京都ひとり散歩(その23)~相国寺 | 大根役者

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今出川御門から今出川通を渡ると同志社大学今出川キャンパスがある。

同志社大学西側の道がが相国寺へ行く参道になる。

相国寺は、京都五山第二位に列せられる名刹で、正式名称は萬年山相國承天禅寺。
十四世紀末、室町幕府三代将軍の足利義満により創建された。

 

総門

相国寺の門は、総門と勅使門がある。総門が通常の門で、勅使門は特別のときに開けられる。創建当時は室町一条にあり、再建は文正元年(1466)三月に落成し、三月十日に足利義政が始めて通行したと伝えられている。その後、焼失と再建を繰り返し、現在の建物は寛政九年(1797)第113世梅荘和尚により復興された。 平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となった。

勅使門

禅宗の大寺院には正面に総門と並んでもう一つの門を造る例が多い。平常は閉じられている門で、御幸門とも呼ばれる。

総門から境内を進む。

玉龍院

相国寺第五世雲溪和尚を開祖とする。雲溪和尚は相国寺第四世太清和尚の法弟であり、ともに雪村友梅禅師の法系にあたる。足利義満が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭(相国寺第四世住持)を相国寺に迎請するため、その禅室として創設された。

光源院

相国寺二十八世元容和尚の塔所で、応永二十八年(1421)に創建され、広徳軒と称した。師は二世普明国師に法を嗣ぎ、同年八月十二日入寺、同三十二年(1425)三月十七日示寂。永禄八年(1565)足利義輝が死去してその菩提寺となり、義輝の院号により光源院と改称した。

弁天社

開山堂の南西にあり、南面して建つ春日造桟瓦葺の小社で、弁財天を祀っている。
この弁財天は古来から御苑内久邇宮邸にその守護神として奉祠されていたが、明治十三年(1880)に同宮家が東京に移転された時に、相国寺第126世獨園承珠が同宮二品朝彦親王より寄進をうけ、弁天講を組織して広く信仰を集めた。昭和三十二年(1957)にはこのいわれをもとに弁天講が復活されるが、現在活動はしていません。
また現在の建物の建立年代は、細部から十七世紀後半と考えられています。当社は、明治四年(1871)の寺地画図に描かれず、基壇に明治の銘が見られるので移築建物であることが知られている。。
平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となった。


 

 

林光院

足利三代将軍義満の第二子、四代将軍義持の弟義嗣(林光院殿亜相考山大居士)が、応永二十五年(1418)一月、二十五歳で早世したため、菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として京都二条西ノ京、紀貫之の屋敷の旧地に開創された。

宗丹稲荷社

鐘楼の北に祀られている。
江戸時代の初め頃、相国寺境内に一匹の白狐が住んでいた。その狐はしばしば茶人・千宗旦(1578-1658)に姿を変え、時には雲水にまじり坐禅をくみ、また時には寺の和尚と碁を打つなどして人々の前に姿を現していた。
宗旦になりすましたその狐は、近所の茶人の宅へ赴いては茶を飲み菓子を食い荒らすことがたびたびだったが、ある時、宗旦狐は相国寺塔頭慈照院の茶室びらきで、点前を披露していた。驚いたことにその点前は実に見事なもので、遅れてきた宗旦はその事に感じ入ったという。宗旦の人となりを伝えた逸話とされる。
その伝承のある「い神室」は現在でも慈照院に伝えられています。茶室の窓は、宗旦狐が慌てて突き破って逃げたあとを修理したので、普通のお茶室より大きくなってしまったと伝わっている。
宗旦狐は店先から油揚げを盗み、追いかけられ井戸に落ちて死んだとも、猟師に撃たれて命を落としたとも伝えられています。化けていたずらをするだけでなく、人々に禅を施し喜ばせていたという宗旦狐の死を悼み、雲水たちは祠をつくり供養した。それがこの宗旦稲荷だ。


 

洪音楼

この鐘楼は一名「洪音楼(こおんろ)」と呼ばれる。天明の火災で焼け、寛政元年(1789)四月古鐘を買って仮楼にかけ、天保十四年(1843)現在の層楼を築成しました。 「袴腰付鐘楼」ともいわれ、大型のものでは現在有数のものだ。

大通院

元伏見にあった大光明寺(現在相国寺塔頭)の境内に、伏見宮始祖大通院宮栄仁親王の菩提所として建てられたもので、応永23年(1416)栄仁親王ご逝去の後、当時伏見にあった大光明寺の境内に、親王の謚(おくりな)に因んで「大通院」の名称で寺が創建され、開祖は夢窓国師とされた。

法堂に進む。

相国寺は、京都五山第二位に列せられる名刹として、知られ、正式名称を萬年山相國承天禅寺という。
14世紀末、室町幕府三代将軍の足利義満により創建された後、幾度も焼失と復興の歴史を繰り返した。現存する法堂は日本最古の法堂建築として1605年に再建された物だ。

夢窓疎石を開山とし、創建当時は室町一条あたりに総門があったといわれ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約百四十四万坪の壮大な敷地に五十あまりの塔頭寺院があったと伝えられている。

 

相国寺H・Pによれば、「相国」とは国をたすける、治めるという意味と記されている。中国からきた名称で、日本でも左大臣の位を相国と呼んでいた。平清盛が平大相国と呼ばれたように。


相国寺を創建した義満は左大臣であり、相国であることから、義満のお寺は相国寺と名付けられた。中国では明の時代で、このとき、中国の開封に大相国寺という中国における五山制度の始まりのお寺があった。この大相国寺の寺号を頂いて「相国寺」と名付けられたという。

 

中国、開封市の「大相国寺」は現在も存在しており、相国寺とは友好寺院の締結をしている。両寺院には友好の碑がある。

 

この地はもと、伝教大師開創の出雲寺、源空上人の神宮寺(後の百万遍知恩寺)、安聖寺の旧跡にまたがっている。創立当時の相国寺は南は室町一条あたりに総門があったといわれ、北は上御霊神社の森、東は寺町、西は大宮通にわたり、約百四十四万坪の寺域がありました。現在でも東門前には「塔之段」という町名が残っており、かつての七層宝塔の旧跡といわれている。「毘沙門町」は毘沙門堂址であると言われています。
相国寺の南には同志社大学、北には京都産業大学附属中学・高校があるが、これら学校の敷地の大部分は天明の大火以後復興できなかった寺院や、明治維新後廃合した寺院の跡地だ。幕末に諸堂が再建され旧観を復している。現在の寺域は約四万坪ある。


境内には本山相国寺をはじめ、十三の塔頭寺院があり、山外塔頭に鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺がある。また全国に百カ寺の末寺を擁している。

 

法堂、方丈が渡殿の間は渡殿でつながっている。

 

法堂

法堂(はっとう)は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、5回目の再建になり、我が国法堂建築の最古のもの。

明治10年に国の重要文化財に指定された。

堂内天井には有名な狩野一派「狩野光信筆」による「蟠龍図」が描かれている。

須弥壇には御本尊の「釈迦如来」がお祀りされており、脇侍として「阿難尊者」と「迦葉尊者」が安置されている。「釈迦如来」とともに鎌倉期の彫刻家「運慶」の作と云われている。須弥壇横にある目印の場所で手を叩くと音が堂内に反響して、龍が鳴くように聞こえる。法堂内を順路通りにお参りすると、最後に龍の下に着く。法堂内は撮影禁止なので、写真はH.Pから。

法堂創建は1391年(明徳2)で当時は「法雷堂」と呼ばれていた。

法堂から方丈へ行く。

方丈

禅宗の伽藍の配置は南北に山門、仏殿、法堂、方丈が同一軸線上に並んで建てられているのが特徴だ。相国寺も例外でなく、法堂の北側に方丈が建てられている。。相国寺方丈は、幾度も焼失して現在の建物は、天明の大火を経て文化四年(1807)に開山堂、庫裏と共に再建されたもの。平成19年(2007)に京都府指定有形文化財となった。

 

部屋の内部の撮影が禁止されているため、廊下にコピーが展示してある。

廊下にある杉戸に描かれた絵の撮影は許されている。この白象図は江戸時代の絵師・原在中。

 

裏方丈庭園

京都市指定の文化財に指定されている。

開山堂

開山堂は夢窓国師の木像を安置している堂で、法堂の東にあり、境内で最も大切なところとされている。応仁元年(1467)応仁の乱の兵火で焼失し、寛文六年(1666)後水尾天皇が、皇子桂宮第三世穏仁親王のために再建されたが、天明八年(1788)天明の大火で焼失した。現在の建物は江戸時代末期に桃園天皇の皇后、恭礼門院の黒御殿を賜って文化四年(1807)に移築、仏堂として用いられるように増築や一部改造を行なったもの。

堂内は撮影禁止だが、正面奥に相国寺開山である夢窓国師(夢窓疎石)像、西の壇に仏光国師(無学祖元)像・仏国国師(高峰顕日)像・普明国師(春屋妙葩)像・足利義満)像が安置されている。東の壇に相国寺有縁の宮家の位牌や像を安置されている。

 

開山堂庭園

建物の周りは白砂で覆われている。庭園の東から奥には一筋の小川が流れている。かつては賀茂川からの水を取り入れた禁裏御用水が水を湛えており、龍淵水と呼ばれていた。昭和10年頃から、大水害の影響もあって、流れが途絶えてしまった。現在はかっての名残をとどめる水路跡が残っている。通常の枯山水ではなく、川も流れ、高低差のある築山がある庭になっている。

 

手前の石が座禅石だ。

桃の鬼瓦は姫路城等でも見られるが、霊果とされ、魔除けの意味を持っている。

浴室

浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれ、1400年頃創建されたとみられる。。現在のものは、慶長元年(1596)に再建されたもので、平成14年(2002)6月に復元修復された。 宣明とは、宋の禅宗建築を描いた巻物「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた「天童山宣明様」という図にある浴室の別名。

庫裏(香積院)

法堂の南側を歩く。

普廣院

創建当初は乾徳院と呼ばれていた。夢窓国師の法を嗣ぎ相国寺第九世となった性眞圓智禅師観中和尚は、足利義満の帰依厚く、山内に退休の地と禅室を与えられた。ここを塔所として創立された。嘉吉元年(1441)足利六代将軍義が亡くなった時、普廣院殿と号し、当院を影堂(位牌所)と定め、普廣院と改めた。

天界橋から、勅使門を臨む。

天界橋は放生池架かる石橋で、「天界」とは、相国寺と禁裏御所との中間の境界線の役目をはたしているところから名づけられている。天文20年(1551)に相国寺が焼亡した天文の乱はこの橋をはさんで始まっている。現在の橋材はその当時の旧材で架けられている。

養源院

開祖・曇仲道芳は幼くして常光国師・空谷明応に参じ、空谷和尚の相国寺住持に際して焼香侍者を、また結制には問禅の禅客を勤めた。長じて国師の法を嗣いだが、座元以上の法階を望まず、終生黒衣で通した。詩文に優れ足利義満、義持父子の寵遇を受けた。相国寺常徳院内に養源軒を設け、退隠した。

経蔵

天明の大火によって焼失した宝塔の跡地に万延元年(1860)に建立された。第120世盈冲和尚の寄進により、宝塔が再興される折に、蔵経置場を兼用することになり、以来経蔵を兼ねた宝塔として機能してきた。

後水尾上皇歯髪塚

後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)は、承応2年(1653)に、焼失した大塔を再建し、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納めた。天明八年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚が建てられた。

鎮守

創立当時は今出川通りの北にあって、今の御所八幡町はその旧跡。義満が男山八幡から御神体を奉迎した時は男山八幡から当寺までの沿道ことごとくに白布を敷きつめたと伝えられる。

天響楼

「天響楼(てんきょうろう)」は、平成22年(2011)夏に建立し落慶法要が行われた新しい鐘楼だ。この鐘は、中国開封大相国寺により二つ鋳造され、その一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので、「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が刻まれている。

相国寺裏参道へ進む。

大光明寺

相国寺が建立される以前、暦応二年(1339)に後伏見天皇(1288~1336)の皇后、広義門院西園寺寧子が天皇の菩提を弔うため、伏見離宮の傍らに一寺を建立したのが始まりで、皇后の法号大光明院を寺号とした。

 


 

長徳院

相国寺第19世佛慧正續国師鄂隠和尚の禅室、塔所であり、はじめは大幢院と号しました。師は絶海和尚である。至徳年間(1384〜87)明国で、諸山の名宿に歴参すること十余年、帰朝して絶海の法を嗣ぎ、等持寺を経て応永17年(1410)相国寺に入寺(第十九世)した。


裏参道から烏丸通に進む。

般若林 

僧侶たちの修業の場で後に、相国寺の赤松林のことを言うようになった。

桂宮西ノ墓所

慈照院の南東に近接して、桂宮西ノ墓地がある。江戸時代の桂宮家(京極宮)歴代(7代-11代)、その妃など8人の宮墓地がある。

 

慈照院

応永12年(1405)前後、在中禅師(大本山相国寺住持第13世)の創建で、始め大徳院と称し、延徳2年(1490)足利義政の影堂となり、勅命により大徳院は慈照院と改号された。

慈雲院

長禄年間創建、本尊は釋迦牟尼佛。開祖は、相国寺第四十二世勅諡興宗明教禅師(瑞溪周鳳和尚)。師は道学兼備の碩匠にして多大の著書があり、天皇の崇敬と幕府の信望とを一身に集めた。

 

相国寺は、先述したように、足利義満以来、花の御所、足利幕府と密接なかかわりを持ち、存在してきた。平安時代から室町時代に移り、現代にいたる線上で重要な位置を占めている。

有形文化財に指定されている建物、重要文化財、国宝に指定されている所蔵物も多く、五山文学の中心地として、雪舟、周文の出身地として知られている。塔頭寺院の歴史をたどるだけでも、室町時代が見えてくる。【HIS】旅行プログラム

 

 

 

 

 

 

 

 

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