世界遺産・東寺~真言宗総本山教王護国寺(その7)ー宝物館 | 大根役者

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東寺には、国宝や重要文化財指定のものだけでも約25,000点にのぼる寺宝がある。宝物館は昭和38年に完成し、昭和40年10月から一般公開が開始された。
館内1・2階が展示スペースになっている。

もちろん、展示品の館内写真撮影は禁止だが、春・秋の特別公開内容はH・Pにアップされている。

2024春の特別公開のテーマは「南北朝時代の東寺– 争乱と東寺興隆 –」だ。

 

南北朝時代の東寺は、天皇の御座所や足利氏の陣所として使われたことから、争乱の舞台となった。建物などが損傷を受け、争乱の後に修理が行われた。また、御影堂は康暦元年(1379)に焼失したが、翌年、室町幕府によって再建された。
争乱によって多くの経典類が失われたため、東寺の教学の復興を目指して「御請来聖教」が書写され、弘法大師空海ゆかりの品などが多く寄進され、御影堂に安置された。


この時代、東寺は、天皇や公家だけなく、武家とも深く関わるようになり、足利氏の戦勝祈願のために、鎮守八幡宮の法会や尊勝陀羅尼供などの祈祷も行われ、これらの法会や寺僧組織を経済的に支えるために、庄園が寄進された。南北朝の争乱は、東寺の興隆をすすめる契機となったのだ。


今回の展示は、南北朝時代の建物修理や法会・祈祷、僧侶の組織に焦点を合わせ、東寺の寺宝から、重要文化財 東寺文書を中心に展示がされている。

 

 

重要文化財「千手観音立像」(もと食堂の本尊)

高さは6メートル弱、千本の手が光背のように全身を覆っていた。平安時代の中頃、醍醐寺を開山した聖宝食堂の本尊として造立、開眼供養は、宇多天皇が行幸し華々しく行われた。

以来、昭和5年、1930年に食堂が火災に見舞われるまで千年あまり、多くの人々に東寺の観音さまとして信仰されていた。

昭和43年に3年におよぶ修復を終え、宝物館に展示された。

平安京の玄関口羅城門にあったといわれる国宝「兜跋毘沙門天」

鎖を編んだ鎧を着ている。平安末期に東寺に運ばれてきた。兜跋毘沙門天の足元を支えるのは、地天女と二鬼。対面して右が尼藍婆、左が毘藍婆。王城鎮護の役目を果たしていた兜跋毘沙門天は、財宝と福徳の神様として信仰を集めている。

西寺にあったと伝えられる地蔵菩薩(重要文化財)

如来坐像

明で造られたものだ。重要文化財になっていない。

国宝って、重要文化財から、選ばれる。重要文化財は文科省により、任命された文化審議会が選ぶ。

基準なんてない。まあ、観光資源になるからいいのか。

夜叉神立像(雄夜叉)(重要文化財)

弘法大師行状絵巻(重要文化財)

寺っていう存在は、時の権力者によって、存在が左右された。寺は聖地ではない。信長の比叡山焼討、秀吉の根来寺焼討は、寺という存在が、大名に近い勢力を包含していたからだ。神仏の加護というが、寺という存在が独自の経済基盤を築き上げ、精神的な支柱よりも物理的な存在になっていたことがわかる。高野山だって、木食応其がいなければ、秀吉により、焼討されていたかもしれない。

後世の僕たちがそう思うだけで、戦火の中、本尊が焼けることなんて、どうでもいい時代だ。物理的な本尊や建築は建て直せばいいと考えられていた時代だ。時に物理的な価値を求めない時代が、歴史に従順であったのかもしれない。

 

東寺という言辞が歴史・文化を次世代に存続させる線そのものだ。宝物館へ、収納される現実は受け入れなくてはならないが、

この空間から、平安京の存在を意識し、あの羅城門から外に広がる歴史と時を僕たちに意識させてくれるのが、宝物館なのだ。

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