『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ5
彼の休養日は南のリゾート地で体を休める。スペインまで行く時間はなかったから、日本から近い南国の島で休養している。
しかし天気は悪い。
一日中ホテルにこもって、最上階のカフェレストでカシスのカクテルを口に外を眺めるばかりだ。いくら運を手に入れたからと言っても天候までは操れない。それが彼の感じる唯一の不満だ。
海は荒れている。
波高い海に人の影はない。さすがの波乗り好きも今日の空の下ではあきらめたのだろう。なにしろどしゃぶりの雨なのだから。
赤のトラッシュ。青いランタン。
彼は一人心地よい夢に揺られている。
どんなに頑張っても無駄な事はある。どんなに考えたって思い浮かばない事もある。時を待っている。生きている限り待つことが多い。
部屋に戻りベッドに横になり、寝てしまった。
寝てしまった彼をテレフォンコールが呼び起こす。
遠くで波の音が聞こえていた。彼は自分の居場所に舞い戻り、テレフォンコールに応答する。
「もしもし?」
「お客様がお見えになっております」とホテルマンは彼に伝えた。
彼はすぐに編集者である自分の女の事を想像する。早いな、来るとは言っていなかったが、と思うが、「ええわかりました」と、尋ねてきた相手の事も聞かずに答えた。
ロビーに降りると、待っていたのは髪の長い女ではなく、長い髪ではあるがサングラスをして口紅を濃く塗った女だった。薄紅色のノンスリーブワンピースを着ていた。
さて誰だろう?と彼は考えるが、すでにいくつかの想定の内だ。
彼女は言う。
「あなたの事を知っているわ」
彼はその言葉に面倒くさそうな表情を見せた。
彼は再び最上階のカフェレストを訪れる。今度は二人、口紅の濃い女と窓際の席に着く。
料理は要らない。珈琲と紅茶だけ。話はすぐに済む。
夜になりカフェレストの雰囲気は変わりつつあった。窓の外に海は見えず、代わりに街頭の明かりや灯台の明かりが点々と辺りに目立つ。内部の小舞台では三人の奏者がクラシックを奏でている。
口紅の目立つ女は艶やかな髪を揺すり、彼にいやらしい笑みを浮かべる。
「何か御用ですか?」と彼はクールに尋ねる。
「あなたが欲しいわ」と口紅の女は言った。
「そういうことかとは思いましたが、、、わかりました」と彼は答えた。
彼の持つ幾面かの一つがまた姿を見せようとしていた。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ4
『ぼくはこの世界の中で最も余裕を持った生き物だ。だから何も怖くない』
あの時、彼はそういった種の笑みを浮かべていた。自分以外の全ての人間と自分を分けたかのように、瞳は澄んで、心身は落ち着いていた。
でもそうじゃない。本当はそんなに余裕があったわけじゃない。ただほっとしていただけだ。
あの時、彼が自分の賭けていた小説の結果が出たとき、彼はその成果に報われる思いを抱いていただけで、それ以上の意味はなかった。
誰かは彼がとても余裕を持った人間だ、なんて言っていたけど、決してそんな事はない。彼は極当り前の、むしろ人よりも気の弱い人間だった。
4年と少しが過ぎて、彼はまたあの時と同じ種の笑みを見せていた。それはまた自分が望むところまでやってこれた事にほっとしているという事を意味している。つまり、また新しい小説の一幕が書きあがったわけだ。
髪の長い女は彼を笑顔に、その事を感じて喜ぶ。
「早いね。もう出来たんですか?」
彼は語る。
「昨日の夜はペンを手に持ったまま、まるで進まなかった。1時間、2時間とね。何も思い浮かばずに、ずっとペンを握っていた。少しずつ睡魔がやってきて、ぼくは机の上で眠りそうになっていた。もういつでも寝てしまうことはできただろう。後は自分の眠りに堪える意思がなくなるのを待つだけだった。少しの夢が垣間見えて、ぼくはもう眠ってしまうんだろうなと思った。でもその夢はぼくが書こうとしている物語に繋がっていた。白昼夢のごとくその夢を追って、ぼくはペンを動かし出した。物語はそこから始まっていた。自分でもびっくりしたよ。朝の明かりが差し込む頃にふと我に返ったら、十分なほどの物語が書きあがっていた。だからすぐに見直して、パソコン上に書き換えた。ほとんど直す必要もなく物語は書きあがったよ」
そして彼は自慢げに唇を上げて見せた。
「読ませてください」と編集者であり彼の女である、髪の長い女が尋ね、
「ああ、もちろん」と作家である彼が答える。
女と彼は狭い書斎に入り、机の上に用意されていたプリントアウトした原稿に向かう。
女は木のフレームに革張りされた椅子に座り、その原稿に目を通す。
彼はにこりと笑み、女の後ろで、背もたれに手を付き、原稿を読む女の長い髪を眺めている。
「どうだい?」
一通りの原稿がさっと読み終えそうになったところで彼は女に尋ねる。
「うん、おもしろい」と、女は真剣な声で答える。
「だろ?」
「これならすぐにオーケーよ」と編集者の視点で女は男に言う。でもその評価はさして意味を持たないが。
「すぐに持っていくわ」と編集者の女は言うが、「いや、朝食を食べてからにしよう。今日はぼくが作るよ」と彼が返す。
そして彼は彼女の肩をポンと叩き、キッチンへと向った。
『恐れることは何もない。ぼくはうまくやっている』
彼はそういう類の目をして、自己啓発をした。
でもどこかに小さな不安を感じているはずだ。永久の幸せなんて存在しない。
苦あっての楽、楽あったらまた苦さ。
僕は彼にそう伝えてやりたい。
その不安を消すために、また枝を折りにいくつもり。もうすぐその全ては無意味になるよ。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ3
「いろいろやりたい事もあるけれど、一つ一つ済まさない事もあるよね」
彼は自分の彼女である編集者の女にそう伝える。
カンポデクリプターナにも行きたい。ストレートで細身のスーツも新調したい。
彼はそんな風にあれやこれやとやりたい事、ほしい物について述べる。たくさんの欲求があって、たくさんの望みがある。きっと今の彼ならその全てを可能にする事ができるだろう。夢絵空事ではない可能な願望を並べているだけだ。
けど、彼は最後にこう言う。
「いろいろやりたい事はあるけれど、ぼくはまず今書かなきゃいけない物があるだろう?今は何一つ叶いそうにない」
髪の長い女はそんな彼に言う。
「それならせめて、今夜は何が食べたい?おいしい夕食を作ってさしあげますわ」
彼は微笑む。
「そうだな、特にはないが、しいていうなら、秋らしい物が食べたい。豪勢に頼むよ。お金は気にしない。いい食材を集めて、美味しくしてくれ」
「まあ?難しいけど、頑張ってみますわ」
「そうだね、難しい頼みだったね。でもそれだけ作りがいもあるだろう?難しい事にチャレンジしたその結果をぼくは楽しみに待っている」
彼のその言葉に髪の長い女は頷いた。
彼は自分の彼女にそう伝えると、書籍に囲まれた自室に戻り、その中に篭り出した。
そこが彼の仕事場だ。求められる小説を完成させなければならない。彼は今日が何曜日かも忘れ、自分の世界に入り込み、ただ机に向って、脳に想の世界を蔓延らせるだけだ。
冴えない主人公が優れた男の助けを借りて、巻き込まれた事件を解決するストーリー。どこから生まれ出るかわからないが、彼はここ数年この種の物語を書き続ける。
この主人公は本当に出来が悪い。頑張らないし、厳しい状況に追い込まれるとすぐに逃げ出す。愚痴が多く、すぐに他人のせいにする。本当にろくでもないけど、どこか憎めない。生きるために貪欲である。
様々な場面設定の中でその主人公は様々な役を演じ、様々な問題を解決して何とか生きてゆく。行動が遅くてじれったい主人公だが、ストーリーはおもしろく、問題を解決したときの痛快さがたまらない。
それだけじゃなく、物語にはどことなく爽快な一面がある。それがどこから生まれるのかはわからない。
これは僕の彼に対する評価じゃない。雑誌などに語られる評論家の論評だ。しかし彼の物語の爽快さがどこから来るものなのか、それについて語っている評論家はいない。誰もその理由には気づいていない。
ひたすら想の世界を巡り続けている。彼は気づいていないが、夕方には買い物を済ませた女が別荘に戻ってくる。そして長い時間をかけて夕食を作り始める。
20時を過ぎる頃に香りは漂う。その香りは彼のいる書斎にも伝わる。腹を減らせていた彼の腹が小さくなった。
「もうこんな時間か?」と、彼は呟く。
脳は限りなく現実の世界に近づく。想の世界は遠ざかり、彼はパソコンに並べられた文字の列を確認する。その進んだ文字数に満足し、彼は大きな背伸びとあくびをした。
秋に松茸の香り。
やりたい事はできなくても、今は今で十分に満たされている。
僕はそんな彼を羨ましく恨む。
いつか僕は僕らしく生きたい。
その日を待ち望むばかりだ。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ2
『今ならもっと優しい言葉をかけてあげられる。そしてもっと優しい人間であれるだろう』
彼は心の内でそう感じていたはずだ。僕から奪った 潤わしいまでの活力を持って、そう生きていけると感じているはずだ。
山奥の別荘に帰ってくる彼を待っている女が玄関口に顔を出す。
長い髪潤わす彼の女は編集者だ。彼が書く小説の管理をしている。
完全なる公私混同で一日中、髪の長い女は彼の傍にいる。どれだけ優れた文章を書こうと、どれだけの駄作であっても、彼女は関係なく頷く。彼女にとって彼の書く作品はすべてOKなのだ。彼が彼であって、彼が小説家であればそれで十分なのだ。
そんな関係がもう3年半も続く。短いようでとても長い。
10年前に描き始めた作品を5年3ヶ月かかって書き上げた彼は、それをある出版社の新人賞に応募した。作品は大賞を受賞し、売り出された作品は一部の読書家によって広まり、3年半前に2作目が出版されると彼の小説はあっというまに広まった。彼は売れ筋の作家に加わり、彼には専属の編集者が付いた。
『溝端』という名前で売り出している彼に、黒髪が綺麗なその女は付いた。さして本が好きなわけではないが、国語力に自信があったので彼女は編集者になった。現在24歳の女だ。
女は専属の編集者となり、いつの間にか彼に引かれていった。
『溝端』というのが彼の筆名だ。彼はメディアにはいっさい顔を出さない。テレビはもちろん、雑誌にさえ姿を曝すことはない。だから彼はどんな人物なのかはベールに包まれ、その未知のイメージが彼の人気をより一層呼んでいる。
「最近はずっとこっち(山奥の別荘)ね」
長い髪の女は彼にそう尋ねる。
「そうだな。今の作品にはここの方がいい。今までの作品とは違う緩やかな時の流れを出したいんだ。都会のせわしさの中じゃ雰囲気を出せそうにないからね」
と言って、微笑む。
「今夜は帰らないとまずいかい?」
彼がそう尋ねるのに対し、
「うーん、大丈夫。理由を付けておくから」
と髪の長い女は答える。
でもどんな理由も意味を持たない。
その女と彼の関係は、出版社の間じゃ周知の事だ。会社にとっては彼が売れる小説を書いてくれればそれでいい。むしろ余計な気を回して女を引き離して、『溝端』という名の小説が売れなくなるのを恐れている。女が彼に付いているのは、他の出版社が寄り付きにくいのも好都合だ。売れている今の内は今のままそれがいいと、出版社も考えている。
二人は別荘で誰の邪魔もない時を送る。
いつまでそんな事を続けているのか、好きにすればいいさ。僕はもうすぐ彼の奪った全てを取り戻すだろう。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ1
暗く深い森の中に一本の枯れた木がある。
県道からさほど離れていないところだから、その場所さえ知っていれば誰でも行くことができる。枯れた木のある場所までは車の通れない林道を歩いてゆけば辿り着く。だけど何もない場所だからあえてその場に行く人間なんていない。
たまに山菜を取りに来る老女がいるくらいだ。
彼は日課として、およそ週に一度その場を訪れる。
そしてその枯れた木の枝を折る。
普段は短い枝の先を折るが、その日は幹から伸びる枝の根元を力強く折り切ろうとする。
「ふう、うああ、ふん」なんて間抜けな声を上げて、力いっぱい枝に体重をかける。木の枝はメキメキと音を上げる。彼は枝を上下に揺する。
メキッといって、枝は折れ目を見せる。さらに力いっぱいねじり、折れ切らない部分を完全にねじり取った。
1時間近くの時が経ったろう。
彼は無駄に体力を使いきり、その行為をおこなった。
折れた枝を森の奥に投げ込む。
よく見ると枝はそこらじゅうに散らばっている。誰かが折った事を示すむしり取られた折れ目がはっきりと見える。
全て、彼がやったことだ。
たった一本の枯れた木が葉の生える周りの木々に囲まれて一本だけ姿を見せる。不思議な事にその木は枯れているにもかかわらず、完全に倒木する事もない。腐敗する事もなく立ち続ける。彼がいくら枝を折っても、また枝は何もない幹の脇から生え出してくる。葉の付かないその木はいつまでも立ち続ける。まるで自分が枯れてしまっている事を忘れてしまっているかのようだ。
よく見ると、その枯れた木は他の木より枝の多い木だ。無数の枝が生えている。まるで葉の代わりに枝があるかのように枝ばかりが生えている。
彼がいくら枝を折っても折りつくすことはない。
その場を訪れるのは、彼とこの辺りに住む老女くらい。その木の存在に気づく者は彼以外にいない。だから彼は辺りを気にせず、その行為を行う事が出来るのだ。
彼は枝を折った事に満足すると、その場を離れ、県道まで出た。そしてそこに停めてあったポルシェに乗り込み、山奥にある自分の別荘へと向って発進した。
山の中にある別荘では女が待っている。
近くにはマンションタイプの貸し別荘があるが、この時分は誰もやってこない。たまの土日に休暇をのんびり過ごしたい家族がやってくる事もあるが、ほとんどそれもない。そんな場所だ。
ポルシェを別荘の前に停め、その別荘の玄関を開ける。
中には女が待っている。彼はそこで毎日を送っている。女と遊ぶ優雅な日々を彼はそこで送っている。
今日も気の赴くままに遊べばいい。
僕から奪ったその全てを使って、いつまでも老いる事のないがごとく、楽しんで暮らすがいい。
すでに僕は気づいている。その事を僕は知っている。
(つづく)