メキシコ回想記8.バハカリフォルニア縦断
僕は何のために、旅をしていたのだろう?
自分の人生を変えたいとは思ったのだろうか?
今ある人生の経路の全てをそれて、新しい人生を送りたくなったのだろうか?
今、僕は、人生の経路を変えることは可能だろうか?
今、僕は、今ある人生の道を歩んでいく必要があるだろうか?
守りたいものはあるだろうか?
捨てられないものはあるだろうか?
ゆっくり、考えればいい。
もし、捨てて、新しい道を探してみたいのなら、旅に出よう。
人生は一度しかない。
選ぶのは、自由だ。
この日本に生まれ、この時代に生まれ、恵まれているのに、何もしないのは、勿体ない。
僕は旅に出たいのだろうか?
君は旅に出たいだろうか?
ティファナからラパスまで、長いバスの旅があった日を覚えている。
24時間、バスに揺られ、バハカリフォルニアを縦断した。本州を縦断するような距離だったかもしれない。
まずは、ティファナから太平洋西岸のエンセナダという街までバスで移動する。バハカルフォルニアの北端あるティファナから南端のラパスまで行く方法はない。
メキシコでは大半がバスでの移動となる。そうでなければ飛行機でショートカットする。基本はメキシコ横断の旅だからバス移動が基本だ。
ティファナからエンセナダまではバスでの最初の移動となった。
ティファナからエンセナダまでは一時間ほどの移動だ。
僕はここで、アマという名前の少年に出会った。だいたいのバスは二人掛けになっている。隣に座った高校生がアマという少年だった。
メキシコ人といっても様々な人がいる。彼は恐らくかなり優秀なメキシコ人だっただろう。僕が日本人だと知ると興味を持って話しかけてきた。
2004年当時、僕が持っていたCDウォークマンを見て、「薄いなあ!すごい技術だ!」と英語で感嘆した。ソニーのCDウォークマンを見て、とても関心していたのを忘れはしない。「僕のはモトローラだ。これもいいだろう?ドイツはすごい。日本もすごいなあ」と感心していた。
世界的にも、日本とドイツの技術はスバ抜けていたのだろう。電化製品はソニー、車はトヨタ、メキシコでも当たり前のように売られていたことを覚えている。アマもそんな日本の技術に感嘆していた。
日本人として生まれたこと、その恵まれた世界に、少し誇りを感じた。僕はアマに東京の様々な科学について話したのかもしれない。つたない英語で話した。彼が目を輝やかせて、嬉しそうに聞いていた。
その出会いを忘れはしない。今日、彼は立派な科学者として、どこかで働いているだろうか?ひょっとして日本にいたりして。そんな事を少し思い、、、。
エンセナダについて、彼は唯一知る日本語「ありがとう」と言って去っていった。
僕は正午のエンセナダ発ラパス行きのバスを待って、僅かばかりの時間を過ごした。
エンセナダからラパスまでは長い道のりだった。二人掛けの隣の席にはメキシコ人のおじいちゃんが座った。僕があまりスペイン語を話せないのを確認すると、僅かな挨拶をして、後は話さなかった。
だから僕は窓際の席で、ずっと外を眺めていた。数メートルある巨大なサボテンが地表から生える乾いた大地を眺めていた。
他には何もない広大な大地だ。夕暮れになり、家も何もない、人工物の一切ない、大地しかない。地表に大きな夕陽が沈むのを見ていた。自然の大地。どこまでもどこまでもそれが続く。そういった場所に来ると、人間の小ささを感じる。
『人は、地球という大地の一部に街を作って住んでいるだけなんだ』
そう、思わされる。
やがて、闇に包まれ、眠った。
長い長いバスでの旅立った。
夜中には何もない町で、トイレ休憩を取った。途中に物売りのメキシコ人がバスに乗り込み、タコスやら何やらを夜食を売りにきた。旅人はそれを飯に、24時間近い、長い旅を過ごす。
翌朝の日が昇り、目覚めるころに、バハカリフォルニア南部のラパスのバスターミナルへ長距離バスは辿り着いた。
『旅をしたな。ああ、あれは旅だったな』
長く無駄な時間だったけれど、長距離移動が一番旅をしたな、感じる時間だったのかもしれない。
自分の人生を変えたいとは思ったのだろうか?
今ある人生の経路の全てをそれて、新しい人生を送りたくなったのだろうか?
今、僕は、人生の経路を変えることは可能だろうか?
今、僕は、今ある人生の道を歩んでいく必要があるだろうか?
守りたいものはあるだろうか?
捨てられないものはあるだろうか?
ゆっくり、考えればいい。
もし、捨てて、新しい道を探してみたいのなら、旅に出よう。
人生は一度しかない。
選ぶのは、自由だ。
この日本に生まれ、この時代に生まれ、恵まれているのに、何もしないのは、勿体ない。
僕は旅に出たいのだろうか?
君は旅に出たいだろうか?
ティファナからラパスまで、長いバスの旅があった日を覚えている。
24時間、バスに揺られ、バハカリフォルニアを縦断した。本州を縦断するような距離だったかもしれない。
まずは、ティファナから太平洋西岸のエンセナダという街までバスで移動する。バハカルフォルニアの北端あるティファナから南端のラパスまで行く方法はない。
メキシコでは大半がバスでの移動となる。そうでなければ飛行機でショートカットする。基本はメキシコ横断の旅だからバス移動が基本だ。
ティファナからエンセナダまではバスでの最初の移動となった。
ティファナからエンセナダまでは一時間ほどの移動だ。
僕はここで、アマという名前の少年に出会った。だいたいのバスは二人掛けになっている。隣に座った高校生がアマという少年だった。
メキシコ人といっても様々な人がいる。彼は恐らくかなり優秀なメキシコ人だっただろう。僕が日本人だと知ると興味を持って話しかけてきた。
2004年当時、僕が持っていたCDウォークマンを見て、「薄いなあ!すごい技術だ!」と英語で感嘆した。ソニーのCDウォークマンを見て、とても関心していたのを忘れはしない。「僕のはモトローラだ。これもいいだろう?ドイツはすごい。日本もすごいなあ」と感心していた。
世界的にも、日本とドイツの技術はスバ抜けていたのだろう。電化製品はソニー、車はトヨタ、メキシコでも当たり前のように売られていたことを覚えている。アマもそんな日本の技術に感嘆していた。
日本人として生まれたこと、その恵まれた世界に、少し誇りを感じた。僕はアマに東京の様々な科学について話したのかもしれない。つたない英語で話した。彼が目を輝やかせて、嬉しそうに聞いていた。
その出会いを忘れはしない。今日、彼は立派な科学者として、どこかで働いているだろうか?ひょっとして日本にいたりして。そんな事を少し思い、、、。
エンセナダについて、彼は唯一知る日本語「ありがとう」と言って去っていった。
僕は正午のエンセナダ発ラパス行きのバスを待って、僅かばかりの時間を過ごした。
エンセナダからラパスまでは長い道のりだった。二人掛けの隣の席にはメキシコ人のおじいちゃんが座った。僕があまりスペイン語を話せないのを確認すると、僅かな挨拶をして、後は話さなかった。
だから僕は窓際の席で、ずっと外を眺めていた。数メートルある巨大なサボテンが地表から生える乾いた大地を眺めていた。
他には何もない広大な大地だ。夕暮れになり、家も何もない、人工物の一切ない、大地しかない。地表に大きな夕陽が沈むのを見ていた。自然の大地。どこまでもどこまでもそれが続く。そういった場所に来ると、人間の小ささを感じる。
『人は、地球という大地の一部に街を作って住んでいるだけなんだ』
そう、思わされる。
やがて、闇に包まれ、眠った。
長い長いバスでの旅立った。
夜中には何もない町で、トイレ休憩を取った。途中に物売りのメキシコ人がバスに乗り込み、タコスやら何やらを夜食を売りにきた。旅人はそれを飯に、24時間近い、長い旅を過ごす。
翌朝の日が昇り、目覚めるころに、バハカリフォルニア南部のラパスのバスターミナルへ長距離バスは辿り着いた。
『旅をしたな。ああ、あれは旅だったな』
長く無駄な時間だったけれど、長距離移動が一番旅をしたな、感じる時間だったのかもしれない。
メキシコ回想記7.ティファナ in メキシコ
さて、また回想をしよう。
サンディエゴの3日目は、バルボア公園で過ごした。ここには、様々な博物館があった。
個人的な趣味として、自然史博物館と人類史博物館を訪れた。
自然史博物館は、恐竜から鳥になる過程の化石が展示されていた。ここ最近では、日本の上野や幕張やいろいろな場所でこういった展示をしているが、2004年としては一歩進んでいたと思う。そしてアメリカはレプリカではなく、全身骨格がほとんどだったと思う。アメリカの進んだ研究を見る事ができた。
人類史博物館は、これからメキシコへ入ればいくらでも観るであろうマヤ文明の展示が主だった。ほとんど何も覚えていない。
そんな3日目を終えた。
そして、ついにメキシコインとなる。
前回のとおり、サンディエゴからメキシコのティファナへは路面電車と徒歩で入国することができる。たしかその日か、一泊程度なら、入出国は可能だ。だからサンディエゴを訪れた観光客が、一日だけメキシコへと遊びに入ることのできる街でもある。
僕の場合は、ツーリストカードという入国申請を日本にいる時に済まして、3か月の観光を申請した。長期の滞在にはこれが必要だ。
ティファナはアメリカ人がちょっと遊びに来るメキシコであるが、メキシコ人はアメリカに入れずに足止めされているメキシコでもある。
アメリカからメキシコにはすんなり入れても、メキシコからアメリカへは入りにくい。国境の国道にはメキシコ側から長蛇の列ができている。メキシコ人に限った話だろう。
だから治安が悪い事でも有名だ。アメリカに入れないお金のないメキシコ人がたくさんいるらしい。サンディエゴに比べて身構えるが、実際入って、まずはそこまでの危険な感じはしない。
サンディエゴとの違いは、乾燥した空気だ。サンディエゴの地が潤った地表だったのに対し、ティファナの地は乾燥して感じられる。空気が砂埃っぽい。たかが数キロの違いなのに、この違いは何なのか、メキシコに入ったな!という空気を感じる。
イン メキシコだ。
ティファナのメインストリートであるレヴォリューション通りでは、たくさんの土産屋が並んでいる。日本人もよく来るようで、変な日本語を話しかけてくるメキシコ人もいる。
カラフルなオウムや縞々に色を塗られた馬(偽のシマウマ)がいて、記念写真をいかがかと寄ってくる怪しいメキシコ人がいる。変に写真を撮ると高い値で売りつけられる。
メキシコは銀の産出国でもあり、ここでも銀細工を多く売っている。だが、アルパカという偽物が多いらしい。どこかの店の親父は、銀細工に変な薬品を掛けて、「みろ!本物だろ?」みたいなパフィーマンスをして本物アピールをしている。しかしその薬品が何なのか、全くもって不明だ。
あるお店では、外国のお金が好きだ、といって、千円札を見せたら、Tシャツと交換してくれと言われた。交換はしなかったが、まだましな商売方法だ。ちなみにこの辺りではメキシコペソではなく、ドルがメインだ。
なんだかいろいろな商法があって楽しいことは楽しい。
それにレストランに入れば、マッサージをしていかないか(いかがわしいやつ)と勧められ、街の外れでは若いメキシコの女の子が立っていて、誘う目をしてくる。
夜には、あちらこちらにあるクラブが爆音を響かせている。
ラリってゲロ吐いて、、、という感じだろうか?
つまりティファナとは、そんな遊びの観光地だ。
ホテルでおとなしくしていたが、隣が爆音クラブだったので、あまりにうるさく眠れない夜を過ごした。
残念ながら、遊べるノリもなく、危険な夜からは離れて過ごした。
ここには、運命の出会いも、歴史も無い。
ただ羽目を外したい裕福な国の人と、裕福な国の金で暮らす貧しい国の人が入り混じっているだけ。それが国境の街、ティファナだ。
サンディエゴの3日目は、バルボア公園で過ごした。ここには、様々な博物館があった。
個人的な趣味として、自然史博物館と人類史博物館を訪れた。
自然史博物館は、恐竜から鳥になる過程の化石が展示されていた。ここ最近では、日本の上野や幕張やいろいろな場所でこういった展示をしているが、2004年としては一歩進んでいたと思う。そしてアメリカはレプリカではなく、全身骨格がほとんどだったと思う。アメリカの進んだ研究を見る事ができた。
人類史博物館は、これからメキシコへ入ればいくらでも観るであろうマヤ文明の展示が主だった。ほとんど何も覚えていない。
そんな3日目を終えた。
そして、ついにメキシコインとなる。
前回のとおり、サンディエゴからメキシコのティファナへは路面電車と徒歩で入国することができる。たしかその日か、一泊程度なら、入出国は可能だ。だからサンディエゴを訪れた観光客が、一日だけメキシコへと遊びに入ることのできる街でもある。
僕の場合は、ツーリストカードという入国申請を日本にいる時に済まして、3か月の観光を申請した。長期の滞在にはこれが必要だ。
ティファナはアメリカ人がちょっと遊びに来るメキシコであるが、メキシコ人はアメリカに入れずに足止めされているメキシコでもある。
アメリカからメキシコにはすんなり入れても、メキシコからアメリカへは入りにくい。国境の国道にはメキシコ側から長蛇の列ができている。メキシコ人に限った話だろう。
だから治安が悪い事でも有名だ。アメリカに入れないお金のないメキシコ人がたくさんいるらしい。サンディエゴに比べて身構えるが、実際入って、まずはそこまでの危険な感じはしない。
サンディエゴとの違いは、乾燥した空気だ。サンディエゴの地が潤った地表だったのに対し、ティファナの地は乾燥して感じられる。空気が砂埃っぽい。たかが数キロの違いなのに、この違いは何なのか、メキシコに入ったな!という空気を感じる。
イン メキシコだ。
ティファナのメインストリートであるレヴォリューション通りでは、たくさんの土産屋が並んでいる。日本人もよく来るようで、変な日本語を話しかけてくるメキシコ人もいる。
カラフルなオウムや縞々に色を塗られた馬(偽のシマウマ)がいて、記念写真をいかがかと寄ってくる怪しいメキシコ人がいる。変に写真を撮ると高い値で売りつけられる。
メキシコは銀の産出国でもあり、ここでも銀細工を多く売っている。だが、アルパカという偽物が多いらしい。どこかの店の親父は、銀細工に変な薬品を掛けて、「みろ!本物だろ?」みたいなパフィーマンスをして本物アピールをしている。しかしその薬品が何なのか、全くもって不明だ。
あるお店では、外国のお金が好きだ、といって、千円札を見せたら、Tシャツと交換してくれと言われた。交換はしなかったが、まだましな商売方法だ。ちなみにこの辺りではメキシコペソではなく、ドルがメインだ。
なんだかいろいろな商法があって楽しいことは楽しい。
それにレストランに入れば、マッサージをしていかないか(いかがわしいやつ)と勧められ、街の外れでは若いメキシコの女の子が立っていて、誘う目をしてくる。
夜には、あちらこちらにあるクラブが爆音を響かせている。
ラリってゲロ吐いて、、、という感じだろうか?
つまりティファナとは、そんな遊びの観光地だ。
ホテルでおとなしくしていたが、隣が爆音クラブだったので、あまりにうるさく眠れない夜を過ごした。
残念ながら、遊べるノリもなく、危険な夜からは離れて過ごした。
ここには、運命の出会いも、歴史も無い。
ただ羽目を外したい裕福な国の人と、裕福な国の金で暮らす貧しい国の人が入り混じっているだけ。それが国境の街、ティファナだ。
メキシコ回想記6.サンディエゴの出会いと心の記憶
11年前の記憶とは、極めて薄い。もし日記の記録もなく、思い返そうとしても、ほとんど思い出すこともできないと思う。
それだけでなく、ここ数年で、僕は過去の思い出を思い返すのがひどく下手になった気がする。
過去はもっと、鮮やかに、明瞭に、そこに記憶を思い返すことで蘇るものだと、ここに文章を綴る前には信じていたけれど、信じていた記憶は蘇ろうとしない。
まだ、旅の冒頭だからだろうか?あの頃の事は、思い出すことができない。そして、どうでもいい記憶のように、ほんの少しの事を覚えている。
サンディエゴから、メキシコへは、路面電車で国境まで行き、歩いて、メキシコのティファナという街に入国できる。その日の内ならビザも要らずに行き来することができたはずた。
その話にはまだ早い。
サンディエゴに着いた日、僕はユースホステルに泊まった。このホステルがどんなホステルだったかも覚えていない。覚えていないことはいくら語ろうとしても仕方がない。覚えていない記憶は、書いても実に意味がない。
着いた日は昼だったので、サンディエゴの街へと出た。ホートンプラザという大きなショッピングモールがあって、そこでアディダスのサンダルを買った。このサンダルは日本に帰ってきた後も5年以上使っていたので、覚えている。
旅に出るにはほとんど手ぶらで出かけた方がいい。現地で手に入る物は現地で手に入れる。そうするとどうでもいい物が思い出に残る。旅をする人へのお勧めだ。
日記では、サンダルを買ったお店の黒人の店員さんは少し日本語が喋れたと書いてある。福岡に友人がいて、それで知っていたらしい。きっと僕はほんの少しの日本語に癒されていたことだろう。
二人前は有りそうな一人前のパスタを食べたのも覚えている。腹いっぱいで食べきれなかった記憶というのはしっかり頭に残る。
ユースホステルに戻り、日本人の旅人に出会った。この旅初の出会いだ。
カナダからアメリカの北米大陸を旅している大学生を卒業したての男の子だった。彼は夜行バスを乗り継いで、このサンディエゴにやってきたらしい。名前をコージ君と言った。
ほとんど夜行バス生活で、後はユースホステルのような安宿生活だ。僕も大学卒業したてはヨーロッパ周遊をした。慌しい貧乏旅行だった。
その事をコージ君にも言った。
「一度行く人は、二度三度行くって言いますけど、僕もそうなっちゃうですかね」
彼は僕にそう言った。
僕はなんて答えたのだろう。
「人それぞれじゃないかな?」そう答えただろうか?
僕がヨーロッパの旅を終え、メキシコの旅に出たのは、ヨーロッパの旅では何か満たされないものがあったからだ。ヨーロッパの旅は友人と二人だったから、自分で何もかもできるのか、やってみたかったというのもあったのだろう。
このメキシコ旅のまた後、このブログにも書いたとおり、沖縄自転車旅もしている。僕においては、それまで止められていない。それなりの理由があってそうしていたが、今はもう旅に出る理由が見当たらない。もう終ったような気がする。
ヨーロッパに一緒に旅をした友人は、それ以降、長時間の旅には出ていない。会社の関係で、数回の海外旅行はしているけれど、それが彼の全てだ。
だから、答えは、「人それぞれ」だと思う。
コージ君とはいろいろ旅について話をした。
アメリカ南部の街はいろいろと危険な感じがしたと言っていた。深くは覚えていないのが残念だ。
街の中華屋で飯を買って、一緒に食べながら、そんな話をした。
そして、彼はその日の夜に、再び夜行バスで、ラスベガスへと旅立っていった。
翌日は、ラホヤ海岸という海岸を訪れた。砂の固まった砂岩が様々な形に造形された美しい海岸で、そこにアザラシが寝そべって日向ぼっこをしている。11月終りのアメリカ西海岸は思ったより寒かった。
僕はその日一日をほとんどそこでぼおっして過ごした。暖かい日差しと、海岸から吹き付ける風を感じながら。
小さな海鳥たちが、波打ち際を行ったり来たり、十数羽、サーフィンをしている子供のように遊んでいる。
鳩が僕の周りに、三十羽くらいいて、そこら辺を周遊して、僕のまた僕の前に戻ってくる。また飛び立つと、そこにはひょっこりとリスが顔を出して通りすぎていった。
アメリカの国旗が掲げられたアザラシを、観光客やら地元の人が眺めている。海辺の飛び交う海鳥の影が波で削られた砂岩層の湾曲する崖に映る。
太陽は西の空に落ちてゆこうしている。生い茂る草木が強い風にたなびいて揺れていた。日が沈めば、風はとても冷たく感じられるようになるだろう。
時折、写真を撮ったり、白紙に絵を描いたりして過ごした。ただ広い海岸を歩いてもみた。
誰にも出会わない日だった。僕は一人、旅をしていた。夢の世界の中にいるようだった。個の世界で、一人暮らしているようだった。
心はほんの少し覚えている。目で観たものでもない。聴いた音でも、触れた感触でも、香りでもない。あの日の記憶は、僕の心が覚えている。嬉しいような、寂しいような、喜ばしいような、切ないような、一人旅で味わった無駄な時間が思い出の中にあった。
二度三度しなくてもいい。旅を望むのなら旅に出よう。記憶は美しく、心の中に残り、苦しい時に心を甦らせてくれる。
それだけでなく、ここ数年で、僕は過去の思い出を思い返すのがひどく下手になった気がする。
過去はもっと、鮮やかに、明瞭に、そこに記憶を思い返すことで蘇るものだと、ここに文章を綴る前には信じていたけれど、信じていた記憶は蘇ろうとしない。
まだ、旅の冒頭だからだろうか?あの頃の事は、思い出すことができない。そして、どうでもいい記憶のように、ほんの少しの事を覚えている。
サンディエゴから、メキシコへは、路面電車で国境まで行き、歩いて、メキシコのティファナという街に入国できる。その日の内ならビザも要らずに行き来することができたはずた。
その話にはまだ早い。
サンディエゴに着いた日、僕はユースホステルに泊まった。このホステルがどんなホステルだったかも覚えていない。覚えていないことはいくら語ろうとしても仕方がない。覚えていない記憶は、書いても実に意味がない。
着いた日は昼だったので、サンディエゴの街へと出た。ホートンプラザという大きなショッピングモールがあって、そこでアディダスのサンダルを買った。このサンダルは日本に帰ってきた後も5年以上使っていたので、覚えている。
旅に出るにはほとんど手ぶらで出かけた方がいい。現地で手に入る物は現地で手に入れる。そうするとどうでもいい物が思い出に残る。旅をする人へのお勧めだ。
日記では、サンダルを買ったお店の黒人の店員さんは少し日本語が喋れたと書いてある。福岡に友人がいて、それで知っていたらしい。きっと僕はほんの少しの日本語に癒されていたことだろう。
二人前は有りそうな一人前のパスタを食べたのも覚えている。腹いっぱいで食べきれなかった記憶というのはしっかり頭に残る。
ユースホステルに戻り、日本人の旅人に出会った。この旅初の出会いだ。
カナダからアメリカの北米大陸を旅している大学生を卒業したての男の子だった。彼は夜行バスを乗り継いで、このサンディエゴにやってきたらしい。名前をコージ君と言った。
ほとんど夜行バス生活で、後はユースホステルのような安宿生活だ。僕も大学卒業したてはヨーロッパ周遊をした。慌しい貧乏旅行だった。
その事をコージ君にも言った。
「一度行く人は、二度三度行くって言いますけど、僕もそうなっちゃうですかね」
彼は僕にそう言った。
僕はなんて答えたのだろう。
「人それぞれじゃないかな?」そう答えただろうか?
僕がヨーロッパの旅を終え、メキシコの旅に出たのは、ヨーロッパの旅では何か満たされないものがあったからだ。ヨーロッパの旅は友人と二人だったから、自分で何もかもできるのか、やってみたかったというのもあったのだろう。
このメキシコ旅のまた後、このブログにも書いたとおり、沖縄自転車旅もしている。僕においては、それまで止められていない。それなりの理由があってそうしていたが、今はもう旅に出る理由が見当たらない。もう終ったような気がする。
ヨーロッパに一緒に旅をした友人は、それ以降、長時間の旅には出ていない。会社の関係で、数回の海外旅行はしているけれど、それが彼の全てだ。
だから、答えは、「人それぞれ」だと思う。
コージ君とはいろいろ旅について話をした。
アメリカ南部の街はいろいろと危険な感じがしたと言っていた。深くは覚えていないのが残念だ。
街の中華屋で飯を買って、一緒に食べながら、そんな話をした。
そして、彼はその日の夜に、再び夜行バスで、ラスベガスへと旅立っていった。
翌日は、ラホヤ海岸という海岸を訪れた。砂の固まった砂岩が様々な形に造形された美しい海岸で、そこにアザラシが寝そべって日向ぼっこをしている。11月終りのアメリカ西海岸は思ったより寒かった。
僕はその日一日をほとんどそこでぼおっして過ごした。暖かい日差しと、海岸から吹き付ける風を感じながら。
小さな海鳥たちが、波打ち際を行ったり来たり、十数羽、サーフィンをしている子供のように遊んでいる。
鳩が僕の周りに、三十羽くらいいて、そこら辺を周遊して、僕のまた僕の前に戻ってくる。また飛び立つと、そこにはひょっこりとリスが顔を出して通りすぎていった。
アメリカの国旗が掲げられたアザラシを、観光客やら地元の人が眺めている。海辺の飛び交う海鳥の影が波で削られた砂岩層の湾曲する崖に映る。
太陽は西の空に落ちてゆこうしている。生い茂る草木が強い風にたなびいて揺れていた。日が沈めば、風はとても冷たく感じられるようになるだろう。
時折、写真を撮ったり、白紙に絵を描いたりして過ごした。ただ広い海岸を歩いてもみた。
誰にも出会わない日だった。僕は一人、旅をしていた。夢の世界の中にいるようだった。個の世界で、一人暮らしているようだった。
心はほんの少し覚えている。目で観たものでもない。聴いた音でも、触れた感触でも、香りでもない。あの日の記憶は、僕の心が覚えている。嬉しいような、寂しいような、喜ばしいような、切ないような、一人旅で味わった無駄な時間が思い出の中にあった。
二度三度しなくてもいい。旅を望むのなら旅に出よう。記憶は美しく、心の中に残り、苦しい時に心を甦らせてくれる。
メキシコ回想記5.ロサンゼルスからサンディエゴへ
日記を読み返すと、ロサンゼルスには3泊していることがわかった。そして雨が降ったのは3日目だ。2日目は、まだ曇りだったのだろう。それからマクドナルドのはちみつ入りバーガーを食べたのも、3日目だ。
まずはそんな訂正から入る。
3日目、僕はCD屋を訪れている。
当時僕はニールヤングに嵌っていたので、アメリカにしかないCDがないかを探して、CD屋を訪れた。
2004年はまだ、i-podはなかった。僕はCDウオークマンを持って、CDケースに何枚かのお気に入りのCDを入れて、音楽を聴いていた。
ニールヤングとジュエルがお気に入りだった。アメリカ大陸の広大な大地に合うミュージックだった。音楽は当時の記憶を思い出す手段の一つだ。
CD屋では、UTADAやPUFFYのCDが置いてあった。UTADAは日本では当時、大人気であったが、アメリカではあまり受けなかったようで、たくさんのCDが余っているように見えた。PUFFYはアメリカでPUFFYのアニメをやっていたらしく、それなりに人気があったようである。そしてワールドミュージックというコーナーには、MISIAのCDが置いてあった。日本語のCDである。当時、人気ではあったが、MISIAしかないのはなぜかは不明である。アメリカ受けしそうな感じだったのかもしれない。
求めていたニールヤングのCDはなく、DVDを買ったが、これは日本に帰ってきてから観ることができなかった。アメリカの規格と日本の規格が違い、予想はしていたがやはり観れなかった。後に、韓国版で、同じCDが中古CD屋に売っていて買ってみることができたが。
ロサンゼルスにはたくさんのスターバックスがある。ただ、日本のスターバックスを思うと全然違う。味気ないどこにでもあるコーヒーを置いてあるだけの喫茶店が、アメリカのスターバックスだ。今はわからないが、当時の印象はそうだ。
しかし便利なので利用した。少し休憩するにはスターバックスでいい。オシャレなカフェもあったが、一人旅のプラプラしている僕にはこんなコーヒー店がちょうどよかった。
ロサンゼルスで過ごした三日間は、一人旅にはあまり楽しい旅ではなかった記憶がある。
ロサンゼルスという街は大人数で楽しむ街なのだろう。
だから、あとはこれといった思い出もない。
4日目に移る。
4日目は、ロサンゼルスからサンディエゴに移動した。
移動には鉄道を利用した。多くの場合は、バス移動がメインらしい。アメリカで鉄道の移動は珍しい。
ロサンゼルスの駅には、アメリカンサイズの大きな列車が止まっていたのを覚えている。イメージだが、かなり長い列車で、人を乗せるというよりは貨物がメインをようで、長い貨物列車に、数両の人を乗せる列車が付いてる感じだった。
人はほとんど乗っていなかった。優雅な鉄道の旅だ。
ロサンゼルスからサンディエゴまでは3時間ほどだった。カリフォルニア州を南に下り、メキシコとの国境がある都市がサンディエゴだ。
列車での移動中の風景は何もない。今にも崩れそうな風化した大地の上を列車が走ってゆく。
サンディエゴには、昼頃着いた。
ロサンゼルスではビジネスホテルで過ごし、人付き合いがなかったので、誰かと会いたいと思い、ここではユースホステルに泊まることとした。
できれば日本人に会いたかった。海外で一人旅をしているわりに、何となく外国人は苦手だと感じている。アメリカのおおげさなジェスチャーのような話しっぷりが、僕にはできない。
それでも、ロサンゼルスを離れた僕は、新しく訪れた街に少しだけ心を弾ませていた。ここからが本当の旅だとも思っていたのだろう。
サンディエゴの思い出はまた次回、思い出そう。
まずはそんな訂正から入る。
3日目、僕はCD屋を訪れている。
当時僕はニールヤングに嵌っていたので、アメリカにしかないCDがないかを探して、CD屋を訪れた。
2004年はまだ、i-podはなかった。僕はCDウオークマンを持って、CDケースに何枚かのお気に入りのCDを入れて、音楽を聴いていた。
ニールヤングとジュエルがお気に入りだった。アメリカ大陸の広大な大地に合うミュージックだった。音楽は当時の記憶を思い出す手段の一つだ。
CD屋では、UTADAやPUFFYのCDが置いてあった。UTADAは日本では当時、大人気であったが、アメリカではあまり受けなかったようで、たくさんのCDが余っているように見えた。PUFFYはアメリカでPUFFYのアニメをやっていたらしく、それなりに人気があったようである。そしてワールドミュージックというコーナーには、MISIAのCDが置いてあった。日本語のCDである。当時、人気ではあったが、MISIAしかないのはなぜかは不明である。アメリカ受けしそうな感じだったのかもしれない。
求めていたニールヤングのCDはなく、DVDを買ったが、これは日本に帰ってきてから観ることができなかった。アメリカの規格と日本の規格が違い、予想はしていたがやはり観れなかった。後に、韓国版で、同じCDが中古CD屋に売っていて買ってみることができたが。
ロサンゼルスにはたくさんのスターバックスがある。ただ、日本のスターバックスを思うと全然違う。味気ないどこにでもあるコーヒーを置いてあるだけの喫茶店が、アメリカのスターバックスだ。今はわからないが、当時の印象はそうだ。
しかし便利なので利用した。少し休憩するにはスターバックスでいい。オシャレなカフェもあったが、一人旅のプラプラしている僕にはこんなコーヒー店がちょうどよかった。
ロサンゼルスで過ごした三日間は、一人旅にはあまり楽しい旅ではなかった記憶がある。
ロサンゼルスという街は大人数で楽しむ街なのだろう。
だから、あとはこれといった思い出もない。
4日目に移る。
4日目は、ロサンゼルスからサンディエゴに移動した。
移動には鉄道を利用した。多くの場合は、バス移動がメインらしい。アメリカで鉄道の移動は珍しい。
ロサンゼルスの駅には、アメリカンサイズの大きな列車が止まっていたのを覚えている。イメージだが、かなり長い列車で、人を乗せるというよりは貨物がメインをようで、長い貨物列車に、数両の人を乗せる列車が付いてる感じだった。
人はほとんど乗っていなかった。優雅な鉄道の旅だ。
ロサンゼルスからサンディエゴまでは3時間ほどだった。カリフォルニア州を南に下り、メキシコとの国境がある都市がサンディエゴだ。
列車での移動中の風景は何もない。今にも崩れそうな風化した大地の上を列車が走ってゆく。
サンディエゴには、昼頃着いた。
ロサンゼルスではビジネスホテルで過ごし、人付き合いがなかったので、誰かと会いたいと思い、ここではユースホステルに泊まることとした。
できれば日本人に会いたかった。海外で一人旅をしているわりに、何となく外国人は苦手だと感じている。アメリカのおおげさなジェスチャーのような話しっぷりが、僕にはできない。
それでも、ロサンゼルスを離れた僕は、新しく訪れた街に少しだけ心を弾ませていた。ここからが本当の旅だとも思っていたのだろう。
サンディエゴの思い出はまた次回、思い出そう。
メキシコ回想記4.ロサンゼルス2日目
2004年11月26日、ロサンゼルスのあの日は雨が降っていた。小雨だったか、弱い雨で、少し肌寒かった。
ホテルからバスに乗って、メルローズストリートへ向かう。
ロサンゼルスで買い物をしようとしていた。
前日は、サンタモニカのA/Xでつば付帽子を買った。2日はサングラスが欲しくなって、オークリーのサングラスを買った。あと、何だかよくわからないTシャツを買った。
普通にロサンゼルスでのショッピングを楽しむ。
どこかのお店は日本人が経営するお店だった。銀細工のジュエリーがたくさんあって、B’zが訪れるお店だと、店長の女性は言っていた。浜崎あゆみも来たことがある。確か写真もあったので、来たことがあるのは本当のようだ。
数万円もする銀のネックレスやらブレスレット。メキシコへ行けばもっと安く買えるだろう。銀細工はデザインの問題なのかもしれないが、もっと安く買える。
そんな事を思いながら、勧められる銀細工を愛想笑いで眺めていた。
お昼はマクドナルドだ。間違いないので。
しかし間違えた。アメリカンビッグサイズを避けて、小さい目のセット頼んだら、はちみつ付きのハンバーガーだった。アメリカ人はどうしても高カロリーにしたいらしい。甘いハンバーガーは余計口に合わない。
ソーバッドだ。
昼過ぎはハリウッドを訪れていた。
観光らしい観光だが、一人歩いていても、観光っぽくはない。
エンターテインメント博物館というところを訪れてみた。今となっては何があったか、全く覚えていない。白人のおじさんがいろいろと飾ってある、映画で使用した衣装や小道具を紹介してくれるのだが、早口で何を言っているか聞き取れない。もう少し英語力があればもちろん問題はないのだろうが、僕には無理だった。
一通り回った後、何かしらの体験ができるらしいが、それ以上そこにいることに疲れてしまった僕は、時間がないふりをして、その場を立ち去った。僕の他に、家族ずれとカップルのアメリカ人がいたので、いなくなったところで特に気まずくはなかった。
それからチャイニーズシアターだのなんだのを歩いた。有名な場所のはずだが、記憶にはほとんどない。有名人の手形が石畳にあるのがそこだったろう。
それから早めの夕食。中華を食べて、ホテルに戻った。と日記に書いていあるが、何を食べたか全く思い出せない。
このあたりの記憶はほとんどない。さすが11年前だ。
覚えているのは、とても疲れたという事だ。本当なら楽しい経験をしているはずだけど、なぜだか、楽しい記憶は残っていない。
一人旅は、楽しくないな、とかも思っていたのだろう。
もっと誰かに会いたい、と思っていったのだろう。
一緒に旅する仲間が欲しいとか。
日本語でめいっぱい話がしたいとか。
同じ気持ちを分かち合いたいとか。
わかっていたけど、現実はそんなふうに誰かに出会えるものではない。その事をはっきりさせられた。
夢がきれいに現実で消されてゆく。
僕はそんな気分で、寂しさを感じ始めていた。
それがロサンゼルスの2日目、旅2日目の記憶だ。
ホテルからバスに乗って、メルローズストリートへ向かう。
ロサンゼルスで買い物をしようとしていた。
前日は、サンタモニカのA/Xでつば付帽子を買った。2日はサングラスが欲しくなって、オークリーのサングラスを買った。あと、何だかよくわからないTシャツを買った。
普通にロサンゼルスでのショッピングを楽しむ。
どこかのお店は日本人が経営するお店だった。銀細工のジュエリーがたくさんあって、B’zが訪れるお店だと、店長の女性は言っていた。浜崎あゆみも来たことがある。確か写真もあったので、来たことがあるのは本当のようだ。
数万円もする銀のネックレスやらブレスレット。メキシコへ行けばもっと安く買えるだろう。銀細工はデザインの問題なのかもしれないが、もっと安く買える。
そんな事を思いながら、勧められる銀細工を愛想笑いで眺めていた。
お昼はマクドナルドだ。間違いないので。
しかし間違えた。アメリカンビッグサイズを避けて、小さい目のセット頼んだら、はちみつ付きのハンバーガーだった。アメリカ人はどうしても高カロリーにしたいらしい。甘いハンバーガーは余計口に合わない。
ソーバッドだ。
昼過ぎはハリウッドを訪れていた。
観光らしい観光だが、一人歩いていても、観光っぽくはない。
エンターテインメント博物館というところを訪れてみた。今となっては何があったか、全く覚えていない。白人のおじさんがいろいろと飾ってある、映画で使用した衣装や小道具を紹介してくれるのだが、早口で何を言っているか聞き取れない。もう少し英語力があればもちろん問題はないのだろうが、僕には無理だった。
一通り回った後、何かしらの体験ができるらしいが、それ以上そこにいることに疲れてしまった僕は、時間がないふりをして、その場を立ち去った。僕の他に、家族ずれとカップルのアメリカ人がいたので、いなくなったところで特に気まずくはなかった。
それからチャイニーズシアターだのなんだのを歩いた。有名な場所のはずだが、記憶にはほとんどない。有名人の手形が石畳にあるのがそこだったろう。
それから早めの夕食。中華を食べて、ホテルに戻った。と日記に書いていあるが、何を食べたか全く思い出せない。
このあたりの記憶はほとんどない。さすが11年前だ。
覚えているのは、とても疲れたという事だ。本当なら楽しい経験をしているはずだけど、なぜだか、楽しい記憶は残っていない。
一人旅は、楽しくないな、とかも思っていたのだろう。
もっと誰かに会いたい、と思っていったのだろう。
一緒に旅する仲間が欲しいとか。
日本語でめいっぱい話がしたいとか。
同じ気持ちを分かち合いたいとか。
わかっていたけど、現実はそんなふうに誰かに出会えるものではない。その事をはっきりさせられた。
夢がきれいに現実で消されてゆく。
僕はそんな気分で、寂しさを感じ始めていた。
それがロサンゼルスの2日目、旅2日目の記憶だ。