新人賞でいちばん難しいのは、受賞することではなく落選したことをどうやって受け入れるかだと思う。
最近は落選した作品をnoteやブログに発表することが多いみたいだけど、わたしはそれを見ると「そんなことをしていいのかな?」と思い、そしてそんなふうに思う自分にもモヤモヤするのだった。
短歌研究新人賞の場合は30首応募してたとえば「候補作」だと14首掲載される。載っていない16首は選考委員が「採れない」と判断したということだけど、それを個人的に開陳していいのだろうか。いや、それは別に個人の自由で好きにしたらいいんだけど、「落選」というかたちで示された「評価」を作者はどう受け止めているんだろう、というのが最近気になっていた。作品に対する思い入れとか、作品を「供養」してあげたい気持ち、落選した悔しさは経験者として痛いほどわかるけれど、でも作品を公開してしまうのは自分に甘すぎないか・・・。
でもじゃあ評価ってそんなに絶対的なものなのか。
旧永山邸歌会のメンバーともよく話すけれど、評価軸というのはその場のメンバーによって変動するし、他の作品によって平均点みたいなものも変わってくる。
歌の見え方というのも置かれた場所によって違って見えたりもする。歌会ではいまいちの評価だった歌が連作の中では大事な役割を果たしていたり、新人賞でそこまで上位でなかった作品も歌集の中に入ると良いなと思えたり。
ちなみにわたしは結社にいたときに先生に落とされた歌もふつうに歌集に入れたし、添削案を聞き入れなかったこともたくさんある(聞けよ)。
評価というのはつねに曖昧で、なにを納得してなにを受け入れないかは個人にゆだねられている。その「折り合い」をどう付けるかにその人の選歌眼や作家性が関わっているのだと思う。
なので、自分の作品をどのように発表しても自由だけど、いったん落ち着いて自分の歌を見つめ直すことをおすすめします。
わたしが応募して落選していたときは「選考委員はまるでわかっていない」とか、上位入選の人の作品よりも自分の作品のほうがおもしろいだろと思ったりしていたが、そもそも選考委員に何を指摘されているのか、そして受賞作や上位の作品のどういう点が優れているのかもちゃんと理解できていなかったように思う。
落選した作品から歌集に入れた歌もあるし、見直してみたらダメすぎてゾッとしてお蔵入りした作品もある。
新人賞は宝くじじゃないし学園祭でもない。落選したらズタボロになってそこからまた歌をつくる。そういうことができる時間は意外にも短い。
また来年。