京都ひとり散歩(その21)~近衛邸跡 | 大根役者

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京都御苑最北部・今出川御門を入ったところに、近衛邸跡と刻まれた石柱を見る。

 

 

近衛邸とは、もちろん、第34・38・39代内閣総理大臣、近衛文麿お輩出した家系だ。近衛文麿は五摂家、近衛家の第30代当主だ。

第1次近衞内閣で、日中戦争が発生し、東亜新秩序提案で対応し、国家総動員法を施行した。全体主義化に志向し、独裁政党実現に奔走した。第二次・第三次内閣時に大政翼賛会の総裁になり、八紘一宇、大東亜共栄圏構想の下、日独伊三国同盟、中ソ中立条約を締結した。戦時下を生き延びる一時的戦術として志向した施策が、泥沼の太平洋戦争に日本を埋没させることになる。近代史は近衛文麿の思い描くその後と違う道を歩んだ。戦中、ヨハンセングループ(吉田反戦・戦争終結を志向するグループ)として、昭和天皇に上奏文を提出し、早期戦争終結を訴えたが、A級戦犯に指定され、服毒自殺をした。優秀な政治家ではあったが、歴史を見る目がなかった。天皇の前で、足を組み、話したと伝わるが、近衛家というのは、そんな家なのだ。

 

五摂家は摂関家藤原北家嫡流の家であり、近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家(序列順)のことをいう。鎌倉時代に設立した五摂家の頂点に立つのが近衛家なのだ。平安時代、道長・頼通親子の時代に全盛を極めた摂関政治は、五摂家に分かれるが、公家という存在は、江戸時代を通じ、存在し、維新後は、公爵に叙せられている。皇室と近衛家の関係は特別で、皇室と対等の存在であったとされる。

 

武家時代には、存在は許されたが、公家は徹底的に抑圧された。公家も皇室と共に時代を待つことになる。明治以降、天皇は、公家に東京に移ることになり、天皇の側で、近衛家も政治力を発揮するようになる。現当主の近衛忠煇は日本赤十字社の社長を歴任した。近衛忠煇の母が文麿の次女と細川護貞の次男であり、近衛文麿の長男で、ソ連から、スパイ活動を依頼され、拒否し、シベリア抑留で、死亡した文隆夫人・正子の養子となり、近衛家を継いでいる。

 

主のいなくなった近衛邸の大玄関は京都・勝林寺、御殿は奈良・西大寺、書院、茶室は愛知県西尾市に移築された。

今では庭園だけが残されている。

近衛邸は江戸時代、桜木御殿とも呼ばれ、訪れた孝明天皇は

「昔より 名にはきけども 今日みれば むべめかれせぬ 糸さくらかな」と詠んだ。

 

今では、桜の名所で、近衛邸の糸さくらとして、親しまれている。

 

 

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