鞆の浦の観光鯛網に行ってきた。
鞆港から平成いろは丸で仙酔島に渡る。
仙酔島田の浦で、毎年、開催される福山市の無形民俗文化財だ。
この石碑の由来を知る人も少なくなった。
日本では昭和6年に自然公園法の前身である国立公園法が施行され、昭和9年に瀬戸内海国立公園、雲仙国立公園、霧島国立公園の3か所が最初の指定を受けた。
田の浦海水浴場に歩を進めてみる。
鞆の鯛網は、江戸時代初期から伝わる瀬戸内の伝統漁法で、「鯛しばり網漁法」として、村上太郎兵衛義光により、考案された漁法だ。義光は因島村上氏の末裔であり、江戸時代初期、沼隈郡常石に住んでいた。備後福山藩は、藩の重要港・鞆港の沖合に位置する無人島・走島を抑えるため、義光を入植させ、義光に島の全権を与えた。義光は庄屋となり、備後灘一帯の漁業権を取得したことで、網元となり、漁法の開発を進めた。寛永年間(1630年頃)義光は鯛網を改良し、より漁獲量をあげ、鯛を傷つけないことで、商品価値を高める漁法として「沖しばり網」漁法を生み出した。鞆の当納屋忠兵衛が協力したとも、一緒に考えたとも言われている。
この漁法が開発される以前は、地引網漁、あるいは沖合に張った建網で岸近くまで誘導して捕獲していた。その頃、讃岐国西讃主変で行われていた「たい大網」「縛網」を参考にして、沖合まで出て鯛の魚群を捕獲するしばり網漁法が考案された。鯛は外洋の深海で冬を過ごし、春になると瀬戸内海に入ってきて、産卵場所を求めて鞆の沖を遊泳する。この魚群を船団を組んで出漁し、捕るための漁法がしばり網漁法で、一船団あたり、60人の人出を要したという。明治時代に一網で一万匹とれたという記録が残っている。人手を要しても十分に採算がとれたのだ。
文政2年(1819)菅茶山『備後福山領風俗記』によると、鯛網のまわりには見物人がおり網船に酒を送ると鯛を返礼として貰っていたことが書かれている。この時代に、鯛網の周りには観覧船が出ていたことがわかる。
鞆の商業活動は近代以降衰退していく。それまでの風待ち潮待ちの港として栄えた鞆が蒸気船や機帆船によりその必要がなくなり、そして山陽鉄道により、新たな物流インフラが作られた。これを打破しようと、鞆町第2代町長横山運次は観光資源開発に活路を求めた。その一つが観光鯛網だった。当初は住民により反対されたが横山は精力的に働きかけ、それに地元出身の実業家・森下仁丹の創業者森下博が後押しした。森下は関西圏で観光客誘致を働きかけ、大阪市電や新聞に広告を打った。大正12年(1923年)第1回観光鯛網は大盛況を収め、ここから観光鯛網は続いていく。
鞆の町を歩くと至る所で、森下仁丹の名入りポスター、看板を見る。鞆の町の恩人・森下博、への感謝の気持ちが現れている。森下仁丹もいまだに、鞆の町を会社のルーツとして、重要な存在として位置付けている。
大正15年(1926)5月24日、摂政宮(のちの昭和天皇)台覧興行が行われた。これにより全国的に鞆の鯛網の存在が知られるようになった。
昭和10年代に船団が機械化された。太平洋戦争を挟んで観光客の減少により観光鯛網は中断したが、昭和24年から再開し現在まで続いている。なお漁としての鯛網は昭和30年代に消滅している。昭和63年(1988)に親船が作られた。平成27年に福山市指定無形民俗文化財に指定された。
しばり網漁船団は、親船2隻(動力がない)、錨船2隻(親船の引き船)、生船6隻(獲れた鯛を運ぶ船)、指揮船、勢子の船で
構成されていた。
現在の観光鯛網では、勢子、生船の構成はない。
観光鯛網のプログラムは
- 田の浦海岸で網下ろしの祝と大漁祈願として、樽太鼓が鳴らされ「鯛網大漁節」が歌われる。
- 弁財天の使いである乙姫による大漁祈願の「弁天竜宮の舞」を披露。
- 仮設桟橋から観光客が観覧船に乗り込み、出港。
- 「漕出式」指揮船を中心に錨船・親船は左へ3周する。美保神社宮参りに習ったもの。乙姫が手船で弁天島弁財天へ向かい大漁祈願。
- 出漁、船団は沖合の漁場へ向かう。
- 鯛網開始。
- 観覧船が親船に近づき、漁を観覧、親船に乗り込み獲れたての鯛を購入できる(購入費用は観覧料とは別に必要、市場価格の半値以下程度。
- 鯛網終了後、鞆周辺をクルージングし帰港。