『何気ない毎にちを貴方に伝う』2ノ4
『ぼくはこの世界の中で最も余裕を持った生き物だ。だから何も怖くない』
あの時、彼はそういった種の笑みを浮かべていた。自分以外の全ての人間と自分を分けたかのように、瞳は澄んで、心身は落ち着いていた。
でもそうじゃない。本当はそんなに余裕があったわけじゃない。ただほっとしていただけだ。
あの時、彼が自分の賭けていた小説の結果が出たとき、彼はその成果に報われる思いを抱いていただけで、それ以上の意味はなかった。
誰かは彼がとても余裕を持った人間だ、なんて言っていたけど、決してそんな事はない。彼は極当り前の、むしろ人よりも気の弱い人間だった。
4年と少しが過ぎて、彼はまたあの時と同じ種の笑みを見せていた。それはまた自分が望むところまでやってこれた事にほっとしているという事を意味している。つまり、また新しい小説の一幕が書きあがったわけだ。
髪の長い女は彼を笑顔に、その事を感じて喜ぶ。
「早いね。もう出来たんですか?」
彼は語る。
「昨日の夜はペンを手に持ったまま、まるで進まなかった。1時間、2時間とね。何も思い浮かばずに、ずっとペンを握っていた。少しずつ睡魔がやってきて、ぼくは机の上で眠りそうになっていた。もういつでも寝てしまうことはできただろう。後は自分の眠りに堪える意思がなくなるのを待つだけだった。少しの夢が垣間見えて、ぼくはもう眠ってしまうんだろうなと思った。でもその夢はぼくが書こうとしている物語に繋がっていた。白昼夢のごとくその夢を追って、ぼくはペンを動かし出した。物語はそこから始まっていた。自分でもびっくりしたよ。朝の明かりが差し込む頃にふと我に返ったら、十分なほどの物語が書きあがっていた。だからすぐに見直して、パソコン上に書き換えた。ほとんど直す必要もなく物語は書きあがったよ」
そして彼は自慢げに唇を上げて見せた。
「読ませてください」と編集者であり彼の女である、髪の長い女が尋ね、
「ああ、もちろん」と作家である彼が答える。
女と彼は狭い書斎に入り、机の上に用意されていたプリントアウトした原稿に向かう。
女は木のフレームに革張りされた椅子に座り、その原稿に目を通す。
彼はにこりと笑み、女の後ろで、背もたれに手を付き、原稿を読む女の長い髪を眺めている。
「どうだい?」
一通りの原稿がさっと読み終えそうになったところで彼は女に尋ねる。
「うん、おもしろい」と、女は真剣な声で答える。
「だろ?」
「これならすぐにオーケーよ」と編集者の視点で女は男に言う。でもその評価はさして意味を持たないが。
「すぐに持っていくわ」と編集者の女は言うが、「いや、朝食を食べてからにしよう。今日はぼくが作るよ」と彼が返す。
そして彼は彼女の肩をポンと叩き、キッチンへと向った。
『恐れることは何もない。ぼくはうまくやっている』
彼はそういう類の目をして、自己啓発をした。
でもどこかに小さな不安を感じているはずだ。永久の幸せなんて存在しない。
苦あっての楽、楽あったらまた苦さ。
僕は彼にそう伝えてやりたい。
その不安を消すために、また枝を折りにいくつもり。もうすぐその全ては無意味になるよ。
(つづく)