小説と未来 -53ページ目

『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ15

自宅に帰った彼は一週間ほど、一人で過ごした。

彼の家を訪れる者は一人としていなかった。髪の長い女もやってこなかった。

それどころか、電話もなければメールもない。僅かなつながりもない毎日が続いた。


一人になって三日後、髪の長い女へ電話してみよう、という気持ちになり電話をかけてみたが、コールは続き、10回20回鳴っても出ないので切った。しばらく待ったが返答もないので、メールをしてみようと考えた。

しかしなんて書いていいか思いつかない。何かを打ってみるがあまりにまとまりのない文章、暗い男にも見えるし、書き直せば軽い男にも見える。さらに直せば重い文になって、また直せば意味不明になっている。やがて彼はメールを打つのも諦めた。


薄っぺらな連絡用のメールを保存して、全てをあきらめた。

そのうち向こうから返答があるだろう、と思っていたがどれだけ経っても電話はかかってこなかった。メールも送られてくることはなかった。


家にいると世の中は滅んでしまったかのように静かだったので、晴れた天気のいい日には電車に乗って街まで出かけた。

世の中は滅んでいなかった。いつもどおり営まれていた。当り前の事だ。


彼は思いつくこともなかったので洋服屋へ行って、シャツを2着とカジュアルスーツを1着、コートを1着買った。久しぶりの買い物だった。お店の人とはいえ、人と話をするのは3日ぶりだった。彼は自分の声が店の店員に届いているかさえ不安だった。自分の姿が相手には見えないんじゃないか、とさえ疑った。

もちろんそんなはずはない。店の店員はあれこれと服を勧めてきて、彼は何となく納得させれるままにそれらの服を買った。


手荷物がいっぱいになったので、タクシーに乗った。

タクシーの運転手はなにやら話しかけてきたが、彼は軽く頷いて、後はほとんど何も訊いていなかった。やがて運転手もその対応に気づき、話を止めた。


ついにその日髪の長い女からの返答はなかった。

翌日もなく、彼は家で一日を送った。



やがてやってきたのは、四角い顔をした茶縁眼鏡を掛けた清楚な男だった。

彼は突然辞めてしまった、髪の長い編集者の女の代わりに来た、と言った。


心の中で彼は酷い動揺をした。心臓がバクバクいって、顔が赤くなった。こんなに落ち着かない気持ちになったのは始めてかもしれない、とさえ彼は思った。


でもその茶縁眼鏡の男の前では冷静なふりをしていた。

「そうか、それは残念だね。よろしく頼むよ」なんて言って、格好つけて見せた。


ろくな推測もできず、髪の長い女がどこへ行ったのか、彼にはさっぱりわからなかった。

女がいなくなって、彼はより一層頭が働かなくなった。無意味に彼女の事を考え、書こうとしていた物語はうまく描けず、だらだらとつまらない文章を書いていた。

茶縁眼鏡の男は甘くなかった。

「ここも間違えてますよ。この言葉の使い方はおかしいでしょ」と、その男は言った。

やれやれ、面倒な奴が来たものだ、と彼は思ったが、素直にしたがって書き直した。


しかし茶縁眼鏡の男はそればかりでなく、物語の内容まで口を出してきた。

「これは不自然だし、展開として首を傾げるしかないですね」とか「ここで出てくるおじさんが、ここで出てくる時にはキャラがぶれすぎている。イメージが湧きません」なんて偉そうに言ってくる。

仕方なく彼は書き直す。


文面は堅くなり、文章中に説明文が増えてゆく。確かにわかりやすくはなっているのかもしれないが、彼はそれでいいのかと首を捻る。

しかし女の事ばかりが気になる今の彼には、小説がどうでもよくなっていた。彼は言われるがままに直し、言われるがままの生活を送った。



僕が眠り続けている間、彼は少しずつ力を失っていった。

長い時間を僕は疲れされ続けた。長い時間を掛けて彼は力を得ていった。

僕はゆっくり休まなくてはならない。彼はやがて全てを失うだろうから。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ14

目覚めの悪い朝を迎えていた。

体がだるい。昨夜の酒がまだ腹の中に残っている。


彼は不快な気分で目を覚ます。

東北地方の中都市にあるホテルに泊っていた。ホテルでは何もしないまま二晩を過ごした。冬寒くなってきた街を多少歩き、地方ならではの飯を喰った。それくらいで後は何もしていない。寝ているか、テレビを見ているか、そんなふうなどうでもいい時間を送った。


東北地方と彼は何の繋がりもない。そんな何の関係もない土地にいる事が今の自分には合っていると彼は勝手に想像していた。何も知らない地で全てを忘れる事で自分の求めていた自分を取り戻せる、と根拠のない予感を抱いた。


でも二日経っても、理解不能から始まる不快な感情が押し寄せてくる。


彼は起き上がると、ふらふらと歩きながら、ロビーへと向かった。

広いロビーでは仕事に向かう前の出張中のサラリーマンらしきスーツ姿の男たちが何人も見られた。彼は不似合いなスウェット姿でそこを横切り、ロビーにある公衆電話に向かい、そこから電話をかける。


「もしもし?」と、女は出た。

「俺だよ」と彼は言う。

「どこにいるんですか?」と女は少し強い口調で言ってくる。

「何?怒ってるの?」と彼は尋ねてみる。


「話したい事がたくさんあるのですが、まず連載の前回分ですが、修正しないとならない点が多いので今回は見送る事となりました。次回分に回すので、5日後までに修正してください。修正の理由と修正箇所について話をしないとならないので、いち早く話をしたいのですが」

編集者である女は業務的な口調で彼にそう説明した。


どこか公共の場所にいるのだろう、と彼は推測した。


電話の向こうの女は最初の質問に対する回答を待っている。


「来いよ」と彼は言った。

「どちらへ?」と女は訊き返してきた。


彼は今いる場所をホテル名とホテルの部屋までしっかりと伝えた。


「わかりました」と女は言った。



その日の午後2時に髪の長い女はホテルのロビーへとやってきた。部屋まではやって来ずにフロントのホテルマンを使い、彼を呼び寄せた。そしてきっちりと、直すべき原稿だけでなく、彼の部屋にあったはずの携帯電話とノートパソコンを持ってきてくれた。

「準備がいいね」と彼は皮肉めに笑って言った。

彼女はそれを気にせず、一通りのものを彼に渡した。

「行こうか」と彼はホテルの一室に彼女を誘うが、髪の長い女は「いえ」と言ってそれを断り、どこかの喫茶店での話を願い出す。

珍しい事だ、と彼は思ったが別に構わなかったので了承した。


ホテルの傍にある静かな喫茶店で、髪の長い女は彼に修正点の話を始める。それはとても事務的で感情や気遣いの一切ない喋り方だった。


いつもと違う、と彼は感じていたが、それをどうしていいか、止める事も変える事もできそうにはなかったのでそのまま話をきき続けた。

今はまあよしとしよう、と考えて、彼は編集者の話をただ素直に聞き入れた。


彼は自分には心の余裕があると考えている。彼女が怒っていてもまあいいだろうと。

でもそれは違う。彼はまだ気づいていない。彼にはもうあったはずの魅力が薄れ無くなりかけている。


彼だけがまだ失われているものに気づいていない。


目の前にいる女性は彼が凡人以下になりかけていると感じている。それはなんとなくだけど、そのなんとなくが大きな差になる。


いつになったら彼はそれに気づくのだろう。

僕は彼がそれに気づくことを待ちわびている。


(つづく)


『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ13


悪い吐息が切れないまま、彼の運転するクーペは山野を駆け抜けた。

平日の何もない時間であったせいもあるだろう。彼は自分で想定していたよりも早く、目的の場所に辿り着けた。


枯れた木のある山道へと訪れる。


路肩の広い場所にクーペを止め、彼は木と木の間に少し隙間がある道へと入ってゆく。

数週間前に訪れたときはまだ木々には葉があり、辺りを暗めていたが、今はもう葉もほとんど落ちきり、強い西日が森の奥まで入り込んでくる。

辺りはすっかり冬のいでたちだ。僅かな葉がちらりと彼の前を掠めて落ちてゆく。もう悲しいまでに冬は近づいていた。


誰もいない山道を一人歩いてゆく。

落ち着かない気持ちが彼を焦られていたから、寒さは感じない。息を切らせて早足で足場の悪い道を少し早足に上ってゆく。


夏は青々と茂る木々の中にぽつんとある木も、その日は周りと一体になって姿を現した。

全く目立ちはしない。

感じようと思えば、その木は別の木よりも少し艶やかに見える。周りの木に葉のない時期は、むしろその木の方が力強く生きているように見えるのだ。


日は落ちかけ、闇が来るものもうすぐそこまで来ているが、彼はそれを気にせず目的の木に着くと、その木の幹に手をかけた。あちこちの枝を触り、ゆさゆさ揺すってから、一本太目の枝を選択した。

そして手始めにその枝を上下に激しく揺さぶる。枝はまだ生きている。生命が枝の先まで伝わっているのを感じる。彼はその枝の先が地につく位まで強引に折れ曲げる。


「よし!」と彼は気合を入れていった。


そしてそれから力いっぱいに枝を下へ右へ左へと無理なほうへと折り曲げてゆく。

しかし枝はよくしなり、なかなか折れようとはしない。


「ぐ、ぐあああああ」と彼はでかい声を上げる。

森の奥で誰もいないから、声は誰にも届かない。

気を狂わせたように彼はその枝を右へ左へと揺すり、でかい唸り声を張り上げる。そしてさらに無理な方向へと力を込めて枝を曲げてゆく。


額から汗が吹き出るほどの労力を費やし、彼はその枝を折ろうとする。


「うーーーー、ああああ、うぉーーーーー!!」と訳のわからない声を上げる。

すると枝はすっとしなりをなくす。負けを認めたかのように力を失い、ゆっくりと限りなく生命力をなくした。

彼はにやりと笑んだ。

木の枝はその部分を生命とする事を諦めたようだ。

枝をぐるぐるとねじり、枝の根元が破損して行くのを楽しんでいる。


幹との繋がり目は少しずつ伸びきり弱まり、手を離すとだらりと地に垂れ下がった。

再びその枝を持つと彼は最後の力を込めて、綱引きの綱を引っ張るように力いっぱい幹から遠い方向へと引いてゆく。少しずつ枝は伸びきる。そこに捻りを加えてゆく。


「ぐいいい、ぎゅるん」

というような不思議な音を立て、枝は木の幹から分離した。


彼は全身で呼吸をしていた。とても疲れていたようだが、誰にも俺には叶わないさ、という不気味な自信を持った眼力の強い笑顔をしていた。


気がつくとあたりはすっかり闇に包まれていた。


満足?と僕は彼に聞きたい。

きっとその満足は気のせいさ。その木にはもう彼が思うようなエネルギーを持っていないから。


やがて彼もその事に気づくだろう。


今はまだ満足のふりに浸っていればいい。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ12


どれだけ欲求を満たそうと、彼の芯にある空洞は埋められない。


締め切りの迫った彼は、何とか書き上げたボロボロの作品を編集者である髪の長い女に渡した。彼女自身も彼が描いたその作品がいつもと違って何か物足りない感じを受けたが、きっと見る人が見たらいいものなのだろうと、いい方に捉えてそれを出版社へ持ち帰っていった。


彼は落ち着かない気持ちに溢れ、都内のホテルで高級娼婦を買った。

部屋に入ってきた女を彼は冷たい視線で見回した。娼婦は男の行動に落ち着かなかったが、笑顔を見せて対応していた。

でもやがて彼は激しい怒りを露にし、娼婦をバカにしだした。


「嫌なら帰るわ」と、その娼婦の女は言った。もはや帰るつもりだった。


しかし彼は百万の札束を出し、その娼婦に伝えた。

「要らないなら帰ればいい。欲しければ俺の言うとおりにしろ」


娼婦はその札束に完全に目を踊らされた。

「本物よね?」

そう疑って、札束を一枚一枚ぺらぺらと見る。


彼は娼婦のカールヘアを根元から掴む。

「い、痛ったーい」

と声を上げるが、彼はそれを気にしない。


「欲しいんだろ?」

彼はそう言って綺麗な女の鼻立ちを唇で啜る。


娼婦の女は何も言わない。


そして彼は散々なまでに女はいたぶった。髪の毛をぐちゃぐちゃにして、化粧が落ちるまで顔を嘗め回してからベッドに顔を押し付け、後ろからぶちかまして、あちこちを叩き捲くった。

娼婦の女は逃げるに逃げれない状態になり、ひいひい泣くように、感じるように叫んでいた。それから1時間そんな事が続いた。

娼婦はベッドから床に転げ落ち、倒れこんだ。女は床でヒクヒクしたままもはや精神が崩壊してしまったかのようにぶち倒れていた。

彼は女の上に一万円札をばら撒いた。


もう十分なはずだと彼は考えた。

自分のやった行為で落ち着かない苛立ちは消えるはずだ、と考えた。

それでも酷い作品を書いてしまった事に苛立ちが消えない。彼はホテルを出るとまた落ち着かない気分に溢れ出した。娼婦にやった自分の行為にもむしろ気分が悪い。


ホテルの前のタクシーに乗り込むと、彼はレンタカー屋へ行くように指示した。

現状の自分を、自分の存在を知っている相手に見せたくはなかった。彼女である髪の長い女に見せる顔もなかった。いつもなら強気な態度を取れる彼も今はそれができない。だからまるで逃亡者のように知られないままにどこかへ行ってしまおうとしていた。


彼はレンタカー屋に着くとすぐに置かれていたクーペを借り、間髪おかずに車を走らせた。

何から逃げるのかのように、必死に逃げる。


無駄な行動だ。僕は彼が何をしようと無駄な事を知っている。


もうすぐ時が変わってしまう。僕はそんな彼の姿を笑う。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ11


彼は眠りに眠った。なんだか酷く疲れていた。


連載の締めきりは迫っているけど、彼の筆は進まない。

書かなきゃいけないのは承知だけど進まないものは進まない。

どことなく最近進みが悪い事に自覚はある。特にこれといった不調の原因はないのだけれど、なぜだか酷く眠くやる気がしない。季節が冬になると少し眠気が増す。そのせいだとばかり彼は思っていたが、実はそれだけではないようだ。

いろいろ考えるのも面倒だから、冬のせいにして、広い1ルームのマンションに置かれた大きなダブルベッドでずっと眠っている。


髪の長い女も落ち着かずにいた。

彼女は編集者としての仕事を為さないとならない。そうしないと、ただでさえ会社で彼との関係を白い目で見られているのにより一層酷い目で見られる。

東京に戻ったせいで、会社に顔を出さないわけにもいかない。朝は定刻に会社へと立ち寄り、上司の指示を確認し、OLみたいな手伝いをしてから彼の家に出かける。


1階のインターフォンを押せば、彼はちゃんと対応して中に入れてくれる。関係は悪くない。ただ最近、筆の進みが極端に悪いだけだ。

12階の玄関前まで行けば、ちゃんと扉を開けてくれる。そして笑顔を投げかけてくれる。そこまではいつもの彼だ。

でもそこからが違う。


彼はすぐにベッドに倒れこむ。


「どこか悪いんですか?」と彼女は訊くが、「いや、眠いだけだ」としか彼は答えない。


しかたなく彼はオレンジ色のカーペットの上に腰掛ける。テレビもないこの部屋ではやる事もない。


数日そんな事が続き、さすがに落ち着かなくなった彼女は彼に尋ねる。

「原稿の仕上がり具合はどうですか?もうすぐ期日になってしまいますよ」

優しく、事務的に、髪の長い編集者の女は彼に尋ねる。


「机の引き出しにあるよ」と彼は答える。


なんだ出来ていたんだ、と彼女は思い、部屋の隅にある座卓へと近寄る。そして机の下の引き出しを引っ張る。そこには小さなノートパソコンが一台置かれている。

この中にあるんだな、と彼女は思い、パソコンを起動させる。

パスワードはかかっていないのですぐにデスクトップが現れた。デスクトップ上のどこにも原稿らしいものは見当たらない。整理好きの彼だからどこかにあるだろうと、マイドキュメント中などをあちこち見渡すが、新しい原稿は出てこない。どれも古いものばかり、もしくは全く作品にならない数行の没作品ばかりだ。


10分、20分と見たが、もう頭にイライラが増したので、彼に「どこにあるの?」と尋ねる。

気づかなかったが、彼はベッドの上にはいなかった。ふと気配を感じて後ろを振り向くとそこに立っていた。彼女は自分がそんなに一生懸命になって探していたのかと自分自身に驚いたが、すぐにそんな事はどうでもいいと思い、彼に原稿の場所を尋ねる。

彼は女の後ろに座り、覆いかぶさるようにして彼女が握るマウスの手の上に手を置く。

「さて、どこだったかな?」と、彼は言う。


しばらくかちかち動かすけど、原稿はどこからも出てこない。

女は怒りたい気分だが、なんだか彼に満たされてしまっていてどうでもいい気分になっている。

「まだできていなかったみたいだな」なんて彼は言う。


やれやれ、と彼女は思うが何も言い返す気になれない。


東京へ戻ってこない方がよかったんじゃないですか?と言おうとした彼女だが、後ろを振り向いたら彼に口を口で塞がれてしまった。


じゃあ、もうどうにもならないね。


やれやれ、僕もやれやれだ。


彼はまだ自分に何が起きているのか、気づいていないようだ。


(つづく)