出雲往来勝間田(かつまだ)宿~岡山県勝田郡勝央町 | 大根役者

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勝央町は勝田郡の中央に位置することから名付けられた。平成の大合併の嵐の中で津山市、同じ勝田郡の奈義町との合併が協議されたが、奈義町とともに単独での町の存続を決めた。

勝央中核工業団地に企業を誘致し、農業とともに財政の基盤としているが、町財政は厳しい。近年では、観光、イベントにも力を入れ、町外からの集客にも力を入れている。この地は縄文時代草創期から人が居住していたことが遺跡から確認されている。古代より陰陽の連絡道として、人の往来があり、勝間田は繁栄した。金太郎終焉の地としても知られている。源頼光四天王の一人である坂田金時は頼光とともに賊の討伐のために九州へ向かっていた。播州から作州に入った時、一行は大雪のため、勝間田荘の仮陣屋に長期の滞在を余儀なくされた。坂田金時は滞在中に病で無くなった。寛弘七年(1010年)12月、57歳だった。頼光は勝間田荘の丘の上に墓を立て、坂田金時を手厚く葬った。その丘に村人たちは後に小さな祠を建て、坂田金時を祀った。俱利伽羅権現として、武勇を称え、村の守り神としたのだ。倶利伽羅とは不動明王が右手に持つ剣であり貪瞋痴の三毒を破る智恵の利剣とされている。木曽義仲の倶利伽羅峠の戦いに見られるように、各地にこの地名の場所がある。倶利伽羅が栗柄となり、現在は栗柄神社として、信仰を集めている。

栗柄神社は中国自動車道に沿った道の途中にある。中国自動車道建設で、境内は狭くなったが、以前は、神社境内で相撲大会が行われていた。
案内板が立て替えられていた。富士山が世界遺産に登録された後のことだろう。








勝間田宿を久しぶりに歩いた。勝間田宿は宇喜多、小早川の支配の後、藩政時代には津山藩領となり、森氏の支配下に置かれた。森氏は出雲街道を整備し、宿場町形成に尽力した。美作七宿の一つとなり、参勤交代の廸となった。下山本陣が津山藩主の宿泊所になり、木村本陣が諸藩主や宮家、勅使の宿泊所として使用された。

滝川にかかる大橋から現在の県道67号線までの600m間が宿場町だった。現在は石畳が敷かれ、本陣跡等の標識により、宿場町の面影をしのびながら散策できる。

大橋を渡ったところに勝間田神社がある。勝田郡勝央町勝間田にある勝間田神社は「勝」が三つある場所というところから、最近、勝負ごとにご利益があると人気を集めている。





大橋から宿場町を歩く。






滝川の水を引いた水路が道の両側を流れ、駐車場の近くには公園が作られ、おなじみの熊にまたがった金太郎像が建てらえている。各商家の建物の間口は広く、切り妻造りナマコ壁、格子窓を見ることができる。






宿場中央部に勝央郷土美術館がある。この建物は明治45年勝田郡役所として建てられたもので、この土地は木村本陣の敷地の一部だった。明治期にはこの場所に郡役所や警察が置かれ勝田郡行政の中心地でもあった。



出雲街道は姫新線勝間田駅前を通り、津山へ向かう。