京都ひとり散歩(その22)~地下鉄今出川駅界隈 | 大根役者

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日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

 

 

 

 

相国寺から烏丸通に出て、今出川通まで、歩く。

 

こんな食堂が残っているのも、京都だ。和食はもちろん、中華・洋食なんでもござれだ。学生街だけれども、今の学生は

こんな店に入らない。今出川駅の近くのおしゃれなカフェでランチをとっている。僕の友人は、食堂の二階に下宿していた。

老舗バー、レッドテイルズ

なか卯の看板も京都仕様だ。

京菓子資料館は宝暦5年(1755)創業、京都を代表する老舗菓子店・俵屋吉富の資料館として、昭和53年に開館した。

「京菓子の文化をより多くの人に正しく伝えていきたい」というコンセプトのもと、京菓子に関する古文書や絵画、和菓子の模型、糖芸菓子などが展示されている。糖芸菓子は、砂糖を使って花や鳥などを再現した芸術品で、常設展示は貴重だ。

観世流の能を「能楽おもしろ講座」等で能を身近に存在させる取り組みをしている河村能舞台。時間があれば、おもしろ講座に参加したいと思っている。

 

藤井右門の生家跡

藤井右門こと藤井直明は、赤穂事件で。勅使饗応を放棄した浅野長矩と馳走の経費を削ろうとした江戸家老の父、藤井宗茂、主君を諫めなかった国家老・大石良雄を批判して、親子の縁を切られる。郷里・越中国(現富山)を出奔し、享保20年(1735)に富山藩前田家の支援もあり上洛して、諸大夫・藤井忠義の養子となり家督を継いだ。神道家・竹内式部の知遇を得て、公卿に尊王論を説いた。尊王論者が弾圧された宝暦8年(1758)の宝暦事件で、竹内式部が捕らえられると、京都を逃れ、江戸に出て、右門と名乗り、尊王攘夷論者である山県大弐の家に身を寄せた。明和3年(1766)の明和事件で、竹内式部、山県大弐とともに捕らえられ、打首・獄門の刑に処せられた。維新への萌芽が維新の100年前にあった。維新の萌芽と赤穂事件がリンクしていることを意識したい。

 

直明のひ孫である藤井多門は、はとこの藤井九成とともに岩倉具視と親交を深め、直明の思想が明らかとなり、明治維新後に正四位が贈られた。出身地の射水市では、毎年8月に住民により顕彰祭が行われている。京都の邸宅は、右門が江戸に行くまで、住んでいた邸宅で、藤井直明の死後、薩摩藩屋敷(現同支社大学)が新設してからは邸宅は志士の会議連絡場所として活用されていた。屋敷は大正11年(1922)区画整理のため取り壊され、大正12年(1923)、右門の顕彰碑が建てられた。

 

門跡寺院に出会えるのも、京都の旅の楽しみだ。皇族・公家が住職を務める寺院を門跡寺院という。寺格が高く、皇室から特別の礼遇と特権が与えられ、住職は各宗派の管長と同等の待遇を受ける。

大聖寺門跡は歴代24代の内親王が住持を務めた天皇家ゆかりの尼門跡寺院だ。臨済宗系単立の寺院で山号は岳松山。本尊は釈迦如来。御寺御所とも称せられる。室町幕府の花の御所の一部を占めている。

開山は無相定円禅尼。無相定円は俗名を日野宣子といい、足利義満正室・日野業子の叔母であり、御光巌天皇の典侍である。定円禅尼は貞治7年(1368)に光厳法皇の法事が天龍寺で行われた際、春屋妙葩を導師として落飾(出家)した。足利義満は花の御所(足利将軍邸)内の岡松殿に定円禅尼を住まわせた。無相定円が永徳2年(1382)に没した後、岡松殿を寺にしたのが大聖寺である。寺号は定円禅尼の法名に因み、山号の岳松山は岡松殿に由来している。

 

正親町天皇の皇女が入寺した際、天皇から尼寺第一位の綸旨を得、御寺御所と称される尼門跡寺院となっている。延宝元年(1673)に焼失すると、元禄10年(1697)に現在地に再興された。

通常は非公開である。国登録有形文化財や重要文化財が多数あり、庭は一見の価値がある。拝見する機会を有したい。皇室は、この寺を大事にしている。昨年は、上皇ご夫妻が訪れたことがニュースになった。秋篠宮家もたびたび訪れている。

応対してもらった尼僧は、俗的な僕なので本当に申し訳ないのだが、ハッとする美人だった。

 

この通りにも、地蔵堂が多い。今出川通近くに金剛能楽堂がある。

 

金剛能楽堂は、京都の中でも特に能楽と関わりの深い、室町幕府の「花の御所」の近くに平成15年開館した。百五十余年の星霜を経た室町の旧金剛能楽堂の能舞台をそのまま移築した。

土御門内裏は,鳥羽(1103~56)・崇徳(1119~64)・近衛(1139~55)三代の天皇が約24年間にわたって利用した方一町規模の里内裏。平安京大内裏を模して造営された最初の里内裏で,もと源師時(1077~1136)の土御門邸があった。たびたび火災などに遭遇したが,保元元(1156)年の再建が中止されて廃絶した。この石標はその里内裏跡を示すものである。

 

「今出川」の名前は鴨川分流の今出川が東洞院通から東京極大路(現在の寺町通)まで通りに沿って流れていたことに由来する

同志社大・同志社女子大などの学生街の趣もある一画だけど、彼らにも京都の歴史と文化を共有するよう意識してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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