小説と未来 -45ページ目

『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ21

何もなく、何もないまま、イライラは募るばかりだ。イライラするだけならいい。僕はこのまま体が動かないまま、何もない部屋の中で死んでしまうのかもれない。


昨日、今日、一昨日、数日が過ぎていて、僕はもういつ死んでもおかしくない。僕が思うより僕は死に近づいている。僕が死んで、全てが終わる。

いや、僕はこのまま死ぬわけにはいかない。やっと心は生きる喜びを感じ始めたのに、肉体がここで朽ち果てるわけにはいかない。


「うわあああああ!、うわあああああ!」

僕は声を張り上げて、叫んだ。残りある全ての力を尽くして、僕は叫んだ。今、僕に出来ることはそれしか出来なかった。

叫び続け、叫びに叫んだ。どれだけ叫んだか、どこまで叫んだか、声は叫び切ったのか、とにかく叫び尽くした。僕の体は動かないまま、僕は衰退してゆくことを感じる。声は枯れ、意識は朦朧としてくる。次に眠りが訪れれば、そこにやってくるのは、死かもしれない。


眠りが近づいていた。眠ってしまいそうになっては、まだ眠ってはいけないと目を見開く。それを何度も続けたが、もはや限界は近づいている。

そんなときに、ドアを開ける音が響いた。幻聴かと思うくらいの微かな音は何度も聞いたが、その音は現実感のある確かな音だった。

あいつがやってきたのだろうか?と僕は始めに思った。

でも知らない声がした。緑の男ではない。

「あの、すみません。」

やはり知らない男の声だった。朦朧とする意識の中で見つめると、ワイシャツを着た30代くらいの男が僕を見下ろしていた。

「あの、ここで寝られると困るんですよね」

男は僕の状況も何も関係なく、自分の利を僕に押し付けてきた。その言葉を聞いて、僕は何も話す気がなくなった。ため息を付きたかったが、ため息さえ出てこなかった。喉は枯れているし、頭は痛いし、感覚のある部分はくたくただ。もはや喋る気もない。殺すなら殺してくれ、と言いたい。

背広の男は僕の体を起こそうと、頭を上げようとする。もちろん、僕の体は動かない。

「あのお、起きてくださいよ。警察呼びますよ」

男は困ったそうな声で、僕にそう投げかける。僕は極めて気分が悪いが、このままではらちが明かないので、僕は何とか声を絞る。

「体が動かない」

がらがらの僕の声が発せられる。

男はその声に諦めたのか、僕の頭を床に下ろし、「参ったなあ、もう」と言って、電話を掛け始める。

「あ、もしもし、すみません。XX不動産のXXというものですが、うちの物件に知らない人が寝てまして‥」

その声で、僕は今どういう状況にあるかわかった。そして、その不動産屋の男が救急車を呼んでいることもわかった。

その瞬間、僕の気持ちは安堵に到った。急な眠りが訪れた。もう二度と起きられないかもしれない。それでも僕は眠りたかった。眠れないまま死んでしまうなら、眠って死にたい。そう思うくらい、僕は酷く眠かった。そして僕は眠りに就いた。もう二度と目を覚ますことのない最後の眠りか、と覚悟した。



でも、僕は目を覚ました。

そこは病院だった。どれだけの時間が経ったかわからないが、僕は何もない部屋で眠ってしまったことを覚えていたし、今病院にいることもすぐにわかった。看護婦のおばさんが僕の腕をマッサージしていた。

看護婦のおばさんは僕の目が開いたのに気づくと、「あら、目覚めました?すぐに先生呼んできますね」と言って、部屋の外に出て行ってしまった。


部屋に最初に入ってきたのは、母親だった。しばらく会っていない間に、やけに年を取ったみたいだ。皺も増えたし、白髪も増えた。

それでも、僕は彼女が僕の母親なんだと感じ、楽な気持ちになった。ここ何年かのうちで、最も現実感のある時間だ。この安堵に休みたい。今は少し休みたい、と僕は願う。



今、


君を忘れる。


僕は僕さえままならない。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ20

まったく何も置かれていない白い部屋の中で、白い天井を見上げていた。

そこには電器すら付いていなかった。僕は手足が動かなかった。僕の体は大の字になっていた。手も足も何に縛られているわけでもない。それでも僕の体は動かない。今、僕の体は僕の体であって、僕の体ではなくなってしまったような、わけのわからない状態になってしまっている。


窓があり、窓の外から明かりが入ってくる。今はきっと朝、もしくは午前中だ。

昨日起きた出来事を僕は覚えている。僕は君に会うためにここまでやってきた。そして緑の男に道を塞がれた。男が僕の目の前で首を振り、僕は意識を失った。だから今、僕は緑の男に与えられた場所にいるのだろう。ここはきっとそういう場所だ。どこかに緑の男がいて、僕をどうにかしようとしているにちがいない。


体は動かない。目が覚めているのなら、寝てしまったほうがよっぽどましだ。僕は目を瞑り、再び深い眠りがやってくるのを望んだ。いずれ何かが変わるのを望んだ。

でも何もおきなかった。変わらないときだけが続いた。体は動かない。体の疲れも、尿意を催すこともない。体は楽だ。ただ眠れずに脳の覚醒が続くのは恐ろしく苦痛だ。


僕はそれから丸一日その苦痛を味わうこととなった。



君には良い知らせが届いていた。『溝端』の新作が出版されることが決まったという知らせだった。

久々に入り込んだネットの世界で、君はそれを知った。やる気のない毎日は続いているけれど、会社に行かなくなった頃よりは少し何かをしようという気になっていた。全般的には脳がスカスカしている感じで、ぼけっとしていて、現実を感じるのが薄い状態だけれど、体はだいぶ楽になっている。2ヶ月以上の長い休息は、10年間働いてきた君の体の疲れを癒したようだった。


『溝端』コミュでは皆がはしゃいでいた。

新作がどんな物語になるのか、話し合っている。ある人はいつものダメ主人公ものだと言い、ある人は全く違うキャラクターが登場するのではないかと言っていた。

それは一つのお祭りのような状態になっていた。

そんな中、君は一人のアバターに目が入った。「あつし」である。似ているだけかもしれない。君はそう考え、どうしていいかわからずにアバターをじっと停止させていた。


話しかけてきたのは「あつし」の方からだった。

「こんばんは。今度、君を素敵なところに招待したいけど、いかがだろう?」

そんなメッセージが直接送られてきた。

君は何も答える気にならず、その場から消え去った。

思い返した事が君にはある。それは、君が今の生活を送るようになったのは「あつし」にあってからだ、ということだ。

『わたしの生きている無駄なエネルギーを誰かの力に変えてやりたい』と思った日から、君は今の生活になった。『わたしは誰かに力を与えてしまったんだね』と改めて思い、君は今の生活を納得した。


「いったい誰のために君が生きているか、その理由を教えてやろう。君はその人のために生きている。その真実を知れば、君は十分満足できるはずさ」

君の心の声を聞いているかのように、そのメッセージは入ってきた。

「誰?」と、君は聞き返していた。


「じゃあ、今度、その人いる場所へ連れて行ってやるよ」と、メッセージはすぐに返ってきた。


君は「お願いします」とすんなり返信していた。



僕は何もない暗闇の部屋にいる。暗闇に目が慣れていて、外からの街頭程度の明かりで十分に部屋の中が見えるようになっている。


これから何が起ころうと言うんだろう?


僕は来るところまで来てしまったようだ。


これから何かが始まろうとしている、そんな前兆を感じている。


静かで暗い。恐怖と期待感を感じている。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ19

何もしなくても、なんとなく毎日は過ぎてゆくもので、似たような毎日を繰り返せば似たような毎日を繰り返し、今日も明日も同じような場所で同じような事を繰り返しているんだろう。


それは悪いことではなく幸せなことなのかもしれない。世の中にはただ普通に暮らしたいだけなのに、ただ普通に暮らすこともできない人もいる。それに比べたら、何もないような当たり前で平和な日々が続く事は、ずっと幸せな事だったのだろう。


でも人とは身勝手なもので、同じ毎日を繰り返すと、退屈を感じ変化を求めたくなる。平穏な生活が出来る毎日があるとそれよりも良い生活がしたくなってくる。

どこにも変化のない毎日が続くと、人はどこかに変化を必要とする。



僕は長い殻を飛び出した。おさまりの付かないような苛立ちが僕の中に増していて、君に会いに僕はここまでやってきた。

人々のざわめきが聞こえ、駅の発車ベルが鳴り響き、お土産を売る店員の声が通り、コツコツと地面を叩く足音が冷たく辺りを包んでいた。


僕は東京にいる。

夕方過ぎの東京だったから、駅は人で溢れ返っていた。本当は土日に来る予定だったのだが、不思議と土日は行く気にならず、一日中家でうだうだと過ごしてしまった。

月曜はイライラして、火曜日の今日、僕は仕事終りに思い切って飛び出した。


「俺はもう行くね。明日は休むかもしれない。ひょっとしたらしばらく来れないかもしれない」

東京に来る前、僕は登校拒否中学生にそう告げた。

少女は「どうして?」と、僕に尋ねた。

尋ねたこと、答えたこと、いくつかあったろう。僕は、その子に納得してもらいたい、と思っていたから。

「それでいいのかい?」と、僕は最後に少女にそう尋ねた。

「うん、わかった。じゃあ、仕方ないから一人でがんばるよ」と、登校拒否少女は僕に言った。


いろいろな出来事から長い時間が経っていた。全てはもう、取り返しの付かない時間かもしれない。あきらめる事が一番良かったのだろう。でも、それをあきらめて、何のために生きる、と、僕は言えるのだろう。今、したいと思える事をしないで、何もしないで平和な毎日を過ごすことは、きっととても悲しいことにちがいない。僕にはただ生きるだけの毎日を送ることができなかった。時間は経ったけど、したい事はしっかりしておこう、と思う。時間は経ったけど、今なら出来る、と思った。



複雑な思いを胸に、僕は君の住むアパートのある駅までやってきた。

場所は君の母親に聞いた。ハガキを送ると嘘をつき、君の住む住所を聞き出した。そして君の住む場所までの行き方を調べた。

駅から商店街を抜けてしばらく歩いた。


少し迷ったが、地図でメモした君の住むアパートの近くまでやってきたはずだ。

僕はもうすぐ君に会える。きっとその、、、はずだった。


でも僕が会ったのは、緑の男だった。

緑色の服と長い茶髪の姿が目立つ男は鋭い目をして僕の目の前に立っていた。忘れることもなく、僕はその男を覚えていた。


「どうしておまえが俺に会うのか、おまえは理解できるか?」

緑の男はいつものように唐突に話しかけてきた。


僕は深く理解できなかった。ただ、とても嫌な感じだけは受けた。非常にまずい事はこめかみを流れる冷や汗から感じ取れていた。

これは良くない結果だったにちがいない。だから僕は、土日にここへ来ることを躊躇していたのかもしれない。たとえばこれがアドベンチャーゲームのようなものなら、確実にゲームオーバーになるパターンだ。でもこれはゲームじゃない。


僕の目に映るのは、僕の現実だ。


「驚いていいのか、悪いのか、わからないけれど、きっとこうなる事だったのかもね」と、僕は意外とさらりと言ってみせた。


「おまえの行動力には驚くよ」

緑の男はそう言って、笑顔を作った。決して楽しい笑顔ではなかった。


「僕はあなたが何者かは知らない。ただ、僕は僕なりにやりたいことをやらないといけないと思っただけ。あなたは僕をそのとおりにさせてくれるだろうか?」

僕が緑の男にそう尋ねると、男は首を横にゆっくりと揺すった。


僕は彼の目をじっと見つめていた。いつもより眼力の強い目だった。じっとその目を見ていると、その瞳から自分の目が逸らせられなくなっていた。

「不思議なものだろう?人の脳とはよくわからないものだろう?人の力とはよくわからないものだろう?俺はだいぶ研究したつもりだったが、まだよくわからないことがたくさんある。たとえばおまえがここに来た理由、俺はまだそれが理解できていない。それは悪いことじゃない。むしろ楽しいことだ。また一つ調べてみたい事が増えた。おまえは俺を楽しませてくれるのか?」

僕には男の声が聞こえていた。でもまるで何を言っているのか、理解できなかった。そして緑の男のシルエットが近づいてきて、近づくにつれて僕の意識は遠のいていった。

目は瞑らされていた。それでも僕の脳は今でも緑の男が首を横に揺すり、僕の方をじっと見つめているかのように感じていた。

体は心地よく、だらんとしてきた。こんな事が過去にもあったような気がする。

僕は緑の男の肩に担がれているようだった。男は僕を運んでいた。意識のない僕をどこか遠いところに連れ去ろうとしていた。どうしようもなく、わずかな意識の中で、僕は運ばれていることを感じている。何もかもどうでもよく、気持ちよく感じられてゆく。



君が遠のいてゆく。


僕は全てを奪われてゆく。


僕は君に、二度と会うことが出来ないのだろうか?


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ18

悩みは頭の中にあるけれど、気づけばいつもの職場にいるものだ。

僕の職場は登校拒否中学生の住む古い民家の二階。いつもと同じ毎日、僕はずっとここにいるかのようだ。


不満を言えばきりがない。お金がない。彼女がいない。そんなのいつも当たり前だ。でも僕は平穏に毎日を生きてゆくことができる。誰に命を狙われているわけでもない。誰も僕を殺しにはこない。


石ころみたいな顔をした登校拒否中学生の女の子が教科書に向かって一生懸命悩んでいる。僕はいくつかのアドバイスをして、ひとつの問題の答えに到ることを待っている。彼女が理解すればそれは喜びだ。

「ああああああ、そうかあああ」

という、理解へ到る瞬間、僕も心から『よっしゃー』と思えるくらい喜ばしい。

いつも問題があって、ひとつの答えがある。その繰り返しを一つ一つ読み解いてゆく。彼女にはやる気もあるから教えがいもある。

僕はこの生活を十分に充実させて送っている。


窓の外は梅雨の雨がしとりしとりと降り続く。昭和の造りの木造建築家屋の二階からそんな雨を見るのも、どことなく情趣があって悪くはない。

蛍光灯を照らして、暗い昼空の中で勉強を続ける。

いつもまでも繰り返し、繰り返し、同じ毎日は続いているかのようだ。


「だめだ、だめだ、これじゃあ、受かんないよ」

と、登校拒否中学生は嘆いていた。


少女には目標がある。一流の高校に受かること、それが彼女の目標だ。

今はそのためのステップ。彼女は決して今を楽しんでいるわけじゃない。目標としている未来があり、そのために今、勉強している。今は実りある日に到るまでの一日にしか過ぎない。


僕は笑えない。平穏な日々は僕に大切なことを忘れさせてしまう。

君の不幸、君の悲しみ、僕は僕に出来る可能な限りのことをしなくちゃいけないのに、今に甘んじる。


少女の何気ない一言は僕の心を打つ。

『このままじゃいけないよ』って言っている。

夢物語でも、超現実主義であってもならない。現実の中にある夢のような可能性を詮索する。僕は君の幸せを願い、そして人の精気を奪う悪魔を退治しなくてはならない。


僕に出来ること。小さな力で出来る限りのことをしないと僕は先へは進めない。

日々の生活の一歩先。


「よし、それは、こうやれば解けるさ」

僕は少女に教える。そしていずれ辿り着けるはずの未来へと突き進んでゆく。


いつまでもこうしているわけにはいかないだろう。


僕は君に会いに行くよ。


(つづく)

『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ17

土は露に濡れていた。緑の葉は見渡す限り全開に開き、森の内側は弱く柔らかい光に溢れている。

梅雨時の、間休みの晴れ空の下では、森の持つ独特の静けさが辺りを包み、心休まるひと時を演出していた。

それだけで十分元気を取り戻せそうな感じだ。でも彼の目的は、森の中にある枯れた木にある。


どことなくすっきりしない日、彼はこの森にやってくる。

最近は編集者の女の態度が好きになれずにいる。それはとても小さな事だが、その小さな事が気に障るくらいの事だけしか彼の周りで起こっている事はない。


濡れた土道をゆっくりと奥へ行く。

革靴はすでにどろどろだが、それはさほど気にならない。もう少し行けばそこには葉のない艶やかな幹を裸のままに晒す木が姿を見せる。


枯れた木は姿を現した。

いつもよりも白くやわらかい生き物のように見える。彼はうれしそうに微笑む。そして待ちきれないとばかりに駆け寄り、その木の幹に手を触れる。

木は彼に訴えかける。

「自信を持ちたい!自分らしくありたい!自分を持ちたい!」

やさしく、強い女の声が彼の耳元に響く。


彼はその声を吸い込むように聞き取る。

何度も何度も。

「自信を持ちたい!自分らしくありたい!自分を持ちたい!」

女はそう彼に要求する。


彼は目を瞑り、その女の声の質、響き、感触を耳だけでなく、肌で感じ取る。

幹に撫で回すように触り、ゆっくりと呼吸を整えるように撫で続ける。


やがて彼は目をきらりと輝かせた。

大きく見開いて、悪魔の笑みを浮かべる。口は笑っているが、目は怒りに満ち溢れているかのようだ。

そして一本の枝に手を掛ける。強く握り締め、枝を引きちぎろうとし始める。

「おまえみたいな女に何ができるんだ!おまえみたいなブ女は、下女として働けばいい!」

彼は怒りのこもった声でそう叫んだ。


その言葉と共に、木の声は止み、涙のような液が木からこぼれくる。木は泣いていた。いや、木はただ、彼が引きちぎろうとする枝を引っ張ったことで揺れて、溜まった雨露が揺さぶり落ちただけかもしれない。

でも枯れた木は泣いているかのようだった。


力を込めて、枝を揺さぶるうちに、一本のその枝は切り折れた。裂けるような嫌な音と共に枝はもげ落ちた。

悲しみと痛みが走った瞬間、彼は対照的に自信とエネルギーに溢れ、目を輝かせていた。



2時間後、彼は山奥の別荘に戻った。

そこには彼の苛立ちの原因である編集者の女が待っていた。


彼は戻るなり女にプレゼントを渡した。高価なピアスだった。

女はいつもピアスをしていた。そしていろいろなピアスを集めていた。だからそれは、女にとって強烈な意外性を持っていたが、うれしいプレゼントであることも確かだった。

突然の好意に女はどうしていいかわからなかったが、物をもらうことに慣れていた女はそれを素直に受け取っておいた。


そして何事もなかったかのごとく、仕事である編集内容の確認を淡々とし始めた。

編集者の女は淡々と話していたが、彼はいつもより話しやすい感じのする不思議な雰囲気をかもし出していた。普通に仕事の話をしているのだけれど、女はどこかでまだ出逢って間もない恋人と会話をしている気になってきた。なぜそんな感情を抱くのか、それを少し考えるうちに、自分は作家である目の前にいる男に好感を抱いている、という事に気づいた。

『この間のいやみは何だったんだろう?』

初めて会ったときに嫌いだのなんだの言われた事を女はすっと思い出す。忘れていようと思った記憶が今では嫌ではなく、痛みとして感じ始める。まるで別人を見ているかのように、女の瞳に彼の姿が映る。彼の瞳を覗くと、爽やかな笑顔で見返してきた。

編集者の女はどきりとした。まるでそこには、喧嘩の後に仲直りした好きな男がいるかのようだった。

「どうかした?」

少しぼぉっとしてしまった女に、彼はそう尋ねた。

「あ、いえ、すみません。どこまで行きましたっけ?」


「ああ、この部分から」

そしてまた仕事の話に戻り、続ける。

でも彼女はもういろいろな意味で彼の別の部分が気になり始めている。不思議な感触が女の体の中に入り込んでゆく。女はどこかで彼の全てを知りたくて仕方なくなっていた。


やがて女は彼の持つ支配の基に落ちてゆくことだろう。

編集者の女はいいように料理されようとしていた。しかしそれはどうしようもない。今、彼の編集者の女となってしまった事、それがその女の運の尽きだったのだ、とあきらめるしかない。


(つづく)