杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -34ページ目

ほぼ月イチで開催している、世界で最も非生産的な会議「高等遊民会議」。いつもは都内で開催しているのですが、今回は少し足を伸ばして、メンバーのひとりU氏の自宅がある、千葉県流山市での開催となりました。もちろん観光とセットです(笑)。


11時ごろ、まずは南流山駅で3人が集合。U氏の車で市立博物館へ。縄文〜現代にわたる流山の歴史を学び、昭和の頃のなつかしい暮らしを再現した部屋や道具などにもふれました。この博物館、入場無料なのに恐るべき充実度。 流山は「みりん」が有名なんですねー。

 

 

流山市立博物館

 

 

そこから、またも昭和の風情ただよう大衆割烹「日本」でランチを楽しみ、続いて街の史跡探訪へ。新撰組の近藤勇陣屋跡、閻魔堂、浅間神社と富士塚、オシャレな和紙の照明屋さんなどを巡りました。富士塚は十条とは比べものにならない険しさで、登頂感がハンパなかったです。とはいえ所要時間は30秒ほどでしょうか(笑)。

 

 


近藤勇陣屋跡

 

 

かなり険しい道のりの富士塚(十条富士塚比)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山頂。これで富士山に登ったのと同じご利益ゲット!

 

 

そして14時ごろ、再び南流山駅でもう一人のメンバーと合流、総員4名に。そこから一茶双樹記念館へ向かいました。小林一茶は、ここ流山へ50回ほど訪れたそう。この記念館がまた見事な江戸末期の木造屋敷。美しい庭を眺められる縁側で、おいしいお茶と水ようかんを楽しみながら、時間を忘れてゆったり語らいました。平日の昼間ということで他にお客さんは全くおらず、みんなまるで我が家のようなくつろぎ具合でした(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

屋敷を出たあとは、江戸川の河川敷の景色を堪能。

 

 

 

 

そこから、「OB」というウッディーなカフェへ。店に入ると、金魚鉢のような瓶で紅茶を飲んでいるお客さんがいて、すでに嫌な予感はしていたのです(笑)。案の定、みんなが頼んだアイスコーヒーはビールの大ジョッキをもう一回り大きくしたようなカップで出てきて、僕が頼んだメロンソーダパフェは想像をはるかに超えるデカさで、一堂驚愕いたしました。デカい花瓶にメロンソーダを入れて、その上にパフェがのっかってる感じ……? 店名の「OB」は、きっと「大きすぎてビックリ」の略だと結論づけました。

夕方になって涼しくなってきた頃、スーパーで買い出しをしてからU氏邸へ。世界各国から集められたアンティーク雑貨と、高層階からの眺めは実に壮観。

 

 

 

 

みんなそれぞれ作りたい料理を作り、想像以上に豪華な食卓になりました。みんな料理上手すぎです……。お酒を飲みながら、幸福とは何か、結婚とは何かなど、非生産的な高等遊民談義に花を咲かせたのでした。

 

 


数ある料理の中で、一番最初に出てきたサラダ。


……とまあそんな感じで、流山の1日は楽しく過ぎていき、今回も無事に非生産的な集いとなりました。みなさまおつかれさまでした。まったくどうでもいい内容のうえに長文となってしまいましたが(笑)、流山観光気分をちょっとだけでも共有できたら幸いです。

今日、友人と街を歩いていると、

どこからか強い視線を感じた。

 

ふと気になって、

視線の方向に目をやると……。

 

「!!!!」

 

 

 

 

 

 

窓からネコがめっちゃこっち見てる!!

 

顔半分だけで超ホラー風!!

 

こんな怖いネコを見たのは初めてだ(笑)

 

もちろんこっちも負けじと

思いっきり視線をくれてやった。

 

P.S.

久々に古葉監督を思い出した。

 

 

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王子にある「コ本や」という本屋さんで開催された、レザークラフトワークショップに参加してきた。先生は友人の井口康弘氏。

 

「ブックカバー」「しおり」「コインケース」の中から作りたいものを選ぶ。不器用な僕はいちばん簡単に作れそうな「しおり」を選択。 

 

かなり好き勝手に作って、完成した作品がこれ。

 

 

【いちばん右】もともとあった布の曲線をそのまま活かしたら、ナイフ風に。

【右から2番目】あえてボロボロの布を使用し「読書量ハンパない」感を偽装。

【右から3番目】本当はトゲっぽいヤツで世紀末感を出したかった叶わず。

【いちばん左】いちばんベーシック。

 

 

実はもうひとつ作っていて、それが一番出来がよかったのだが、一緒に作っていた人に差し上げてしまいました(笑)。僕はあえてこんなアバンギャルドな感じに作ってしまいましたが、みなさんブックカバーもしおりも、本当にオシャレなものを完成させていました。

 

このイベントを開催していた「コ本や」さんも、実に面白い本屋さんなので、王子にお寄りの際はぜひ訪れてみてくださいませ。

 

 

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全編に漂う、都会の寂しさと閉塞感。だが、それでも「都会に生きるしかない」人間の、いわば背水の書である。だからこそこの本は、都会で生きる人間を鼓舞し続ける。

 

寺山修司の見事なところは、その都会で生きることの「むなしさ」から決して目をそらさなかったことだろう。その「むなしさ」を見ずに、ただ近代的価値観を肯定し「前向きに生きる」ならば、結局は寺山のいう「画一化されて、機構の部分品化していることに気がつかない」人間への道を辿ることになるだろう。このような彼の視点は、『私の個人主義』に見られる夏目漱石に通じるものがあるようにも見える。それはある種の「諦観」と言えなくもない。

 

彼の主張する「一点豪華主義」も、まずは「消費の仕方」として語られる。平均化されていく人生に抗うために、あえてアンバランスな消費を推奨する。だが「消費の仕方=生き方」という価値観そのものが、まさに都会の不文律である。さらに彼は次のようにも言う。「社会閉塞への一つの突破口として、『一点破壊主義を』というのが私の提案である」。しかしそれも結局は、「人間疎外的傾向のあるベルト・コンベアに、ほんの釘であけるような穴でもあけて、少し風通しを良くしてみたらどうか。といった提案」にすぎない。

 

彼が見つめた「閉塞感」は、この本の発表から40年以上経った今も存在し続け、ある意味で深刻化している。「同じ人間が量産されているメカニックな社会機構は、しだいに『自分とは、誰であるか』をわからなくしてしまう」という彼の言葉は、今この時代に放たれても全く違和感がないだろう。一方で、その「閉塞感」を打開する動きも出始めている。現代はこの二つの動きの二極化が進展している時代だと言うことができるだろう。

 

だが彼が「諦観」をもって受け入れざるを得なかった、都会の「むなしさ」と「人間疎外」を、一体どのようにして打開することができるというのか。そのひとつの契機が、まさに寺山修司が「捨てた」もの、すなわち「故郷」である。近年顕著となっている、若者の田園回帰志向は、いまさら語るまでもないだろう。寺山は本書の中でこう述べた。「私は何でも『捨てる』のが好きである。少年時代には親を捨てて、一人で出奔の汽車に乗ったし、長じては故郷を捨て、また一緒にくらしていた女との生活を捨てた。旅するのは、いわば風景を『捨てる』ことだと思うことがある」。高度成長期は「豊かさの享受」として語られてきたが、そのような「獲得の時代」の中で、「捨ててきたもの」に意識を向けているところに、寺山の非凡なセンスがある。ただ彼はそれを、「もう二度と拾うことのできないもの」として捉えている。確かにそれは一面において正しい。しかし現代の若者たちは、その捨てられてきたものを、新鮮な眼差しで捉え直し、再び拾い上げようとしているのではないだろうか。「故郷」を単純に「田舎」のようなものとして捉えることもできるが、それをもっとゆるやかに「帰りたい場所」と考えたっていいだろう。それは地理的な場所ではなく、居心地のいい「関係性」そのものかもしれない。

 

寺山は、「旅するのは、いわば風景を『捨てる』ことだと思うことがある」と言ったが、僕の若い友人は、それとは全く逆の発想を持っている。彼は自らを「飛脚」と名乗り、どこまでも徒歩で旅をする。そして歩く速度で旅すると、その場所で生きる人々の生活の営みが見えてくる、と言うのである。そんな彼にとって、風景は「捨てられる」ものではない。「関わるもの」であり、「感じられるもの」である。

 

寺山の時代、確かに「速度は権力的であった」。しかしその権力はいまや絶対的なものではなくなりつつある。速度への信仰が失われたとき、人間はふたたび「共に歩いてゆく」ことができるのではないか。CMなどで、高齢者がいつまでも元気に自分の夢を追い続けている姿が、理想的な老後として描かれている。独居老人が増えている状況を考えれば、それが生きがいになるという良さもあるのだろう。だが一方で、「まだ『自分のこと』ですか」と思わないでもない。

 

永六輔作詞の「遠くへ行きたい」という歌がある。「知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」。ひとりになりたいのかな、と思いきや、「愛する人とめぐり逢いたい どこか遠くへ行きたい」。主人公が求めているのは、「知らない街」であり、「知らない人」である。要するに主人公と「関わりがない」存在である。しかしそうした「関わりのないもの」に希望を見出すことは、とても苦しいことのように思われる。「知らない街を歩いてみたい」のはわかるけど、自分が生きる街のことはよく知っていた方がいいだろう。「愛する人とめぐり逢いたい」も夢があっていいけれど、愛は既存のものではなく、関わりの中から生まれてくるものではないだろうか。

 

書を捨てて町に出るのはいいけれど、それが「無事から有事へ」という転換を意味している限り、いずれまた新しい「知らない町」を探さなければならない。確かに都市は有事の連続によって成立している。けれども、有事を基盤にした社会は持続しない。都市は例外なくやがて廃墟となる。そして廃墟となった都市は「捨てられる」。そのような運命を、わざわざ自ら選択する必要はないのである。

 

 

 

 

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人生で初めて、句会というものに参加した。

 

たまたま友人の母親が俳句をやっていて、僕が「俳句興味あるんっすよ〜」などと軽く言ったところ、さっそく句会にお誘いいただいてしまい(笑)、緊張しながら足を運んだというわけである。

 

初参加ではあったが、僕も5句ほど持ってこいとのお達しがあったため、恥をしのんで持参した。

 

 

まあまあと首みぎひだり扇風機

 

傘さすかささぬかさすか走り梅雨

 

今日くらい家に上がるか梅の雨

 

簾さえぐつたり垂れる昼寝どき

 

もそろそろ五月雨恋し地蔵菩薩

 

 

句の作者が匿名のまま、発表と講評が行われるので(最後は開示)、みんな作者を意識することなくコメントすることができる。僕の作品にも実に適切なご指摘をいただいた。

 

大切なのは「具象化」することで、そのへんが短歌とは違うようだ。あと、俳句には「事実」はそれほど重要ではないようだ。その時に雷が鳴っていたから「日雷(雨を伴わない雷)」という季語を書いたとしても、他にもっとその句を引き立たせる季語があれば、そちらを用いた方がよいというのだ。極端に(僕の解釈で)言ってしまえば、「うそっぱちでよい」ということになる。確かに芭蕉の句も、そこに嘘(妄想?)が混じっているところに魅力があると聞いた覚えがある。つまりその人の個人的な経験の記述よりも、ひとつの作品としての句の完成度の方が大切だということなのだろう。違ってたらごめんなさい(笑)。

 

参加者はご年配の方々が多くて、僕みたいな若造の相手をするのは大変気を遣われたことと思います。このブログを読んでいるはずはありませんが(笑)、どうもありがとうございました。

 

ちなみに句会にお誘いくださった友人のお母さんは、なんと句集も発表されています。

 

 

大谷のり子『豚の睫毛』壱岐坂書房、2013年。

 

 

どの句もすばらしいのだが、僕が特に気に入ったのがこれらの句。

 

 

遠花火術後の夫と見てゐたり

 

大仏の背中の窓に春の風

 

本堂の蜘蛛丁重に掃き出され

 

 

いいですね〜。

 

気になる方はぜひ手に入れて読んでみてくださいませ。おそらくAmazonとかでは手に入らないので、出版社にお電話いただくのがよさそうです。

 

壱岐坂書房(048-754-2158)

 

ちなみにきのうは、そのお母さんの息子のお店「ヤギサワバル」で、友人らとクラフトビールを楽しみつつ、しっかり句会の報告もさせていただきました(笑)。

 

さて、僕も今年の夏は、俳句力向上のために、奥の細道にでも旅立つかな。

 

 

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久しぶりに器を買った。

 

 

 

 

丹波焼の丸カップを2つ。兵庫県は丹波篠山「大雅工房」の作品。

 

買ったお店は、青山にある紀ノ國屋インターナショナル店。ここでいま、「播磨喜水」という斬新な素麺ブランドが、丹波焼の「大雅工房」とコラボレーションして、試食販売会を開いているのだ。

 

実は僕の友人が「大雅工房」で働いていて、このイベントのことを聞き、さっそく見に行ったというわけである。

 

いや、行く前は買うつもりなど全くなかったのだ。本当に。けど、やっぱり、いい器は欲しくなる(笑)。「大雅工房」の作品は、伝統的な丹波焼でありながら、カラフルでポップなものが多い。それでいてシンプルなところがいい。確かに、伝統を生かしながら、新しいことに挑戦しているという意味で、「大雅工房」と「播磨喜水」は相性がいい気がする。

 

見るだけでも楽しいので、青山・表参道にお越しの際は、ぜひ立ち寄ってみてはいかがだろうか。イベントの期間が7月19日(水)までと短めなので、気になる方はお早めに。

 

下記は会場の様子ですー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【開催概要】
■開催期間:平成29年7月13日(木)~7月19日(水)
■販売場所:紀ノ國屋インターナショナル店(〒107-0061 東京都港区北青山3-11-7 AOビル地下1階)
■営業時間:9:30~21:30
■紀ノ國屋ホームページ:http://www.super-kinokuniya.jp/store/international/

※期間中、時間区切りでの試食販売もさせていただきます。

 

" HARIMA KISSUI × KINOKUNIYA " -播磨喜水 東京出展-

http://harima-kissui.jp/news/webdir/index.html

 

 

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最近ちょっと「書」という表現が気になっていたこともあり、ふと思い立って、上野の森美術館で開催されている「書だ!石川九楊展」に行ってきた。

 

「書の解体と再構築」という薄っぺらい表現で終わらせてしまうには、あまりにもったいないし、申し訳ない。彼の人生とともにあった「書き続ける」というプロセスを、「解体」とか「再構築」とか、ひとつの大きな枠組みで捉えようとすること自体が、卑しい精神の営みであろう。

 

彼はインタビューか何かで、「書」には「決断」と「持続」と「断念」というプロセスがある、ということを言っていたような気がする。そしておそらく、この展示のタイトルにもなっている「書だ!」という言葉にも、彼が自ら書いてきたものを「書だ!」と呼ぶことに対する「決断」「持続」「断念」が含まれているのではないか。それは一種の「あきらめ(諦め=明らめ)」である。

 

展示を見ている途中、会場の中にある喫茶店から、「書」について語る男性の声が聞こえてくる。別に盗み聞きしようと思ったわけでもないのだが、聞こえるものはしょうがない。

 

「書は芸術というより文学である」

「文字の前に、書くという行為がある」

「だから『文字』よりも、書くという行為を含んだ『書』に、文学の本質があるのではないか」

 

しっかり聞いていたわけではないのでうる覚えだが、そんなことを言っていたような気がする。「もしかして、石川九楊さん?」と思ったが、わざわざ顔を見に行くのもいやらしいし……。というわけで、結局のところその正体は分からずじまいだった。

 

展示をひととおり見終わってから、書や書籍の販売フロアに行くと、そこにまぎれもなく石川九楊さんご本人がいらっしゃった。やっぱりさっきのは石川さんだったのか……と思ったが、どうだろうか。

 

「文字を見ればその人の人間性がわかる」というのはよく言われることだが、書家の文字というのは、どうなのだろう。それはひとつの表現であり、作品であり、商品でもある。そういう「書」と、僕ら一般人が何気なく書いている「文字」と。これらはやはり、別のものとして考える必要があるのかもしれない。

 

だが、書家による「書」だろうと、一般人による「書き文字」だろうと、そこに「隠しきれない何か」、「否応なく表出する何か」というものはあるような気がする。そしてそこにこそ、「書く」という行為の、不思議な魅力があるのではないか。

 

「書く」ことと、「読む」こと。その何かを表現する行為と、それを読み解こうとする行為の間に、文学というものが成立する。

 

 

 

 

 

 

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先日のブログでお伝えしていた、「サラリーマン金太郎 2コマ上等!グランプリ」。

http://hk-futakoma.jp/

 

僕が投稿したネタがアップされていたので、このブログでもさっそく発表いたします!(笑)

 

 

■高級スイート5連泊

 

 

■十条違い

 

 

■50個も食ってない

 

 

■ハワイ出張♪

 

 

……どんなもんでしょうか?

 

まあこれで旅行券10万円ゲットは確実でしょう(笑)

 

みなさんも気が向いたらヒマつぶしにぜひ〜。

 

「サラリーマン金太郎 2コマ上等!グランプリ」。

http://hk-futakoma.jp/

 

 

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人間は怠惰な生き物である。一日はあっという間に過ぎ去ってゆく。別にそれでまったくかまわないのだが、それをゆるさない状況があったりもするだろう。そうでなくても、人間とは煩悩に手足が生えた存在なので、必要以上に「充実した一日を過ごそう」などと考えてしまう。そして最終的には「充実した人生を生きたい」と思う。実に欲深いことである。

 

こういう問題に対してよく言われるのが、「メメント・モリ」、すなわち「死を想え」という言葉である。「どうせ明日には死ぬかもしれないのだから、今を思いっきり楽しもう」というわけだ。

 

しかし平均寿命が80歳にまで上がった現代において、この「死を想え」というのはなかなか難しい注文である。死がより身近だった時代には、「明日は我が身」とすんなり思えたのかもしれないが、「死が隠された」現代社会では、それはもはや「非日常」の世界である。「非日常」とは文字通り「日常に非ず」なのだから、それを日常的に意識することは現実的ではない。

 

ではどうすればよいのか。

 

試しに、人間の一生を一日に置き替えてみよう。そうすると、単純に考えて、朝起きた時が「誕生」で、夜寝る時が「死」ということになるだろう。だからここで「メメント・モリ」を捉え直せば、「寝る時を想え」ということになる。もしあなたが毎日23時に寝ているのならば、「私は23時には寝るのだ!」ということを強く意識せよ、ということである。これは「死を想う」よりもはるかにイメージしやすい。「死」は非日常だが、「睡眠」は日常である。そのぶん「今」という時間を、より具体的に感じることができるのではないだろうか。

 

もちろん、意志の強い人はそんなことをせずとも、「理想の一日のスケジュール」をつくって、それを実践すればよい。しかし僕のように意志の薄弱な人間は、もっと単純に「就寝時間」だけを強烈に意識する、という方が有効なのかもしれない。それは、一日単位で自分の「死」を擬似的に意識することである。「死を想う」だと「まだまだ先のことだし……」となるが、「23時に寝る!」だと「のんびりしてたらすぐ来るな……」と思いやすい気がする。

 

ところで、朝起きた時が「誕生」で、夜寝る時が「死」だとするならば、寝ている時間というのは、おそらく「死んでいる時間」とか「あの世にいる時間」ということになるのだろう。そして「寝るのが嫌いだ」という人はほとんどいないし、むしろみんな「もっと寝たい」と思っている。

 

そう考えると、「死んでいる時間」とか「あの世にいる時間」というのも、実はそんなに悪くないどころか、とっても心地よいものなのではないか、という気がしてくる。死ぬことが、「おやすみ〜」と言って布団に入るようなことだと思えば、これはなかなか悪くない。布団に入るとき、「なかなかいい一日だったな」と思えるように、自分が死ぬとき、「なかなかいい一生だったな」と思えれば、それで万事よいのではないか。

 

そう考えると、一生というものは、そんなに重く考えるほどのことではないのかもしれない。

 

 

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きのうは夕方から喫茶「梅の木」で作業をした。

 

帰り際にレジ前を見てみると、綺麗な「楊枝入れ」を発見。

 

 

 

 

 

 

マスターに聞いてみると、お客さんが作って持ってきてくれたものらしい。

 

「へー。販売してるんですか?」と聞くと、「いえ、たくさんあるので、いくらでも持っていってください。その方が作った方も喜ばれますので」とのこと。こんな綺麗な作品を、無料で配っているとは。

 

というわけで、ちょっと遠慮がちに、3つだけいただいてきました。

 

 

 

 

たぶんまだまだあると思うので、欲しい方は、暑さしのぎがてらに「梅の木十条店」まで行ってみてはいかがでしょうか。ギャラリースペースでは、動物の絵画やアクセサリーの展示もあって、けっこう満喫できますよ〜!

 

梅の木十条店

http://umenoki.tokyo/

 

 

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