小説と未来 -48ページ目

『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ6

まだ春の来ない森に木洩れ日が降り注ぐ。

光は冷たい空気を暖め、小鳥は地表に落ちた陽だまりの上をチュンチュン鳴いて跳ね回っていた。


3月上旬、そんな森の中の別荘に、全身緑色の服を身にまとった男がやってきた。

丸太で出来た別荘の玄関に鍵は掛かっておらず、緑の男が戸を押すと、その戸はいとも簡単に内側へと開いていった。

中は薄暗く、ひんやりとした冷たい空気が巡っていた。


『溝端』と呼ばれた作家である男は居間のソファに毛布で包まり眠っていた。

緑の男は動かずに眠り続ける彼の眠る頭側までやってきて、しゃがみ込んだ。そして緑の男は彼の耳元に囁いた。

「おまえは失ったまま、長い人生を生きてゆくのか?」

彼の耳にそれは夢の中で話す誰かの声のように聞こえていた。彼はその誰かに対して、「わからない」と答えた。


緑の男は彼の耳元から口を遠ざけ、立ち上がってから少し離れた。そして今度は普通の喋り声で彼に語りかけた。

「この世にはまだまだ多くの人間がいる。得る者も、奪われる者も、得るのは容易い」


その声は夢じゃないと、彼は感じ、目を開いた。ぼやけた視界の向こうに全身緑色の服を着た男が立っていた。彼は体を起こし、ソファに座る態勢へと移った。


「人はたくさんいるんだ。力を得る事は誰でも出来るし、誰からでも奪う事ができる。俺はそんな人間を誰だって自由に選べる」

緑の男は今度はそういう表現で彼に語りかけた。


「なら、どうして、ここへ来た?」と、彼は緑の男に質問した。

緑の男は大きな口をにやりと開き、ふふっと小さな声で笑う。その質問には答えようとはしない。


「俺は失ったわけじゃない。元に戻っただけだ。バランスを戻せばまた戻る」

彼は自分がもう緑の男の力を必要としていない事を告げたつもりだった。その事はその幾語かの単語で十分に伝わったものと考えていた。


緑の男は語り出す。

「人と人とは、どんぐりの背比べ。人々はその差が大きいと感じているみたいだが、事実は人と人の差はほとんどない。ある分野の得意不得意に関しては大きな差があったとしても、人と人との上下関係は微々たるものでしかない。もし、一人の人間が二人分の力を持てたら、その人間は飛びぬけて、人の上に立つ力を持ったこととなる。その力は、10人、20人、いや100人も200人もを扱える大きな力になるだろう。たった二人分の力がそれだけの人間を従わせる力になるんだ」


彼はその意味を重々理解している。

「確かに俺は、得た力で、人の上に立ち、様々な人間が俺に従ってきた。出版社も、編集者も、ファンも、俺の思うままに言う事を聞いてきた。中には俺の得た力を得たくなって、俺を虜にして扱おうとする女さえいた。でも俺の力に比べればそれはホントに愚かな弱い力だった。俺はそんな愚かな人間を相手にしながら毎日を過ごしていた。酷く面倒な事ばかりさ」


「それは、おまえが、その面倒事から身を引きたいと言いたいのか?」


彼は緑の男の茶色い目をじっと見つめた。

緑の男はその意思を理解しようとはせずに、またにやりと微笑んだ。

「今、おまえが望めば、俺は新しいエネルギーの基を持ってきてやるよ」


彼は溜息をついた。

「また奪い合うのかい?」


「そのエネルギーの基は、おまえを好きな女だ」


彼は編集者であった自分の元彼女を思いドキッとした。


「その女はおまえの知らない女だ。おまえというより、もともとはおまえの本を好んでいた。今はおまえの事も好いているだろう」


彼は笑った。

「ははは、俺のファンって訳か」


「おまえが本を書けば、その女も喜ぶだろうよ。ただの循環だ。ただ奪うだけじゃない。エネルギーはサイクルする」


彼はサイクルするエネルギーを考えた。

よくわからないものがくるくる回っていた。彼はじっと考え続けた。答えは出てこなかった。


時間は長い間過ぎた。緑の男も彼の答えが出すのをじっと待っていた。


とても長い時間が過ぎて、彼は緑の男に尋ねた。

「なぜ、俺にこだわる?」


「おまえがそこにいるからさ」と、緑の男は答えた。


選ばれた男はその言葉と、一度得た甘い汁に吸い寄せられた。

「わかった。乗ろう」



僕は知っている。

最悪の出来事は、弄ばれる事でも、服従させれられる事でもない。気力を失って、ただ醜く、生かされるだけになる事だということ。君はその最悪の事態に合っている。最悪の考えの思惑の下でただ吸い取られてゆく。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ5

神々しいように、枯れ木は輝いて見えた。

僕が取り戻したはずのエネルギーは再びその木に戻されてしまったかのように、その枯れ木エネルギーを持っていた。


周りの樹木は少しだけ葉の芽を出していたけれど、その木だけは全く葉を広げる準備もなく、ただ多量になり過ぎた力強い枝を右へ左へと付き伸ばしていた。


1ヶ月前に僕がこの場を訪れたときに見た木とは、まるで別の木のように思えた。あの時は、もういつでも朽ち果てて木の根っこから枯れ切ってしまおうかとしているような態度を見せていた木は、今日はしっかりとした姿で、ずんと伸び立っている。


僕は言葉を失った。

そして自分の手のひらを見た。自分の中のエネルギーがまた全て失われてしまったんじゃないかと恐れたからだ。

でも僕の手は生きていた。いや、それははっきりとしたものではないから、わからない。でも力を失う前の僕と、今の僕は明らかに違う。だから僕は、その木が持つエネルギーは自分から奪ったのものではない、と確信した。


そしてしばらくその枯れ木から少し離れた場所で木を眺めていた。

思いつくことは一つだけだった。

『あいつは、誰かからその木に力を奪い、移し変えた』

その誰かは今も奪われ、今日もやる気を奪われた時間を送っている事だろう。


『おまえにはもう関係のないことさ』

どこかから緑の男がそう言った気がした。

僕の奪われ続けた月日は終って、僕は新しい人生を歩み直すことができる。奪われた10年は取り返せないだろうけど、今からでもまだ遅くはない。32歳の春からだってきっとまだ遅くはない。人生をやり直すことはできる。


森の中でじっとしていると、これから始まる普通の木々の萌え始めと僕の生活が呼応しているかのように高鳴っているのを感じる。僕は生きているあらゆる生命が動き出す始まりの日に出逢ったかのような気分だ。

地上を覆う枯葉の下では、シダやキノコが伸びだそうとしている。地中に眠っていた爬虫類や両生類も動き出すことだろう。そのエネルギーは生命の一つ一つが持つものだ。

ただ、一本の枯れた木だけが誰かの生きる力を奪って、自らも生きようとはせずに、自分の内側にエネルギーを溜め込んでいるかのようだった。


時間が過ぎた。

僕は長い間、その木の側でじっとしていた。彼を待っていたのだろうか?僕は自分にそう尋ねてみた。

『違う。僕はこの木に来たんだ。僕はこの木に奪われている誰かを救わないといけない』

僕は僕にそう答えた。

なぜならこの事実は僕しか知らない。今、この場にいるのは僕でしかない。もしこの事実を多くの人が知っているのなら、正義感の強い人が僕の思う事と同じ事をしてくれるだろう。

でも今、ここには僕しかいなかった。そして僕が数日、数週間、数ヶ月ここに居留まっても、この神々しい枯れ木の下を訪れるのは、僕か、もしくはその木からエネルギーを吸い取ろうとする男しかいないことだろう。


ふと失われた10年がとても苛立たしく思えてきた。

そして10年間、もしくはそれ以上の年月を失われようとしている誰かの事を思うと、酷く怒りが沸き立ってきた。気づくと、涙が頬を伝っていた。怒りは過ぎ去り、そこにはたまらない悲しみだけが残されていた。


現実に帰ると、僕はどうしていいかわからなくなっていた。

この木が奪ったエネルギーの持ち主に、どうやってそのエネルギーを返してやればいいか、僕にはどうやればいいというやり方を知らなかった。

それはどうしようもない事実だ。


少しずつ暗闇が迫る中で、僕はじっと考え続けた。

エネルギーを持つ木は神々しく輝いていた。

木に触れてみた。そこから声がしないか、聞き取れないか、僕はその木に奪われたエネルギーの素を持つ人物の声を聞こうとした。


声は聞こえてこなかった。

闇が迫っていた。

僕からエネルギーを奪った男も、やってくることはなかった。


舗装されていない山道から舗装された県道に出る。

明るい街灯が道を照らしてた。少しだけ冷たい風が僕の体に吹き付けて覆っていた。

僕は身震いをした。僕を奮い立たせる大きな身震いだった。



僕は必ず君に会いに行こう。


必ず君を救ってやるからね。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ4

桜の並木通りはすっかり葉桜となっていた。僕はバスの車窓にそんな光景を目にしている。

老人くらいしか乗らない田舎方面への路線バスは休日午前10時の通りの少ない道をすいすいと進んでゆく。


バスは過疎化の進む隣町へと通じているが、僕はその途中の何もない場所で下車した。

まだ水の引かれていない薄茶の土しかない田園が広がる。そんな中にポツンと潰れたコンビニエンスストアがある。僕はそのコンビニの裏方に回る。

マウンテンバイクは今日もしっかり置かれていた。


僕は数ヶ月前に購入したそのマウンテンバイクに乗って、路線バスの行かないもう一つの県道へと進んでゆく。

その県道を上ってゆくと行き着くところにはキャンプ場があり、途中にはいくつかの民家といくつかの別荘があるだけの何もないに等しい道だ。夏のシーズンと秋の紅葉の季節には、都会から人がやってくる事もあるが冬から春にかけては住民以外が使用する事のない道である。

でも僕はそんな道を上ってゆく。

僕にはその道を行く理由がある。

その道の先にある場所、そして会うべき人に会わなくてはならない。

それがこの山道をチャリを漕いで上る理由だ。


僕がその場を最初に訪れたのは秋だった。

その時は2時間かけてバス停から歩いて上っていった。あの日はとてもしんどい一日だった。

緑の男は僕に何枚かの写真を渡してくれた。それはその場所へ行くための手がかりの写真だった。桜並木や田園風景、キャンプ地はその時の写真で知ったことだ。

そして僕はそれらを調べ、その場所へ辿り着いた。


あの日から数えて、僕がその場所へ行くのは4度目になる。2度目からはさすがにきつい事を知っているので、マウンテンバイクで行くという方法を思いつき実行している。レンタカーを借りるとかも考えたけれど、これから何度行くかわからないので、ちょっとしんどいと考えた。



「おまえはもうおまえを取り戻したはずだ。なぜ、それにこだわる?」

緑の男と最後に会ったのは、僕がその場所を訪れた後の昨年12月の頃だった。男はその時、僕にそう尋ねた。

「僕にもわからない。ただ、まだ終っていない。これで終るわけにはいかない」

僕は、僕の脳の中にある暗闇の一部でそのうやむやになっている何かに触れなければいけないと感じていた。それを終りにしなければ終りに出来ない事を感じていた。



特に目印と言う目印はないが、緑の男が最後に渡した一枚の写真が示す場所に僕はマウンテンバイクを停め、その写真が示す舗装されていない山道へと上ってゆく。

この先には一本の枯れた木がある。枯れているのに生きている木、それが正しい表現だった。

秋の終りに僕はその木に出会った。そしてその木の根っこに埋められていた、僕の魂を揺さぶるものを僕は取り戻した。

そこに埋められていた何かは帰るべき場所が僕の中にあるかのように、すっと僕の中に入ってきた。僕の疲れきって壊れきってしまいそうになっていた体はその瞬間ふと修繕された。それが何だかはわからない。ただ僕は、その瞬間に失ったものをはっきり取り戻すことができたんだ、と感じた。



「おまえから奪われたのは、魅力のようなもの、そのエネルギーを奪った男におまえは気づいた」

緑の男は12月に会ったとき、僕にそう告げた。

「どうしてあなたはその事(奪われたものと奪った男)を知っている?」と、僕は緑の男に尋ねたが、男は答えなかった。

かれはその枯れ木の事や僕からエネルギーを奪った男の事について語ってはくれなかった。

「これで終わりだ。おまえは力を取り戻すことが出来た。おまえの旅はここで終りだ。新しい旅を自由に始めればいい。もうおまえを阻害するものはない。エネルギーの溢れるままに、自由に向かう方向を目指せばいい」

緑の男はそう言って、僕から立ち去ろうとして、喫茶店の席を立った。

でも僕はそれを制止した。

「待って。まだ終っていない。僕は僕から力を奪った男に会わなくてはならない。僕はその男に会わないといけない」

男は立ったまま、僕に言った。

「おまえはもうおまえを取り戻せたはずだ。なぜ、それにこだわる?」

最後に緑の男は僕に伝えた。

「どうしても会いたいなら、あの木の場所へ行けばいい。やがてあいつは再びその場に現れるだろう」


1月に僕がその場を訪れたとき、山はすっかり雪山と化していた。道路の雪はそれほどでもなく、その場まで上ることはできたけれど、奪った男をその場で待ち続けるにはきついものがあった。

3月、再び訪れた。あの大震災が起きる少し前の頃だった。大震災が影響しているわけでもなく、その時も僕は長い間寒い中を待ったが奪った男に会う事は出来なかったというわけで、もう少し暖かくなったら、桜が舞い散る頃に来よう、と考えていた。


そして今日、僕はこの場にやってきた。


僕はあの木の場所に近づいている。


今日こそ、あの男に会うために。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ3

桜を散らせる風が懐かしい春の香りを運んできた。

新しい学校に通う、若き乙女が新しい朝の道を通り過ぎてゆく。


僕はふと、過去にあったかのような空気をここに感じる。


日差しは強く、暖かい。川面も太陽に照らされ、煌びやかに輝いている。


君に初めて会った日も、こんな暖かい春の朝だったような気がする。


あの時、僕は未来に希望を抱いていた。過去をやり直せると信じていた新しい日々の始まりだった。

新しいキャンパスの大きな講義室の後方に僕は座っていた。君は友人の女の子と僕の隣に座り、自己紹介を促された講義台の上の先輩によって、僕は君と初めての会話をした。

学部や出身地、得意な教科など何気ない会話で終ったけど、その後も僕と君はキャンバスで顔を合わすたびに挨拶や会話をした。いつも君が僕に話しかけてくれた。そしていつも何気ない会話だった。

新しい未来を抱いていた僕の大学生活は特にパッとする事もなく過ぎていった。僕の根暗は簡単には変わるものじゃない。暗い過去は暗い過去のまま、その闇を隠すかのごとく、僕は誰とも上手に会話をする事ができないまま、日々は過ぎていった。

僕はいつも君がいないか探していた。本当にいつもかといえば嘘だけど、学校の図書館、食堂、売店、ふと君がそこにいるのではないかといつも僕はその瞬間を予感した。

その日々の未来にはつまらない現実が続くだけだったけど、あの時の僕には未来に希望を抱いていた。


あの時、未来は希望に溢れていた。

ずっといつか、きっと変われると信じていた。


ふと新しい季節の始まりの香りが僕の過去を呼び覚ます。

とても恥ずかしくて忘れたいような、優しい気持ちにしてくれて思い出したいような、そこにある過去は僕を新しく始めさせてくれるだろうか。


いつもと変わらない木造家屋に辿り着く。

この家の二階には未来に希望を抱く、少女が一人待っている。僕は彼女に何をもたらすことができるだろう。僕は僕に今どんな未来への希望を抱き直させることができるだろうか。


少しずつ、僕は未来を探し直し始めている。


今はまだじれったく、むずがゆい毎日だ。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ2

今のところ、今、僕が力を注げる場所は、今ここにしかない。


僕は今日も古い木造家屋の二階で、登校拒否子を相手に勉強を教えている。

二階の畳の部屋はどことなく昭和の匂いがして、子供の頃の自分と重なり合う気持ちになる。とはいえ、僕が中学生の時はすでに平成になっていたが。


そんな懐かしい匂いのする部屋で、僕はちゃぶ台越しの中学生女子のシャープペンシルを握る手を見つめている。

彼女の手はふと止まった。数学の計算中、何かにぶち当たったようだ。きっと公式が出てこないのだろう。


「ここがわかんないんだよね」と、登校拒否子は言う。


『さっき教えたのになぜ出てこない』と僕は言いたい気持ちになるが、そこを抑えている。

「いいか!ここはなあ!…」

と僕は彼女にヒントとなるあれこれを言ってみる。


しかし登校拒否子はまるでピンと来ていない。僕の言いたことが伝わっていない。

僕は黙って彼女の手が動き出すのを待っている。


1分、3分、5分、8分、机の上にある卓上時計の針は無駄に動いていってしまう。

時は止まってはくれない。脳の回転が止まるのと同時に時間も止まってくれたら、彼女はどれだけ頭がよくなってくれるているだろう。

しかしそうはいかない。


「もういいよ」

ついに少女は投げ出した。

「次行こう。次」


「駄目だ!」

僕は登校拒否子のおかっぱ頭にでかい声をぶつける。


「なんでよ!もう、わかんないものはわかんない。時間の無駄でしょ?」


「駄目だ!なぜあきらめる!

 いいか、よく考えるんだ!

 今、この疑問は今しか生まれない!

 次に同じ問題が出たら、次は諦めにしかならない!

 もしこの疑問を今解決しておかなかったら、一生この疑問は解決しないんだ!

 でも今、この問題を解決しておけば、次に同じ問題が出たときに君は恐れることなく解く事ができる!

 忘れてしまっていても、解いた事は覚えていれば、きっと解けるっていう自信になるんだ!

 だから解かなくちゃ駄目だ!

 試験の時は時間を気にして、問題を飛ばすのも大事だろう。

 だけど今は時間を掛けても解くんだ!

 一つ一つ問題を解いてゆけば、次に同じ問題がたくさん出ても恐れずに解いてゆける!

 だから解かなくちゃ駄目なんだ!」

という熱弁をふるう。



いつもは午後3時までの家庭教師も、この日はそんな事を繰り返し、午後6時になってしまった。

そしたら、母親が「夕食を」と。そしてごちそうになった。


「すみませんねえ。こんな遅い時間まで」


1階のダイニングの食卓で僕と登校拒否子は夕食を待つ。

「いえいえ、とんでもありません。こちらこそすみません」

と僕はいただく夕食の事に礼を言う。


母親は、エビフライやイカフライや、たくさんのフライを大きな皿に盛り、さらに小さな小鉢に中華サラダを出してくれた。他にも煮物や白菜の漬物などが並んだ。

登校拒否子はいただきますも言わず、あちこちのおかずに手を付けてゆく。

僕は母親が座るを待って、ご飯を盛ってもらってから、「いただきます」と言って、食事を始めた。

父親はまだ帰宅しないようだ。いつも帰りが遅いのだろう。


とても懐かしい気持ちにさせれれる。家庭料理を口にするのはいつ以来だろう。しかもこんなふうにみんな揃って食事をする。

僕は、海老を頬張る少女を見て思う。

『今はこれが当り前でも、いつかこの当り前がなくなってしまうのだよ』と。


大した会話もなく食事を頂き、あまり長居も出来ないので、食べ終わったところで適当に切り上げる。

登校拒否子は居間でテレビを見に行ってしまったが、母親は玄関外まで僕を送り出してくれた。


「本当にご馳走様でした」と僕が言うと、母親は僕に言った。

「いいえ、こちらこそありがとうございます。いつもは自分の部屋でしか食事をしない子が今日は下に下りてきて、一緒に食事をしてくれました。それにいつもはたくさん残すのに、今日はたくさん食べてくれて」

母親の瞳は少し潤んでいた。

どうやら今日の夕食での光景はいつもの当り前の姿ではなかったようだ。



問題はそれぞれが持っていて、あちらこちらにある。

そして一つ一つ解いていかなくてはならない。面倒だけど、解かなければそのままになってしまう。

解けた時には、きっと晴れ晴れしい時が送れるだろう。


今は今出来る事をする。

そうすれば今日のようにきっと嬉しい気持ちになれる日もやってくるだろう。


(つづく)