『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ3
「いろいろやりたい事もあるけれど、一つ一つ済まさない事もあるよね」
彼は自分の彼女である編集者の女にそう伝える。
カンポデクリプターナにも行きたい。ストレートで細身のスーツも新調したい。
彼はそんな風にあれやこれやとやりたい事、ほしい物について述べる。たくさんの欲求があって、たくさんの望みがある。きっと今の彼ならその全てを可能にする事ができるだろう。夢絵空事ではない可能な願望を並べているだけだ。
けど、彼は最後にこう言う。
「いろいろやりたい事はあるけれど、ぼくはまず今書かなきゃいけない物があるだろう?今は何一つ叶いそうにない」
髪の長い女はそんな彼に言う。
「それならせめて、今夜は何が食べたい?おいしい夕食を作ってさしあげますわ」
彼は微笑む。
「そうだな、特にはないが、しいていうなら、秋らしい物が食べたい。豪勢に頼むよ。お金は気にしない。いい食材を集めて、美味しくしてくれ」
「まあ?難しいけど、頑張ってみますわ」
「そうだね、難しい頼みだったね。でもそれだけ作りがいもあるだろう?難しい事にチャレンジしたその結果をぼくは楽しみに待っている」
彼のその言葉に髪の長い女は頷いた。
彼は自分の彼女にそう伝えると、書籍に囲まれた自室に戻り、その中に篭り出した。
そこが彼の仕事場だ。求められる小説を完成させなければならない。彼は今日が何曜日かも忘れ、自分の世界に入り込み、ただ机に向って、脳に想の世界を蔓延らせるだけだ。
冴えない主人公が優れた男の助けを借りて、巻き込まれた事件を解決するストーリー。どこから生まれ出るかわからないが、彼はここ数年この種の物語を書き続ける。
この主人公は本当に出来が悪い。頑張らないし、厳しい状況に追い込まれるとすぐに逃げ出す。愚痴が多く、すぐに他人のせいにする。本当にろくでもないけど、どこか憎めない。生きるために貪欲である。
様々な場面設定の中でその主人公は様々な役を演じ、様々な問題を解決して何とか生きてゆく。行動が遅くてじれったい主人公だが、ストーリーはおもしろく、問題を解決したときの痛快さがたまらない。
それだけじゃなく、物語にはどことなく爽快な一面がある。それがどこから生まれるのかはわからない。
これは僕の彼に対する評価じゃない。雑誌などに語られる評論家の論評だ。しかし彼の物語の爽快さがどこから来るものなのか、それについて語っている評論家はいない。誰もその理由には気づいていない。
ひたすら想の世界を巡り続けている。彼は気づいていないが、夕方には買い物を済ませた女が別荘に戻ってくる。そして長い時間をかけて夕食を作り始める。
20時を過ぎる頃に香りは漂う。その香りは彼のいる書斎にも伝わる。腹を減らせていた彼の腹が小さくなった。
「もうこんな時間か?」と、彼は呟く。
脳は限りなく現実の世界に近づく。想の世界は遠ざかり、彼はパソコンに並べられた文字の列を確認する。その進んだ文字数に満足し、彼は大きな背伸びとあくびをした。
秋に松茸の香り。
やりたい事はできなくても、今は今で十分に満たされている。
僕はそんな彼を羨ましく恨む。
いつか僕は僕らしく生きたい。
その日を待ち望むばかりだ。
(つづく)