『何気ない毎にちを貴方に伝う』1ノ17
今日も一日が過ぎてゆく。僕はまたより一層やる気を失っている。
この間までは仕事終りに街を探索していたけど、ここ最近はまっすぐ家に帰ってくる。
16時には家にいる。
登校拒否中学生を相手にするのは15時までだ。1時間歩いて家に帰る。
夕暮れ17時、日が暮れて、闇が深まり、カーテンを閉めようと床から起き上がる。10月に入って、日が沈むのがまた早くなった。この町に来て、2ヶ月が過ぎた。あっという間だ。もうすっかりここの生活にも慣れきった。
カーテンを閉める前に部屋の外を窺う。
3階から地上を覗くと一人の男が目に付く。僕はその男を見た瞬間に思い出す。男は今日も緑色のトレーナーを着ている。雨の日に橋の傍に立っていた男、緑色の服を着ているだけでそう決めきる事もできないが、僕にはわかる。あの背高のっぽの男が今僕の住むマンションの入口にいる。
緑色の男は歩いているわけではない。それにこの裏路地に突っ立っている理由なんて待ち合わせのはずがない。唯一考えられるとしたら、偶然同じマンションに別の知り合いがいるという事くらいだ。
そうだ。そう思おう。
僕はカーテンを閉める。部屋の中は一瞬にして闇に包まれる。
僕が電気をつけようとすると、光の男が現れた。光の男は僕の想像する存在で、実在の人物ではない。
でも彼は僕と少しだけ違った視点で僕に話しかけてくる。
「そんな言い訳して何になるのさ?」と、光の男は僕に言う。
「君はあの男を知っているのか?」と、質問を返す。
光の男は首を横に振る。
「知るわけないさ。今、君は別の事を話したかったんだろう?どうしてそんな無駄な質問をする」
僕は何か、大きな事件が起こる前のような恐れを感じて、ただ不安で仕方がない。
「冷静になれよ」
光の男は僕にそう伝う。
僕は溜息のような大きな深呼吸をする。そして僕は推理するように話し出す。
「緑の男は僕の事を知っている。でも僕は緑の男を知らない。かれは僕の多くの事を知っている。だから僕がここにいる事も知っている可能性が高い」
「きみはあの男が何者か、気になっているんだろう?」と、光の男は僕に尋ねる。
「そうだね。僕は緑の男が何者か知りたい。だけどあの男は僕に自分が何者かを告げてはこないだろう。そして緑の男は雨の夜、僕に伝えてきた。『自分が何者なのか?その事に気づいているはずだろう』と」
「それが、どういう事だと思う?」
光の男は優しい声で僕に尋ねる。
僕は考えてみるが、その答えが浮かばない。ただ一つ気づいた事がある。僕は光の男に、逆に質問をしてみる。
「緑の男は間違いなく僕に会いに来た。どうして今日、かれは僕に会いに来たのかな?」
「きみは、その答えを知っているんじゃないのか?わざわざ聞く事じゃないだろ?」
光の男はまた僕に質問を返してくる。
質問ばかりで答えが何一つない。だから僕は答えてやる。
「緑の男は、雨の日、わざわざ僕が通るのを待っていた。そして今日もわざわざ僕の住むマンションにまでやってきた。でもかれはあえて僕の住むマンションのチャイムを押さず、下で待っている。つまりあの男は僕に何かを伝えにやってきた。だけどそれには僕の求める気持ちが必要なんだ。求めなければ何も与えてはくれない。なぜわざわざそんな面倒な事をするのかはわからないけど、かれがしようしている事は、僕に何か伝えようとしていることがある、ただそれだけなんだ」
光の男は口元に笑みを浮かべる。
「じゃあ、答えは簡単だ。緑の男に会って、きみがその何かを知りたいか、それとも知りたくないか、それだけの事さ。きみの思うようにすればいい」
そして光の男は消えた。光が消えて、部屋の中は深い闇に包まれた。
僕は暗闇の部屋を暗闇のままに、いつものカラーボックスの上に置いてある財布と携帯と鍵を持って部屋の外へ向う。
進みたい気持ちが消えたわけじゃない。
もう少しだけ、勇気が欲しい。
君はそんな僕を応援してくれるだろうか?
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』1ノ16
何もやる事のなかった土日は苛苛する。
欲求不満、と言われればそれまでだ。
運動不足、と言われればそれも当てはまる。
家でうじうじしているから良くない、って君がズバッというなら、僕は立ち上がりとりあえず着替えて家の外に飛び出す準備もしただろう。
だけど、声はない。
だから僕は着替えもせず、チンして食べられる物を食べて、ただテレビを眺めて、飽きたら寝入る。カーテンも半分以上閉まった薄暗い状態で、部屋の中にうずくまっている。
つまらない。
はい、つまらない。僕はつまらない人間です。
喉が渇く。10月だっていうのに結構暑い。
脳みそはすっからかん。蕩けてしまったかのようだ。人間関係を断ち切ってしまった生活の中では話す相手もいない。明日になったら僕は声を失っているかもしれない。僕の声は誰にも届かないかもしれない。登校拒否の中学生にさえ冷ややかな目をされそうだ。
夕寝して起きた僕の携帯電話に一通のメールが届いていた。
大学時代の友人からだ。あまり友人とは呼びたくない。自分勝手な奴だから自分の事しか考えていない。僕がこの町に越してくる前に結婚式を挙げた。僕にとっては最後の華やかな場所だった。散々女遊びして、ついに捕まった女の子と結婚した。
いわゆる一流企業に勤め、いわゆる勝ち組の生活を送っている。
メールは見たくないが、そのまま放っておけばおくだけ面倒ななので、一応目を通す。
『よお、元気か?遊びに行ってやりたいけどな。なかなか時間が取れそうにない。最近ちょっと立ち寄る会社の受付の女の子と仲良くなっちゃって、俺も結婚したばかりだからさすがにやばいとはわかりつつ、あれってわけで。おまえも近くに住んでいたら、今度一緒にその子の友達と四人で飲み行こ、って言いたいけどそうもいかないか。まあ、なんだったら帰ってこいよ。ちゃんと準備しといてやるから』
余計なお世話だ。おまえに会うつもりはない、って言ってやりたいがそれはそれで面倒くさい。
だいたい僕が帰らない事くらいそいつもわかっている。ただ単に自慢したかっただけだ。結婚したのにもてちゃってしかたない、って言いたいだけなんだ。
それを僕に伝えたいってだけだ。
でも確かにあいつはもてるし、出世もしている。嫌な奴だが、嫌な奴が世の中を動かしている。
そういえばあいつは昔の上司に似ている。仕事はいつも適当で、面倒な事は僕に任せる。周りのバイトの女の子ばかりにちょっかいを出して、いつの間にか仕事を切り上げて飲みに行っている。そして僕は一人仕事の残務処理を続ける。たまに来る偉い役人の人も偉そうな事ばかり言って、社員の状況も何もわからず、ただ、我々の会社は成長しているんだ、みたいな偉そうな事を言って帰っていった。
僕の読んだ本には、偉い人間はみんな謙虚で勉強熱心でコツコツ頑張ってきた人だ、と書いてあった。でも僕はこの時代、そんな人物にあった覚えはない。真面目な人ほど損な仕事をしていて、何もせず偉そうに指図している奴ほどそのまま偉い立場に就いて、どこまでも地位を上げてゆく。
いいなあ、って言えるか?
あんな奴になりたいか?
僕はあんな奴になりたくないさ。
僕は一生懸命頑張る人物でありたい。
気持ちはね。
わかっている。でも僕はただあんな奴を批判しているだけで、一生懸命コツコツも出来ていない。最も駄目な種類の人間さ。
君の否定はわかっている。
僕が一番駄目だという事、そんな事は重々承知だ。
目覚めの悪い日曜の夕寝起き、今日も闇の夜を一日中眠れずに過ごす。明日の朝はまた寝坊をしてしまうかもしれない。
胃が痛くて遅刻します、って連絡を入れようか。
つくづく駄目な人間だ。自分を止めたい。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』1ノ15
暗い夜道を歩いていた。いつもと違う生活を探していたら、僕は知らない場所を歩いていた。もう帰らないといけない。遅い時間だ。雨も降り続いていた。
コンクリートで固められた川沿いの道を歩く。たぶん反対岸に渡れば自分の家がある辺りに帰れるだろう。
橋を照らす街灯の下に黒い傘が佇んでいる。少しだけ動く。緑色のトレーナーを着た背の高い男だ。男は川向こうを眺めている。
僕はその脇を通り過ぎて橋の上へと向おうとする。
背高のっぽは僕の方を一瞥する。そして、
「ちょっと待てよ」と、声を発した。
僕は立ち止まった。傘がぶつかったわけでもない。だから僕は、その男が知り合いなのか、と考える。男の顔を覗き込む。知っている男だったろうか?この街の知り合いといえばいるはずもない。ひょっとしたら家庭教師セミナーに一緒に参加していた社員の一人かもしれない。
「何か?」と、僕は尋ねる。
男は何も答えない。髪は茶髪で、短い。鼻がすっと伸び、目はくっきりしている。男の僕から見てもいい男だ。その目にはどことなく人を吸い込むような独特の力がある。
僕はこんな男に会った事があるだろうか?
「いつまでそうしているつもりだ」と、男は言った。
意味不明だ。いや、でも、その言葉はある意味合っている、と僕は感じる。
「何が言いたい?」と、僕は尋ね返す。
「おまえは何のためにこの町へ来たのさ。今までの生活を変えるために、このこの町へ来たんじゃないのか?そのためにこの町に来たのに、おまえはこんな所をうろうろしている」
男は僕の幻覚だろうか?光の男のような存在かもしれない。
でも違う。男は確かに実体を持っている。
どうして背高のっぽは僕の事を知っているのだろう?僕は少しぞくっとする。不思議と顎ががくがく言い出す。
「いいかい?」その背高のっぽは話を続ける。「人は誰だって欠点を持っている。おまえはおまえの過去に自信が持てずにいる。そして怯えている。それでいて、人生を変えようとしている。間違っているだろう?おまえは間違えだらけだよ。本当に人生を変えるつもりなら、まずはおまえの中にある弱い心を変えなくちゃいけないだろう?それもできずに何かを変えようなんてできるのか?」
僕の心の中に男の声は響いてくる。
事実はどうなっているんだ?
「あんたはいったい誰?」
大きな口がぐいっと横に広がる。
「おまえはもう、気づいているんじゃないか?自分が何者なのか、という事に。そして、どうしてここに来たか、という事に。まずは俺を知る前に、自分に気づくべきだろう?」
背高のっぽは僕にそう言う。
ざああああっ、と急に雨が強まる。
緑の男はにやついたまま、僕の前を過ぎ去ってゆく。
僕はその姿を追う事ができない。金縛りにあったかのように、体はその場に止め付けられた。
恐いことがある。知りたくないこと、触れたくないことがある。
君もわかるだろう?
誰だって嫌な自分なんて知りたくないのさ。嫌な事には気づかないふりをしているだけなのさ。
それと違う。それだけじゃない。その事を僕は知っているのかもしれない。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』1ノ14
雨が降っても、槍が降っても、結局同じ朝が始まった。
古い家の2階、瓦屋根を流れる雨水、ざあざあ、ざあざあ雨は降り続く。僕はそんな窓の外の風景を眺めている。一面灰色空。広がる雨空の風景。
雨が降っても、お日様が照っていても、僕はいつもとさして変わらない日々を過ごす。
僕の相手は登校拒否をしている中学生の女の子、急に寒くなったせいか、赤いカーディガンを羽織って、英語の過去形を勉強している。
季節は移り行くけど、僕の行く場は移り行かない。いつもと同じ一週間を繰り返す。脳の中身は少しくらい変わったろうか?
「I go、I went」
少女が発音練習をしている。少しは英語を覚えたようだ。僕の脳もそれとさして変わらない。
いや少しは何かがわかったような気もする。曖昧表現は国会議事堂の先生方よりも僕の方が酷いかもしれない。僕は何をどうしたいのか、今日もはっきりせずにここに居る。
「何よ~、何かバカにしてない?」と、赤いカーディガンの中学生が言う。
「ん?何が?」と、僕は応える。
「何となく、その顔が、、、覚えが悪いなあって思ってるでしょ?」
「酷く気のせいだ」
少女は、そう応えた僕ににっこり微笑む。そしてオウム返しをする。「酷く気のせいだ」
さらに笑みをこぼす。さっきまで不貞腐れていた表情が嘘のようだ。
僕は何も答えない。ただ崩れて、可愛くない顔がさらに可愛くなくなった少女の顔を見ている。
「先生、おもしろいね。変なの」と、彼女は言う。
「そうか、そうかもしれないな。俺は変かもしれない」そう、答えてやった。
「ふふ」と少女は鼻で笑い、さらに笑みを増す。「普通、自分で言う。俺って変かもしれないって」
そうだな言わない、と答えたいが、なんか面倒くさい。この子との会話が面倒だ。
「続き!読んで!」と、僕は少し強い口調で言う。
登校拒否中学生は少し不機嫌な顔をする。けど、
「はい、はい、読みますよ」と言い、続きを読み出す。
でも僕は、こんな毎日に落ち着いている。どことなく、未来が来ないで欲しいと望んでいる。
このままがいい。僕は勉強ロボットのように、朝が来て、ここへ来て、少女に勉強を教え、夕方帰り、眠る。ただそれを繰り返す。製品寿命が来るまで、同じ事を繰り返す。それがいい。
自由を求めていた10年前、この町で、あの男は僕に言った。
「でもいつかは畑を耕すだけの毎日になるのさ。朝起きて、畑に行って、水撒いて、夜が来て、家に帰って寝る。俺らは農耕民族だからな」
そんな事を言っていた気がした。僕はその意識を植えつけられた。きっとそれが楽だと感じるようになるのだと。きっとあの日僕は、あの男に魔法を掛けられたに違いない。その魔法が解けなくて、僕は同じ毎日を繰り返している。
魔法を解くべきか、僕はその事に迷っている。きっと魔法は解けかかっている。僕はその魔法を自分で解く事ができるはずだ。いや、それともこの魔法はあの男にしか解けないのかもしれない。だから今日も宙ぶらりんなのか。
昼が来て、雨がふと止む。
考えても答えは出ない。時は少しずつ進んでいる。僕がこのままであろうとしても、目の前の中学生はやがて大人になるだろう。その時が来れば、僕はここにいられない。
「先生、真面目な顔してどうしたの?」と、少女は僕に尋ねる。
「いや、何でもない」
「そう」と言って、彼女はそれ以上何も聞いてはこなかった。
何でもないわけじゃないけど、何でもない事なのかもしれない。この生活がいつか終るという事、それはそういう事なのかもしれない。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』1ノ13
晴れ渡る秋の空は心地よい。
すかっとした一面の青空なのに、僕の気持ちはすっきりしない。
求めたい感情は僕の体を起こし、電車に乗らせて、僕を町の中心にあるいつもの駅まで連れてきた。
今日はいつもとは違う北口に降り立った。
北口も南口と同じようにロータリーがあり、バス停がある。
南側ほど発展しておらず、辺りには少し古い2,3階建てのビルが立ち並んでいる。
その西側には新しいドラッグストアがあり、そのさらに西側に進んでいくと小さな公園にぶち当たる。この辺りは人通りこそ少ないが、新しい開拓地の一角だ。
僕は公園まで来て、バスケットの遊び場がある側のベンチに腰を下ろした。
バスケットコートの地面はアスファルトで出来ていて、その周りを低いブロック塀が覆っている。座っても中で遊ぶ人たちの姿が見えるくらいの低い塀だ。僕はその外側のベンチに腰を下ろす。
高校生くらいの男の子たちがその中で3オン3を結構真剣にやっている。
僕は少し頭が痛い。風邪を引いたわけじゃない。これはいつもの反応だ。いつも僕は楽しんでいる若者を見ると頭が痛くなる。
いつだって僕は机の上に座っていた。わぁーわぁー騒いでいた記憶は僕の学生時代にはない。
思い出したくない思い出が頭を痛めつける。
忘れよう。その記憶は僕に何の利益ももたらさないのだから。
繰り返される毎日を終りにしよう。それが僕の今するべきことだ。
目を閉じる。
秋風が優しく、僕の耳元を掠めてゆく。でも少年の声が響く。少し遠くに恋人どおしの笑い声が響く。頭は痛むばかりだ。
忘れよう。
けど思い返せば、僕はずっと何もない毎日を繰り返してきた。それは10年前より前も同じだ。
僕はどうしていいかわからなかった。
中学生時代も僕は一人きり、高校時代も僕は一人、机に座っていた。
あの日、あの旅に出た日、僕は少しだけ何かを変えようとしていた。そしてあの日僕は僕を変えられると感じていた。あの男に会うまでは、これまでの自分の生活を改めようと決心していた。
自分の感情を思い出す。
僕は少しずつ何かを思い出そうとしている。だってあの日、僕は未来に希望を抱いていた。行動すればきっと出来ることもある、と信じていた。そして、欲しいと思うものに手を伸ばそう、としていた。
だけどあの日が終わり、次の日になると僕の感情はすっかり変わっていた。大きな穴が空いていて、その穴に全ての感情が吸い込まれていってしまうように、僕はどうでもいい気分になってしまっていた。
何もかもが、くだらなく、空しい出来事に感じられるようになっていた。
今もまだ空しい。
でも僕はこの穴を埋めて、欲しい物を求めたいと感じている。
それがせめてもの始まりだ。今僕はそこに来ている。
どれだけ時間が過ぎたろう。
いろいろと考えていたけど、何も思い浮かばないままに時間だけが過ぎた。
空は暗くなり、バスケットコートにはもう誰もいなくなっていた。赤く丸い街頭がコートの中を照らしている。僕はベンチから立ち上がり、そのコートの中に入った。
僕はボールを探した。
バスケットボールを探したけど、そこにボールはなかった。そこに立つのは僕一人だった。僕は誰かにボールをパスしたかった。けれど、パスする相手もいなかった。その前にボールもない。僕はずっと一人だ。
ずっと一人だった。
(つづく)