田口綾子歌集『かざぐるま』好評発売中!

 

マチエール欄所属の田口綾子歌集『かざぐるま』が発売されました。

 

深皿を何度拭いてもとどまれる水滴、これは誰のさびしさ

傘に雪、かたむけながら人はゆくものがたりなどにあらざる生を

択ぶとは 水にひらける半身を消たれつつなほ水上花火

 

短歌研究新人賞受賞から10年。

短歌と、言葉と向き合い続ける田口綾子の、美しく力強い軌跡をぜひその眼で確かめてください。

 

 

 

 

 

そして!

来週の「まひる野歌人ノート」は特別編

「『かざぐるま』刊行記念・田口綾子さんに31の質問」!

 

田口さんに短歌のこと、まひる野のこと、歌集のことについていろいろと質問しました。

いったいどんな回答がかえってくるのでしょう…。

更新は8/3(金)12:00です。

田口綾子ファンのみなさま、お楽しみにお待ちください!

 

 

 

『いらっしゃい新聞』創刊号できました!

 

山川藍歌集『いらっしゃい』の宣伝用新聞『いらっしゃい新聞』が完成しました。

製作は北山あさひと山川藍の短歌ユニット「北山川」です。

PDFデータをダウンロードすればどなたでもご覧になれます。

 

内容:

①北山川イメージキャラクター、カワネコによる、歌集『いらっしゃい』著者インタビュー。

②永井祐さんより推薦のことば

 

 

PDFデータのダウンロードはこちらから→『いらっしゃい新聞

 

『いらっしゃい新聞』は第三弾まで発行予定だそうです。

今後もぜひチェックしてください!

 

歌集『いらっしゃい』や『いらっしゃい新聞』の情報は山川藍ブログ『藍天ブルースカイ』をご覧ください。

 

 

 

 

好評発売中

 

田村ふみ乃歌集 『ティーバッグの雨』

 

 

 

 

好評連載中

 

『短歌』 島田修三「歌のある生活」、富田睦子「時評」

『短歌研究』 今井恵子「短歌渉猟――和文脈を追いかけて」

『歌壇』 篠弘「戦争と歌人たち」、加藤孝男「鉄幹・晶子とその時代」

『NHK短歌』 富田睦子「短歌の本」評者

『砂子屋書房』ホームページ内 染野太朗 「日々のクオリア

 

 

 

 

ひまわりひまわりひまわり

 

 

 

8月の更新予定

 

8/3  (金) まひる野歌人ノート特別編・『かざぐるま』刊行記念・田口綾子さんに31の質問

8/10 (金) 山川藍の『まえあし!絵日記帖』④

8/17 (金) 麻生由美の『大分豊後ぶんぶんだより』④

8/24 (金) まひる野インフォメーション

8/31 (金) お休み

 

 

来月もぜひ読みにきてください!

 

(北山あさひ)

 

 


 

 

 

大分豊後ぶんぶんだより③とく子さん、あるいは神聖なる作品    

 

 

いよいよ、子どもたちの夏休みがはじまります。

よかったね、子どもたち。

しかし、夏休みには多くの宿題があり、その一環として、自由研究というレポートや図画工作など、

なんらかの作品をつくらなければなりません。

たいへんですね、子どもたち。

 

美術館や博物館が好きなのですが、うっかりお盆過ぎの博物館に入ったりすると、

ここで宿題の取材をしようとするおおぜいの子どもたちと行列しなければならず、難儀をします。

とにかく何か提出しなくてはいけない!とあせったとき、ここなら確実にレポートのもとを作ることができるからでしょうね。

もしかすると「ミュージアムに行く」ということ自体が宿題なのかもしれません。

かりに宿題に追われて仕方なく、なのだとしても、こどもたちがなにかの博物館や美術館に行くのはとてもいいことです。

ゆっくり館内を散策したい年寄りのわたしは、なるべくお盆前の、

子どもたちがまだ焦りを感じていないうちに出かけていくことにしましょう。

 

これは小学校の夏休みの思い出です。

わたしたちが通っていたのは戦前に建てられた古い木造の校舎でした。

理科室の標本には戦前の古いものがたくさんあって、大きな脚の長いカニの標本台には横書きで

「ニガシアカタ」なんて書かれていました。

教室の後ろのロッカーは傷んだところを何かの看板らしきものの廃材で直してあり、

そこには赤いペンキで「空襲警報発令中」なんて書いてあったものです。

 

いま、子どもたちが夏休みの作品を作らねばならないように、昔の子どもであるわたしたちも作らねばなりませんでした。

作品は子どもが作るものですから、お金をかけずに創意工夫することが望ましいとされます。

ほんとうは、夏休みに思いっきり遊んだ、そのことが作品であってもいいような・・・。

庄野潤三の自薦随筆集『子供の盗賊』(牧羊社 1984年)に「宿題」という、夏休みの作品を描いたすてきな小品があります。

その中に出てくる「あぶらぜみのなかま」がとてもかわいいので古書店か図書館などで探して、ぜひお読みください。

 

夏休みの前に、先生は念を押します。

「作品は、なにか材料を買って作ったりしなくていいのですよ。おうちにあるもの、空き箱とか、空きビンとかいらなくなったものを利用して貯金箱を作るとか、古着で手提げ袋を作るとか、くふうしてくださいね。」

そうやってできた作品は、一生懸命まじめに作られたものがほとんどでしたが、中には明らかに苦し紛れの手抜き作品もありました。

しかし、さらしを雑巾のように粗く縫って筒状にしただけの「枕カバー」や、お菓子の空き箱に硬貨を投入する穴をあけただけの「貯金箱」であれ、いったん提出して名札の紙を貼られてしまうと、それは作品展が終了するまで“作品”いう神聖不可侵の地位を確立するのでした。

 

わたしが小学生だったある夏の終わり、ひとりの少女が夏休みの作品を提出しました。

彼女の名は、仮に、とく子さんとしておきましょう。

どんな子だったか思い出そうとしても、よく覚えていないのに気づきます。

彼女を記憶したのは、まさにその作品によってだったのです。

とく子さんが提出したのは、そのころ流行っていた「モビール」という室内装飾でした。

*モビールがなんだかわからない方は、お手数ですが、いま開いているPCなどで検索して画像などもご覧ください。

みんなが息を吞んだのは、それがとく子さんの家庭で消費されたスイカの皮の大小の切れ端でできていたからでした。

夏休み最終日におうちで食べたものなのでしょうか、みずみずしくて、赤い果肉が所々に残っており、明らかに歯型とわかる痕跡もありました。

でも、大きさを調整してバランスをとってひもで吊るし、モビールの体裁をちゃんと備えているのです。

先生が「ふざけるな!」などと怒らずにこれを受理したのは、とく子さんがとてもまじめな少女だと分かっていたからでしょう。

 

作品展はクラスごとに、教室の後ろのロッカーの上に作品を並べて行われます。

スイカのモビールをどのように展示したものかと学習係が困っていると、先生が「空襲警報発令中」の

ロッカーの上、天井板の桟に釘を打って、そこにひもをかけて吊るしてくれました。

モビールは窓から吹き入る夏の風を受けて、ゆっくり、重々しく回りはじめました。

みんなの感想は「わあ…。」でした。

ほかにどんな言い方があったでしょう。

 

作品展の期間は一週間です。

翌日からさまざまな不具合がモビールに発生しました。

まず、たくさんのハエがやってきてスイカにとまり、教室の後方をぶんぶん飛び回りました。

でも、誰も、なにも言いませんでした。

なぜならそれは“作品”だからです。

やがてスイカは夏の大気の中でくさりはじめ、においはじめました。

ときどき顔を上げてにおいの方を振り向く人もいました。

でも、やはり、誰もなにも言いません。

“作品”だからです。

三日ほどたつと、スイカの一片がひもから抜け落ちてロッカーの天板の角に当たり、

くさいしぶきを最後列に座っている少年の首筋にとばしました。

彼は、うっと呻いて首をぬぐい、肩越しにモビールを恨めしそうに見やりました。

まわりの何人かが気の毒そうに彼の方を見ました。

でも、誰もなにも言いません。

“作品”ですから。

数片のスイカの皮を落下させたあと、モビールは思いきり傾いだまま、しずかに乾燥していきました。

「作品は大切におうちに持って帰ってください。」

一週間の終わりに先生がそう言うと、みんなは立ち上がってそれぞれの作品をランドセルや手提げに

入れました。

とく子さんも干からびたスイカの皮を、ていねいに新聞紙に包んで持って帰りました。

それは“作品”だったからです。

 

スイカを食べて、残った皮を眺めていると、夏の風が吹きぬける古い教室のことを思い出します。

とく子さんも、先生も、みんなも、どこへ行ったのかな。

 

 

前庭に大いなる赤きモビールの回りつつやがて昏れて行くべし

                               岡井隆『神の仕事場』

 

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

スイカ

 

 

 

次週予告

まひる野インフォメーション

7/27(金)12:00更新予定

 

お楽しみに!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山川藍

名古屋市出身 2001年まひる野入会

歌集『いらっしゃい』(2018年/KADOKAWA)

 

 

 

 

スイカ スイカ スイカ

 

 

 

次週予告

麻生由美の『大分豊後ぶんぶんだより』③

7/20(金) 12:00更新予定

 

お楽しみに!

 

 

 

 

まひる野歌人ノート③曽我玲子

 

 

曽我玲子の短歌が好きだ。

たとえばこんな歌。

 

 

黒豆の煮あがる頃をかけあがる階段に白衣ぬぎすてながら 『薬室の窓』

たけなわの春の夕べの小医院「極楽湯ですか」と電話かかりく

ほとばしるホースの水にきみ撃てばゆらゆら笑う硝子の向こう

樹海にて朽ちゆくまでの樹の時間おもいて眠る目覚めるために

故郷へ帰る魚類のかがやきにカヌー静かに川のぼりゆく

 

 

夫がいとなむ小さな医院で、薬剤師として働いている作者。

年末は、病院もお節作りも大忙しだ。

調剤をしながら、あるいは患者の応対をしながらも時計の確認は怠らず、

その時間がくるやいなや「白衣をぬぎすてながら」階段をかけあがる。

場所の移動と、移動する主体の状態の変化が同時に行われる様子は、

スピード感にあふれていてコミカル。なんだか宮崎駿監督のアニメに出てきそうな場面だ。

黒豆の火を止め、状態を確認したあとは、脱ぎ捨てた白衣をばさばさと身に纏いながら

階段をかけおりて、ふたたび仕事場へ戻ってゆくのだろう。

 

春のさかりの、のんびりとあたたかい夕ぐれどき。

そこへかかってくる間違い電話として「極楽湯ですか」ほどふさわしいものはない。

ふつうの日常の、なんてことはないできごとが、歌に詠まれることによって特別なものに変わる。

 

三首目の歌を魅力的にしているのは、ほのぼのとした夫婦の風景のほかに、

二つの速度の表現があると思う。

勢いよくホースを飛び出す冷たい水の速さと、硝子窓の表面をゆっくりと流れおちてゆく

「ゆらゆら」した水の遅さ。

実際にはほんの数秒のできごとが、定型の中でしなやかに引き延ばされて印象深いワンシーンになる。水のスピードはそのまま夫婦の性格を表わしているようにも思える。

 

「樹海」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、薄暗くて、静かで、だれもいない、

怖いけれど不思議と安らぎも感じる、なかばあの世のような風景。

そこで流れているのは、人間の時間ではない。何百年、何千年を生き続ける樹木の時間だ。

圧倒的で、果てしがないことは、ときにとても心地良い。ずっとそこで眠り続けたい。

しかし、結句の「目覚めるために」では、そんな甘美な幻想から曽我がすでに醒めていることがわかる。単なるイメージからの切り返しではなく、曽我自身がもつ芯の強さを反映しているような結句だ。

 

五首目は、「寡黙なカヌー」という一連のなかの一首。『薬室の窓』の中でも一番すきな歌だ。

遠景。画面中央には水がきらめくうつくしい川が見える。

そこを、一艘のカヌーがしずかにのぼってゆく。

「故郷へ帰る魚類のかがやき」という比喩は、カヌーの映像的な描写だけにとどまらず、

故郷に辿りつくまでの長い旅の道のりへ、読者の心を向かわせる。

旅はもうじき終わるのだろうか。

充実と寂しさがきらきらと反射しているような、印象深い一首。

 

 

まひる野の歌人の多くがそうであるように、曽我の歌もまた、ストレートな生活の歌だ。

医院での仕事、母や舅の介護、故郷の記憶。そのほかにも料理をしたり、

プールで泳いだり、どろぼうに入られたり――。

それらの歌を読んでいると、「ディテール」というものがかなりしっかりと詠み込まれていることに

気が付く。

 

 

幼児の頭蓋(スカル)がほどの梨の実を夜の卓に置ききざすかなしみ 『薬室の窓』

抽出しに片耳ばかりのイヤリングわれを過ぎたる時間がひかる

たわむれに指にさんごを飾りみる真夜中三時咳の止まざり (まひる野2017.7)

股関節の手術痕ある友が好き寒さに水の硬さ言いあう (2018.6)

 

 

夜のテーブルの上にしずかに置かれている、こどもの頭蓋骨ほどの大きさの梨の実。

医療関係者だからこその表現といえるだろう。

すでにかなしいのではなく、かなしみが「きざす」というのも繊細だ。

 

片方だけ残っている、もうつけられないのに捨てられないで取ってあるイヤリングたち。

抽斗のなかを見て「こんなにあったのか」と驚いているのかもしれない。

時間はいつもそんなふうに過ぎてしまう。

 

真夜中の一時や二時を過ぎて三時まで咳が止まらないとなると、眠れない状態にもいい加減飽きる。

なんとなく嵌めてみるのに選んだのは、少しくすんだような紅色のさんごの指輪。

ダイヤや真珠の指輪よりもずっと心に寄り添ってくれそうだ。

 

冬のプールで一緒に泳ぐともだちは、股関節に手術痕がある。

それがどのような病気や怪我を意味するのか私にはわからないが、

医療職の曽我にはその重大さがわかるのだろう。

その友達が背負ってきたものへ考えが及ぶからこそ、手放しで「好き」と思えるし、

こんなふうに素直に詠みたくなったのだろう。

心に響く、大人の友情の歌。

 

「さんごの指輪」をただの「指輪」に、「股関節に手術痕ある友」をただの「友達」にしない集中力と根気、

そしてそれらを定型にすとんと収める手際は、どこか職人技のようでもある。

職人が技を見せてくれるから、青二才も技を盗むことができる。ありがたい。

 

 

 

*

 

 

ここで、私が「仏壇シリーズ」と呼んで楽しんでいる歌をいくつか。

 

 

うねうねと川辺に沿える工場より漆黒の巨き仏壇出で来 『薬室の窓』

風吹けば風のかたちに打ち靡く麦畑のむこう仏壇工場

仏壇屋のならぶ通りの七曲りBMの赤に道をゆずらず (2017.2)

ゆうやみの底いに沈むぎしぎしと蓬の土手の仏壇工場 (2017.7)

 

 

曽我は滋賀県の彦根に住んでいるそうだ。

私は彦根に行ったことはないけれど、曽我のおかげですっかり「彦根=ひこにゃんと仏壇の街」

となった。

工場の無骨な扉から出てくる「漆黒の巨き仏壇」。

ガンダムやサンダーバード号みたいでゆかいだ。

 

 

*

 

 

 

生活の歌のほかに、曽我の大事なテーマとなっているのが「戦争」だ。

戦争の体験というよりも、物心つく前に戦死した父を中心とする家族の歌が、

第一歌集『薬室の窓』から現在まで詠み続けられている。

それらの歌は「戦争詠」と一括りにすることがためらわれるほど、

曽我の人生と不可分に結びついている。

 

 

たましずめの祭の葉月かげろうを踏みて軍帽の父が歩みく 『薬室の窓』

子のために生きよと最期の手紙かき爆死せし父よ母老いませり

こころ細く水引草の揺れいだす兄は八歳の夏を語らず

父の腕を知らざるわれは家具売場の革張りの椅子にふかく沈みぬ

記憶なき父なれば永遠に未知の人ははと見ている夕雲あかね

蒼空に枝を伐られしプラタナス兵士のごとく佇ち続けおり

車より降りたてば眼鏡くもりたり炎天に父が爆死せる時刻 (2016.11)

腕のべて水に潜ればくぐもれる亡き兄の声追いかけてくる (2016.12)

朱き舌ふるわせて泣く嬰児にてこずる日のくる永遠(とわ)に兄さん (2017,4)

夜の街にハンバーガーを頬張れり日本は八月十五日正午 (2017.7)

敗兵の遺児なるわれの喉くだるシャルドネ美味し月代青し

 

 

これらの歌に詠まれているのは、プロパガンダでも、反戦の啓蒙でも、若者へのお説教でもない。

戦争の時代を生きた家族の足跡であり、自身の人生に穿たれた幾本ものハーケンである。

革張りのがっしりと大きな椅子に、枝を無残に伐られたプラタナスの木に、

眼鏡がくもるほどの炎天の熱気に、プールの水の中に聴く、くぐもった音に、

生まれたばかりのきょうだいを見つめる孫の姿に、

八月十五日のアメリカで頬張る巨大なハンバーガーや、きりっと冷えた白ワインに、

戦争の翳は陽炎のように立ち上がる。

否応もなく立ち現れてしまうのだ。

 

こんなふうに、人生と戦争が分かちがたく絡み合ってしまうこと、そしてそれを、

決して特別な短歌としてではなく、執拗なほどのディテールをもって、

あくまでも生活の一部として詠み続ける歌人がいることを、まひる野に入らなければ、

私は知ることがなかったかもしれない。

 

曽我の歌に出会えてよかった。

そして、曽我玲子の短歌が、やっぱり、とても好きだ。

 

 

 

白き皿水に洗えるこの夜をカヌーはいづくを漕ぎゆくならん『薬室の窓』

 

 

 

※本文中の短歌は『薬室の窓』(砂子屋書房/2008年)と、

 過去三年の『まひる野』誌から引用しました。

 

 

 

(北山あさひ)

 

 

 

薬薬薬

 

 

次週予告

山川藍のまえあし!絵日記帖③

7/13(金)12:00更新予定

お楽しみに!

 

 

一番に芽を出す野辺の藤菜とふ美味(うま)きものあり晩酌楽し   伊藤宗弘

 

怖いもの見てしまいたり紅梅の花弁一枚つれてゆく風       田村郁子

 

アルプスの峰より高き八重桜見上げて茶筅軽く振りおる   小澤光子

 

何処にて咲きし桜の花びらか町を舞いきてベランダに落つ   齋藤冨美子

 

波の音ききつつ浅き眠りなり今日は眼科の予約日である   東島光子

 

「疲れる」は生きているから震災の年に生れし子みな一年生   菊池理恵子

 

非正規の代わりに非正規やってきてこの非正規はよくため息をつく    佐巻理奈子

 

日馬富士朝青龍から逃げきれず髷を切られる夢から覚める    池田郁里

 

欲望にからだがついていけなくて牛丼大盛残してしまう     高木啓

 

穏しかる郷の野山に雨まじりの春の親爺が吹きてぞ狂う   伊藤英伸

 

完璧に計算されたカロリーのペレット食みて実験日くる     奥寺正晴

 

「ママ友」は確かな友の私たちあなたにはわからなくて結構     山田ゆき

 

三丁目の医院の角を左折するここより春の枯葉散る道     入江曜子

 

「歌舞伎町の女王」上手に歌いける女(ひと)と朝まで過ごしし新宿    久納美輝

 

食事前にお手ふきクルクル巻く仕事十一人分一日三回     八木絹

 

人混みゆ逃れてやうやく丸善に深く息吸ふ目ざす書ありて     篠田充子

 

一晩のうちにさくらを散らせたる風の狂気がはつかに掠る     狩峰隆希

 

燈灯りてやうやく人の気配せりこの冬三度の雪の日暮に  末永惠子

 

生まれては飛ばずに増える飛行機の青黄青緑特別の銀   稲葉千咲

 

AIの読解力が指摘さる他人の弱点摑みたるような      葉田直子

 

祖父母の地吾妻(あがつま)群の今は無きバス停に立ち蟬時雨きく   冨沢昌晴

 

友達に便りを書いてポストまでゆっくりあるく歩数計つけて    後藤正江

 

吹き抜けの広場の無料イベントに演歌歌手らは復活誓う      薄井一彰

 

絶版の少年文庫古書の香に混じりて煙草の匂ひをまとう     印出忠夫

 

わからない綺麗と言った紫陽花を枯れてすぐさま切り落とす人   福田夏子

 

いまさらのように届いた葉書から元気かなんて聞かれたくない    藤田美香

 

 

 

(む)

 

 

 

 

 

 

余情といふ大空間をいにしへの歌びとはことばに発見せり      橋本喜典

 

目の前に録音機あり居眠りの下手なるわれがいつも司会者     篠弘

 

一線を越えていないか鞭打ちて更に鞭打つ喘ぐ輓馬を        小林峯夫

 

小さなる光をこぼしこぼしつつあした地面にしだるる桜        大下一真

 

空閉ぢてにはかに昏き窓の外(と)をつばくろ過ぎり追ふやうに雨   島田修三

 

丸腰で歩兵の前を進むのさ工兵に長男は少なかつたな        柳宣宏

 

うきうきと蔵書印など押したるが組にくくられ苦しむごとし        中根誠

 

壁掛(タピスリ)に描かれしモリスの小鳥たち背中合はせにかなた見据ゑて     柴田典昭

 

そこよりは人を寄せずき風の日もガラスのような自意識の人      今井恵子

 

この坂を登り越えねば行きつけず生きて基盤とわがせし家に     圭木令子

 

あんたよう頑張らはったと臨終に手を握りくるロボット出で来ん    曽我玲子

 

ひとの死を耳に入れつつ生きてゆく何とさみしき難破船なる      大野景子

 

母の手の花のやうなる柔らかさ思ひだしをり母は永遠         大林明彦

 

枯れ草を運ぶ雀はしずかなりここで育ちし子等かもしれぬ      齊藤愛子

 

スマホにて言葉と写真を送り合ひ互ひの声を聞いてゐるつもり    相原ひろ子

 

 

 

ハードルを跳び越すうつくしき速度少女は脚をぱっとひらいて    広坂早苗

 

寂しいよと先に言われてしまいたり心ほどけて聴く耳になる      市川正子

 

そんな働き方なんかせんでいいまひるの風に翩翩(ひらひら)とゆく    麻生由美

 

  

お湯を飲むしょうが湯を飲むかんぴょうで縛られているような大腸     山川藍

 

母親と来られぬ太郎を抱き上げてぐるぐる回る雲になるまで      大谷宥秀

 

その辺のぼっこ拾って線を引くわたしに触れるなもう眠りたい      小原和

 

地の果て(シリエトク)という響きに恍惚とならないほうが嘘 笹の丘   北山あさひ

 

伸縮のやや自在なるわが身体せまき座席に肩を窄めぬ      後藤由紀恵

 

ひかりしばらくわが踝をあたためてカーブとともに去りてしゆきぬ   染野太朗

 

節電のランプちひさう灯りゐてウォシュレットのもつ時間(とき)の感覚   田口綾子

 

 

 

(む)

 

大分豊後ぶんぶんだより②かかりむすびの人びと     

 

 

16歳になる年の春、天然記念物の岩山のふもとを離れ、

67㎞彼方の県都大分市の高校に進学しました。もう何十年も昔のことです。

 

 

ある日古文の授業で、かかりむすびを復習しました。

苦手な方のために簡単に申し上げますと、古文によくみられる現象です。

文中に「ぞ・なむ・や・か・こそ」という係助詞のどれかを挿入して、

普通は終止形で結ばれるはずの文末を、連体形や已然形(*)で結んでしまうというものです。

「名惜し。」→「名ぞ惜しき。」「名こそ惜しけれ。」のようになります。

文語文法の参考書には「係り結びの法則」と書かれていることがありますが、

むかし「まひる野」には「法則なんかではない!修辞だ。」と憤っている方がおられました。

どなただったか覚えていないのですが、私はこの方に賛同します。

(* いぜんけい、と読みます。すでにそうなっていることを表す活用形で未然形と対になっていました。

 口語ではなくなってしまいましたけど。)

 

 

さて、そのとき私は隣の席の女の子に、「うちのおじいちゃんたちは、眼こそ痛けれとか、

そりゃ猫でこあれ(こそあれ)とか言ってたよ。」と囁きました。

その後の休み時間のことです。

なんだか太陽が翳ったようにいきなり教室が暗くなりました。

顔を上げると、わっ、たいへん!

大勢の人が押し寄せて、べランダ側、廊下側、教室のすべての開口部をふさいでいるのです。

「このクラスにかかりむすびを使う人がいるってほんと?」

「だれ?どの人?」

隣の席の女の子が私の方を示しました。

「あっ、あの人だって!」

「すげー!」

何が?

「何か話して!」

うろたえながら、うちの祖父母がそういう言い方をしていただけで、自分は使っていない、

と説明すると、群集はつまらなそうに散っていきました。

私なんかを見物するためにあんなに大勢の人が集まってきたのは、

後にも先にもこの一回だけです。ああびっくりした・・・。

 

大分県の中では豊後よりも豊前(ぶぜん)の人びとにより多く「こそ~已然形」のかかりむすびは

残っていたようです。

あ、大分県というのは昔の豊後の国全部と豊前の国の宇佐郡・下毛郡(*)からできているのです。

県版の文法副読本のコラムには、こんな用例が載っていました。

豊前下毛郡の古老から採取したものだそうです。

「わしが若え時ん苦労ちゅうちから、人こそ知らね忘るる間むねえ。」

(私が若い時の苦労と言ったら、他人は知らないだろうが忘れる間もない。)

「まるで百人一首・二条院讃岐の『わが袖は塩干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし』

のようですね。」という編集者のコメントつきでした。

*「下毛郡」は「しもげぐん」と読みます。福岡県側にある「上毛郡(こうげぐん)」と対になっています。

大合併で中津市に編入され、郡の名前はなくなってしまいました。

 

 

ちなみに、今や日本中どこでも買える大分の麦焼酎「いいちこ」ですが、

「大分の方言で、いいですよ、の意」と解説されています。

私は長年、このことばを「いいちこそ言え」のしっぽが切れたものだと考えていました。

お年寄りが相槌を打つとき「そうちこ、そうちこ!」(そうですよ、そうですよ!)といいますし。

この文章がネットにアップされればアラビアでもフエゴ島でも(日本語が読める人なら)

閲覧できるのだから、不確かなことを言ってはいけないと、67㎞彼方に車を走らせ、

県立図書館におこもりして確認しました。

そうでした。そうちこ。

肝心の結びの部分が消失しているので「むすびか?」と追及されそうですが、

いちおう結ばれていたのが、なくなったのですよ。

閲覧した資料の中には、「てーげーこらえちきたが、今こそゆうたれ!」

(ずいぶん我慢してきたが、今こそ言うぞ!)

というおそろしい用例もありました。

「知っちくさ!」というのもあります。

「知ってこそあれ!」つまり「知るもんか!」「知らないぞ!」という反語です。

おや、…これは今でも腹を立てたときにたくさんの人が使っていますね。

叩きつけるように発声するのが実践のポイントです。

私を見物に来た同級生たちの中にも、かかりむすびとは知らずに口にしていた人が

いるかもしれません。

 

 

さて、かかりむすびが残った土地が、大分県だけのはずはないと思って捜してみました。

沖縄では「こそ」が古代に消滅してしまったそうです。

「命どぅ(=ぞ)宝。」は有名ですが、体言止めで文末がきえてます。

結びのあるものを探したら「汗はてどぅ漕ぎゆる。」という琉歌をみつけました。

やはり連体形はウ段なのですね。

「が(=か)~未然形」もあるそうです。未然形?とびっくりしたら「未然形+む」のおしりが

消失したのだそうです。なるほど。

沖縄の言葉を考えるのは、いっかい、奈良時代まで遡ってそこからV字型に現代まで

戻ってくる感じです。

とても興味深い。終活だあといって『おもろさうし』を二束三文で売るんじゃなかった・・・・。

 

 

さらに方言地図で確認したら、西日本各地の深い山々やさびしい海岸のあたりに

たくさんマークがついていました。

東日本では八丈島。ここは古代の東国のことばのおもかげをとどめているので有名なのですね。

驚いたことに三浦半島にたくさんのマークが。

三浦のかかりむすびって…?聞いてみたい!どなたか話せる人はおられませんか。

これは20世紀末の調査なので、自分は言わないけど、ひいおばあちゃんが言ってたのを

覚えている、という人はまだ各地にいらっしゃるのではないでしょうか。

その土地のことばの文脈の中で、生きたかかりむすびを聞いてみたいものです。消失しないうちに。

大分もずいぶん危ないのです。

 

 

 

    下毛郡山国郷にて

左右(さう)に立つ峰のあひだの青空に雲はかがやく雲の山国(やまくに)      麻生由美

 

 

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

 

カエルカエルカエル

 

 

 

※来週の「まひる野インフォメーション」はお休みします。

 

次回予告

まひる野歌人ノート③ (担当:北山あさひ)

7/6 (金) 12:00更新予定

 

次回もお楽しみに!

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

山川藍

名古屋市出身 2001年まひる野入会

歌集『いらっしゃい』(2018年/KADOKAWA)

 

 

 

おにぎりおにぎりおにぎり

 

 

次週予告

麻生由美の『大分豊後ぶんぶんだより』②

6/22(金) 12:00更新予定

 

お楽しみに!

 

 

 

 

 

 

こんにちは、北山あさひです。

 

 

まひる野の注目歌人を独断と偏見で選び紹介するコーナー、

今回は入会二年目の佐巻(さまき)理奈子(りなこ)さんです。

 

 

 

まひる野歌人ノート②佐巻理奈子

 

 

 

佐巻が初めて「まひる野」誌に登場したのは2016年の11月。

掲載された一連はこんな歌から始まる。

 

 

いくつもの嘘を重ねて爽やかなわれの不気味さ シーツを替える

 

 

ここで詠まれている「嘘」の詳しい内容はわからないけれど、

日常のなかで小さな嘘をつくことはよくあるのではないだろうか。

少なくとも私はたくさん嘘をついて生きている。

恋人がいたとしても職場の人には絶対に言わないし、短歌をやっていることも隠している。

恋人は存在しないことになり、「歌会」は「前の職場の人との女子会」になり、

「まひる野の全国大会」はシンプルに「東京観光」になったりする。

誰に対しても心をオープンにできる人ももちろんいるだろうけど、それが無理な人もいる。

私がそうだし、そしてたぶん佐巻もそうなのだろうと、勝手に想像する。

 

どうでもいいような小さな嘘でも、嘘は嘘だ。

それを、あたかも嘘などついていないかのように「爽やか」にふるまえる自分を、

佐巻は「不気味」だと詠む。

これくらいの客観性は普通だが、一字空けの後の「シーツを替える」で冷静さと

不気味さのダメ押しをしてくるあたりに作者の真剣さがある。

さらに、この歌の次には<言えることそうじゃないこと振り分けのへたな私の舌をどうする>

という歌が続く。

心をどれだけ開くかを相手によって変えるということは、それを判断し続けることでもある。

この人は信頼できるか、できる、じゃあ70%開こう。この人はあまり好きじゃない、10%、というように。

自分を冷静に客観視できる人がそのジャッジの確かさに疑問を持つことも、

それにより混乱をきたすのもわかりきったことだ。

嘘を重ねてゆく自分や、相手によって態度を変える自分に対しての罪悪感と怒り。

「私の舌をどうする」は昔話の『舌切りすずめ』を連想させ、

悪い行いには罰が必要なのだという規範意識も垣間見える。

私は、佐巻がまひる野に初めて出す歌稿にこうした歌をぶつけてきたことに感動したし、

「信頼できる」と思った。

 

 

正直さ、冷静さ、規範意識、自己批評――

こうした佐巻の特徴は、ときにキッチュに、ときに息苦しく歌にあらわれてくる。

 

 

カラオケでホットコーヒー頼むってダサい あなたと朝日は見ない

謝ります 三階廊下の両窓をあけっ放しにしたのわたしです

真夜中の毛布に胸がつぶれてく かみさまもう悪口言いません

わたせない真心かかえて虎になる 虎になってカレーを食べる

病名があったらなーと金網を掴んで空と絡まっていた

 

 

カラオケでホットコーヒーを頼むことがダサいかどうかはともかく、なんとなく違和感はある。

「カラオケ」という<陽>の場所で飲むものといえば、

コーラとかメロンソーダとかオレンジジュースとか?

ホットコーヒーはどちらかというと<陰>のイメージがある。

主体は「あなた」のことが好きではない上に、

こうした「常識(のようなもの)」から外れる行為も嫌いみたいだ。

あなたのことは嫌いです。楽しい気分のまま、きれいな朝日を、私は別の好きな人と見ます。

自分の心は誰にも侵害させないという意思がある。

 

二首目の面白さは「謝罪の内容のどうでもよさに反して超マジメな主体」というよりも、

「正直さ」が持つ「可愛らしさ」が表出している点だろう。

 

三首目。因果応報があったのか、はたまた嫌いと思っていた人が実はいい人で、

自らの軽率な行いを反省しているのか。

いつもよりずっと重たく感じる毛布は、いわずもがな罪悪感の暗喩。

その重さを感じるのが胸部というのはいわば当たり前のことだが、

横になっている状況を考えると体感が良くわかる表現だ。

 

四首目。こんなに素直な人なのに、「真心がわたせない」のだという。

自分の心をコントロールしきれないことと、そんな自分の未熟さが、

悔しくて、情けなくて「虎」になってしまうのだと。

虎になるといえば『山月記』だが、ここでの「虎」は荒々しい感情の化身だ。

生肉に食らいつくように、心を暴れさせながらカレーを掻っ込む姿がいとおしい。

 

揺れやすい心を持つことを「繊細」とも言うが、五首目では「病名」があればいいのに、と言う。

病名があったら治療ができる。治療をすれば病気を治せる。

もう怒ったり傷ついたりやもやしたりしなくていい。

鬱屈とした一首だが「病名があったらなー」という口語体や、

「空と絡まる」というさわやかな表現を持ってくるところに、短歌的バランス感覚の良さが表れている。

 

 

これまでの歌にもみられるが、佐巻の歌で面白いのは、「他者」の存在が多く詠まれていることだ。

「人間関係」という厄介なものを、佐巻は積極的に歌にしていく。

 

 

早朝の休憩室に顔の無い退職者たちの気配は満ちる

シュー生地のなかにあんこが入ってるお菓子のおかげで繋がる会話

八年前絶交した子の名前だとふと思い出すさゆちゃん、さゆり

お掃除の小林さんが薄暗い廊下で手のひら開けば飴玉

「ヤバい」と口にすると語彙が死ぬようだあの子の鬱のはじまりに似て

深呼吸は唯一自律神経を操れるという 風鳴りの駅

辞める日に着てやるべって話してた猫柄ワンピ触りに街へ

ばいばいにばいばいすれば君のいない私のいない春の足音

 

 

引用はしていないが、他の掲載歌からこの職場は図書館であり、

職員は非正規雇用であることがわかる。

非正規雇用であるから、当然ひとの出入りは多い。

仕事ができる人も、仲良しになった人も、雇用期間が終わればいなくなるのが非正規雇用のさだめだ。誰もいない朝の休憩室で、かつていた人々のことをふと思い出す。

そして、自分もいつかは思い出される側になる。

苦手な同僚、むかし絶交したさゆちゃん、薄暗い廊下で飴玉をくれるお掃除の小林さん、

鬱になってしまった「あの子」、一足先に辞めていった仲間。

人は人の中で生きて働いている。

当たり前のことだが、これを短歌にするのは意外に難しいし珍しい。

意識していないとできないことだ。

佐巻が何を大切に思い、短歌で何を表現しようとしているのかがよくわかる。

冒頭で述べた正直さや規範意識も影響しているのだろう。

 

 

人間関係の歌では会話を取り入れた歌も魅力的だ。

 

 

「河が好きだった?」と問えば「好きだった」と返す瞳が去年と違う 

やりたいこと見つかるといいね真夜中に食むアルフォートが喉に生む熱

「なんか熱冷めちゃったから」という声が小雨のようだ酔えないなもう 

「食洗機スイッチ忘れてごめん」って電話の向こうにきみの労働

 

 

交わされる会話から、そこにいる人と人との関係性がじんわりと浮かび上がってくる。

 

 

 

長くなってしまったのでそろそろ締めます。

佐巻は今年の歌壇賞で最終候補に残っている。

「ひこうき雲と汽笛と」三十首は、受賞作を始め重苦しいテーマの作品が並ぶなかで、

ほっと息がつけるような、風がすーっと通っていくような一連であったと思う。

非正規職員として働く日常の閉塞感が、それなりの重さを持ちながらも、

全体として明るく、気持ちよく描かれているのは、佐巻が決して絶望せず、

美しいものを見よう、感じようとしているからだ。

 

 

ヒセーキと伸びるかるさを持ち寄って手を振るような鳩の明るさ

ゆるさないこと、ゆるされなかったこと 風浴びるため川まで歩く

「前の人」と呼ばれることのすずしさよ たった一人の草原にいて

たそがれに洗濯物を入れるとき「たのしかった」と確かに聞こえ

簡単にこころこころと呼ばないで 裸でひらく星座の図鑑

好かれたくて吐いた言葉は一枚の窓、一枚の葉 わすれられない

落蟬の胸より宵はにじみ出てとおいどこかで開く缶ビール

過ぎ去りしものは眩しいまっすぐに伸びゆくひこうき雲と汽笛と

 

 

短歌は社会を映し出す。

私たちを取り巻く社会がこの先どうなるかはわからないけれど、

佐巻の歌が放つきらめきが、これからの短歌にとってかけがえのないものになると思えてならない。

ヘンゼルの光る石のように、大事にしたい。

 

北山あさひ

 

 

※「ひこうき雲と汽笛と」は『歌壇』2018年2月号から引用。

その他の歌はすべて『まひる野』誌から引用しました。

 

 

 

 

傘傘傘

 

 

次週予告

山川藍のまえあし!絵日記帖②

6/15(金)12:00更新予定

お楽しみに!

 

 

 

こんにちは。

毎週更新!のまひる野ブログ、6月もがんがんいきますのでお付き合いください。

今回は飛び込み企画(!)です。

名古屋支部の佐藤さんが先日行われた歌会のようすをレポートしてくれました。

近くにお住まいの方で歌会に興味のある方は参考にしていただけたらうれしいです!

 

 

セキセイインコ青

 

 

名古屋支部の佐藤華保理です。

 

 

名古屋支部ではおおよそ奇数月の日曜日(第何週かは未定)

午後1~5時に歌会を開催しています。

場所は愛知芸術文化センターのアートスペースか名古屋YWCAで行っています。

多い時は20名、少ない時は12名ほどの参加があります。

 

年齢層はまちまちで20歳~80歳代の方が来られます。

60歳代の方が一番多く、その他の世代は数名ずつです。

艶っぽい歌で年齢を感じないほど批評が盛り上がったり、

反対に人生経験から出る批評も出たりと毎回面白い歌会となります。

毎年1月の歌会の後には新年会をしたりします。

 

 

歌会の方式ですが、2か月分のまひる野誌を持参し(※ページ下部に追記あり)

その中から1首自分が評をしてほしい歌を選び、それを隣の席の人が読みます。

そのあとに数名が司会者の指名で批評を述べていきます。

その間は自歌注釈はしません。じっと汗をかきながら耐えます。

だいたい自分が「弱いなーここ」と思った所をきっちり指摘されたり、

思ってもいなかった解釈をされたりと刺激的な時間でもあります。

 

 

最近では5月27日(日)に歌会を行いました。

名古屋の会員の他、愛媛から大野景子さん、

大分から麻生由美さん、東京から久納美輝さんが来名され、

14人の参加となりました。

 

 

歌会で印象に残った歌と評をいくつか紹介したいと思います。

 

 

 

 

みんなドア開けてくれるね捨てに行く蛍光灯を高くかかげる/山川藍(5月号)

 

壊れやすい蛍光灯を持って歩いていたら、ドアを開けて通してくれた。

「高くかかげる」動作の変化、時間の経過もわかりユーモアのある歌。

その反面、壊れものを持っているために優先して通してくれる、危機感、緊迫感がある。

子音のKと母音のeが連続してリズムを作っており、不安定な感じがする。

上の句が舌足らずで詰まるような感じがするが、作者の特徴でもある。それが通用する年代であるので、使えるうちに大いに使ってほしい。

 

 

貝を掘るぱんつへ潮の満つるより海とふものを怖れそめにき/麻生由美(4月号)

 

子供時代、初めての潮干狩りに夢中になっているといつの間にか潮が満ちてきて濡れてしまった。

冷たさ重たさなどの体感をもって、海は恐ろしいものとして残る。

そのことを小野小町の夢三首の文体で述べるところに魅力を感じる。

 

 

ロッカーの中に項垂れいるきみの白衣の衿をただしておきぬ/曽我玲子(5月号)

 

老いた夫の白衣をそっと直している、哀感を感じる老いの歌。

夫に言うこともなく「ただしておきぬ」は、長年夫を支える自信とゆらぎない気持ちのあらわれではないか。はげますような心境もうかがえる。

「項垂れいるきみの」が句またがりになっており少し冗長な印象を与える。

 

 

スクリーンのアラン・ドロンと目の合えばそれで良かったフランス映画/棚橋まち子(5月号)

 

「スクリーン」「アラン・ドロン」と時代の雰囲気を感じる。

「それで良かった」という端的なライトバースのフレーズに娘時代のいさぎよさ、ユーモア、当時の自分への感慨を思う。

「仏」を題とする連作の中の一首。オリジナルは「仏映画」だったが掲載時には「フランス映画」と修正された。「仏蘭西映画」とすると作者の連作の意図が明確になったかもしれない。

 

 

白魚の天ぷら噛めば小さけれど意思あるものの脂の味する/立花開(5月号)

 

淡白な白魚の脂の味を、意思あるものの味として発見する。

素材を尊重している、作者と素材がフラット、対等である関係性がおもしろい。

天ぷらを食べるときに生命を感じる、ある種わざと気持ち悪い感覚を出しているのではないか。

「小さけれど」は説明的ではあるが、ここでは作者の言いたい生命観に関連しているので、このままでいいのではないか。

 

 

ほんの一部しか紹介できませんでしたが、解釈が分かれる歌、

書道やピアニスト(楽器演奏)の歌など、作者と読者の経験の差のある歌の表現の難しさや

読みの深さの差、 「」でセリフを入れることの難しさなど、活発に意見が交わされました。

 

 

 

 

次回のまひる野名古屋歌会は、7月8日(日)午後1時から名古屋YWCAで開催予定です。

見学希望の方は問い合わせフォームからご連絡ください。

お待ちしております!

 

(佐藤華保理)

 

 

【※追記】

未入会の方やまだ歌が掲載されていない方は、

持参された歌をホワイトボートに書いていただき、それを批評するという方式となります。

また、歌を提出しなくても見学は可能です。

 

 

 

セキセイインコ黄

 

 

次週予告

まひる野歌人ノート② (担当:北山あさひ)

6/8(金)12:00更新予定

 

来週もお楽しみに!