””2008映画「パッチギ」”” | 恵の演出メモ

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やっとレンタルショップで「パッチギLove & Peace」をゲットした。
前作を見てぜひ続編が見たいと思っていた映画である。
監督の井筒和幸が描きたかったのは単なる暴力ではなかった。全作を通して彼が叫びたかったのはこれだったのだとはっきりわかった。これまでに彼が作ってきたどちらかといえばキワモノ的なエンターテインメントもこの作品を作るための準備でしかなかったのではないだろうか。

私もコリアンの話はこれまでも何作か作ってきたが、とてもここまでは書けない。さすがである。コリアン問題はどうしても贖罪意識が働き深く突っ込めないところがある。井筒は臆面もなくそれをセリフで表現し、異なる民族同士が共生するなんて奇麗事もいい事だとはっきり言い切っているのだ。冒頭の民族学生との圧倒的な暴力シーンはそれを如実に表している。一切の妥協がない血まみれの乱闘シーンは在日コリアンが持つ邦人への嫌悪感がみなぎり圧倒的な迫力だが、これはかつての西部劇で常套シーンとして挿入されていた殴り合いシーンと同じことなのかと思ったが、後者には憎しみは感じられない。そこにはやはり、きっちりと贖罪をしないこの国へのいらだちと憎悪が満々ていた。

今回は前作の青春映画とは全く異なりわが国に在日コリアンがいかにして存在しているかを描くことで、これまで表面的であいまいになっている民族差別も赤裸々になり、それを逆手にとってせせら笑っている面白さがたまらない。

かつて子どもから大人まで戦後の日本人を熱狂させたプロレスラー「力道山」がコリアンだとどれほどの日本人が知っていただろうか。
中学生だった私はアメリカ人レスラーを得意の空手チョップで叩きのめすシーンに喝采を上げて街頭TVにしがみついていた。子どもたちにとってまさにスーパー日本人ヒーローだったのだから。映画の中で語られるようにあれがコリアンだとわかっていたらあのように応援したか、多分そうではなかっただろう。この中では何人かの著名芸能人、スポーツマンが在日だと表しながらカミングアウトできない事情を鋭くついている。それは映画を見ている我々日本人に向かって発せられているメッセージでもあるのだ。戦後の日本人に誇りと勇気と癒しを提供してくれた人たちが、かつて土足で踏み込み人権を蹂躙した民族の人たちなのだと気づかされる重要な意味をもっている。そしてそれは欧米人と対峙するときなんとなく邦人感覚で思いを寄せている中途半端な我々への痛烈な蔑視感ではないだろうか。

映画のコリアンたちがチェジュド出身だからあの4,3事件にも触れている。この事件を題材にした舞台を日本で初めて作った私としては感慨深いものがあった。私たちがチェジュドで取材していた時、ある村で日本人の映画監督がやはり取材に来たという、それが井筒監督かどうかは知らないが、是非映画化してもらいたいと思う。
映画を見ていてこの監督は戦争映画をきちんと撮れる監督だと思う。先に逝った熊井敬監督が最後の社会派監督だと聞いたことがあるがこの「パッチギ」は井筒が間違いなくその後継者であることを実証していた。

それにしても劇中に鳴り響く「イムジン川」の旋律の美しさは見る者を慟哭へと誘い、ラストシーンの感動へ導いてくれ、チャラチャラしたビジュアルだけの若手監督とはっきりと一線を画していたと思う。