杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -33ページ目

「経緯」という言葉がある。

 

「その仕事を始めた経緯を教えてください」「その事件に至った経緯は……」などと使われる。【経緯】と書いて、「けいい」とも「いきさつ」とも読むらしい。いずれにせよ、僕らはおおよそ辞書にあるように「物事の経過」といった意味で使う。

 

しかし改めてこの字を見てみると、経緯というのは経(たて)と緯(よこ)である。それが交わるところに「経緯」がある。イメージとしては、「経(たて)」が自分で、そこに「緯(よこ)」という他者や出来事が重なってくるような感じだろうか。つまりその人の「経緯」を聞くことは、その人と他者との「重なり方=関係」を聞いているのである。

 

「経緯」とは「いきさつ」のことだが、それは決して自分ひとりで決まるわけではなく、他者との関わりの中で決まっていくということが、この言葉の中にすでに含まれているというわけだ。

 

「だからどうした」という話だが(笑)、ふと「経緯」という言葉が「たてとよこ」であるということに気づいて、「へー」と思った次第である。いまさらで恐縮ですが(笑)。

 

さらに言えば、さっきは「経(たて)」が自分だと書いたけれど、実は「緯(よこ)」と重なっていない「経(たて)」は存在しない。地球儀の経度と緯度は一定の間隔ごとに引かれた線で表されているけれども、実際にはそこに「間隔」などなくて、経度と緯度は線ではなく面として存在している。だから、どの経度も緯度と重なっているし、どの緯度も経度と重なっている。だからその人がいる場所は、経度と緯度との関係によって示すことができるわけだ。

 

僕らの存在というものも常にそういうもので、単体として存在するということはありえない。存在するところには必ず関係があり、むしろ関係があるから存在がある。

 

ちなみに、僕がこんなことを書くことになった「経緯」を「正確に」話そうとすれば、たぶん何時間もかかってしまう。それだけ誰もが複雑な「たてとよこ」との関わりの中で生きているわけである。しかもそこに「ななめ」の糸までからんできたりするから、人生とはやっかいで、またおもしろいのだろう。

 

 

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懲りずに「野菜の味噌炒め」を作っている。

 

今回は「ゴーヤとキャベツの味噌炒め」だ。

 

 

 

 

味付けは毎回変わらないのだが、素材の味がしっかり引き立つので、使う野菜が違えば不思議と飽きない。

 

そして気のせいかもしれないが、この「野菜の味噌炒め」生活になってから、体重がぐんぐん減っている気がする。

 

やっぱり野菜をたくさんとれるからか?

 

検証したわけではないのでなんとも言えませんが、「野菜の味噌炒めダイエット」、気になる方はやってみてください(笑)。

 

 

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人間、困ったときは助け合い。しかも、お互いに得意なこと同士を交換し合えたら、なおよいかもしれない。

 

先日あるそば屋さんの前を通ったら、写真のような看板?を見つけた。

 

 

 

 

「災害時麺類等協力店」。

 

こういうのは初めて見た気がする。要するに、「何かあったときには、俺は麺類で役立てるぜ!」という宣言である。カッコエエやないか。

 

こういうのを、それぞれの人間が宣言してみても面白いかもしれない。

 

「災害時料理等協力人」

「災害時介護等協力人」

「災害時保育等協力人」

「災害時お笑い等協力人」

「災害時和菓子等協力人」

「災害時単純作業等協力人」

「災害時IT等協力人」

 

……などなど。あなたも「災害時◯◯等協力人」を勝手に名乗ってみてはいかがだろうか。僕はせいぜい「災害時みんなと一緒におたおたする等協力人」くらいにはなれそうだ。

 

 

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ここ数日「野菜の味噌炒め」づいている。

なぜか。その経緯はこうだ。

味噌は体によい
 ↓
毎日食べたい
 ↓
毎日味噌汁
 ↓
さすがに飽きる
 ↓
でも味噌そのものに飽きたわけではない
 ↓
「おい、何とかならないのか」
 ↓
「味噌汁以外にも、味噌を食べる方法はあります!」
 ↓
「なんだと?」
 ↓
「たとえば、野菜の味噌炒めであります!」
 ↓
「貴様……」
 ↓
「はっ……」
 ↓
「今すぐ作ってみよ!」
 ↓
「かしこまりました!!」
 ↓
「いま手元にある野菜はナスとゴーヤだ。できるか?」
 ↓
「もちろんであります!」
 ↓
「やってみよ!」
 ↓
「はっ!」
 ↓
完成
 ↓
「美味いじゃないか!!」
 ↓
「ありがとうございます!」
 ↓
「で、明日はどうする」
 ↓
「明日、でございますか?」
 ↓
「そうだ。まさか同じものを食わせるつもりではあるまい」
 ↓
「はっ、しかし……」
 ↓
「食材ならある。ナスとダイコンだが……。できるか?」
 ↓
「はっ!!おまかせください!!」
 ↓
完成
 ↓
「美味いじゃないか!!」
 ↓
「ありがとうございます!」
 ↓
「で、今夜はどうする」(←イマココ)


とりあえず、3食連続で
「野菜の味噌炒め」は確定。

貴様もやってみたらどうだ!

 

 

ナスとゴーヤの味噌炒め

 

 

ナスとダイコンの味噌炒め

 

 

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友人と喫茶店をハシゴしながら、いろんな話をした。

 

最後に話題になったのは、「おのずからの流れ」と「みずからの欲求」との対立の中でいかに決断するか、という、とうてい答えが出そうにない話(笑)。

 

でも僕とは全く違う環境で暮らす彼から、大変多くのことを教わった。

 

・それが自らの欲求に反していたとしても、基本的にはおのずからの流れに従う方がよい。人はつい、選択する主体としての「自己」を不変なものとして、外部を変化させようとするが、本当は逆で、変化するのは自己である。その時は違和感があっても、それが周りに求められているならば、自分が変化していく。

 

・矛盾するようだが、変化するためには、同じことをひたすら繰り返すこと。そうするとやがて違う景色が見えてくる。

 

・自分の中に矛盾がなくなったら悟りだけれど、矛盾があるから人間。その矛盾が人間を成長させる。

 

・都市は、ボタンを押したら「電気がつく・水が出る・モノが買える」というように、欲求(煩悩)を満たす体系でできている。だから欲求はますます肥大化していく。自然の中で暮らしていると、良くも悪くもそうはいかない。そういう生活環境の違いによる影響は、僕たちが思っている以上に大きい。

 

他にもたくさんあった気がするが、ひとまず思い出したものを書いておきます。

 

言ってたことと全然違ったらご容赦を(笑)。

 

 

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連続対談「そんな生き方あったんや!」

を連載させてもらっている、

地域づくり情報誌『かがり火』

 

その『かがり火』と、

 

クラフトビールと有機野菜の店「ヤギサワバル」

がコラボレーション。

 

「かがり火ナイト」というイベントが

スタートするそうです。

 

第1回目のゲストは、

社会人を経て北京大学医学部に通う浅井公平さん。

 

中国語もよくわからないままに

北京大学で医者への道を歩み始めた、

とっても魅力的な人物です。

 

「何かをやり始めるのに遅すぎるということはない」

 

と断言し、自ら実践する彼の言葉は、

きっと聞く人に勇気を与えてくれるはずです。

 

どなたでも気軽に参加できますので、

ぜひ足を運んでみてくださいませ!

 

フェイスブックの告知ページはコチラ

 

以下はヤギサワバルオーナーからの告知文です。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

雑誌『かがり火』とのコラボレーション企画、
その名も「かがり火ナイト」。

同誌に登場したことのある方をお呼びして
お話を聞く、そして飲む、という

「バルとお話の日」スタイルの企画です。

かがり火は2ヶ月に一度の発行、

そして定期購読のみを基本としている

知る人ぞ知る雑誌です。

全国の頑張っている人、

それはどちらかというと有名な人ではなく
無名な人を取り上げてきた雑誌で、

地域の活動を軸に紙面が賑わっています。

初回ゲストは、35歳にして医学部に通い始め
医者を目指している浅井氏。
そして、学問の場は北京大学(現在大学2年生)。

ちょっと変わった経歴のドクターの卵、

浅井氏をゲストにお迎えします。

皆様のご参加、是非お待ちしています。

【日時】7月30日(日)
17:00 開場
17:30-19:00 かがり火ナイト
19:00-22:00 通常営業
※残られる方はそのままお店で飲んでいってください。

【参加費】1,200円(1ドリンク付)

 

【場所】ヤギサワバル

西武柳沢駅(西武新宿線)北口より徒歩4分

西東京市保谷町3-8-8

 

【予約・問い合わせ】

yagisawabar@gmail.com

080-9425-6660

 

 

 

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広島カープが好調だ。

 

7月23日時点で、2位阪神と9ゲーム差。まさに独走状態である。そんなチームを牽引しているのが、相手チームを震え上がらせるほどの強力打線。484得点は12球団の中でもダントツのトップ(2位はソフトバンクの409得点)。チーム打率も2割8分1厘と突出している(2位は楽天とソフトバンクの2割6分8厘)。

 

そんな強力カープ打線だが、印象的なのは全員が「次の打者につなぐ意識」を強調していること。たとえば今年のヒーローインタビューをいくつかひろってみると、こんな感じである。

 

「とにかくあんまりがっつかないように、繋ぐ意識でいきました」(安部選手)

 

「自分が絶対に返すというより、後ろに新井さんという偉大な打者がいるので、新井さんにつなぐんだという気持ちで打ちました」(丸選手)

 

「自分で決めようとすると力が入ると思ったので、後ろに繋ぐ意識で打席に入りました」(鈴木選手)

 

4番打者の鈴木誠也選手までもが「後ろに繋ぐ意識」で打席に入っているというのだから、その浸透具合はかなりのものだ。もちろんそれは偶然ではなく、チームの方針として貫かれているのである。カープの石井琢朗打撃コーチは、打線にとって大事なことについて次のように語っている。

 

「何が大事かというと、いかに後ろにつなげられるか、後ろに、後ろにどんどん回していくことだと思っています。〔中略〕ということで、そこから選手に意識してもらったのが『つなぐ』こと」(石井琢朗『タク論。』)

 

ここでの「つなぐ」というのは、必ずしもヒットやホームランを打つことではないという。

 

「状況によっては内野ゴロでも1点入るケースがある。外野フライはもちろん、満塁だったらフォアボールでも1点が入る。そういう状況判断のもと、まず最高の結果を求めて打席に立つんじゃなくて、マイナスなところから入る。一番しちゃいけないことは何なのか、何も起こらないことは何なのか。そう考えて打席に立ってほしい、と」

 

もちろんヒットやホームランが出れば100点満点だが、「(そういう)気持ちが強すぎて逆に失敗していたんじゃないか」、「だって凡打でも得点できる場面というのはたくさんあるわけですから」と彼は言うのである。

 

確かに凡打でも1点は1点である。カープの得点力の秘密はここにあるのだろう。だが、不思議なことがある。ヒットやホームランよりも、凡打を含めた「つなぐ」打撃に徹すれば、数字としての打撃成績は落ちそうなものである。ところが、カープの今期の成績を見ればわかるように、むしろ個人の打撃成績も上がっている。石井コーチはこの不思議な結果についてこう述べる。

 

「おもしろいのは、これが実は最高の結果を出すためにプラスに働くんです。マイナスから入ることで打席の中で気持ちに余裕ができて、最低限が最高の結果になったりするわけですよ。そんなシーンは、それこそ昨年たくさん見てきました」

 

野球は数字のスポーツと言われる。だから選手個人の評価も、多くの場合その選手が残した成績=数字によるところが大きい。だから、石井コーチが言うような凡打も評価する「つなぐ」打撃は、いい数字を残したい選手にとってはマイナスに働きそうなものだ。しかしこれが実際にはプラスに働いている。一体なぜなのだろうか。

 

僕はその理由のひとつに、「自分の役割の明確化」があると思う。このことによって、「自分はチームに役立っている」、あるいは「自分はチームに必要な存在だ」という感覚が強まり、自分の存在意義もまた明確化される。そこから生まれてくる自己肯定感のようなものが、選手のパフォーマンスを最高に引き出しているのではないだろうか。

 

唐突に思われるかもしれないが、この原理は私たちが日常暮らしている社会にもあてはまるような気がする。人が生き生きと健やかに生きられるのは、自分の役割を感じることができたり、誰かに必要とされていることを実感できているときだろう。

 

そして「つなぐ」という言葉は、そのまま「次の世代へつなぐ」ことに置き替えて考えられる。別にホームランのような100点満点はいらない。それを狙って最悪の結果で終わるよりも、凡打による確実な1点を積み重ねていくことを大事にする。これは社会で言えば、一時的な経済発展などを目指して結果的に社会を破壊するのではなく、次の世代を見据えながら「一番しちゃいけないことは何なのか」を考えることである。「今さえよければいい」という考えに貫かれた原発再稼働などは、「一番しちゃいけないこと」の最たるものだろう。

 

石井コーチは、「マイナスから入ることで打席の中で気持ちに余裕ができて、最低限が最高の結果になったりする」と言ったが、これがまさに「つなぐ」ことの効用だろう。次につなぐことに意識を向ければ、必ずしも自分自身が結果を出す必要性はないのだ、ということに気づく。そうすると、むしろ気持ちに余裕ができて、最高の結果を生み出したりする。今の社会は、誰もが「自分が結果を出すこと」に汲々として、余裕を失ってしまっているように見える。大事なのは「つなぐ」ことであり、結果が出ないこと以上に恐れなければならないのは、次の打者が打席に立てなくなってしまうことである。

 

「次世代につなぐ」と言うと、子どもを生み育てることがまず思い浮かぶが、「つなぐ」ことへの貢献はそれだけではない。いろんなモノや作品をつくって次世代に残すこともそうだし、後の世代が少しでも楽になるように、小さな工夫を積み重ねていくこともそうだろう。あるいは人間にとっての「よりよい生き方」を模索し、その精神を伝えていくこともできるかもしれない。

 

今のカープでは、このような世代をこえた「つなぎ」も大事にされているように見える。昨年引退した黒田博樹投手は、その投球術だけではなく、偉大な投手が持つ「魂」のようなものもしっかりつないでいってくれたのではないか。今年の広島投手陣の活躍、特に若手の活躍には、そのことが大きく貢献しているように思える。さらに昔にさかのぼれば、「炎のストッパー」と呼ばれた津田恒実投手の存在も浮かび上がってくる。「カープの投手は、投球前に必ずプレートに触れていく」(ウィキペディアより)と言われる津田プレートは、広島市民球場からマツダスタジアムへ移った今もしっかり残されている。そしてなにより、若手とベテランが見事に融合したいまのカープは、まるで僕たちが目指すべき社会を象徴的に表しているようにさえ見えるではないか。

 

まさか広島カープに、目指すべき社会のあり方を見出すとは自分でも思わなかったが(笑)、ここはいちカープファンの戯れ言と思って許していただきたい。

 

【引用・参考】

ベストタイムズ「石井琢朗『タク論。』」

 

 

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今年の夏も水難事故が後を絶たない。

よくあるのは、
助けようとして飛び込んだ人が
一緒に溺れて亡くなってしまうケース。

 

家族や友人はもちろん、人が溺れていたら

思わず飛び込んでしまう気持ちはよくわかるが、

「実際には一番やってはいけない救助法」である。

 

「ライフ・セーバーのような水難救助の専門家でさえ

『道具を持たずに救助に向かうことはない』」

 

というのだから、

その危険性がどれほどのものかわかるだろう。

 

「泳いで助けるのは、あくまで『最後の手段』」

 

というわけだ。

 

溺れている人を泳いで助けようとすると、

相手は必死でこちらにしがみついてくるだろう。

 

想像してみてほしい。

 

体重40キロの相手を抱えながら泳げるかどうか。

 

しかも向こうは必死でしがみつくので、

こちらは身動きがとれなくなる可能性がある。

 

もっと体重の軽い子どもであっても、

基本的に状況は変わらない。

 

溺れている人の力を侮ってはいけない。

 

なにしろ命がけの「火事場のクソ力」で

しがみついてくるのだから。

 

僕は子どものころは泳ぎが苦手で、

海で溺れたこともあるのでよくわかる。

 

下記のwebサイトにもあるように、

「ちょっと機転をきかせれば、

 水に入らずに救助する方法はたくさんある」。

 

海や川辺で遊ぶのは夏の醍醐味だが、

その前に最低限の知識を仕入れておくのがよい。

 

そしてこういうウンチクを披露して、

「モテ度アップ」を狙うべきだろう。

 

今年の「海の王様」は、

アナタかもしれない。

 

 

【参考】「BAYSIDE BREATH」

水難事故の救助法について

 

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「本を読むと眠くなる」というのを利用して、読書を睡眠導入の儀式に利用している杉原です。しかしこれがうまくいかないことがある。言うまでもなく、ものすごく面白い本を読んでしまった場合だ。こうなると、逆に興奮して眠れなくなってしまう。そして久々にこのパターンにはまってしまったのがこの本、『真剣師 小池重明』である。

 

「真剣」とは要するに賭け将棋であり、「真剣師」とはそれを生業にする棋士のことである。だがこの小説の主人公である小池重明の時代には、もはやそれは生業として成立しなくなっていた。小池重明は、「最後の真剣師」と呼ばれた将棋の天才であり、実在の人物である。

 

彼の生涯を見ていると、そうそう「波瀾万丈」などという言葉が使えなくなる。世間で言われる「波瀾万丈」のほとんどは、本当の「人生の大波」を知らないままに使われているのではないか。そう思えてくるのである。著者は彼をこう評する。「人に嫌われ、人に好かれた人間だった。これほど、主題があって曲がり角だらけの人生を送った人間は珍しい」。もちろん人生は比較されるものではないが、彼の生き方はまるで、自身に火をともし燃焼することでしか生きられないロウソクのようだ。しかし、それが「天才」を持って生まれた人間の宿命だったのかもしれない。

 

「ひとつの方面に、並み外れた才能をもつ人間は、結局は本人の意志とはかかわりなく、その世界で頭角を現わしていくことになる。しかも、それは本人の幸、不幸とはまるで別の次元である」と書いたのは、本書の解説をする大沢在昌である。彼は言う。小池重明の人生を「壮絶」にしたのは、「この人の才能を知り、その行く末を見届けたいと願った周囲の人々ではなかったか」と。その意味でも、彼は自身の「天才」に翻弄された人だったと言えるだろう。

 

小説の中でも、小池自身がそのことを自覚する言葉が登場する。「その道において報われるかどうかはその人その人のもつ運であって、世の中には立派な仕事をしながら報われない人は大勢いる。人間の生き方というものは報われるか、報われないかに無関係なものだろう」。もちろんこの言葉は、実際には著者である団鬼六の言葉である。彼は淡々と「悲劇的な」彼の人生を描きながら、おそらく彼を肯定したくてしょうがないのではないか。それは団が小池という人物を肯定しようとしているのだが、それは同時に、団が人間を肯定しようとしているのだと思う。なぜなら多くの人が、小池のことを「愚者」であると認めながら、同時に「人間的」であると認めるであろうはずだからである。

 

この小説には間違いなく「人間」が描かれている。それは著者である団鬼六と、主人公である小池重明が、人間的な関係によって結ばれていたからにほかならないだろう。そこには、もはや善とか悪とかいう社会的な価値観が入り込む余地はない。だから、この小説は、こう締めくくられている。「とにかく、面白い奴だった。そして、凄い奴だった」。

 

「この道より我を生かす道なし、この道を往く」。

 

武者小路実篤のこの言葉が、小説の中に登場する。「この道」を生きる覚悟を持ちながらも、社会の常識にからめとられて、小さくまとまりそうな自分に嫌気がさしている人は少なくないだろう。そんな人にこそ、ぜひこの小説を読むことをおすすめしたい。

 

 

 

 

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きのうのブログに書いた、

流山での高等遊民会議

 

その夕食の際の、

忘れがたいエピソードについて

書くのを忘れていた。

 

その時、キッチンではメンバーの女性が

鶏肉の料理を作っており、

僕はその手伝いをしていた。

 

その時ふいに、

彼女が僕にこう言ったのである。

 

「杉原さん、手キレイだよね」

 

えっ。

 

正直ドキッとした。

 

「手がキレイ」と言われたのなんて、

人生で初めてのことだ。

 

僕の手は人並み外れて小さくて、

指もものすごく短い。

 

そんな僕の手が、

「キレイ」と言われる日が来るとは。

そしてそれが、こんなにうれしいだなんて。

 

僕はちょっと、

女性の気持ちがわかったような気がした。

 

「え、いや、そうかな?

 指も短いし、そうでもないと思うけど……」

 

手をさすりながらモジモジしていると、

彼女は作業をしながら、僕にこう言った。

 

「手キレイだったら

 その鶏肉揉んでほしいんだけど」

 

「え?」

 

そう。

 

「手キレイだよね」というのは、

「手が美しいね」という意味ではなく、

「手は汚れてないよね」という意味だったのだ。

 

ボウルの中で調味料に漬けられた

鶏肉を手で揉むために。

 

僕が問われていたキレイさとは、

「ビューティフル」ではなく、

「クリーン」の方だったのだ。

 

なんてことだ。

 

さっきの心のトキメキを返して欲しい。

こんな恥ずかしい思いをしたのは久しぶりだ。

 

そのあとみんなにこの経緯を話して、

酒のツマミにされたことは言うまでもない。

 

でも、

「手がキレイ」と言われるうれしさを

人生で初めて知った経験は貴重だった。

 

僕もこれからは、

人の手のキレイさを積極的にホメていきたい。

 

もちろん、

「クリーン」ではなく

「ビューティフル」のほうで。

 

 

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