京都ひとり散歩(その24)~護王神社 | 大根役者

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烏丸通と今出川通の交差点から烏丸通を少し南に下ると護王神社が鎮座している。

 

神社の塀には拾圓札のパネルが掛けられている。明治23年から昭和20年まで発行された日本銀行券10円紙幣には一貫して和気清麻呂と護王神社が描かれている。大日本帝国として、和気清麻呂がいかに重要な存在だったのかがわかる。この十円紙幣は「いのしし」と呼ばれていた。

 

そう、この神社の祭神は、和気清麻呂だ。狛猪が迎えてくれる。

護王神社は和気氏の創建による孝雄山神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った護王善神社に始まる。正確な創建年代は不詳。

和気清麻呂と姉の和気広虫は、宇佐八幡神託事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守った。孝明天皇ははその功績を讃え、嘉永4年(1851)に神護寺の護王善神社に祀られていた和気清麻呂に、護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けている。天皇自らが人臣に対して神階を授けたのはこれが初めてである。また、江戸幕府は自己の申し入れによる神階授与に限って下行米を出す方針であった(それ以外の神社への神階授与の際の費用は神社側が負担することになっていた)が、江戸時代を通じて唯一この時だけは幕府が下行米を支出していることが知られている。明治7年、護王善神社は護王神社に改称し、別格官幣社に列格された。明治19年、明治天皇の勅命により京都御苑蛤御門前付近にあった公家の中院家の邸宅跡に遷座した。

大正4年、大正天皇の即位の際に和気広虫が合祀された。広虫は孤児救済事業で知られることから子育明神と呼ばれる。

昭和23年に神社本庁の別表神社に列されている。

 

 

由緒を転記したが、この神社がいかに、明治新政府のプロパガンダに使用された政治的背景を持つ神社だということが理解できる。僕は以前、岡山県和気町にある和気神社にお参りした。この時期は、神社前の日本一の藤棚が季節を告げてくれている。

同地は和気氏発祥の地であり、和気氏の遠祖である鐸石別命を氏神として祀ったのが和気神社の起源とされる。創建年代は不詳。天正19年(1591)に社殿が水害に遭い現在地に遷座した。

明治42年、和気氏の祖先で鐸石別命の曾孫にあたる弟彦王、和気清麻呂、和気広虫も祭神として加えられた。また国造神社に祀られていた佐波良命、伎波豆命、宿奈命、乎麻呂命が合祀された。

大正3年、和気神社となり、大正8年応神天皇を相殿として祀り、県社に列した。県社ながら、昭和天皇の岡山行幸の際には幣帛を賜わるなど、官幣社と同等に扱われた。

和気清麻呂、和気広虫が明治新政府にとって、いかに重要な存在だったのかは、宇佐八幡神託事件にその因がある。

 

 

弓削道鏡は、孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世した。天平宝字8年(764)、孝謙上皇と対立した最高実力者・藤原仲麻呂が反乱を起こすと上皇は仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集して仲麻呂を滅ぼした。乱後、上皇は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を武力をもって廃位して淡路国に流刑にすると、自らが天皇に復位することを宣言した。復位した称徳天皇のもとで道鏡はその片腕となり、天平神護元年(765)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年には「法王」となる。こうして、称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡は、政治にしばしば介入した。

 

称徳天皇は聖武天皇の娘で、史上6人目の女帝だったことから、道鏡の様々な伝説が生まれた。

 

反仲麻呂派の貴族の大勢はあくまでも仲麻呂の政界からの排除のために上皇に協力しただけであり、孝謙上皇の復位や道鏡の政界進出に賛同したわけではなかった。称徳天皇は独身で子供もいなかったため、その後の皇位を誰が継ぐのかが政界の最大の関心事となった。天皇もこの空気を敏感に察しており、淡路に流された廃帝(淳仁天皇)の謎の死、和気王の突然の処刑、天皇の異母妹である不破内親王の皇籍剥奪など皇族に対する粛清が次々と行われていき、皇位継承問題は事実上の禁忌となっていった。

神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で太宰師の弓削浄人と大宰主神の中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望んだ。。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。宇佐八幡大宮司・大神田麻呂による託宣「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。

道鏡を天皇につけたがっていたといわれる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべ の ひろむしめ)」と改名させられて(狭虫(さむし、せまむし)と改名させられたという説もある)処罰された。

10月1日には詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって称徳天皇自らが決める事を改めて表明した。

宝亀元年(770)に称徳天皇が崩御すると、皇太子を白壁王(後の光仁天皇)とする称徳天皇の「遺宣」が発せられ、道鏡は下野国の薬師寺へ配流された。

日本の皇室は、歴史の中で幾度も危機を迎えたが、一般に僧・弓削道鏡によるとされるこの皇位継承の企みは、その中でも衝撃的な事件であった。道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育においてしばしば取り上げられてきた。

清麻呂は流刑の際、脚の腱を切られた。道鏡は清麻呂の謀殺を試み、刺客を送りますが、突然300頭の猪が天地雷鳴とともに現れて、清麻呂を護り、猪に護られながら、宇佐神宮にお礼参りに訪れた折に、霊泉に浸かると腱を切られた足は見事完治した。

護王神社の狛猪の由来だ。もちろん、和気神社にも狛猪がある。

 

上記の故事に由来して、足腰健康の神社としても知られる。手水舎「霊猪手水舎」の猪の鼻を触ると「足腰が良くなる」「再びここに戻って来れる」「幸せが訪れる」等のご利益が有るとされる。境内の一角に足型の石が敷いてある。

境内には全国から奉納された猪のぬいぐるみ等が祀られている。

日本海軍の重巡洋艦・高雄の艦内神社が、命名の由来となった高雄山にゆかりがある護王神社であったため、重巡高雄の額が拝殿にも飾られている。

 

神前結婚式では、この人力車に乗ることができる。

警察消防招魂社久邇宮家御霊殿、祖霊社、伊勢神宮遥拝所が勧請されている。石柱には紀元2600年の歌詞が刻まれている。

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護王神社にも、外国の参拝客が多い。中国人の観光客も多く訪れている。僕は、神社の鎮座には、歴史的な必然性があると思っている。明治新社格制度のもとに設立された神社には違和感を感じるのだが、足腰の神社として、信仰を集めている今の姿が、今後の護王神社の在り方だと思う。和気清麻呂・和気広虫姉弟のことは忘れられていくんだろうな。護王神社も最近では、「いのしし神社」として、人気パワースポットになっている。