小説と未来 -52ページ目

『何気ない毎にちを貴方に伝う』3ノ3

また1週間が始まる。何気ない一日にはやり直せるさ、と君は思う。


混み合った電車の中で君は周囲の人間をいないモノとして、一人きりの気分になる。そして忘れていた過去の楽しい思い出でも思い返してみる。

旅行に行った思い出やコンサートの思い出、高級レストランで食べた料理の味やお気に入りのブランドの服が手に入った日の事、そういった一つ一つが、君の本日の悪いであろう出来事を忘れさせてくれる。今ある化粧くさい満員電車も気のせいにしてしまえる。


少し調子のいい笑顔を浮かべる。



でも、夕暮れ過ぎて家に帰る頃にはまたどす黒い表情を浮かべている。

結局、夜中の8時過ぎに逃げ出すように会社を出てきて、帰路へと向かう。慌てて足早に帰る必要はないのだけれど、足は落ち着きなくどたばたと家路へと急いでいる。頭の中はあれやこれやのうだうだ事が巡り巡っている。君の脳は営業に要求されていた資料を作ることに今も追い回されている。もう終ったはずなのに。


明日、やり直し、と言われそうだ。不安を感じる。

今夜は悪い夢を見そうだ、と眠れない夜を想像する。


君は全てから逃げたいから、家に帰って、まずパソコンを立ち上げた。そしてアバターの世界へと入り込んでゆく。

通称『溝端コミュ』の入口には中に一人しかいない事を記していた。君はそこにしか入る所がないが、この間の狂ったような奴がいるんじゃないか、と入る事に躊躇する。

でも現状を打破したかった。だから君は思い切ってそこに加わる。



一人のアバターがいる。男のアバターで、この間のおかしな奴と違って、きわめて普通に見える。


「こんにちは、僕はあつし」と彼は挨拶をしてきた。

「こんばんは」と君は返す。

「そうだね、こんばんはだね」とあつしは言って、照れの表情を浮かべる。

君のアバターは笑顔を作ってそれに応えてやる。


「このコミュもすっかり人がいなくなりましたね」と、あつしは君に尋ねてくる。

「ここ数カ月で、彼の名前は雑誌から消えてしまったから」と、君は答える。


「お詳しいようですね」と、あつしは君に言う。

「いえ、それほどでも」と、君は謙遜する。


「彼が今、どこで何をしているか、知りたくありませんか?」


「もちろん。知りたい!」と君はすぐさま、そうキーボードを叩いていた。

が、エンターキーを押すのを止めて、一度消してから、「彼がどこで何をしているか、知っている人がいないのが、彼らしくていいんじゃないですか?」と打ってみた。


「そうですか。僕は彼について意外と詳しいので、もし知りたいのであれば…」と、あつし。


君はものすごく知りたい。

「そう、そうなんですか?」

と、微妙に驚くだけで我慢する。


「本当は知りたいでしょ?」とあつしは君に聞いてくる。


もう君は我慢できない。

「そりゃ、知りたいですよ」と、書いてついにエンターを押す。


「じゃあ、こんど、探しに行きましょ!」

と、あつしは言う。


「どこにいるか、知らんのかい!?」と君は突っ込みたかったが、

そこは女の子らしく、「ええ、どこに探しに行くんですかあ?」なんて探りを入れてみる。


「僕はいくつか、彼の現れる場所を知っている。もし君がそれを信じるなら、付いておいでよ。これはここだけの秘密だよ」


そして、君の『溝端を探せ!』の日々は始まった。

今まであった平凡退屈な日々が一気に急回転しようとしていた。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』3ノ2

正月ののんびりムードも長くは続かない。


他部署から勃発した営業部長へのクレームは、営業社員への批判に繋がり、営業社員のやり場のない怒りは営業事務である君に向けられた。

心も清らかにこの一年はやり直そう、と思っていた君の改心をぶち壊しにする最悪な事態となった。


「おい、ちゃんとやっとけよ」と、きざな男が耳障りに言い放つ。

わたしに言うべきことじゃないだろ!と君は怒鳴り返してやりたいが、そこは我慢する。そもそも隣の茶髪の子のやり忘れたことだ。若い女の子に言えないからとこっち言ってくる。最低の男だ!と君はその男を嫌う。


「ちょっと、あれ、メール、まだ送ってなかったの?」と君はその女の子に言う。

「あれ?そうでしたっけ」と、その子は素っ気なく返事をする。

そして仕事も済まさず、机を離れ、別の事務の子を連れて、事務所を出てゆく。トイレかどこかで君の悪口を言い出しているのだろう。君はその事を知っている。


どうでもいいから早くやれよ!

君の苛立ちはさらに増す。もう可愛い女の子と一緒にされない齢である事は十分わかっているが、これが本当のわたしじゃない、と君は思いたい。


部長に、あれやこれやっといて、と言われ、また隣の茶髪の子がダラダラ仕事を始める。君は業務をすばやくこなしてゆくが、だんだんイライラが募ってゆく。

君は気づかぬうちに少しずつ、重ーい雰囲気を辺りに広めている。


恐い怖い、と言って、隣の茶髪の子はまたどこかへ行ってしまい、いつもは比較的優しい営業の男の子も君には近寄ってこずに別の子に仕事を頼んでいた。

君は一人ぼっちで部長の仕事をやり続ける。



パッと資料を出して、部長には何も言わせず、終業のチャイムが鳴ると共に君は職場を後にする。別にどこへ立ち寄るわけでもない。ただただ帰りたいだけだ。


家に着くなり、君は一人、もおおおおおいやああああ、と大声を発する。


そしてバタンとベットに横たわる。

30分間、動かずにずっと倒れて寝ていたら、少しだけ気が楽になった。


今度は落ち着かない気持ちになったので、ネットを立ち上げる。

これといった趣味のない君だが、唯一やっているSNSがある。そしていつも入り込むコミュニティーは決まっている。『小説家溝端を語る』というコミュニティーが君の唯一入り込む空間だ。


君がコミュニティーに入り込むのは溝端の連載小説が終って以来、1ヶ月ぶりくらいだった。

普段はアバターに溢れ、なかなか入り込む事も難しかったその部屋もその日は余裕で入ることができた。周りのアバターはみな同じ話題を口にしていた。

「溝端は何をしているか?」

それがもっぱらの話題だった。

「海外旅行」「休養」という者が多いが、「新作を作っている」「山に篭って考え中」という者もいる。

あれやこれやと何人かがチャットしていた後に、

中央にいたアバターが急に話に加わり出した。

「死んだんだ」

とそのアバターは言った。

「まさか?」と最初から話していたアバターが返す。

すると、中央のアバターは急に走り回り、わめき出した。

「死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ」


周りにいるアバターはぞっとし、部屋を去ってゆく。君も逃げようかと思ったが、何となくそのタイミングを逃してしまった。

「いいかげんな事をいう奴を排除しろ!」と右上はじにいたアバターが言う。

「そうだ、そうだ」と別のアバターが言う。

やがて、残っていた周りのアバターがそれに賛同し、「そうだ、そうだ、いいかげんなことを言うな、出て行け」と言い出す。

君は何も言えずにじっと見守っていた。


中央のアバターはやがて笑い出した。何度も何度も腹を抱えて笑った。

皆、声を出すのをやめてしまった。あまりにも異様な光景にみなぞっとしていたのだ。

やがて腹を抱え笑いながら、「死んだ、死んだ」と連呼して、そのアバターは消えてしまった。


瞬間君は我に返った。

パソコンの画面から目を離し、辺りを見回した。当り前の事だが誰もいない一人きりの部屋にいる。

現実に戻ろう、と君は思い、コミュニティーの部屋を抜け出し、パソコンをシャットダウンした。


君は静かになった一人きりの空間でふと作家溝端が何をしているかについて考えた。正しくは、作家溝端ではなく、一人の人間である『溝端』と名乗る男について考えた。

彼は一体どんな人間なのだろう?そしてどこで何をしているのだろう?実は本当に死んでしまったのかもしれない。


もともと謎の多い作家であるが、作家として小説を書かなくなったら余計に彼が謎めいて感じられる。謎が謎のまま消えてしまった。答えを教えてくれない難問のなぞなぞを出されたかのように君の脳はすっきりしない。


無駄に悩みが増えてゆくな。

と君は思う。


そんな全ては忘れてしまえばいい。どうせ全てがどうでもいい事なのだから。

僕は君にそう伝えたい。

世の中たいていの事はどうでもいい事だと、僕は君に伝えたい。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』3ノ1


冬の光は暖かく、優しい。


色々思い浮かべば悪い事ばかりだけど、雨は降りそうにないから、きっと一年の始まりはそう悪くはないだろうな。


君は思う。


大学を卒業して10年、色々あったといえばあったけれど、何もなかったといえば何もない。

時が過ぎるのはあっという間、君は会社ですっかりお局さん扱いされる立場になり、ただ仕事と家を往復する毎日になっていた。


30歳の時に結婚する予定だった君は、その男に裏切られ、予測していた未来の全てが崩壊してしまったから、それ以来人間不信になってしまった。精神的に不安定になり、精神安定剤と睡眠薬を飲みながら、一年を過ごした。

昨年復調し、やっとまともな人間に戻れたかと感じていたが、2年の無駄な月日は君を悲しい気分にさせる。ただでさえ、30過ぎになってしまったのにさらに2年を無駄にして、この先どうやって未来を作っていけばいいかといったプランはなくなってしまった。



新年が始まり、会社に行く。

気の重い朝の通勤を抜けるといつもの事務所のいつものデスクに座っている。年末にだいぶ片付けたはずのデスク回りだけど、隣の席の入社2年目の茶髪の子の机とは比べ物にならないくらい物に溢れている。

ザツだな、わたし。と君は思う。


入れ替りの激しい営業部署は常に新鮮な人を見かけるけれど、君だけは何一つ変わらず同じデスクワークを続けている。毎日同じソフトに同じような数値のデータを入力し続ける。


何気なく始まる新年、さすがにどこの会社も休みだっただけあって、正月早々は少しだけまだ気が楽である。

年末は使い物にならない茶髪の子が散々間違えてくれたので、大変だった。その付けは回るし、ちゃんと指導しておいてくれよ、と部長は茶髪の女の子よりこっちを責めるし、最悪であり、いつ辞表を出してやろうか、と考えていたところだったが、正月休みで、少しは気も落ち着き、新しい一年にはもうどうでもよくなっていた。


それだけでなく昨年の12月は、君にとって良くないことばかり起きた。

仕事の事もそうだが、私生活としては、君の好きだった連載小説が突如終了してしまったことが君にとって良くない出来事だった。

君は『溝端』という名前の作家の本を好んで買っていた。この2年間、君は彼の作品を読むことで落ち着き、彼の書いたエッセイやそれ以外彼の文章が載っている見つけてそれを読むことが、君の唯一の楽しみとなっていた。その中で一番楽しみにしていた連載雑誌の小説が中途半端に打ち切りとなってしまった。


どうして休止してしまったのだろう?と考えたが、それは確かにいつもの溝端の作品に比べ、いまひとつ出来の悪さを感じさせるものであったので、全く納得のいかないことと言うわけでもなかった。


それ以来、雑誌に『溝端』の名前は見かけない。とは言っても年末年始の1週間だけだ。

またどこかで新しい小説が見られるか?

君は新しい一年にその楽しみを求めている。


正月は実家に帰り、ダラダラと過ごした。

実家ではバラエティー番組ばかりを見て、笑っていた。親は、結婚はまだ?、実家に帰ってくれば?だの何だの言ってうるさいが、食べ物はコタツで寝ていれば出てくるので困ることはない。そんなダラダラした生活に君の疲れも少しは取れたようだ。また少し太ったな、と君は思うが、顔の作りには影響してなさそうなので、まあいいか、と君は呟いた。



新しい年が始まっている。

とりあえず無難な一年のスタートを切れたようだ、と君は思っている。



今年はいい年にしたいものですね。

僕は君にそう伝えたい。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ17

年の瀬だった。

連載雑誌から、『溝端』の名前が消えた。


新規連載が始まって2ヶ月。書き始められた新作は僅か2ヶ月で終了した。

終了を知った読者たちは驚きを感じてもいなかった。その作品は明らかに面白味に欠け、退屈な説明の連続となっていたから、やはりな、と思う人の方が多いくらいだった。

その前の号で、連載休止となり、このまま終了と感じた読者も少なくはない。当然の成り行きのように、誰もが受け止めていた。


彼は六本木のマンションを引き払い、酷く空気の冷たい別荘へとやってきた。必要な物はいくつかの段ボールに詰め込んで、後はそのままマンションに置き捨ててきたから、引っ越しに時間はかからなかった。


本邸となった別荘は物悲しくなるような寒さに包まれていた。

灯油を買って、暖房器具をつけないといけないな、と彼は思う。そう思うと、いつものポルシェも不便な乗り物に思えた。程よい大きさの四駆が必要だと感じられた。


でも何もかもやる気のなくなっていた彼は、暖房をつけ、ソファーの上に横になっているだけだった。


もう何もやる気がしない。

本当はインテリ編集者の男をとっちめてやりたかったが、その気もすっかりうせてしまっていた。

髪の長い女の行方も気になっていたが、探す気力もまるでなくなっていた。

気力を付けるための様々な行為すら、やるのが面倒な気分だ。


何もなく、時が過ぎてゆくんだね。

僕は彼を待っている。少し休めば大丈夫さ。彼は零になったわけじゃない。

いずれまた、彼は欲して、枯れ木までやってくるだろう。

僕はその日が来る事を待っている。

しばらくの間、時はただ流れてしまうだろうけれど。


(2部 終了)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ16

これ程やる気がない日々が訪れるとは、彼は思っていなかったろう。でも今の彼にはやる気がどうのこうのと考える余裕すらない。


彼は家で一日中ベッドに寝ている。


でも、苛立っていた。

最近は茶縁眼鏡の編集者の男が毎日のように彼の場所を訪れ、書き上げた小説の駄目だしを続けた。書きたい事は何一つ書けない。しかし書きたいと思うほどの強い意思も持ってはいない。どちらかというと茶縁眼鏡の男に流されていた。


彼の頭の中にあるのは髪の長い女だった、

何とかしたいという気持ちをあった。


なぜ去ったのか?と、彼は考える。

最後に彼女に会う前に買った娼婦の事が頭に浮かび、それに気づかれたのか?と考える。

でも、そうでなく、やはり小説家としての質の悪い小説のせいではないか?と考える。


誰もいない一人の時間。大きなベッドに一人眠り続けていたが、気持ちを入れ直し、机に向かい、何かを書こうとするが、何も思い浮かばない。苛立ちが増し、頭に血が上るばかりだ。


またあの茶縁眼鏡に嫌味を言われるな、と感じ彼は嫌な気分になる。


茶縁眼鏡の男は東大出のエリートで偉ぶっている。

「先生、最近は読者票も落ちてますよ。酷いものです。私は先生へのコメントをいろいろ観ましたけど、まあ酷いもんです。読まないほうがいいですね。世の中の一般人がいう事はほんとにきついですねえ」


彼は言いたかった。

『災厄なのはおまえだ。おまえに言われるくらいなら読者に言われたほうがましだ』

そう言ってやりたかったが、その怒りを抑えた。


昨日の話だ。

今日は誰もいないだけまだましな一日だ、と彼は思う。



そして何もやる気が起きないまま日が暮れて、何もないまま眠りたい気持ちが増してゆく。


一日が終る。それが繰り返される。


それが、当り前になってゆく。


(つづく)