恵の演出メモ

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マグダレーナの情報源

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前作を見てぜひ続編が見たいと思っていた映画である。
監督の井筒和幸が描きたかったのは単なる暴力ではなかった。全作を通して彼が叫びたかったのはこれだったのだとはっきりわかった。これまでに彼が作ってきたどちらかといえばキワモノ的なエンターテインメントもこの作品を作るための準備でしかなかったのではないだろうか。

私もコリアンの話はこれまでも何作か作ってきたが、とてもここまでは書けない。さすがである。コリアン問題はどうしても贖罪意識が働き深く突っ込めないところがある。井筒は臆面もなくそれをセリフで表現し、異なる民族同士が共生するなんて奇麗事もいい事だとはっきり言い切っているのだ。冒頭の民族学生との圧倒的な暴力シーンはそれを如実に表している。一切の妥協がない血まみれの乱闘シーンは在日コリアンが持つ邦人への嫌悪感がみなぎり圧倒的な迫力だが、これはかつての西部劇で常套シーンとして挿入されていた殴り合いシーンと同じことなのかと思ったが、後者には憎しみは感じられない。そこにはやはり、きっちりと贖罪をしないこの国へのいらだちと憎悪が満々ていた。

今回は前作の青春映画とは全く異なりわが国に在日コリアンがいかにして存在しているかを描くことで、これまで表面的であいまいになっている民族差別も赤裸々になり、それを逆手にとってせせら笑っている面白さがたまらない。

かつて子どもから大人まで戦後の日本人を熱狂させたプロレスラー「力道山」がコリアンだとどれほどの日本人が知っていただろうか。
中学生だった私はアメリカ人レスラーを得意の空手チョップで叩きのめすシーンに喝采を上げて街頭TVにしがみついていた。子どもたちにとってまさにスーパー日本人ヒーローだったのだから。映画の中で語られるようにあれがコリアンだとわかっていたらあのように応援したか、多分そうではなかっただろう。この中では何人かの著名芸能人、スポーツマンが在日だと表しながらカミングアウトできない事情を鋭くついている。それは映画を見ている我々日本人に向かって発せられているメッセージでもあるのだ。戦後の日本人に誇りと勇気と癒しを提供してくれた人たちが、かつて土足で踏み込み人権を蹂躙した民族の人たちなのだと気づかされる重要な意味をもっている。そしてそれは欧米人と対峙するときなんとなく邦人感覚で思いを寄せている中途半端な我々への痛烈な蔑視感ではないだろうか。

映画のコリアンたちがチェジュド出身だからあの4,3事件にも触れている。この事件を題材にした舞台を日本で初めて作った私としては感慨深いものがあった。私たちがチェジュドで取材していた時、ある村で日本人の映画監督がやはり取材に来たという、それが井筒監督かどうかは知らないが、是非映画化してもらいたいと思う。
映画を見ていてこの監督は戦争映画をきちんと撮れる監督だと思う。先に逝った熊井敬監督が最後の社会派監督だと聞いたことがあるがこの「パッチギ」は井筒が間違いなくその後継者であることを実証していた。

それにしても劇中に鳴り響く「イムジン川」の旋律の美しさは見る者を慟哭へと誘い、ラストシーンの感動へ導いてくれ、チャラチャラしたビジュアルだけの若手監督とはっきりと一線を画していたと思う。

 

 

やっとレンタルショップで「パッチギLove & Peace」をゲットした。
前作を見てぜひ続編が見たいと思っていた映画である。
監督の井筒和幸が描きたかったのは単なる暴力ではなかった。全作を通して彼が叫びたかったのはこれだったのだとはっきりわかった。これまでに彼が作ってきたどちらかといえばキワモノ的なエンターテインメントもこの作品を作るための準備でしかなかったのではないだろうか。

私もコリアンの話はこれまでも何作か作ってきたが、とてもここまでは書けない。さすがである。コリアン問題はどうしても贖罪意識が働き深く突っ込めないところがある。井筒は臆面もなくそれをセリフで表現し、異なる民族同士が共生するなんて奇麗事もいい事だとはっきり言い切っているのだ。冒頭の民族学生との圧倒的な暴力シーンはそれを如実に表している。一切の妥協がない血まみれの乱闘シーンは在日コリアンが持つ邦人への嫌悪感がみなぎり圧倒的な迫力だが、これはかつての西部劇で常套シーンとして挿入されていた殴り合いシーンと同じことなのかと思ったが、後者には憎しみは感じられない。そこにはやはり、きっちりと贖罪をしないこの国へのいらだちと憎悪が満々ていた。

今回は前作の青春映画とは全く異なりわが国に在日コリアンがいかにして存在しているかを描くことで、これまで表面的であいまいになっている民族差別も赤裸々になり、それを逆手にとってせせら笑っている面白さがたまらない。

かつて子どもから大人まで戦後の日本人を熱狂させたプロレスラー「力道山」がコリアンだとどれほどの日本人が知っていただろうか。
中学生だった私はアメリカ人レスラーを得意の空手チョップで叩きのめすシーンに喝采を上げて街頭TVにしがみついていた。子どもたちにとってまさにスーパー日本人ヒーローだったのだから。映画の中で語られるようにあれがコリアンだとわかっていたらあのように応援したか、多分そうではなかっただろう。この中では何人かの著名芸能人、スポーツマンが在日だと表しながらカミングアウトできない事情を鋭くついている。それは映画を見ている我々日本人に向かって発せられているメッセージでもあるのだ。戦後の日本人に誇りと勇気と癒しを提供してくれた人たちが、かつて土足で踏み込み人権を蹂躙した民族の人たちなのだと気づかされる重要な意味をもっている。そしてそれは欧米人と対峙するときなんとなく邦人感覚で思いを寄せている中途半端な我々への痛烈な蔑視感ではないだろうか。

映画のコリアンたちがチェジュド出身だからあの4,3事件にも触れている。この事件を題材にした舞台を日本で初めて作った私としては感慨深いものがあった。私たちがチェジュドで取材していた時、ある村で日本人の映画監督がやはり取材に来たという、それが井筒監督かどうかは知らないが、是非映画化してもらいたいと思う。
映画を見ていてこの監督は戦争映画をきちんと撮れる監督だと思う。先に逝った熊井敬監督が最後の社会派監督だと聞いたことがあるがこの「パッチギ」は井筒が間違いなくその後継者であることを実証していた。

それにしても劇中に鳴り響く「イムジン川」の旋律の美しさは見る者を慟哭へと誘い、ラストシーンの感動へ導いてくれ、チャラチャラしたビジュアルだけの若手監督とはっきりと一線を画していたと思う。

 

 

 

やっとレンタルショップで「パッチギLove & Peace」をゲットした。
前作を見てぜひ続編が見たいと思っていた映画である。
監督の井筒和幸が描きたかったのは単なる暴力ではなかった。全作を通して彼が叫びたかったのはこれだったのだとはっきりわかった。これまでに彼が作ってきたどちらかといえばキワモノ的なエンターテインメントもこの作品を作るための準備でしかなかったのではないだろうか。

私もコリアンの話はこれまでも何作か作ってきたが、とてもここまでは書けない。さすがである。コリアン問題はどうしても贖罪意識が働き深く突っ込めないところがある。井筒は臆面もなくそれをセリフで表現し、異なる民族同士が共生するなんて奇麗事もいい事だとはっきり言い切っているのだ。冒頭の民族学生との圧倒的な暴力シーンはそれを如実に表している。一切の妥協がない血まみれの乱闘シーンは在日コリアンが持つ邦人への嫌悪感がみなぎり圧倒的な迫力だが、これはかつての西部劇で常套シーンとして挿入されていた殴り合いシーンと同じことなのかと思ったが、後者には憎しみは感じられない。そこにはやはり、きっちりと贖罪をしないこの国へのいらだちと憎悪が満々ていた。

今回は前作の青春映画とは全く異なりわが国に在日コリアンがいかにして存在しているかを描くことで、これまで表面的であいまいになっている民族差別も赤裸々になり、それを逆手にとってせせら笑っている面白さがたまらない。

かつて子どもから大人まで戦後の日本人を熱狂させたプロレスラー「力道山」がコリアンだとどれほどの日本人が知っていただろうか。
中学生だった私はアメリカ人レスラーを得意の空手チョップで叩きのめすシーンに喝采を上げて街頭TVにしがみついていた。子どもたちにとってまさにスーパー日本人ヒーローだったのだから。映画の中で語られるようにあれがコリアンだとわかっていたらあのように応援したか、多分そうではなかっただろう。この中では何人かの著名芸能人、スポーツマンが在日だと表しながらカミングアウトできない事情を鋭くついている。それは映画を見ている我々日本人に向かって発せられているメッセージでもあるのだ。戦後の日本人に誇りと勇気と癒しを提供してくれた人たちが、かつて土足で踏み込み人権を蹂躙した民族の人たちなのだと気づかされる重要な意味をもっている。そしてそれは欧米人と対峙するときなんとなく邦人感覚で思いを寄せている中途半端な我々への痛烈な蔑視感ではないだろうか。

映画のコリアンたちがチェジュド出身だからあの4,3事件にも触れている。この事件を題材にした舞台を日本で初めて作った私としては感慨深いものがあった。私たちがチェジュドで取材していた時、ある村で日本人の映画監督がやはり取材に来たという、それが井筒監督かどうかは知らないが、是非映画化してもらいたいと思う。
映画を見ていてこの監督は戦争映画をきちんと撮れる監督だと思う。先に逝った熊井敬監督が最後の社会派監督だと聞いたことがあるがこの「パッチギ」は井筒が間違いなくその後継者であることを実証していた。

それにしても劇中に鳴り響く「イムジン川」の旋律の美しさは見る者を慟哭へと誘い、ラストシーンの感動へ導いてくれ、チャラチャラしたビジュアルだけの若手監督とはっきりと一線を画していたと思う。

 

 

 

やっとレンタルショップで「パッチギLove & Peace」をゲットした。
前作を見てぜひ続編が見たいと思っていた映画である。
監督の井筒和幸が描きたかったのは単なる暴力ではなかった。全作を通して彼が叫びたかったのはこれだったのだとはっきりわかった。これまでに彼が作ってきたどちらかといえばキワモノ的なエンターテインメントもこの作品を作るための準備でしかなかったのではないだろうか。

私もコリアンの話はこれまでも何作か作ってきたが、とてもここまでは書けない。さすがである。コリアン問題はどうしても贖罪意識が働き深く突っ込めないところがある。井筒は臆面もなくそれをセリフで表現し、異なる民族同士が共生するなんて奇麗事もいい事だとはっきり言い切っているのだ。冒頭の民族学生との圧倒的な暴力シーンはそれを如実に表している。一切の妥協がない血まみれの乱闘シーンは在日コリアンが持つ邦人への嫌悪感がみなぎり圧倒的な迫力だが、これはかつての西部劇で常套シーンとして挿入されていた殴り合いシーンと同じことなのかと思ったが、後者には憎しみは感じられない。そこにはやはり、きっちりと贖罪をしないこの国へのいらだちと憎悪が満々ていた。

今回は前作の青春映画とは全く異なりわが国に在日コリアンがいかにして存在しているかを描くことで、これまで表面的であいまいになっている民族差別も赤裸々になり、それを逆手にとってせせら笑っている面白さがたまらない。

かつて子どもから大人まで戦後の日本人を熱狂させたプロレスラー「力道山」がコリアンだとどれほどの日本人が知っていただろうか。
中学生だった私はアメリカ人レスラーを得意の空手チョップで叩きのめすシーンに喝采を上げて街頭TVにしがみついていた。子どもたちにとってまさにスーパー日本人ヒーローだったのだから。映画の中で語られるようにあれがコリアンだとわかっていたらあのように応援したか、多分そうではなかっただろう。この中では何人かの著名芸能人、スポーツマンが在日だと表しながらカミングアウトできない事情を鋭くついている。それは映画を見ている我々日本人に向かって発せられているメッセージでもあるのだ。戦後の日本人に誇りと勇気と癒しを提供してくれた人たちが、かつて土足で踏み込み人権を蹂躙した民族の人たちなのだと気づかされる重要な意味をもっている。そしてそれは欧米人と対峙するときなんとなく邦人感覚で思いを寄せている中途半端な我々への痛烈な蔑視感ではないだろうか。

映画のコリアンたちがチェジュド出身だからあの4,3事件にも触れている。この事件を題材にした舞台を日本で初めて作った私としては感慨深いものがあった。私たちがチェジュドで取材していた時、ある村で日本人の映画監督がやはり取材に来たという、それが井筒監督かどうかは知らないが、是非映画化してもらいたいと思う。
映画を見ていてこの監督は戦争映画をきちんと撮れる監督だと思う。先に逝った熊井敬監督が最後の社会派監督だと聞いたことがあるがこの「パッチギ」は井筒が間違いなくその後継者であることを実証していた。

それにしても劇中に鳴り響く「イムジン川」の旋律の美しさは見る者を慟哭へと誘い、ラストシーンの感動へ導いてくれ、チャラチャラしたビジュアルだけの若手監督とはっきりと一線を画していたと思う。

 

 

 

この作品は役者としての感性を磨き、役について深く追求できる恰好の題材となるはずだ。テンポが優先されるライトコメディではここまで深く掘り下げる必要が無い。とりあえず軽快に表現すればOKするのだがこれはそうはいかない。語尾の一言にも執拗にダメを出している。毎回ダメを出しているのだがダメだしノートのページはいっこうに減りそうもない。
次々欲が出てくるからだ、ここまで、これまでと思いながらこの欲求は無限に続くものなのかもしれない。ただ言えることはその分だけ舞台の人物はどんどん濃くなり深みが増し、面白くなっていく。
さあ、あと残された時間はそれほど多くはない、が人物を仕上げ深い表現を求めるにはまだ十分、間に合うはずだ。もう1度台本を読み直して欲しい。
セリフ一言一言に裏打ちされた感情が保たれているか。何気なく何も感じないで不用意に口に出してはいないか。口にしたセリフを聞いた相手のリアクションを見ているか、感じているか。その後のリアクションは出来ているか。セリフがないシーンで素に戻っていないか。次ぎのセリフを探していないか。次ぎはこう演じてやろうとシーンの先読みをしてはいないか。演出の指示待ちでなく自ら工夫をしているか。身体の何処に傷を受け、どのように痛むのか。衣服や髪の乱れはどうか。事件に遭遇して暴徒にどう扱われ衣服の破れ、汚れはどうなっているのか。季節はいつか?宿直室の温度は。昼と夜の温度差を感じ分けているか。シーンの瞬間瞬間を人物として生きているか。これらを一つずつ体感させていかなければこの舞台のシーンは成立しない。
観客は役者のうまいセリフ廻しや動きを観に来ているのではない、人物が舞台で生きているかどうかを観てそれが感動に繋がっていくのだ。そう思って欲しい。
 

 

「祭ばやしが聞こえたら」

嫌な予感がしていたがとうとうダウンしてしまった。公演がせまっている大事な時期だけに出演者には全く申し訳ないと思っている。皆に体調に気をつけるように言いながら当人がこれでは情けない話しだ。団員も毎日遅くまでの稽古に体力もかなり限界にきていることと思われる。あと10日たらずだから頑張って欲しい。
連日の通し稽古でどうにか作品の形はついてきた。今まででもっとも薄いと言われた台本だがやってみると2時間を軽く越してしまう。それだけ中身が詰まっているということだろうか、とにかく充実した舞台になるように作りたいものだ。
通し稽古もここまで来ると人物をしっかりとイメージできている者とそうでない者との差が歴然としてくる。それは何度もここで記したリアクションに違いがでてくるからだ。
今回の舞台が警察署の宿直室ということで外から様々なノイズが流れ込んでくる。あえてどこで入れると言わないで随所で入れることにしているからしっかりその人物になって緊張していないとそれに応じたリアクションが取れなくなる。「え、こんなとこで?」みたいな動きも見えてくる。
銃声、足音、人の声、セミ、馬のいななき。登場人物一人一人感じ方が違うはずだ。その違いがそれぞれ人物の立ち上げ方にもなっている。
 

 

8月。「いもがさ恭安」は恭安のふる里、三豊市詫間マリンウエーブでの再演が決まった。団長をはじめ地元の恭安顕彰会の方々の尽力の賜物だ。公演日は9月17日。「アイラブ ピョンヤン」は松島町の市民文化センターで公演した。新人の山内がキャラクターを生かして好演する。演劇の後にパネラーを囲んでのトークがありかなり盛り上がる。ただいつも思うことだが客席に若い世代が少ない。こういうことに関心を持つ人間は多分変人扱いされるに違いない。だがいつの時代もそうだが時代を変えるのはその変人なのだ。変人大歓迎!フゥ(風)が悪いことするな、他人と同じことをしろ、変革反対のサヌキでは難しいことかも知れない・・・

9月。詫間マリンパークでの公演は八朔祭り前夜祭とあって大勢の観客が詰めかけ大盛況のうちに幕を閉じた。舞台の出来は稽古数が多くなった分、高松公演より流れがよく、また学術部分のカットで締まってきた。受け入れて下さった地元有志、特に中村恭安顕彰会の方々はほっとしたことと思われる。

公演が終わったからとゆっくりはしてはいられなかった。エルダーは10月に県の森林課が催すイベントに演劇を依頼されていたからだ。45分の舞台に森林作りの大事さをキャンペーンする内容を入れた舞台である。あまり教育的にならない方がいいと云うことで小西さんの持ち芸である「寅さん」を主人公にして書き上げた。「いもがさ恭安」「寅さん」と連続して主役を務めた小西さんにかかるセリフ量の負担は大きかったがいっさい弱音を吐かず黙々と演じ続けられた姿勢は素晴らしかった。

マグダレーナはすでに11月の岡山公演に向けて「祭囃子が聞こえたら」の稽古を開始していた。特に観音寺は小学生が対象になるので内容をかなり変更せざるを得なかったが、逆に焦点がピタリと合ったと自負している。80年前とはいえ、日本人同士が殺し合うという惨劇が何故起きたのか?今の時代には想像を絶することだらけだが、視点を外国の内乱に向ければ少しは理解の足しになるかもしれない。今もなお続く被差別部落への陰湿な差別をいかになくして行くか、ただ芝居をしていれば済むことではない。だが誰かが訴え続けなければ闇に広がるばかりなのだ。この問題にはメディアは目を瞑りいっさい触れることはない。唯一演劇舞台だけが表現できる問題だと思う。

10月。もうひとつ気になっていたのはサンポートから依頼されていた俳優講座の内容だった。担当者と打ち合わせをした際、「戯曲の解釈」についてやって欲しいということだった。この戯曲の解釈ほど様々に分かれるものはない。人それぞれのそれまでの生き方みたいなものがそこに投影されてくるからだ。ただ解釈する前に演出家がどの視点戯曲をとらえるかが先にあらねばならないわけで、そうなると俳優というよりむしろ演出講座に近い物になった。講義する戯曲は迷いに迷ったが菊池寛の「父帰る」にした。短編だし、いかようにも解釈でき、しかもこれまでは、ストレートに演じられていたようなので挑戦のし甲斐はあるようだ。
これに“大西マジック”をかけてみることにする。

「父帰る」は草なぎ剛が長男を演じ、杉村春子賞を受賞して、話題性があったといっても中央の話で地域では全く話題にならなかった。いつも言っている演劇鎖国状態がここにも見られる。演劇文化は地域ではほとんど成立しないからだ。

私は「ワークショップ」なるものに不審感をもっている。大方がそうであるように2〜3日ちょろっとやっただけで何が残るのだろうか。講座の参加者をみるとほとんどが演劇未経験だ。この人たちに少しでもインパクトを与え演劇というより演劇の演出というものに興味をもってもらうには何がいいか。様々な角度から考えたあげくに従来の「父帰る」をことごとく壊しにかかることにした。
おそらく墓で菊池寛が呆れ顔をしたに違いないが、演出家が芝居を作る過程で戯曲をどう解釈するかによっていかようにも舞台を作ることが出来ることを演劇未経験者に与えたつもりだ。だから役者が台本をもらった場合にまず関心をもつことはその台本で演出家が何を表現しようとしているかを知ることだ。台本どおりに一生懸命演技プランを考えて稽古に臨んでもその方針が異なれば徒労に終わるからだ。

この時期にもひとつ抱えてしまった仕事は「子ども活弁士」の養成だ。県芸術祭の主催公演であるシネマフェスティバルの企画だ。
活弁はそれまでにも二回大人の出演者でやっているから,その子ども版である。30名近くも応募がありオーデションで振り分けして13名を残し二組に分けて稽古を重ねた。超多忙な時期に毎週末の午後、子どもたちと過ごしたわけだが収穫は大きかった。小学生を間近に見る機会などそれまでに全くなかったからだ。そこにもやはり現代の潮流か圧倒的に女子が強かった。

高齢者劇団エルダーキャッツの「どんぐり小屋」は何とか間に合い満濃町文化センターで公演をする。あきらかに団員の疲れが見えていたが頑張ってもらった甲斐はあったと思う。ただ同じシーンを二回繰り返した時は椅子から転げそうになったが。

ここでも「さぬきの寅さん」こと代表の小西さんが持ち味のコメディセンスを発揮して観客を大いに笑わせていた。

 

 

5月。公演まで1月しかない。マグダレーナ、エルダーキャッツともにまだほとんど暗闇に呑み込まれて出口が見えない。出演者の都合でドタキャンがありその補充もしなければならない。大きな石が重圧となってのしかかってきた。
公演が迫ってくる。次々と難問が降りかかってくる。
じたばたしても仕方が無い。一つ一つ片付けながら行くしかない。ただ立ち止まるわけにはいかない。全てを同時進行しながら処理することにした。秋には岡山と観音寺の学校公演も控えている。
「沈黙のオモニ」はどうにか全ての詩を覚えてくれたので、表現に示唆を与え完成へと向かってゆく。メディアの慰安婦バッシングは更にエキサイトし、公演する意義を与えてくれたような状況へとなってきた。
「いもがさ恭安」は遅々として進まない。何度も何度も同じシーンを繰り返して稽古するが、翌日にはまた元へ戻ってしまう。それでも決してあきらめないし、稽古場は明るい。修羅をくぐってきた高齢者の図太さというか動じないところが頼もしい。最後は必ず決めてくれるそう信じてやってきたし、これからもそうだと思う。出来によっては今回は地元三豊市での再演も期待されている
6月。「沈黙のオモニ」は思った以上の出来となっていた。オモニに扮した衣装で語り、怒り、悲しむ様は朗読では表現できない塊となって胸に飛び込んできた。これでもまだ慰安婦の証言がウソだと言うのかと突きつけている、そんな舞台になっていた。誰もやらないことをマグダレーナはやるんだという意気込みがそこにあった。出演者は大変だったと思うがそれぞれが確実に何かを掴んだと思っている。
猛烈な暑さがやってきたが毎晩繰り返しての稽古の連続にエルダーの面々に深い疲れの色が見える。それでも必死に稽古をする高齢団員。大掛かりな舞台装置となったのでこれを作るのも大変な作業となったが、団長の小西さんの元に皆が一丸となってクリアしてゆく。三豊地区からも大勢の方が観劇に来るという。そのためにも恥ずかしい作品にならないようにと頑張ってもらう。
公演当日の昼の部はとうとう満席以上の観客が押しかけ払い戻しとなってしまう。アマチュアのしかも高齢者の劇団がこれほど支持されると誰が思っただろう。この劇団の立ち上げに尽力した亡き内海さんもきっと喜んでくれるに違いない。まさに彼らは香川の演劇の底辺を見事に拡大したのだ。それも都会ではなく四国、高松からの発信なのだ。ともすれば疎んじられる老人たちが地方の演劇文化を見事に咲かせた功績は永遠に語り継がれるに違いない。他所がやった後に続いたのではない、まさにオリジナルなのだ。
7月。とにかく暑い夏だった。だがマグダレーナの公演は続く。8月15日の演目は「アイラブ ピョンヤン」に決定した。今の時代、空恐ろしいタイトルだがインパクトはある。しかも在日北朝鮮家族が中心になって問題になっている様々な現象を取り上げていく。またもや「何故朝鮮問題ばかりやるのか?」答えは簡単だ。誰もやらないからだ。喉元に突きつけられている刃を何もしないでただひたすら逃げている国に提起したいからだ。汗みどろの稽古が続く。

 

1 月。今年は正月早々から第一回サンポート演劇フリーダム参加の「郵配達・・・・」の稽古に入った。これまでの週3 日の稽古ではとうていいつかず連夜の稽古が続いた。出演者は疲労困憊していただろうがそれも懸命に応えてくれ、アマチュアとしてはこれまでにないジャンルに怯ことなく挑んでくれ、確かな成果をもたらしたと思う。 2 月。2 月初の公演が終わると休むまもなく、次は岡山演劇祭での「祭子・・・」の稽古が待っていた。公演日まで1 0 日ほどしかなかったがこれは前年秋に公演していたので復習しながらの稽古だった。私はそれ平行しながら劇団エルダーキャッツの台本を仕上げなければならない。回は仁尾の医者 中村恭安という実在の人物だけに資料探しが大変で、成したのは2 月の終わりだった。エルダーキャッツの役者にとっては初ての時代劇なので稽古期間も十分に取りたかったが遅れに遅れてしまた。 初めての岡山での公演だったが十分な手ごたえを得て帰ってきた。 3 月。6 月のアーツフェスタには前半にマグダレーナの「沈黙のオモニ後半にエルダーキャッツ「いもがさ恭安」と2 本の公演を抱え, 更に8 には昨年末から検討していた8 . 1 5 戦争体験を語り継ぐ会の公演があその台本も作らねばならない。何を題材に選ぶか。思案するが全く思いかばない。 4 月。エルダーキャッツは立ち稽古にはいったが遅々として進まない。リフ量がこれまでよりはるかに多いのと時代劇特有の所作が大変なのだマグダレーナの稽古も同時に開始する。慰安婦を描いた韓国の作家の長詩を全て覚え自分の言葉として伝えることにした。何ページもある詩をえるのは大変だが、やはり間違ってはいなかった。台本を読むのとではるきり伝わり方が違うのだ。 当初は詩だけで構成するつもりだったが、この慰安婦問題がアメリカの会で可決された事でにわかに慰安婦バッシングが展開され、連日メディを賑わせはじめた。 このまま詩だけの暗誦ではインパクトが薄いと判断し劇構成に変えるとにした。 5 月。公演まで1 月しかない。

マグダレーナ、エルダーキャッツとも