『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ31
わたしは止まっていたけれど、どこかに歩いていきたいな、と心臓は疼いている。
君は新しいアパートの一室に置き去りにされた。川の淀みに吸い込まれた落ち葉のように、君はアパートの中をうろうろするだけで、家の外に出ることもできない。
先週はそのアパートに荷物が届いた。
君が東京の自室に置き去りにした手帳だの何だの大切なものがダンボールに詰め込まれて入っていた。でも入っていたのは事務的に大切なものばかりで、君が思い出として大切にしていた写真だのなんだのは何一つ届かなかった。パソコンの中にはいろいろなデータが入っていたのだけれど、パソコンはもちろん届かなかった。寝室の窓際にある机の上には真新しいデスクトップがあるから必要ないといえば必要ない。でも古いパソコンに詰め込まれていたものはいろいろな思い出、それらのデータはもう戻らないのだ。
いろいろな事務手続きは勝手にされていた。だからダンボールの中には前の家の電気料金やガス、水道、電話等等、いろいろなものが全て解約となっていることを告げるものが含まれていた。
思い出は頭の中の記憶と、持ち出してきた充電されていない携帯電話の中にあるもの、くらいだ。
君は動き回ることも、考えることも嫌になってやめ、ベッドの上に横になった。真新しい部屋の匂いと、君が住み続けた2週間程度で付いた匂いだけが香る。長く住み続けた東京の家よりはホコリ臭くないし、ゴミも出しているから臭さは残らない。前よりはずっとましな暮らしだ。
鳥かごの中の鳥のように狭苦しい空間で君は生きている。家の扉を開ければどこにでも出れるのだけれど、君はためらい続けている。毎日朝と夜が逆転していて、夜は君に涙を流させる。うるさい鳥のように夜になると君は泣き出す。そして朝方には疲れて眠ってしまう。君はどこにも行けない。行き方を知らないし、どこに行けばいいのか、どこかにいったところで何が変わるのか、全くいい答えを持っていない。小さな鳥かごのようなアパートの中で泣いていた方が幸せだ、とさえ思う。ご主人様が来るのを待って、ただ毎日を過ごしていればそれで安心だ。
でも君の家を訪れる人は一人もいない。新聞の勧誘とかそんなのが訪れるくらい。君が会いたい、君のための人は誰もやってこない。
夜中になって、目が覚めた。
君はまた泣きたかったけど、泣き飽きてしまって、泣くことも面倒くさかった。だからと言って眠るには寝すぎていて、頭が痛く、重かった。
実家の家族の事を思い出してみた。携帯電話は止まったままだから、きっと家族は心配しているに違いない。いつも1ヶ月は連絡取らないけれど、電波の通じない状態が1ヶ月も続けば、異常を察知しているかもしれない。それはここ数週間たびたび思い返していたことだけど、そろそろ切羽詰った状態になりつつある事だ、君は心の中で強く思う。
体を起こす。お腹が空いているわけではないけれど、エネルギーがなく体の動きが鈍いことを感じる。何かを食べようと冷蔵庫へ向かうものの、そこには何もない。からっぽだ。
君は思い立って、コンビニへ向かう。人を動かすもの、それはせいぜい生理的現象、君はまず何よりも、食を満たしたい、と感じる。
時間はわからないけれど、人通りのない静けさから今がかなりの遅い時間であることだけは君の目に映る。自転車に乗って、近くのコンビニに行く。
パンとかジュースとかを適当に買い集め、お金を払って、外に出る。買ったところで君はすでに満足していた。食べ物はある。またしばらく生きていける。無人島じゃないのだから当たり前だけれど、君はふとそんな事で安心した心地に包まれる。
すると君の目には、コンビニの駐車場の自転車を置いた横にある公衆電話が入ってきた。さっきまで全くあることにさえ気づかなかったものに気づけるようになる。
『そういうものもあったか』と、君は思う。買い物袋を自転車のかごに入れ、君は公衆電話に向かう。受話器を取って、100円玉を入れて、ボタンを押す。その電話番号だけは覚えている。
8回コールがなって、そろそろ切るかと思ったときに、電話の相手は出た。
「もしもし」
「もしもし、わたし」
君は君の母親にそう告げる。母親は君の名を確認し、「どうしたの?」と尋ねる。
その『どうしたの?』は、『こんな夜中に、どうしたの?』なのか『何か用なの、どうしたの?』なのか『最近電話も掛からないし、何かあったの?どうしたの?』なのか、『本当に心配していたの。どうしたの?大丈夫?』なのか、判断のつかない言葉だった。
「今ね、、、、」君は今いる場所と、今の暮らしについて、君は語った。それはこの数週間で君が知ったことだった。でももちろん「あつし」の事や山の中の彼の話はしなかったけれど、引越しをして、新しい生活をしていると言った。仕事もしていると嘘をついた。具体的な事は何一つ語らず、ただ心配することは何もないんだと告げた。「落ち着いたら一度帰るから」
と言って、君は締めくくった。母親はあれやこれやと気に掛けて話しかけてくるけど、「ううん、それは大丈夫だから」とばかり君は答えた。話しているうちにだんだん、小うるさい母親だな、と思ってきた。その苛立ちは少しだけ懐かしい気がして、君の心を元気にさせた。
「じゃあね」
でも君はそのあたりで電話を切った。君の母親はきっと心配していた。それもわかったし、この電話で、少しは母親を安心させることができたはずだ、という安心を君は持つことができた。思ったより大きくなっていた心の不安が除去された。
でも家に帰ると、何も解決していないことに気づく。また川の淀みに戻る。また鳥かごの鳥になっている。買ってきたジャムパンを食べながら、考えても働かない脳を考えさせて、これからどうしたものか、と思い悩む。
『そういえば』と君は思い出す。君は、同窓会と言って電話を掛けてきた学生時代の男の子の事を思い出していた。一つの不安が消えて、忘れていた事が思い出さたのだ。人の意識は移ろいで行く。何も変わらないようで少しずつ、状況は変わりだしている。
君にはまだ力があって君を僅かずつ前へと歩ませてくれている。
僕には確かな力があって僕は出来る可能性を探っている。
彼には人の2倍の力があって彼はどこまでも突き進んで行くけれど、彼は大切なことを忘れているだろう。
小さな力の人間でも、その人は僅かずつ前へと歩んでいこうとしているんだよ。
彼はその力をあなどっているのだろう。
君はゆっくりと進んでいる。僅かな出口に向かって。だから僕は君の声に気づき、君を救い上げる事だろう。
彼に理解できない僕と君との間の中で君と僕は少しずつ近づいている。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ30
アスファルトの山道の脇に大きな車を停め、彼は舗装されていない土の道を一人歩いてゆく。
彼の心は苛立っていた。スタイルのいい編集者の女は一度抱いてからやたらとベタベタしてくるし、山奥の家を嗅ぎつけた別の出版社の奴らが新作を書いてくれないかとねだりにくる。
のんびりと小説を書いて暮らす生活を好んでいた彼にとっては面倒な出来事があまりに多く起きすぎた。自分の持った力からすれば、全ての相手を言いくるめるのは簡単なのだが、それはそれで彼にとっては面倒以外の何事でもなかった。自分の空間が侵されえいることに苛立つ。
彼が訪れたのは、いつもの枯れた木のある場所だ。
その場にやってきたのは久しぶりだった。山の中だけあって、景色は少しの期間訪れないとすっかり変わってしまう。特に夏ごろは突然草木や虫の巣が現れて、本来の方向を見失わせる。それでも10年間通い続けた道を彼が忘れてしまうこともなく、草木をかき分け、いつもの場所にたどり着いた。
葉のない白木がお出迎えしてくれている。一面緑が青々と生い茂っている中、一つだけぽつりと枯れた白い木が現れる。枯れ木にしては幹がしっかりしていて、瑞々しく艶やかな肌を露にしている。枝は四方八方に伸び、とても枯れているようには見えない。
彼はその生き生きとした枯れ木に触れられる場所まで近づいた。
『今日はどんなふうにしてやろうか?』と考える。そして四方八方に伸びる枝を一本一本物色する。彼の気分は高揚している。『今日はとことんやってやろうか、何しろ久々だからな』と欲望を燃え滾らせる。
そして彼は太い枝に手を伸ばした。触れようとしたところで、かの手がそれを封じた。
男の手が彼の手首のあたりを掴んでいた。
いや、僕の掌が、彼の手首を掴んでいたんだ。
彼は驚きはしなかった。むしろにこやかに笑みを浮かべていた。
だから僕は強く彼を睨んだ。
「そうはさせない。少なくとも、それはさせない。カノジョを僕が守る」
彼はにやりとした顔に歯を見せ、よりいっそうニヤニヤして見せた。
「出来ないよ。おまえみたいな程度の低い人間には不可能だ」
そんな彼の言葉に僕は負けじと強く睨みつけ、掌に力を込め、彼の手首を握った。一瞬彼の腕を木から遠ざけることができた。僕は少し自信のある視線を彼に送った。彼は動じていなかった。むしろその瞳を見た僕は胸騒ぎのような心揺らぐ印象を受けた。
一瞬にして形勢は逆転した。僕の手から力が抜けてゆくの僕は感じた。彼は僕に手首を掴まれていることなどお構いなしに、枯れた木の枝を力いっぱい握り締めた。そしてそれを折れやすい下方向にしならせた。僕の彼の手首を握る手は一瞬にして解けそうになって、そうはなるかと慌てて彼の着るシャツの袖を掴んだ。でもそれが精一杯だった。彼は僕の手を気にせず枝を上下に揺すった。僕の手は彼の揺するままに上下へ動かされる。
僕はたまらず、彼の背後に回り、彼を羽交い絞めにした。でもそれは無意味だった。彼は僕をからっぽのリュックサック程度にしか感じておらず、ひたすら枯れた木の枝の方を意識して、それが折れるまで揺すり続ける。
「やめろ」
僕は声を振り絞ってそう言ったが、彼には何も聞こえていない。
枝はみしみし言い出し、少しずつ根元から力を失い出していく。
「やめろ」
僕は何度もそう言って、必死でくい下がった。
「やめろ」
でも枝はどんどん力をなくしてゆく。僕の体は力が入らず、彼を枯れた木から遠ざけることができない。僕は存在しているかいないかわからないくらいの小さな存在になっている。彼にはその程度、僕はこんなに必死なのに、こんなに君を救おうと必死なのに、全ての力を出して、全ての想いを込めて、全てを掛けているのに、何の役にも、何の役にも立たない。何の役にも立たない。
君は折れた。引きちぎられた跡が痛々しく見えた。折りきられた枝を彼はあさっての方向へ投げ捨てた。
そして彼は僕を背負い投げのようにして投げ飛ばした。僕はやわらかい土の上に落ちた。
「はあ、はあ、はあ」
僕の息は切れていた。とても声を出せる状態ではなかった。立ち上がる気力もなかった。それでも僕は立ち上がろうとして、両手を前に付き、ひざまずく体勢を取った。僕は立とうとした、が立てなかった。
彼の片足の裏が僕の頭の上を押さえつけていたからだ。
「君がいくら努力しても無駄なのさ。わかったか?おまえは何の役にも立たないんだよ」
冷たい声が僕の頭上で響いた。
でもすぐ頭を押さえつける重みは消えた。顔を上げると、彼はすでに葉の生い茂る木々の向こうへと去っていっていた。
振り向く必要さえ、彼にはなかった。
「カノジョをどこにやった!?」
途切れ途切れの息をしている男が最後にそう言うのが、彼の耳に届いた。
『いい加減じゃまくさい奴だ。今度会ったら、殺してやろうか』と、彼は心の中で思った。でも声は出さなかった。もうそれ以上、何も言う相手ではない。それだけの事だった。
山から出て、X5に乗り込み、車をUターンさせて家に戻った。
家の前のスペースには知らない車が停まっていた。彼はその車の隣に自分の車を付け、玄関に向かった。女が立っていた。髪の長い女、前の編集者だった女だった。
「やあ、久しぶりだね。どうしたんだ」と、彼は髪の長い女に尋ねた。
「ごめんなさい。嫌だったら帰りますね」と女は言った。
『女もまた面倒くさい』と彼は思った。だけど出てきた言葉は、「いやなわけないだろう。さあ、中へ入ろうか」だった。
彼は髪の長い女を受け入れた。
全ては順調に面倒事が増えてきている。彼の人を引き付ける力は完全に戻っていた。いや、以前にも増して強くなっているのかもしれない。
僕はまるで敵わない。
ただ泣いて、泣き喚いて、悔やんで、押し潰されそうな感情を発散することしかできずにいる。
それでも僕は君を救いたい。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ29
新しい君の部屋には、一通りの物が揃っていた。フライパンに、キッチンホイル、ゴミ袋、洗顔剤、歯ブラシ、化粧品、部屋のにおい消し、等等、君が必要と思う以上の物がそこには用意されていた。
近くのスーパーに自転車で行って、食料も一通り揃えたから、何もしなくても一週間は十分に過ごすことは出来る状態になった。
本棚には『溝端』の作品が一通り並んでいた。
どうしてわたしが『溝端』好きと知っているんだろう?と君は悩んだが、よく考えれば「あつし」と出会ったのが『溝端』コミュである事から、「あつし」が揃えた物だと結論づければ納得のいく答えとなった。
その本棚には、まだ君の知らない作品が一つだけあった。
『溝端』が書いた新作だ。全てが新品のハードカバーで揃えてあったけど、君はその中にある新刊にすぐ気づいた。
手に取り、開いてみたが不思議とその本を読む気にはなれなかった。最初に出てくる登場人物の女性のキャラクターが君にいやな印象を与えた。その主人公が君の読み進めようとする気持ちを阻害させた。なぜなのかはわからないが、それは読めない気がした。
それだけではない。今まで君があれほど楽しみにしていた『溝端』の全ての本を、君は読む気になれなかった。これはほんとにおもしろかったんだよな、と思い手にとってはみるものの、なぜかいやな気分にさせられる。
君はどうしてなのか少し考えて思う。
『今までバカにしていた出来の悪い主人公、とんでもなく出来の悪い奴で、いやな奴で、主人公を見下しながら読んでいたけど、今は自分の方がよっぽどダメね』
だから君はそれらの本を読むことで、自分が傷つける気がして、いやになった。
『今まで何がそんなに楽しかったんだろう?』と君は自分で自分という人間がわからなくなるくらい、『溝端』作品を読むことがいやになっていた。
そこにある全ての本を捨てたいくらいだった。
だけど、君は何もしなかった。
結局、数週間前までの東京暮らしと大きく変わらない毎日に戻っていた。『何もする気がしない』と君は思う。さらに言えば、寂しい気持ちが心の内から沸いてくる。男に抱かれた君はその温もりを思い出す。大きくしっかりした体を君は思う。
『彼はまたわたしの場所へやってくるのかな?』
君は望むけど、彼が君の居所へとやってくる事はなかった。
君はずっと一人で過ごしていた。
町が静かなだけに余計なストレスが東京にいた頃ほどかからない。それくらいの事なら君を少しだけ気楽にさせてくれていたけれど、後はほとんど何も変わらない。
少しだけ、彼の事を考えて、少しだけ、これからどうするか考えて、少しだけ、好きな芸能人の事を考えて、後は全てを忘れ、眠っている。
「もう何も考えたくない」と、君は寝言のようにつぶやいて眠ろうとする。
眠りの森の美女はいつになれば目覚められることだろう。
あの木から、君が君であるための力を取り戻すまでは、君は君を失ったまま眠り続けるんだろう。
まだ君は眠っている。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ28
僕は再び、その町へ戻ってきていた。
初夏の陽気を思わせる暑さの1日だった。1年前にタイムスリップしたように新しい高架橋状の駅を降り、駅前のロータリーにあるベンチに腰掛けて、休んでいた。
夏の夕暮れ時の中にいた。
帰宅を急ぐ大勢の人々がいて、当たり前のことだけど、彼らは誰も僕の身の回りに起きている出来事を知らない。僕だけが世の中とずれた時間を送っているかのように感じられる。
この3週間程度のうちに僕のお金は無くなってしまった。家賃や諸費用、もともと貯金もろくにないぎりぎりの生活を送っていたので、僕にはもう残っていない。実家から出るときに母親から電車賃としてもらった5万円が僕の生きてゆくための費用だ。それでもそれだけではもう来月の家賃も払えないだろう。
家庭教師の仕事を無断で放棄していた僕に腹を立てた担当者は、僕には合わず、電話だけをくれた。
「いや、仕事はありますよ。でも、無断で勝手にいなくなられてしまったら困るんですよね。いくつか紹介しますけど、1ヶ月数回程度のじゃないと、何かあったらこちらも対応できませんからねえ」
だから僕はいくつかの仕事の誘いを断った。
半月後には一応最後の給与が振り込まれる。だから1ヶ月はなんとかなるかもしれない。それまでに次の仕事を探さなくてはならない。そうでなければ実家に帰るしかない。それが現実的な話だった。
でも僕は仕事を探すことも、実家に帰ることも考えず、どちらでもなく、ただ迷っていた。
『僕はこの先、どうしたらいいのだろうか?』
「先生?」
顔を上げると、知っている顔があった。登校拒否子、いや今はただの女子中学生だ。彼女はいつものジャージ姿ではなく、女の子らしい服を着ていた。髪も切ったらしく、ただぼさぼさに伸びていたいつもの髪は、艶やかにまとまっていた。
わずか数週間で、女の子とはこうも変わるものなのだろうか?
これは偶然の再会ではない。僕がその子に会う約束をした。
「やあ、どうだい。うまくやってる?」
「んん、まあその話は」
つまり、立ち話もなんだってことだ。そして僕とその子は近くのファミレスに入って、ドリンクバーを頼んだ。それから話を始めた。
「まあ、正直、何も楽しくはない。毎日無視されているから、別にそれでも一人で机に向かって勉強してるだけだからいいんだけど」
「そうか。ごめんな。俺が急に行かなくなって」
「先生、それは前も言ったよ。自分でどうにかしないとって思って、わたしは自分でそうしたんだって」
そう言って、彼女は少し赤い顔をした。
「そうだよな。自分でどうにかしないと、どうにもならないものな」と、僕は少女の意見に賛同した。
「はああ、でも本当は憂鬱、毎日学校行くの楽しくないよ」
「そうだな。毎日ってそう楽しい事があるもんじゃないものな」
「世の中不公平だよね。毎日楽しいって顔してる子もいるのに、わたしは毎日つまらない」
その子の言うとおりかもしれない。
僕も毎日負けっぱなし、この先も負け続ける毎日かもしれない。僕らは同じ穴のムジナで、いつまでも不公平の悪い方にいて、愚痴をこぼし続けるだけなのだ。
「でも、先生はやりたい事やるって決めたんでしょ?何するの?っては聞かないけど、あ、体、大丈夫?どうして倒れたの?」
彼女は一人で質問があっちへいったりこっちへいったりしているので、僕は答えにくかったが、とりあえず、「体は大丈夫だよ。もう平気さ」と答えた。
「そうか、それはそれは」
それから元登校拒否子は学校の話だの、テストの話だのをし始めた。いろいろと現実的な悩みは尽きることがなく、それでも行きたい学校へ行くための勉強をがんばって未来に向かっている彼女を、僕は応援した。
結局、僕と元登校拒否子は別の道を歩むこととなった。最初からわかりきっていたことだ。その時期が少し早くなっただけだ。
僕らは2時間以上、ドリンクバーだけでファミレスに居座り、その後、その場を後にした。帰りは途中まで一緒の電車で、僕は少女の降りる一つ前の駅で降りた。
「じゃあね。先生」
電車の中で手を振る少女が去って、僕はまた一人きりの時間に戻された。少し、寂しかった。このまま、この生活を続けてはいけない気がした。
涼しい風が吹いていた。夏の熱気を冷やす心地よい風だった。
時は一年前とは違って感じられた。
僕はこの町でいろいろな情報を手に入れた。そしてまた新しい道に歩む必要が出てきている。振り出しに戻ったようで、実はすでにゴールが近いような気がした。僕はここまで来ていて、まだやるべきこと、出来ることがいくつか残されているような気がした。いろいろな道は行き止まりだったけど、残された可能性のある道はある。その事をせずにあきらめて、ただ何気ない毎日を送ってしまうことはいけないような気がしていた。
『何気ない毎日の平和は、事の終わりに始まるよ』
光の男は僕の背中の方でそう言っていた。
僕は君を救うことをあきらめていない。
その結論の先にだけ、僕と君の平和な毎日の暮らしが待っている。
(つづく)
『何気ない毎にちを貴方に伝う』4ノ27
天気予報では今日も蒸し暑い一日だと言っている。
編集者である、スタイルのいい女は彼の家のリビングで、冷たいパインジュースを飲みながら、のんびり過ごしている。しばらく東京での蒸し暑い毎日が続いていたから、森の中にいる彼の家での生活は心地よい。サングラスを掛けて、まるでどこかのセレブ気取りでゆったりとした別荘生活を過ごしているかのようだ。
最初に会った時は、変な男だ、と感じていた小説家の彼に対しても、女はすっかり好感しか抱かなくなってしまっている。今は彼の家にいる事が居心地よくて仕方がない。東京での仕事を終えて、いつになればここに来れるのか、ここに来ることも編集者の女にとっては仕事のはずなのに、今ではそればかりを楽しみにして毎日を送っている。自分の恋人に会うのも面倒で、きっとカレとはどこか合わないところがあるんだろうな、と勝手に感じている。
作家の彼の方は今、書斎で新作を考えている。
ここ最近の彼は、君という女も家にいたからどことなくいつもと違う状況であって、小説を書くことに集中できずにいた。
君をアパートへと移動させた後、小説の新作も発売されて上々の売れ行きという事もあって、全ては再び彼の生活は安定状態に戻っていた。これが自分の毎日の生活だ、と彼は感じている。山の中の静かな場所で、ゆっくりと小説を書く時間を過ごす。今、彼は再び充実の時に達している。
日が暮れかけ、一段落したところで、彼は書斎を出た。リビングには編集者の女が今もテレビを見て座っていた。
「何だ、まだいたのか?」と、彼は知っていたけど、わざと冷たく言い放つ。
「あ、すみません」と、女は謝って、『また冷たいモードか。悲しいな』と心の内で呟く。
彼は本当のところ、編集者の女の事が好きではない。
すぐに自分は好かれていると感じ、相手に好意を抱かせようと思う態度を自然とするタイプの女だ。
『だいたい女というのはすぐにいい男に言い寄る習性があり、オトコがいるのにそんな事も忘れ、自分が好きな方向に平気で向かってくる。そして前のオトコの悪いところばかりをいろいろ考え、結局仕方がないことだったんだと自分に言い聞かせ、よりいい男の所へ近づいてゆく』
彼の知る女の像とはそういう形で表されている。だから彼は女を心から信用していない。
『しいて言うなら、前の女の編集者の子の方がましな子だったな』と考えている。
でも彼は自分がもてる立場のオトコになっているから、嫌いなタイプの女であってもどうでもいい。今は自分のいいように女を扱えるからそれでいいのだ。
「まあいい。今日はちょっと酒が飲みたい気分だ。街の中にいいすし屋がある。今日は一緒に付き合えるか?」と、彼は編集者の女を誘う。
「え、いいんですか?」と、意外な回答に女は喜ぶ。
「いいのか?」と、彼は尋ねる。
「わたしでよければ」
そして二人は森の中の別荘を出て、夕暮れの森の中を、街の中へとX5を走らせ、下りてゆく。
彼の脳中では今夜は帰るつもりもない。すでに今夜は高級ホテルに泊まって、朝まで過ごす。そう決まっている。優雅で楽しい生活だ。
自信に満ち溢れた彼を止めるものはいない。
彼の力は日々増強し続けている。
(つづく)