ネットを見ていたら、こんな記事があった。
僕も何度か、自動運転技術を搭載した車に乗せてもらったことがある。
メーカーや車種によって精度の違いはあるらしいが、乗ってみた感想は「けっこういい線いってるやん」という感じだった。
道路のレーンの真ん中を走る、前方の車との車間距離をとる、そのための速度調整など、高速道路ではほぼ完全に「おまかせ」で走行できるくらいの技術は完成しているように見えた。
しかし一般道ともなると、整備されていない道路もたくさんあるし、イレギュラーな判断を迫られる状況もたくさん出てくる。「人間が運転するのを補助する役割」としては使えるが、一般道の完全な無人走行となると、これはほとんど「無理でしょう」という気がする。
無人運転の自動車は、公道で走らせるという実践的なトライアンドエラーの経験を積むことがむずかしい。というのも、たった1回の失敗が人命を奪うことにつながりかねないからである。しかも実践的なトライアンドエラーができたところで、イレギュラーな状況は無限に発生する。その全てに対応することなど不可能なのである。
ひとつの「失敗」の代償が小さく、取り返しのつくものであれば問題ないかもしれないが、自動運転技術の場合、それが文字通り「致命的」な結果をもたらす。そうである以上、無人の自動運転車が公道をバンバン走るという未来は、きっとやって来ないだろう。
もちろん、「公道」の方を無人運転車用に改造してしまうという手はある。だがそれではもはや、みんなが考えていた「自動運転車」とは別のものである。
実は、僕がこの記事を読んで最初に思い浮かべたのは「書き起こしソフト」のことであった。インタビューの録音テープなどの音声を読み込んで、自動でテキストに起こしてくれるソフトのことである。
実はこれも、自動運転技術と同じような問題を抱えている。
実際のところ、書き起こしソフトの精度もかなりいいところまで来ている。音量や滑舌に問題がなく、特殊な用語や方言を用いていなければ、「だいたい間違いなく書き起こしてくれる」くらいの精度はある。
しかし、仕事で使う音源の書き起こしを、完全にこのソフトに任せられるかといえば、「全く無理です」と言うほかない。
僕も仕事で書き起こしをすることがあるので、知り合いに「書き起こしソフトって使えるんですか?」と聞かれることがある。僕はそのたびに、「全然使えません」と答えている。
もちろん使いようによっては時間の短縮にはなる。たとえば、ソフトが書き起こしたものを、後で人間が聞き直して修正するような形で、である。しかし、人間がその音源を全く聞かずに済むということは、仕事の上ではあり得ない。これもまた自動運転と同様に、「取り返しのつかない失敗」につながる可能性があるからである。
音源の99.9%が完璧に書き起こされていたとしても、その取材において最も重要な0.1%の部分が誤っていれば、それは完全なる失敗となる。そうでなくても、音源には、テキストだけには還元できない、話者の微妙な息づかいや気持ちの変化が記録されている。それはやっぱり、人間がその耳と心で拾い上げるしかないのである。
AIが発達してくると、こうした「自動○○」という技術がどんどん出てくるのだろう。しまいには、自分の人生を代わりに生きてくれる「自動生活技術」なるものまで生まれてくるかもしれない。映画のマトリックスがまさにそういう世界なのかもしれない。けれども、「そんなのイヤだ!」と心の底から言えない世界が、現実にはたくさん存在しているのではないだろうか。
マトリックスのような世界は、一般的には「ディストピア」と呼ばれる。しかし、今ここにある現実が、その「ディストピア」以上に苦しい世界に感じられているとき、そのディストピアはもはやディストピアではなくなっている。
ユートピアもディストピアも、結局それは、人間にとってのユートピアであり、ディストピアである。
そこに「人間」がいなければ、その世界にいるのは一体誰なのだろうか。