『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ16
ずっと家にいると、天気もどうでもいいし、電車の運行状況もどうでもいい。
ずっと家にいると、隣の音が気になる。アパートの入口に人がやってくるような気がして嫌だ。
君を囲う環境は狭く、どんどん収縮してゆく。
人に会うことが嫌な君は、家から出るだけのことでさえ悩ましい。コンビニの店員にも会いたくない。自分の存在がないまま食料を手に入れたいと考える。そんな小さな事を悩ましく考えるようになっている。
電話が震えたのは、そんな時だった。バイブレーションの振動音でさえ、やけに大きな音に聞こえる。
ひょっとして、と君は思って、見たら、そのとおりひょっとしてだった。
それは番号のみの通知、つまり、登録されていない電話番号から掛かってきた電話だった。
でもその電話番号を君は知っていた。君はその電話番号を母親から聞いていて、何度も目にしていた。何度も目にして、何度か掛けようと思っていた。数字を入れては消し、入れては消し、入れて、でも通話のボタンを指が押し切ることはなかった。いつも親指は通話ボタンの上で止まり、いつの間にか切る方のボタンへと動いていた。
その何度も入れた番号を、君は覚えていた。
電話は掛けずとも掛かってきた。
君はじっと震える電話を握っていた。握り続け、ただ震えるのを感じ続け、そのまま何度も震えては止まり、震えては止まり、震えて、止まり、震え、止まり、震、止、震、止、やがて、バイブはまるでなくなり、完全に止まり、電話番号の文字も画面から消え去ってしまった。
その電話に応えることが君にはできなかった。
夕方4時の出来事だった。
君の心臓はいつの間にか高鳴り、ドクドクと響いていた。君はその心臓の音を聞き続けていた。
『いったい何だって言うの?いったい何で?』
心の中でそう呟いていた。
君には疑問があった。10年以上前の知り合いが同窓会だからと言って、電話番号も知らなかった相手にいきなり電話してきたりするものだろうか?という疑問がどこかにずっとあった。
本当に同窓会であっても、君は行く気がなかったし、ただ断るだけだ、と考えていた。だからその電話に出てもよかったのだけれど、そうでない、と思ったから、迷いは強かった。
君は思い出していた。
その電話の主は昔、自分の事を好んでいてくれた相手であった。君は知っていた。でも君は別に好きな人がいたし、当時、その電話の主と付き合おうなんて考えたこともなかった。たとえばもし、そんな事を今言われても確実にただ困るだけと感じていたし、そんな事をばかばかしく想像している自分もまたバカな妄想をしているように思えて仕方なかった。
『いったい本当のところ何なのか?』
その疑問の正体を少しだけ知りたい気もしていた。でもそれは知らないまま、忘れられるべき記憶として消えてしまった方がいいような気もしていた。君はそんな迷いに頭を悩ませていた。
そんな事を考えていたら、電話は再び震え出した。
液晶には同じ電話番号が浮かんだ。同じまま、変わりなく、ただ震えていた。
今度はなかなか止まらなかった。君が出るまであきらめないかのように、その電話は震え続けた。
やがて、留守番電話に変わった。
声がした。その電話の主は、自分の名を名乗った。そして、「こんばんは」と言った。それからしばらく間が空いた。君が出るのを待っているかのようだった。
でも君は出なかった。ただじっと黙って、声を聞いていた。
「久しぶりですね。突然電話して、すいません。もしよかったら、あの、お電話ください。じゃあ」
たどたどしい言葉だった。声は弱々しく震えていた。でも怖がっていたわけじゃない。その声の主がそういう声を昔からしていたからだ。
思い出の声と変わってはいなかった。懐かしさは増したけど、ただそれだけだった。
『困ったものだな?』と君は心の中で言ってみた。それだけで、それ以上はどうしようもない。
少しだけ、その電話の主に自分を見られている気がして、急に今の自分のどうしようもない姿が恥ずかしくなった。せめてお風呂の入って、髪を洗って、服を着替えて、ゴミを捨てようと考えた。
君は少しだけ元気になった。
それは君にとってよかったことだけど、それだけでしかない。
僕にとっては、何もよくないことでしかない。
僕はまだ、何も知らず、ただ、待ちわびているだけですから。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ15
君からの返答もないまま、毎日はあっという間に過ぎてゆく。
自分の行った行為がばかばかしく恥ずかしい気持ちになってゆく。僕は一人、勝手に君の事を想い、気にかけていて、君の平和を思った。その感情は無意味に宙をふらふらと漂っているかのようだ。
恥ずかしい。恥ずかしい。
一人妄想して、あの木は君だ、なんて思って、そして、同窓会があるから、などと嘘をついて君の実家に電話した事、その行為の全てがとても恥ずかしい。32歳にもなって、こんな恋愛をしている男は僕くらいなものだろう。普通なら結婚したり、まだ結婚してなくてもそろそろ結婚しようとしている相手がいるはずだ。僕は自分の存在が恥ずかしい。
登校拒否の中学生はいつもように自分で問題集を解いてゆく。
もはや僕の存在などあまり意味がなく、ここで家庭教師をしている意味はあまりない。ただ僕は生きていくためにお金が必要であり、そのためにここで家庭教師をやっているかのようである。
僕の存在意義は少しずつなくなってゆく。
君には無視され、少女には不要にされ、僕は何のために生きているのだろう。
一人勝手に、僕だけがうまく行っていると信じていたけど、きっとその全ては幻なのだろう。
木に奪われた力なんてものはそもそもなかったのかもしれない。僕の勝手な思い込みだった。ただ少しだけ、よく眠れるようになっただけのようなもので、少しだけ健康になっただけのようなもので、少しだけ精神的に強くなっただけのようなものだった。
きっと全ては幻だった。
大雨が去って空が晴れても、僕の心が晴れることはない。
ちゃぶ台の向こう側で勉強する少女はもう学校へ行くべきなんじゃないかな?
僕が、もうきみは学校へ行くべきだ、と言えば学校へ行くようになるかもしれない。でも僕はこの慣れた環境を壊したくなくてそれさえも言えずにいる。僕はずるく現状に甘んじている。
このままじゃいけない。このままじゃいけないことだけはわかっているんだ。
でも僕は日に日に力を失ってゆくかのようだ。
もう一度、君に問いてもいいですか?
あなたは幸せに暮らしていますか?
もしあなたが苦しんでいるのなら、僕が必ず救ってあげるからね。
恥ずかしい。恥ずかしい。だけど、僕は‥・。
気がつくと、登校拒否子が僕の目をまじまじと見つめていた。僕はとっさに顔を左右に揺らし、何かを探すふりをした。あまりに恥ずかしい気持ちになってしまった。
「どうしたの?先生?」
「いや、どうもしないんだ。どうもしないけど、どうにかしないといけないんだよね」
「‥・?変なの」
僕はここにいる。いつもの生活の中に含まれている。不思議な事はたくさんあるけど、当たり前の事もたくさんある。だから僕は、僕を信じて、可能な限り生きてみようと思う。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ14
君のアパートは徐々に汚されてゆく。
ホコリくささが増しているし、小バエがキッチンの周りをぶんぶん飛んでいる。暗い部屋にいる君にはその光景も目に入っていないけど。
生きる価値を考えるのは無意味だから、と言って君は息をしない。でもすぐに君は呼吸をしている。人は勝手に呼吸をするから、呼吸をしないほうが面倒だ、と君は気づいた。
午後3時過ぎに目が覚めるけど、まだ眠い。
眠っていたいと感じているけど、君はすでに13時間ずっと眠り続けていたから本当に眠いわけじゃない。息もせず、静まり、眠り続けていられたら平穏は訪れ和らげるのに、と君は思うけど、眠れば勝手に息をし続けるからいつまでも君はいきを続ける。
ずっと眠っていたから、眠れなくなる。
眠る以外は酷く暇な事だらけだから、君は出来れば眠っていたい。夢なら誰かに会えて、少し楽しい。夢の中の友達はうざくはないし、余計な話はしない。バカみたいな世界に迷い込んで、笑っていられるからそれでいい。
午前中に目覚められると、その夢を思い返していればいいから少し楽しい。でも午後に起きた今はすべての夢を忘れてしまっているから、酷く嫌気ばかりに囲まれている気がする。
惨めに苛まれ堕ちる不穏の塊に歪み、天は斬新な油絵の太陽のように毒々しく燃えている。
窓を開けたのが間違えだった。西日が痛い。
君の心の歪みには猛烈な非の極みしかないだろう。それでも「生きろ!」と僕が君に言えば、それは君にとって残酷なことだろうか?
テレビはいやな事ばかり。
涙を誘おうという演出はイライラするし、ワイドショーに映る他人の幸せは君にとっての最悪な出来事でしかない。その話が君の好きな俳優であるならなおさらそれは地獄に突き落とされたのと同然ごとくの闇が、君のこめかみを痛めつける。
わたしは不幸な生き物だから、きっと幸せにはなれないだろう。
と、どんよりしてしまう。
君の携帯が鳴った。
前に鳴ってから、すでに10日以上は過ぎている。10日以上誰からも電話がなかったということだ。そして君にかかってくる電話はせいぜい実家の母親からだ。
画面を見れば実際そのとおりだった。
めんどーな気持ちに溢れた。仕事を辞めてからよくかかってきていたが、最近やっとおさまっていた母親からのコール。暗い声で出れば、また無駄に心配されるから出たくはない。無理に明るくするのは気持ち的に本当に無理な気がするから明るく振舞う気もしない。
が、寂しさもあって、君はその電話に不機嫌に出てみた。
「ナニ!今、忙しいの!」と。
もちろん何も忙しくない。
でも母親からの内容は、ただの心配ではなく、予想外の内容だった。
それは大学の同窓会の知らせという内容の話だった。母親の知らない男の子から電話があって、君がいないかと尋ねてきたと言う。母親は君がいない事を告げると、連絡を取りたいと尋ねてきたと言う。
君はその人物の名前を母親に聞いた。
母親はその人物の名前を答えた。
君はその人物の名前を覚えていた。懐かしい響きのその名に君は心地よさを感じ、不思議な気持ちになった。
そして母親は、その人物の電話番号を君に伝えた。
少しだけ、君はやわらかい笑みを浮かべていた。
はにかむような不思議な笑みだった。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ13
翌土曜日、僕はまた枯れた木のある場所を訪れていた。
いろいろどうしていいかわからない事だらけだけれども、僕のどこかに向って何かをしないわけにはいかないという気持ちは抑えられずに溢れていた。
何もせずに家にいる事なんてできなかったし、ただ用もなくどこかへ出かけることもできなかった。僕に行ける場所は?家から出たら、気がついたらここにいた。僕にはここしか来る場所がなかった。
彼の溢れるオーラに勝てる自信はなかった。
僕は再び彼と会っても、まともに話す事はできないだろう。ただでさえ口下手なのに、彼は体から溢れる威厳を持って僕の言おうとしたい事を遮ってしまう。
僕は何もできそうにない。
それでも僕はここに来た。ここに来る事しか思いつかなかった。
森の木々は青葉を天に伸ばし、季節は明らかに変わっていた。
葉のない枯れた木は周りとの差をさらに強め、異様な悲しさを僕に伝えてくる。見れば見るほど、木は悲しそうな姿を僕にさらし、僕の痛む心をさらに痛ませる。
さて、どうしたらいいものだろう。
僕は枯れた木を見てじっと考えるが、その答えは浮かばない。
それでも僕はやらなくてはならない気持ちに駆り立てられる。
たとえこの戦いに敗れても、この使命を果たすことが僕の運命である。死んでも、僕はこの使命を成し遂げなければならない。僕はこのために生きている。
気持ちだけは溢れてくる。
艶かな少し赤らいで見える木の幹は、恥ずかしそうな、泣いているような態度を僕に見せているかのようだ。
僕はその枯れた木に触れるか触れないかの所まで近づき、下から上を見上げる。
異様な程に枝の数が多いこの木は、僕の頭のすぐ上で枝を広げている。
いくつもに枝分かれし、最終的な先端は楊枝のように細く、触れれば簡単に折れてしまいそうな感じである。その細い枝は痛々しいトゲのようにも見え、太目の枝に刺さっているかのようにも見える。
僕も数ヶ月前までは、この枯れた木の主となって、たくさんのトゲを刺されていた。そして痛みから逃げるように枝をあちらこちらに伸ばし、助けを求めていた。
枝はどこにもいけない。
葉の生えない枝はエネルギーを吸収する事ができずに、ただ苦しみながら広がっている。それは幸せな事よりも遥かに生きるという事に貪欲な態度を示していることでもある。幸せのない暮らしのように葉のない枝は貪欲に幸せを求めて生きようとしている。
生きる事に貪欲な力はすさまじく、その枝一本一本には多大なエネルギーが溢れていた。だから彼はそのエネルギーを奪い、人以上の力を持って生きていることができたのだろう。その枝から奪ったエネルギーは多大なものだ。
すぐ頭上にその枝はある。
ここにある枝を、僕が折れば、僕もその力を得られるのかもしれない。たとえばそれも、彼に勝つ一つの手段となるだろう。手を伸ばし、力を込めて枝を折れば、それは今すぐにでも可能な事だ。
でも僕はエネルギーを得るために、ここに来たわけではない。
誰かがこの木の主である、という事。
僕はじっと枯れた木を眺めまわっていた。その木が放つオーラはとても懐かしく、とても愛おしく感じられる。
優しく、柔らかく、素敵な香りがする。
君を想う。ふと僕は懐かしさに包まれる。とても幸せな気分だ。ひょっとして、この枯れた木に繋がる人は君なんじゃないだろうか?と感じ、僕の胸の鼓動は高鳴る。
もう10年も経つのに、今でも僕は君の事が好きだという感覚を持っている。愛しき香りが木の内側から溢れ、僕の鼻をくすぐる。
10年前、僕があの日、彼から力を奪われる呪いをかけられなければ、僕は君に告白しようと思っていたんだ。
そしたらどうなっていただろう?僕は君と付き合い、結婚し、平穏で幸せな生活を送っていたかな。そうでなくて振られていたとしても、また別の夢を追いかけて、僕は生きていたんじゃないのかな。
僕にとって、君に伝える事がとても大切な事だったんだ。
この感触は、ただのエゴなのかもしれない。でも今、僕は、君に、会いに行きたい、と確かに感じている。枯れた木の主と君との関連は、僕の勝手なこじ付けかもしれないkれど。
ただ一つ、僕にはやらなくてはならない事ができた。
僕は君を救いたい。僕の感じている事がただの勘違いだとしたらそれはそれで構わない。君が幸せに暮らしている事、それはそれがきっと一番いい事だから。
それでも僕は、君を想ってもいいだろうか?
僕は君を想う。
そして君の幸せを案じている。
それが今、ここで得た、僕の答えだ。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ12
今では本家となった彼の別荘に、新しい編集者の女がやってきた。
綺麗な身なりで、シャープな体と柔らかい顔の作りは誰からも好かれそうな女性に見える。
その身なりいい女が彼の家を訪れるのは本日が初めてだ。何度か電話やメールでやり取りはした事があるが、会うのは初めてなので、女は女なりに緊張していた。
玄関のチャイムを押して数分後、彼は訪れた。先に電話で連絡しておいたから女が来る事は承知していたはずだ。
中から静かな態度で彼は姿を現した。
「あ、初めまして、編集者の…」
「まあいいさ。中に入りな」
彼は女の長々としそうな礼儀正しい態度が面倒だったので、そそくさと中に入るように促した。
彼は女をソファーに座らせ、対面のソファーに自分が座った。
身なりのいい女は彼の対面で程よい笑顔を浮かべている。それは誰から見ても否定しようのない態度だった。
「俺はあんたのような人は好かないね」彼は話の始めに女を罵り始めた。「あんたのような自分が好かれると思っている女は嫌いなんだよね。綺麗な笑みを浮かべているのが一層気に入らない」
身なりのいい女は笑顔を消し、真表情になった。
そして今、自分が言われている事について考えてみた。目の前の小説家の男は突然自分を罵り始めたのだ。彼女は自分の態度に悪い点がないのはわかっていたし、ただ目の前の男の機嫌が悪いと考えるにはやけにゆとりのある表情をしている。どんな表情をするのか試されているのかもしれないが、男の態度はあまりにも失礼極まりない。
だから、女は答えを絞った。目の前にいるのは、ただの異常な性格を持った人間だ、という答えに。
そう思うと、女は落胆した。せっかく初めて人気作家の担当編集者になれたのに、よりによってこんな変な人間だったとは、ということに。
彼は綺麗な顔立ちの女の表情を一通り窺ってから、話を続けた。
「きみにはまず、人を見る目がない。まともな人間か、異常な人間か、でしか人を判断できない。そして自分ばかりが常識人で、正しくて、可愛らしいと思っている。だから異常な態度を取る相手、それから見た目が悪い相手、頭の悪い相手を見ると、すぐに拒否反応を示すようになる。そして、出会った相手が悪かった、と相手のせいにする。きみは今、カレシがいるだろうが、そのカレシにもそうやって拒否反応を起こすようになるだろう。それでもいずれは結婚もするだろう。お金のある男と結婚して、やがてお金だけを愛するようになる。そしてきみは、それが世の中の当然であると考え、男なんてみんなろくでもない。みんなそう思うに決まっている、と開き直るだろう。でもそれは君の考えであって、世の中の当然ごとではない。問題はいつもきみの中にある。その事をよく覚えておくんだね」
女は彼に対して、当然のごとく拒否感を感じたが、編集者の立場として冷静を装った。
「難しくて、よくわかりません。それにわたし、今はカレがおりませんよ」
と言ってみせた。
それは嘘だったが、とても面倒だったのでそう言ってみた。この面倒事は後でカレに愚痴をこぼして慰めてもらおう、と考えていた。
「まあいい。好きにするがいいさ」
「それで、ですね」と、女は言って、そそくさと仕事と話をして、終らせて帰ろうと考えた。
僕から言わせたら、その女の子が正しい。
彼は異常な男だ。
人のエネルギーを奪う異常な男。
(つづく)