味で、世界とはメニューが無限にある定食屋のようなもので、「全て」の中から選択することが実質的に不可能なことがたくさんある。職業はもちろん、住む場所もそうだし、家族やパートナーもそうだし、「生き方」自体がそうである。そして、こうした現実と折り合いをつける方法を、先人たちはずっと考えてきたのだと思う。
たとえば「メメント・モリ(死を想え)」という言葉はそのひとつだろう。いろんな解釈があるけれども、「人間はいつか必ず死ぬ有限な存在であり、だからこそ今を楽しもう」くらいの意味で使われることが多い。死という究極のネガティブから、今ここにある生をポジティブに照らし返すのである。いかなる選択をも超越して、今この時を肯定するのだ。
あるいは、『アルケミスト』という有名な小説にも登場する「マクトゥーブ」という言葉がある。これはアラビア語で「それはすでに書かれている」というような意味だ。世界の歴史も、人間の運命も、すでに神であるアラーの手によって書かれている。だから全ては必然であり、人間は未来を思い煩う必要はない、というわけだ。これもまた、人間の意識を「今」に留めてくれる言葉である。
仏教の曹洞宗に『修証義』という教典があり、その最初にはこう書かれている。「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」。生まれることとは何か、死ぬこととはどういうことか、これを明らかにすることが仏教者にとって最も大事なことだ、というのである。そしてそれらは「諦める」ことによって明らかになるのだ、とする解釈がある。生も、死も、あきらめる。ここには、「メメント・モリ」や「マクトゥーブ」に通じる思想があるように思われる。
どの教えも「今を生きよ」と僕たちに言う。それは逆に言えば、「人間がいかに今を生きられないか」ということを表してもいる。ちょっと油断すると、過去を悔いたり、未来に不安を感じたりしてしまうのが人間である。特に、未来は誰にもわからない。未来がここまでやって来た時には、それはすでに「今」なのであり、その意味で、未来は永久にやって来ない。無限の彼方にある。
その無限の未来には、無限の選択肢があるように思える。だがここまで述べてきたように、僕たちは「全て」の中から選択することはできない。にもかかわらず、常に「ベストな選択をしなければならない」という脅迫観念にかられてしまう。そんなことはできないのだ。検証のしようもない。ではどうするか。
「メメント・モリ」「マクトゥーブ」「あきらめる」という教えから引き出せるひとつの方法は、「選択するのをやめる」ということかもしれない。もちろん日々の生活の中で、何かを選ばなければならない場面はあるだろう。だがそれを「選択」として捉えるのではなく、「創造」として捉えてみる。人生を、複数の未来から選ぶものではなく、現在から生み出すものとして生きる。それは別の言い方をすれば「偶然を必然として生きる」ということになるかもしれない。
■個人としての主体、共同体としての主体
「メメント・モリ」「マクトゥーブ」「あきらめる」という言葉には、人間に死を意識させ、それを受け入れることを助ける働きがある。そのことによって「生の意味」が輪郭を持って立ち現れてくることがあるのかもしれないし、反対に「生に意味などなかった」と爽やかな悟りに至れる人もいるのかもしれない。それは僕にはわからない。ただひとつ言えるのは、現代の僕たちと、近代以前の人々とでは、この「死」に対する感覚がずいぶん違うだろうということである。
というのも、現代の僕たちは「個人」という主体を基盤にした社会の中で生きている。だからひとつの生は、基本的に「一人の人間の誕生から死まで」として完結する。だが近代以前の社会の主体は、個人ではなく共同体である。個人が死んでも共同体は生き続ける。ひとりの人間と共同体が、不可分に結び合う形で主体を形成しているとき、ひとりの人間の死は、僕たちが考える個人の死とはずいぶん違うものとして感じられていたはずだと思うのである。
たとえば文化人類学者の出口顯は、「多くの民俗社会には、孫に祖父母と同じ名前を与えたり、孫を祖父母の生まれ変わりとみなすといった、祖父母と孫という互隔世代の同一化が存在する」ということを指摘している(川田順造編『近親性交とそのタブー』)。あるいは、個人の生存よりも家(イエ)の存続が重視された時代があったことは、誰もが知るところだろう。そして個人が主体であることと、共同体が主体であることの最も大きな違いは、その生命の「有限性」と「無限性」の違いなのではないか。
言うまでもなく個人の生は有限である。しかし共同体は無限の生を持ち得る。共同体のメンバーとしての人間は有限な存在だが、それは共同体としての無限性、永遠性を内面化させた人間である。そういう人たちが、「メメント・モリ」「マクトゥーブ」「あきらめる」というような言葉を聞いたとき、彼らは現代の僕たちとは全く違った意味を、そこから引き出してくるような気がするのである。
■「現在する未来」としての他者
その感覚を僕らは全く理解できないのかといえば、そんなことはないと思う。たとえば、家族は最小の共同体と言われる。自分の命よりも子どもの命、孫の命の方が大事と思っている親、祖父母はいくらでもいる。そうした自他の境界があいまいな感覚を基盤にしながら、「メメント・モリ」を意識したとき、人はどのように生きたいと思うだろうか。
自分はいずれ死ぬ。だが自分の子どもは、孫は、自分よりもずっと長く生きることになるだろう。そうだとしたら、彼らが少しでも楽に生きられるように、今のうちにできることをしておこう……。そんな風に思うかもしれない。もちろん人それぞれだろうが、その行為の対象は、自己よりもむしろ他者に向けられやすいはずである。なぜなら共同体内においては、他者と自己は共にひとつの主体を形成しているからである。そしてその主体は、自分の死後も生き続けるのである。
そしてその行為の対象としての子どもや孫は、共同体の〝未来〟そのものである。それは、個人が思い描く無限の彼方の未来、抽象的な未来、永久にやって来ない未来ではない。ここでの子どもや孫は、今ここにいる、有限の、具体的な、選択の余地のない、絶対的な存在としての〝未来〟である。別の言い方をすれば、それは「現在する未来」であり、その時、現在と未来は併存しているのである。
■「現在する過去」としての神話
主体が個人ではなく、共同体として無限性、永遠性を持つことは、主体としての認識のレベルを大きく変えることになる。たとえばこういうことである。200年周期で発生する巨大地震があるとしよう。この周期を、一人の人間の寿命(たとえば80年)の中で捉えることは不可能である。同じ場所に住んでいたとしても、地震の被害に遭う人もいれば、遭わない人もいる。そうした記録を誰かが残したとしても、それを読む人がいなければ、その記録はないも同然である。
しかし共同体は、1000年単位で生き続けることもある。そのような共同体は、ひとつの主体として、巨大地震が発生する200年の周期を認識する可能性を持っている。それはたとえば「神話」という形で、である。そこでは、地震は大地の聖霊の怒りや、巨大な怪物のような比喩として描かれるかもしれない。いずれにせよ、「このような大変なことが起こった」ということが語り継がれるのである。
ではその地震が発生する「200年の周期」は、どのようにして把握されるのだろうか。これはおそらく期間としての200年として把握されるというよりも、地震が発生する「兆候」として把握されるのではないだろうか。現代でも、東日本大震災の直前に、「変わった形の雲が現れた」とか、「大量のクジラが浜に打ち上げられた」とか、「広い範囲で謎の異臭がした」などという報告があったそうだ。そのような「兆候」は、きっと多くの人によって語られ、神話や物語の1ページに刻まれるのではないだろうか。そしてそうした兆候について、「何代前の先祖が同じ経験をしたらしい」ということも語られるかもしれない。そうすれば、だいたいどれくらいの周期でその出来事が起こるのかを推測できるようになるかもしれない。
このような神話は、繰り返される過去として、循環する時間意識を形成する。そこでは、神話は言わば「現在する過去」である。そして循環する時間意識の中では、それは同時に「現在する未来」でもある。念のために付け加えておけば、神話だけでなく他者もまた、「現在する未来」でもあり「現在する過去」でもあり得る。たとえば先に述べたように、親から見た子どもは、共同体の〝未来〟そのものとしての「現在する未来」である。たがその子どもは同時に、親の過去の再現でもある。その時の子どもは「現在する過去」として認識され得るはずである。このようにして、共同体の時間は、円環を描く永遠の運動として捉えられるのである。
■有限の鍵盤と無限のメロディー
そもそも僕がこんなことを書き始めたのは、将棋の藤井聡太氏のニュースを見たことがきっかけだった。高校生にして二冠を達成し、年間で4500万円もの賞金を獲得したというニュースである。「そこから何でこんな話になるんだよ」と思われるかもしれないし、僕もちょっとそう思っているだが、とにかく僕がそのニュースを見て思ったのは、「藤井さんは将棋が本当に好きなんだな」ということだった。
というのも、まだ高校生なら何にでもなれる可能性がある、つまり、それこそ無限の選択肢があるわけである。では藤井さんは、その無限の選択肢の中から将棋を選んだのかと言えば、きっとそうではないだろう。そこに選択などなかったのではないか。将棋が好きで、もっと強くなりたい。そう思って没頭しているだけで、それは決して他の職業と比較して選んだ道ではないような気がする。
などと書きながら、藤井さんが何かのインタビューで「いや、将来の職業はすごく悩んで、職業一覧とか読み漁って、やっぱり将棋が一番向いてるかな、と思って決めました」とか言ってたらすみません。というか、ぜひ教えてください(笑)。そういう意味ではイチロー的な生き方に似ている気もするけれども、僕は別にそういう生き方を推奨しているわけではない。そうではなく、藤井さんは「これ最高!めっちゃ楽しい!」というものに出会ったんだな、と思ったのである。
藤井さんにこんなことを言う人はいないと思うけれども、「ほかにもいろんな世界があるのに、どうせそういうのは見ずに決めちゃったんでしょ」という見方だったできないことはないはずである。でもそれに対しては、そもそも「全て」の中から選ぶことなんて不可能でしょう、ということが言える。「もっと楽しいことがあるはずだ!」という未来への意識が、「これすごく楽しい!」という現在の喜びを窒息させてしまうことが往々にしてあるような気がする。
将棋というひとつのカテゴリーを極めようとすることは、無限の世界に、有限の枠を導入することでもある。それはいい意味で、小さな定食屋のメニューをミッション・コンプリートしようとするようなものだろう。メニューの数は限られているかもしれないが、だからこそ、一つひとつのメニューの深さを追求することができる。店の大将と親しくなれるのも、同じ店に通う人間の特権である。「全てのメニューを把握した上で、一番美味しいものを選びたい」という指向が、将棋では、考え抜かれた一手を導くことにつながるだろう。
「海の上のピアニスト」という映画の中に、次のような意味のセリフが出てくる。「鍵盤は有限だからこそ、無限のメロディーを生みだすことができる」。確かに鍵盤の長さが無限にあったら、ピアニストは途方に暮れるだろう。だが彼はやがて眼の前にある鍵盤を弾き始め、自分の手の届く範囲の鍵盤だけで、素晴らしい演奏を聴かせてくれるのである。
知る人ぞ知る僕の音楽活動ですが、いつの間にか各種サイトで楽曲を配信中です!
≪ストリーミングサービス≫
■Apple Music
■AWA
■KKBOX
■LINE Music
■レコチョク
■Spotify
■うたパス
■YouTube Music
≪ダウンロードサービス≫
■iTunes Store
■mora
■music.jp
■レコチョク
配信中の楽曲は、今のところ下記の4曲です。
「腹筋20回」
「秋風」
「国境」
「自動販売機の釣り銭のところに今日も手を突っ込む」
各サイトで「杉原学」で検索していただければ出てくると思いますので、よければ聴いてやってくださいー!
近いうちに、あの伝説の名曲「上腕三頭筋をきたえろ」もラインナップに加わるかも!?
お楽しみに〜!!!
著者の梅原さんは、日本初のプロ・ゲーマーにして、世界最強の格闘ゲーム・プレイヤーである。
本のタイトルは、「勝ち続ける意志力」。正直、苦手な感じの言葉だ。にもかかわらずこの本を読んでみたいと思ったのは、「真剣勝負を極めた人にしか見えない世界がある」と思うからである。そしてその世界には、ある種の普遍性が存在する気がする。
宮本武蔵の『五輪書』などはその好例だろう。「いかに敵を斬るか」を突き詰めた兵法書が、兵法を必要としないはずの多くの人々に愛読されている。それはそこに、ある種の「真理」のようなものが含まれていて、兵法以外のことにも通じるはずだ、と思われているからだろう。
もう少し身近なところで言えば、将棋の羽生善治さんの著書などもそうだろう。『直感力』『決断力』『大局観』というタイトルを見てもわかるように、将棋を極めた人の哲学は、将棋という枠を超えて人生に通じるものがある、と考えられているのである。
他にも「伝説の雀士」と呼ばれた桜井章一さんや、騎手の武豊さんなども、そうした人物の一人かもしれない。「勝負の世界を極めた人の言葉には、何か深いものがある」。それは多くの人が感じていることだろう。
本書の著者である梅原大吾さんが極めたものは、先述したように「ゲーム(格闘ゲーム)」である。「何だ、ゲームか」と言う人もいるかもしれないが、将棋だって、麻雀だって、野球だって、ゲームの一種である。
ただその中でも、梅原さんが極めた「ゲーム」の世界には、将棋や野球とは大きく異なる部分がある。それは、最近まで「プロの世界が存在しなかった」ということである。要するに、職業としてのカテゴリー自体が成立していなかった。
たとえば将棋なら、すでにプロの世界が確立されていて、「とにかく勝ち続ければ食っていける」。もちろんそれが並大抵のことではないのは言うまでもないが。一方で、「ゲーム」にはプロの世界がなかった。単純に娯楽、遊びとしてしか考えられていなかったし、今でもほとんどの人の認識はそうだろう。
この違いは大きい。「それだけで食っていける」というプロの世界があれば、そこに目標を設定してひたすら努力する、という道筋を描くこともできるだろう。そして必然的に、それを支援するような組織なども整備されていく。圧倒的な才能、実力があれば、それは決して夢物語ではない。
だがプロの世界がなければどうか。いくら格闘ゲームで100戦100勝の実力があったとしても、そこだけに人生を懸けることは難しいだろう。「そんなこと続けても、将来何の役にも立たないよ」という声は、周囲の他人からだけではなく、自分の心の中からも聞こえてくるはずである。
僕は梅原さんとだいたい同世代なので、「ゲームでプロになる」ということがどれだけ非現実的なことと思われていたか、身を以て知っている。そういう「妄想」を抱いた人はたくさんいるはずだが、だからといって、そこに自分の人生を懸けるほど打ち込む人はほとんどいなかったように思う。そんな中で、彼はゲームを続け、自分自身が日本人プロ・ゲーマーの第1号になった。これはとんでもないことだと思う。
梅原さんを支えたもののひとつに、「好きなものを徹底的にやれ!」という親の考え方があったことは明らかだろう。おかげで梅原さんには「反抗期がなかった」という。このことは、子育てをしている親にとっても興味深いことではないだろうか。しかしその徹底的にやれと言った「好きなもの」が、まさかゲームだとは……。さすがの梅原さんの親御さんも困惑したはずである(笑)。
梅原さんは途中で麻雀に転向した時期もあったが、そこでもおよそ3年でトッププレイヤーにまで登り詰めたというのだから恐れ入る。やるとなったらとことん突き詰める姿勢と、そのための惜しみない努力。「何かを身につけたいと思うのであれば、丁寧に、慎重に、基本を学ぶべきだ」という言い古された言葉も、梅原さんが言うとより説得力を増す。
「何かを極めた人の哲学は、その分野の枠を越えて通じる」ということを冒頭で書いたが、梅原さんの次の言葉もそのひとつだろう。
「矛盾するようだが、結果に固執しないと結果が伴う」
勝つことに囚われ過ぎると逆に勝てなくなる、というわけだ。これは多くの勝負師の語るところではないだろうか。かの宮本武蔵も、心を一カ所に置かないこと、すなわち、心が何物にも囚われないことの大切さを『五輪書』の中で強調している。しかし「結果に固執しない」というのは口で言うほど簡単なことではない。梅原さんがそれをできるのは、「目的」と「目標」を明確に分けているからである。
梅原さんの「目的」は、ゲームを通して自分自身が成長し続けることだという。それに対して、ゲームの大会で優勝するというような「目標」は、言わば日々の成長を確認するための場、一里塚のようなものにすぎない。本当に大事なのは、一時的な結果ではなく、持続的な成長だというわけである。
そして持続的な成長のためには、持続的な努力が欠かせない。いくら努力が大切だからといって、短期間で息切れするようでは話にならない。だから彼はこう問いかける。「その努力は10年続けられるものなのか?」と。10年続けられるくらいの「ちょうどいい」努力をひたすら継続すること。これが何よりも大切だと言うのである。
こうして10年という長い年月を視野に入れながらも、「まずもって目の前の勝負に全力を注ぐ」。この長期的な時間意識と、短期的な時間意識の往復。ここに、彼がトップ・プレイヤーであり続けられる秘訣があるような気がする。それを可能にしているのは、「自分はゲームをやり続ける」という強い覚悟である。そしてその覚悟を支えているものこそ、「ゲームが好き」という純粋な思いなのではないだろうか。
「その努力は10年続けられるものなのか?」という問いは、同時に「お前、本当にそれが好きなのか?」という問いをも含んでいる。
本日、2021年1月15日に出版され全国の書店に並ぶ、すずきこうせいさん著『自由帳みせて!』(福音館書店)。
著者が40人以上の小学生、あるいは「元小学生」から、100冊以上の自由帳を借りてまとめたという労作です。
そしてなんと、僕の小学生時代の自由帳も収録されています!
かなり「う○こ」率が高かったはずなので、ちょっと心配しています(笑)。
とっても愉快な本になっていると思いますので、街で見かけたらぜひ手に取ってみてくださいませ!