こんにちは、北山あさひです。
まひる野の注目歌人を独断と偏見で選び紹介するコーナー、
今回は入会二年目の佐巻理奈子さんです。
まひる野歌人ノート②佐巻理奈子
佐巻が初めて「まひる野」誌に登場したのは2016年の11月。
掲載された一連はこんな歌から始まる。
いくつもの嘘を重ねて爽やかなわれの不気味さ シーツを替える
ここで詠まれている「嘘」の詳しい内容はわからないけれど、
日常のなかで小さな嘘をつくことはよくあるのではないだろうか。
少なくとも私はたくさん嘘をついて生きている。
恋人がいたとしても職場の人には絶対に言わないし、短歌をやっていることも隠している。
恋人は存在しないことになり、「歌会」は「前の職場の人との女子会」になり、
「まひる野の全国大会」はシンプルに「東京観光」になったりする。
誰に対しても心をオープンにできる人ももちろんいるだろうけど、それが無理な人もいる。
私がそうだし、そしてたぶん佐巻もそうなのだろうと、勝手に想像する。
どうでもいいような小さな嘘でも、嘘は嘘だ。
それを、あたかも嘘などついていないかのように「爽やか」にふるまえる自分を、
佐巻は「不気味」だと詠む。
これくらいの客観性は普通だが、一字空けの後の「シーツを替える」で冷静さと
不気味さのダメ押しをしてくるあたりに作者の真剣さがある。
さらに、この歌の次には<言えることそうじゃないこと振り分けのへたな私の舌をどうする>
という歌が続く。
心をどれだけ開くかを相手によって変えるということは、それを判断し続けることでもある。
この人は信頼できるか、できる、じゃあ70%開こう。この人はあまり好きじゃない、10%、というように。
自分を冷静に客観視できる人がそのジャッジの確かさに疑問を持つことも、
それにより混乱をきたすのもわかりきったことだ。
嘘を重ねてゆく自分や、相手によって態度を変える自分に対しての罪悪感と怒り。
「私の舌をどうする」は昔話の『舌切りすずめ』を連想させ、
悪い行いには罰が必要なのだという規範意識も垣間見える。
私は、佐巻がまひる野に初めて出す歌稿にこうした歌をぶつけてきたことに感動したし、
「信頼できる」と思った。
正直さ、冷静さ、規範意識、自己批評――
こうした佐巻の特徴は、ときにキッチュに、ときに息苦しく歌にあらわれてくる。
カラオケでホットコーヒー頼むってダサい あなたと朝日は見ない
謝ります 三階廊下の両窓をあけっ放しにしたのわたしです
真夜中の毛布に胸がつぶれてく かみさまもう悪口言いません
わたせない真心かかえて虎になる 虎になってカレーを食べる
病名があったらなーと金網を掴んで空と絡まっていた
カラオケでホットコーヒーを頼むことがダサいかどうかはともかく、なんとなく違和感はある。
「カラオケ」という<陽>の場所で飲むものといえば、
コーラとかメロンソーダとかオレンジジュースとか?
ホットコーヒーはどちらかというと<陰>のイメージがある。
主体は「あなた」のことが好きではない上に、
こうした「常識(のようなもの)」から外れる行為も嫌いみたいだ。
あなたのことは嫌いです。楽しい気分のまま、きれいな朝日を、私は別の好きな人と見ます。
自分の心は誰にも侵害させないという意思がある。
二首目の面白さは「謝罪の内容のどうでもよさに反して超マジメな主体」というよりも、
「正直さ」が持つ「可愛らしさ」が表出している点だろう。
三首目。因果応報があったのか、はたまた嫌いと思っていた人が実はいい人で、
自らの軽率な行いを反省しているのか。
いつもよりずっと重たく感じる毛布は、いわずもがな罪悪感の暗喩。
その重さを感じるのが胸部というのはいわば当たり前のことだが、
横になっている状況を考えると体感が良くわかる表現だ。
四首目。こんなに素直な人なのに、「真心がわたせない」のだという。
自分の心をコントロールしきれないことと、そんな自分の未熟さが、
悔しくて、情けなくて「虎」になってしまうのだと。
虎になるといえば『山月記』だが、ここでの「虎」は荒々しい感情の化身だ。
生肉に食らいつくように、心を暴れさせながらカレーを掻っ込む姿がいとおしい。
揺れやすい心を持つことを「繊細」とも言うが、五首目では「病名」があればいいのに、と言う。
病名があったら治療ができる。治療をすれば病気を治せる。
もう怒ったり傷ついたりやもやしたりしなくていい。
鬱屈とした一首だが「病名があったらなー」という口語体や、
「空と絡まる」というさわやかな表現を持ってくるところに、短歌的バランス感覚の良さが表れている。
これまでの歌にもみられるが、佐巻の歌で面白いのは、「他者」の存在が多く詠まれていることだ。
「人間関係」という厄介なものを、佐巻は積極的に歌にしていく。
早朝の休憩室に顔の無い退職者たちの気配は満ちる
シュー生地のなかにあんこが入ってるお菓子のおかげで繋がる会話
八年前絶交した子の名前だとふと思い出すさゆちゃん、さゆり
お掃除の小林さんが薄暗い廊下で手のひら開けば飴玉
「ヤバい」と口にすると語彙が死ぬようだあの子の鬱のはじまりに似て
深呼吸は唯一自律神経を操れるという 風鳴りの駅
辞める日に着てやるべって話してた猫柄ワンピ触りに街へ
ばいばいにばいばいすれば君のいない私のいない春の足音
引用はしていないが、他の掲載歌からこの職場は図書館であり、
職員は非正規雇用であることがわかる。
非正規雇用であるから、当然ひとの出入りは多い。
仕事ができる人も、仲良しになった人も、雇用期間が終わればいなくなるのが非正規雇用のさだめだ。誰もいない朝の休憩室で、かつていた人々のことをふと思い出す。
そして、自分もいつかは思い出される側になる。
苦手な同僚、むかし絶交したさゆちゃん、薄暗い廊下で飴玉をくれるお掃除の小林さん、
鬱になってしまった「あの子」、一足先に辞めていった仲間。
人は人の中で生きて働いている。
当たり前のことだが、これを短歌にするのは意外に難しいし珍しい。
意識していないとできないことだ。
佐巻が何を大切に思い、短歌で何を表現しようとしているのかがよくわかる。
冒頭で述べた正直さや規範意識も影響しているのだろう。
人間関係の歌では会話を取り入れた歌も魅力的だ。
「河が好きだった?」と問えば「好きだった」と返す瞳が去年と違う
やりたいこと見つかるといいね真夜中に食むアルフォートが喉に生む熱
「なんか熱冷めちゃったから」という声が小雨のようだ酔えないなもう
「食洗機スイッチ忘れてごめん」って電話の向こうにきみの労働
交わされる会話から、そこにいる人と人との関係性がじんわりと浮かび上がってくる。
長くなってしまったのでそろそろ締めます。
佐巻は今年の歌壇賞で最終候補に残っている。
「ひこうき雲と汽笛と」三十首は、受賞作を始め重苦しいテーマの作品が並ぶなかで、
ほっと息がつけるような、風がすーっと通っていくような一連であったと思う。
非正規職員として働く日常の閉塞感が、それなりの重さを持ちながらも、
全体として明るく、気持ちよく描かれているのは、佐巻が決して絶望せず、
美しいものを見よう、感じようとしているからだ。
ヒセーキと伸びるかるさを持ち寄って手を振るような鳩の明るさ
ゆるさないこと、ゆるされなかったこと 風浴びるため川まで歩く
「前の人」と呼ばれることのすずしさよ たった一人の草原にいて
たそがれに洗濯物を入れるとき「たのしかった」と確かに聞こえ
簡単にこころこころと呼ばないで 裸でひらく星座の図鑑
好かれたくて吐いた言葉は一枚の窓、一枚の葉 わすれられない
落蟬の胸より宵はにじみ出てとおいどこかで開く缶ビール
過ぎ去りしものは眩しいまっすぐに伸びゆくひこうき雲と汽笛と
短歌は社会を映し出す。
私たちを取り巻く社会がこの先どうなるかはわからないけれど、
佐巻の歌が放つきらめきが、これからの短歌にとってかけがえのないものになると思えてならない。
ヘンゼルの光る石のように、大事にしたい。
(北山あさひ)
※「ひこうき雲と汽笛と」は『歌壇』2018年2月号から引用。
その他の歌はすべて『まひる野』誌から引用しました。
次週予告
山川藍のまえあし!絵日記帖②
6/15(金)12:00更新予定
お楽しみに!