「どうせ死ぬんだ(笑)」
小説家の中山七里さんが、あるインタビューで言った言葉だった、と記憶している。改めて検索してみたが出てこないので、間違っていたらスミマセン。
一見投げやりに聞こえる言葉だが、そのインタビューではポジティブな文脈で使われていた気がする。「どうせいつか死ぬんだから、好きな人がいたらその人と一緒にいればいいし、好きなことがあればそれをやればいい」というような感じで。
こうしてずっと覚えているということは、僕にとって印象的な言葉だったのだろう。けれども、中山さんのように、それを自分の生き方に反映してきたかというと、かなりアヤシイ。そこまで割り切れない自分と共に生きてきたような気もする。
きのう、あるZoomでの集まりの中で、こんな話があった。
生きる意味に答えなどない。だがひとつ言えるのは、それを問わなければならなくなったのが現代という時代。かつての社会では、生きる意味は問うまでもなく、共同体が教えてくれた。自然の循環、人間世界の循環の中では、どのような死も意味を持つ。一方で、動物たちは「生きる意味」など問う必要もなく生きている。人間はそういう生き方に理想の姿を見たのではないか。人間はただ生まれて、ただ死んでいくということでしかない。だがその中で、自分の役割を見出し、それをこなしながら、ただ生きている。
僕はこの話を聞いて、中山七里さんの「どうせ死ぬんだ(笑)」を思い出したのである。
中山さんの言葉を読んだ時、僕はそれを、人生をより充実したものにするための言葉として受け取ったような気がする。その意味で、「どうせ死ぬんだから、好きなように生きればいい」と。だがそうではなく、「そもそも人生を充実させる必要などないのだ」という前提から、この言葉を受け止める方が面白いような気がした。中山さんも、そういう意味でこの言葉を使ったような気がするが、どんな言葉も、その意味を最終的に決定させるのは、その聞き手である。
逆説的だが、人生を意味で満たそうとすると、意味のために生きようとしてしまい、本当の意味での生きる意味を失ってしまうのかもしれない。……書いている自分も意味がよくわからないが、ここはかまわず進めてしまおう。要するに、人生に意味なんてない。死ねば何も残らないだろう。そう思うと、逆に安心して生きられる、という構造がある気がするのである。
「どうせ死ぬんだから、好きなことをすればいい」と思うと、「やっぱり好きなことをしなければ!」と思いそうになるが、そうではなく、「どうせ死ぬんだから、好きなことをしてもいいし、しなくてもいい。じゃあしてみてもいいかな!どうせしなくてもいいんだし。まあしたかったらすればいいし、したくなかったらしなければいいや!どうせ死ぬんだし!」というわけである。
「というわけである」という言葉がこれほどむなしい響きを持ったことはかつてない気がする。
答えのないことを考えると、こういうことになるのだろう。多分明日になったら全然違うことを思っている自信がある。そもそもこの文章自体に意味があるのか?と考えると、それはもう僕が決めることではないことが分かる。
もちろん僕が「書いてよかったー」と思うことで意味を見出したり、「何の意味もなかったな」と思うこともできる。だがそれとは別に、これを読んだ人が「よくわからんけど謎の元気出たよ!」と思えば意味があるのかもしれないし、「本当に時間の無駄でした」と思われれば意味がなかったとも言えるかもしれない。
そんなことを考えていると、なんだかどうでもよくなってくる。自分が死ぬ時になって、「そう言えばあんな意味のない文章を書いたりしたなあ……。あんなの一体誰が読むんだ(笑)」と思えば、ちょっといい思い出になるかもしれない。
世界は一体、何重の入れ子構造になっているのだろう。そんなことを考えていると、頭がクラクラしてくるのである。