小説と未来 -50ページ目

『何気ない毎にちを貴方に伝う』3ノ13

君は失った。それは君が思うよりもとても空しいことだ。


失ったものは、形状のない曖昧なものだった。

だからその事に気づく他人は誰もいないようだった。


街は少しずつ落ち着きを取り戻しているかのようだった。

今も声に発せない悲しみを感じている人もいるはずだけれど、君の目にする限りの周辺はいつもと変わらないように見える。

それはつまり逆に、君にとってはまたいつものドタバタした毎日が始まったことを伝えている。


いつもと変わらない整理されていない机の隙間で、君はパソコン操作に急いでいた。

それは以前と変わらない淡々とした業務姿勢だった。

急げ!と騒がれても、間違っている!とイラつかれても、君は淡々と業務を続ける。


周りはいつも君としか見ていない。以前からのお堅い君の姿にしか見えていない。


違いは君の中でしか理解されていない。

どんなに理不尽な事を言われても、どんなに不運な事が起きようと、君の中で激しくストレスが溜まる事はない。以前ははらわたが煮えくり返りそうな苛立ちを感じていた出来事も、今は黙って流せるようになった。

仏のような心になったわけではない。

嫌な気にはなるし、さっさと帰りたいという思いはずっと残っている。会社に行きたくない日は毎日だし、なるべく長く寝ていたいとも思う。

ただ、感情は弱く、何も望まず、色々な事がどうでもよく、生物が生きるために行う活動を仕方なく繰り返しているだけの毎日となっただけだ。

欲しい物は無くなった。ずっと欲しかったはずの洋服にも今はまるで興味が湧かない。『溝端』の”み”の字も出てこない。退屈に生きるだけだ。


淡々と業務をこなす。そしてまっすぐ家に帰る。パソコンの画面を覗くこともない。寝てしまう。

目が覚めて、シャワーを浴びる。

少しおなかが空いて、パンを食べる。

髪を乾かして、また眠る。


朝が来て、なんとか顔を洗って、化粧をざっとして、髪を軽く整えて、着替えて出かける。


毎日は同じように繰り返される。



それでいいのかい?

人は生きている限り、何かをしたいと駆り立てられるものだろう?


強すぎる欲望は悪となる場合もあるし、不満や苛立ちを生み出す基にもなる。

欲望からは、夢、感情、恋心も生まれ、強く求め出すことともなる。


様々な物を求める事に、君は今、疲れているのかもしれない。だから今は欲望が無くなってしまった事に少し落ち着いていられるだろう。

でもやがて君は失った欲望を取り戻したくなってくるだろう。

人を恋する苦しみや、叶わない夢に対する切なさ、燃え上がる怒り、奮い立つ闘志。生きている限り、君はそういった面倒な感情に苛まれながら生きてゆかなくてはならない。でもその先には、得られた喜びや理想に近づけた嬉しさがあるんだ。だから人は求めて生きてゆくんだ。


それが生きるって事だろう?

それが人ってものだろう?


君はつまらない生活に希望も抱かず生きるようになった。

満員電車に、会社のいざこざ、ただ疲れながら自分を費やしていくようになった。

失われた君に、やがて魔の手が君に迫るだろう。まだ君はその事に気づいていない。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』3ノ12

春蘭咲き始める公園で、君は水色の傘を差して、濡れたベンチに座り、待ち合わせをしていた。


雨の日の午後はどことなく寂しさが増す。日差しの暖かい空の下なら君も艶やかになれた事だろう。冷たい雨の空の下では薄い色の服が似合う。スカートも薄ピンクで、カーディガンはベージュ色。全ては水の空の下で消えてしまいそうだ。


ピチャピチャと水溜りを叩く雨はしばらく止みそうにない。待ち合わせをするには誤った場所だ。

でも、もう遅い。時間は迫っているのだから。


君の落ち着かない心の鼓動はいつもの2倍の速さで鳴り続ける。高鳴りきった鼓動を抑えることはできない。逃げ出したいような気があっても、もう足は動きそうにない。

濡れる足元を気にする余裕もなく、ただ時が来るのを待ち構えていた。



全身緑色の服(傘の色まで緑)を着た背の高い男がやってきたのは、数十分後の事だったろう。君は時計を確認する気持ちの余裕もなかったからそれはそう思っただけで、実際の時間は不確かなのだが。


「あなたがあつしさん?」と、君は緑の男に尋ねた。

「君がそう思うなら、きっとそうだろう」

緑の男は曖昧にそう答えた。


そして自分の事にはそれ以上触れず、「行こうか」と、君を誘った。

君は濡れたスカートの裾を少し引っ張って立ち上がった。君が立ってもまだ見上げるほど背の高い男は君を見下ろし、君は傘を少し後ろに傾けて、緑の男を見上げた。綺麗な顔立ちの男だった。君は少し男にドキッとして、すぐに下をうつむいた。


午後1時過ぎの住宅街の細い路地を抜けてゆく。

買い物に出かける熟年女性や子連れの若い主婦とすれ違う。傘が邪魔になるほどの狭い道で、君は緑の男の隣で、恋人どおしか新婚夫婦のように寄り添って歩いている。

「あの、どちらへ?」と、適当なところで君はその男に尋ねた。

緑の男はちらっと君を一瞥しただけで何も答えず歩いてゆく。



君が辿り着いたのは少し古い、昭和の匂いがする民家だった。木板の塀に囲まれ、1メートル程の石畳の玄関口を進み、横開きのドアを開ける。

君は身構えて、玄関口の石畳の上に立ちすくんでいた。

「君の力を誰かに分けてあげたいんだろう?」と、緑の男は君に尋ねた。


「何をされるんですか?」


「恐がることはない。へんな真似はしない。ただ君からエネルギーを抜き取るだけさ」

何の事だかさっぱりわからない君だが、その男がやろうとしている事が卑猥な行為でない事を君は感じ取り、男に促されるままに玄関の中へと入っていった。

2階建ての建物で、玄関を上がると階段がある。右手が居間で、左手は和室だろう。トイレとお風呂が階段横の廊下を過ぎた先にあるようだ。なんとなく、君はそんな家の作りを想像する。

ハイヒールを脱いで、家に上がると、緑の男の後に続いて、君は2階へと上がっていった。


横開きの扉を開くとそこには6畳一間の畳部屋が広がっていた。生活観のない部屋だった。真ん中にタオルケットのような薄くて大きい敷布が一枚引かれていた。

「そこに仰向けになって」と、緑の男は言った。

君は言われるがままにそうした。


「目を瞑って」

また言われるがままにそうした。少し不安なので、手を胸の前で組んだ。男の声はなかった。そしてただ静けさが続いた。


君は何が起きるのか、目で見たかったけど、目を開けずにいた。

恐くて目を開くことができなかった。


音はしなかった。物も、部屋も、男も、全てが無くなってしまったかのように辺りは静かだった。

不思議と不安は消えていった。目は開けなかった。開けられなかったのではなく、開ける必要がなくなっていくのを君は感じていた。

ずっとこのまま、全てが消えてしまえばいい。君はそう思ったんだ。


そして、意識は失われた。

闇は闇のまま、光は忘れられていった。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』3ノ11

時間をかけて、ゆっくりとでいい。


君は前に進めているかな?



休日のゆるりとした日、君は『溝端』という小説家が書いた単行本を読み返していた。情けない主人公が運だけで危機を切り抜けてゆくというストーリー。いつ見てもおもしろおかしいが、どこか冷淡で残酷だ。


生きるも、死ぬも、運でしかないのかな?


幸せも、不幸せも、運でしかないのかな?


優しさもなく、知恵もなく、体力もない主人公は、君にとって、君の知る限り最低の人間なのに、いくつもの物語でその主人公がハッピーエンドに終る事に、君は安心と苛立ちの両面を感じる。


あんな奴、死んでしまえ、と思う奴でも、本当に、死んでほしいわけではない。

きっとそんな感じなのだろう。



町の桜はまだ蕾、春と呼ぶにはまだ早いのかな?

深い闇もなく、空は青く、太陽は輝いている。今、君は幸せを求めている。


眠れない夜は不安で、ひとりきりで起きた朝は寂しい。

社会の中にいるはずなのに、無人島にいるようで、心は繋がり合えず、ただ生きてゆくには困らない。誰もが自分が生きる事だけを考えているかのようで、はたまた自分が生きてゆくためにいい人を気取っているかのようで、商店街を歩く人の目は君の目に届かない。全てが義眼のようにぎょろぎょろしている。



全てがテレビの向こうの遠い出来事だ。

君はテレビを見て、今も生死のわからない多くの人の事を思う。


『この前まで、生きるのも嫌だ、と言っていたわたしが、あなたに生きてほしい、なんて言えないよ』

と君は思う。


それから、

『そしたら、それならやっとの思いで生きている人の代わりにおまえがなればいい。そしたら少しは生きている幸せも感じられるだろうよ、この罰当たりが!って誰かに、叱られるだろう』と思う。


でも君は、わたしが不幸と思う以上、今が幸せとは言えない、と考える。


『わたしが生きていると使う無駄な力を、誰かの生きる力に変えてしまえばいいのに』

というのが、君の結論となった。


そして君はSNSから、「あつし」にその事についてメッセージを送った。

「わたしは無駄に生きてます。きっとあつしさんの言うように、わたしは枠を越えられない駄目な女です。わたしは思うのですが、もしわたしの生きている事で使われる無駄なエネルギーが今エネルギーを必要としている誰かに与える事ができればいいのにな、と思います。そのくらい、わたしは駄目なんです。きっと運だけで生きていたあの主人公のように、わたしは駄目なんです」


こんなメッセージを送って、どうなるのか、どうにもならないって事くらいは、君もわかっていた。

でもどうしてもその感情を誰かにぶつけなくてはすまなかった。今、君がその感情をぶつけられる先は「あつし」という見ず知らずのネット上の男しかいなかった。

そのメッセージは無駄に恥ずかしい思いにしかならない、と徐々に恥ずかしさが君の中で増していた。


でも事実はその反対だった。「あつし」は君に告げた。

「できますよ。あなたの要らないエネルギーを誰かに与える事も。あなたがそう思うなら、ぼくがそうしてあげよう」

メッセージはそう返ってきた。


「あつし」が君の下にやってくる。

君の持つ力を奪いに、あいつが君の傍にやってくる。僕にそうしたように、あいつは君の力を奪い去ってしまうだろう。


僕は叫びたかった。


そうじゃない。

君は、君として生きなくちゃ駄目だ。

君は、君を信じて、君の未来を目指して生きてゆかなくちゃ駄目だ。

今は何もできなくても、いつか必ず、君は君の生きている意味を示せる日が来るから、今君は、君の力を失って、諦めて、死んだように生きるような真似をしちゃ駄目だ。

信じなきゃいけない。

君は未来に、きっと誰かのためになれるから、君は君の生きる力を持って生きてゆくんだよ。


もし、僕の声が、君に届くなら、君の生きる場所に、君の声を届く事ができるなら、僕はすぐにでも君の場所に、この声を届けたかった。


でもすでに魔の手は君の傍に迫っていた。

僕の知らない場所で君は奪われようとしていた。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』3ノ10

地球は青く、美しい。状況が変わっても君はそこにいる。


君は自分について、考えていた。


わたしは、優しくもないし、冷たい、と思った。


混乱の中、早く家に帰りたかった。人々は誰かの無事を望み、公衆電話に並んでいた。

君は家族なら無事だと思ったし、他に何がどうなっていてもあまり大きな問題ではない、と思ったんだ。


わたしは、冷たい。そして、優しくない。


君の目の前で、一人の老人が倒れた。

君は誰かが看病するのを待って見ているだけだった。綺麗な女性が老人に声を掛け、若い男性が老人を支えていた。君は、面倒な事が起きたなあ、って思っただけだった。

早く帰りたい君はタクシー乗り場に急ぎ、長々待って、3時間半後に家に帰った。


夜8時のテレビをただ見つめていた。

それさえも見ていたくなかった。同じ緊急放送を見ていると異様に気持ち悪くなった。


君はベッドに横になり、そのまま眠りに就いた。

時折、揺れがおきて、不安を感じた。


きっとわたしは冷たいから、一人きりで眠っているんだろう。


君は自分について思った。そして自分自身をどうする事もできない気がした。



翌日、電話が繋がらなくても、君が電話する先はなかったから、どうでもいい。

実家の母親からメールで、無事であるかの確認メールが入った。何ともないと送り返してやった。それだけだ。


何軒かの店が閉まっていたけど、東京はいつもどおりの休日を迎えていた。


わたしはどうする事も出来ない事を知っている。


君は心の内でそう呟く。



新しい春の始まりを望んでいた。

誰かに出逢いたいと考えていた。

同じ繰り返しの先にある幸せを探していた。


君は探している。君は願っている。


わたしはとても内向きで、わたしはとても、ひとり。


日曜日、君はひとり、疲れた体を休ませ眠り続けている。

甘いチョコパンを食べて、後は眠るだけ。世間で何が起こっていようと、君は君のために君の時間を過ごす。そうする事が何にもならない事を君は知っているけど、それでも何もする気になれない。


わたしは冷たい。そして優しくない。



僕は知っているよ。

それが本当の君じゃないことを。

君をそうさせてしまったものは、寂しさや孤独。


君が冷たく、優しくないんじゃない。君は冷たく、優しくないようにさせられてしまった。


僕もきっと変わらない。君と同じだ。


とても冷たく、優しくない。


僕らはいつかどこかで変わらなくてはならないだろう。


そのきっかけ。その転機。


冷たくなった僕らは溶け合う事ができるだろうか?


(つづく)


『何気ない毎にちを貴方に伝う』3ノ9

君の願いは叶わないまま、心はしとやかに、おとなしめな生活を送っている。


春は始まろうとしているのに、君は始まらない。

泣き濡れた夜の日をいくつ越えた事だろうか。変わらない日々は終わりを告げぬまま、生ある限りの毎日を繰り返す。


喫茶店にかかるオレンジ色のメロディーは、聞こえの悪い30代独身の君の心を慰める。老いてゆく日々を嘆くだけなら、僅かな幸せを探しておいで。

君は君を待つ誰かを想像してみる。向井理も、堺雅人もそこにはいないだろう。?マークの黒影を追っても、見つかるものは何もない。


君がここで過ごす時間に僅かでも救われるなら、心を落ち着けて今より良い未来を目指すなら、イメージはやがて固まるだろう。苺のショートケーキにとろ剥けて、何とはなしに意識を緩めているのだね。


3月1日の喫茶店での静かな時間はふと君の想像に重なった。

ここでわたしは待っている、と君は「あつし」に告げていた。

「あつし」は『待っても来ないよ。きみがぼくの場所に来なければ』と云っていた。


きっと彼は来ないだろう。君はその事を知っている。


先々日は、久々に昔の友達と夜通し長電話したから、君の肩の苛立ちは少し取れている。


いったいいつまで君は待ち続けることだろう。そこでそうやっている時間はいつまでも続く。

何度携帯電話を見つめても、メールもないし、メッセージも入っていない。


斜め前のカップルも、二つ隣の男同士も、君の孤独とは全く無関係にやり取りしている。何気ない彼らの会話が一人きりの君を傷つける。


こんな事は無意味だって、わかっていても、わかりきれはしないし、君は君を変えられない。


春は始まらない。熊はまだ起きてこない。

『まだ一週間早いか』

それが君の中の君へのいい訳。


君が望んでいたのは、「あつし」だったか、いや『溝端』?それとも、ただ孤独を満たしたいだけかい?


3月1日、君はまだ枠の外には出られない。

君は喫茶店を出て、いつもの帰路に戻った。


このままいつもの生活から一生出られずに、人生はあっという間に終ってしまうかもしれない。


僕も君を待っているよ。


(つづく)