メキシコ回想記13.マサトラン~グアダラハラと文化について
とりわけ、これといって思い出深くない日の事を思い返そうとする。マサトランでは気分が沈んでいたし、これといった出来事があったわけではない。一泊二日の街では特に思い出も作りにくい。
旅のお勧めは二泊三日以上だ。長い旅をすると、いろいろな所に回りたくなり、ただ多くの街へと渡り歩くことが往々にしてある。そうすると、街の印象は薄まる。通り過ぎた街になってしまう。二泊すると、その街に一日は居座ることとなる。するとその街を覚える。その街に暮らしたような記憶に変わる。だから二泊三日がいい。
でもマサトランでは一泊しかしていない。句読点で言うと、「。」ではなく「、」だ。そういったワンテンポを置いただけの街だ。
今、この文章を早く先へと行かせようとしている。2004年12月13日も早くグァナファトへと着きたく、気持ちは急いでいた。
あの日、僕はマサトランのビーチを歩き、ビーチにあるタコス料理に立ち寄った。
この頃の僕の悩みといえば、スペイン語の事と、チップの事だ。いいレストランならチップはサービス料として最初から込みになっている。ファーストフード程度の店なら特に必要ない。一番気になるのはこういった店だ。もう少しレストラン風なら払うのだが、こういった店はどっちなのか、何でもかんでも払えばいいのかもしれない。そこは気持ちでしょ?とかいう考えもある。飯を食べるたびに、ここではチップを払うか、払わないか、はたまたどう払うか、そんな事を悩まなければならない。
小さいことに悩む。小心者だ。
その店ではチップを置いていかなかった。飯はまずまず美味しかったし、サービスが悪かったわけでもない。ただ、海の店風の食堂にチップを置いていく必要があるのかわからなかっただけだ。
そして、その日も、やはりチップ払った方が良かったんじゃないか。とかずっと悩みながら歩いていた。
結局その悩みはいずれ忘れてしまう。おそらく徐々に払わなくてもいいことを知ることになったのだと思う。
さて、そんなマサトランでの一日が過ぎ、翌朝は早速、バスターミナルへと向かった。ここからグアダラハラへ向かう。グアダラハラはメキシコで2番目に大きい都市で、グァナファトへ向かう途中にある。マサトランからはバスで6時間程度のはずだ。
バスターミナルの切符売り場のおじさんに、「グアダラハラへ行きたい」という。おじさんは、「ウァダァラハ~ラ」だと言う。なんだか発音が悪いらしい。「ウァダァラハ~ラ」と言うと、おじさんは、グーを出した。
何だかどうでもいいことだが、こういう陽気なおじさんに会うと、悩んでいたことを忘れられる。この先の旅の不安も忘れされてくれる。
旅人には、陽気なテンションに流されて、陽気に旅をできる人もいるようだが、僕は残念ながらそういうタイプではない。常に旅の行先を不安に感じながら、恐れながら進んでいる。
だからたまに陽気な気持ちにさせてくれる人に出会うと嬉しい。
ウァダラナラは、メキシコ第2の都市。きっと治安も悪いはずだ。一方で、そんな不安が頭にはあった。不安を感じながらバスは出発する。
海辺の都市マサトランを離れ、ついに海岸沿いから内陸へと向かう。思えばこの旅、ここまでずっと海岸沿いを旅してきた。メキシコはアメリカ合衆国ほど内陸が広いわけでもないけれど、日本に比べればはるかに内陸が多い。海岸沿いの街と内陸の都市とでは標高差が2,000メートル程度ある街もある。ウァダラハラもそこまではないけれど、1,000メートルよりは高かったはずだ。
バスはサボテンの生える荒野を少しずつ上っていった。特に途中休憩もなく走り続ける。一等の良いバスだったから乗り心地は良い。トイレも付いているからその心配も要らない。
ウァダラハラが近づいてきて、渋滞に嵌ってしまった。バスは動かない。予定では夕暮れ前には着くはずだったけれど、どうやら遅れそうだ。渋滞の原因はわからない。第2の都市だけあって、いつもこんな風に混んでいるのかもしれない。
バスターミナルへ着いたのは、20時近くだった。2時間近く遅れた気がする。
すでにバスターミナルの機能は停止していて、売店やインフォメーションは閉まっている。頼りになる人はいない。頼りのガイドブックでは、バスターミナルから街の中心地まではかなりの距離がある。専用のバスもあるようだが、すでに動いていないのか、ただ乗り場がわかりにくいだけなのか、見つかりそうにない。タクシーを使うしかない。
本来ならタクシーチケットを使って乗るのだが、それもどこで売っているのかわからない。すでに閉まっているようだ。
路上の止まっているタクシーに声を掛ける。
タクシーの後部座席は空いた。髭のタクシードライバーは「乗れ」というような態度を取る。あまりちゃんとしたタクシードライバーには見えない。こういう時間の旅行者を狙っていたようにも見える。
助手席には先客がいた。女の人が座っている。乗り合いタクシーなのだろうか?
何だかわからないが、今更別のタクシーには変えられない。荷物があることを言うと、下りてきてガラの悪そうなドライバーは荷物をトランクに入れ、すぐに乗るように言った。
後部座席に乗る。
混み合う道路をタクシーは走り出す。ガラの悪いドライバーは助手席の女性と話をしている。やけに会話が多い。
やがてハッと気づく。この女性はガラの悪いドライバーの女か何か、ただナンパして乗せているだけかもしれないが、そんな関係だ。
やれやれ、とんでもないタクシーに乗ってしまった。
いずれにしても無事にここから解放されればいい。とんでもないぼったくりタクシードライバーもいると聞く。
乗る時に値段交渉もしておいた。本来なら900円くらいらしいが、交渉では1,200円程度になった。もはや面倒なんで譲った。そして街のホテルまで行ってほしいと話している。せめてちゃんとしたホテルに行ってほしい。
こいつはちゃんと街中のホテルまで連れて行ってくれるのか心配した。それから30分以上。タクシードライバーは一応ちゃんとホテルに下ろしてくれた。そして「ちゃんと泊まれるのか?」というような質問をしてみた。するとドライバーは意外にも運転席を下りて、ホテルに入り、ちゃんと空いているかも確認してくれた。
危険な雰囲気はしたが悪人ではないようだ。ただ自分が下りるときに、「プラス200円だ」と言ってきた。ホテル紹介料かなんだか知らないが、やれやれ。ただの親切ではなかったらしい。
女づれタクシードライバーから解放されて、ホテルに入る。一泊4,000円くらいのホテルで、2~3,000円のところに泊まりたかったので予定より少し高いホテルになってしまったが仕方がない。宿泊の準備が整うとボーイが付いてきて、別に運ばなくてもいいのに荷物を運び出す。そして、部屋まで行って指先をもんでチップを要求する。
文化の違いだ。チップを出す。
何だかこれになれない。
面倒だ。余計な金を取られている気がする。気を遣う。できれば自分で出来る事は自分でしたい。
おおよそ日本のようにサービスでやってくれることはない。そこにはいつも、チップが必要なのだ。日本のおもてなしは、世界ではチップくれ!だ。優しさだと思ってはいけない。
あの日僕は、不安と緊張の中で、そんな文化について学んだのだった。
ふとそんな事を思い出す。緊張と解放の連続。でもそこに、旅の楽しみがあったのかもしれない。
旅のお勧めは二泊三日以上だ。長い旅をすると、いろいろな所に回りたくなり、ただ多くの街へと渡り歩くことが往々にしてある。そうすると、街の印象は薄まる。通り過ぎた街になってしまう。二泊すると、その街に一日は居座ることとなる。するとその街を覚える。その街に暮らしたような記憶に変わる。だから二泊三日がいい。
でもマサトランでは一泊しかしていない。句読点で言うと、「。」ではなく「、」だ。そういったワンテンポを置いただけの街だ。
今、この文章を早く先へと行かせようとしている。2004年12月13日も早くグァナファトへと着きたく、気持ちは急いでいた。
あの日、僕はマサトランのビーチを歩き、ビーチにあるタコス料理に立ち寄った。
この頃の僕の悩みといえば、スペイン語の事と、チップの事だ。いいレストランならチップはサービス料として最初から込みになっている。ファーストフード程度の店なら特に必要ない。一番気になるのはこういった店だ。もう少しレストラン風なら払うのだが、こういった店はどっちなのか、何でもかんでも払えばいいのかもしれない。そこは気持ちでしょ?とかいう考えもある。飯を食べるたびに、ここではチップを払うか、払わないか、はたまたどう払うか、そんな事を悩まなければならない。
小さいことに悩む。小心者だ。
その店ではチップを置いていかなかった。飯はまずまず美味しかったし、サービスが悪かったわけでもない。ただ、海の店風の食堂にチップを置いていく必要があるのかわからなかっただけだ。
そして、その日も、やはりチップ払った方が良かったんじゃないか。とかずっと悩みながら歩いていた。
結局その悩みはいずれ忘れてしまう。おそらく徐々に払わなくてもいいことを知ることになったのだと思う。
さて、そんなマサトランでの一日が過ぎ、翌朝は早速、バスターミナルへと向かった。ここからグアダラハラへ向かう。グアダラハラはメキシコで2番目に大きい都市で、グァナファトへ向かう途中にある。マサトランからはバスで6時間程度のはずだ。
バスターミナルの切符売り場のおじさんに、「グアダラハラへ行きたい」という。おじさんは、「ウァダァラハ~ラ」だと言う。なんだか発音が悪いらしい。「ウァダァラハ~ラ」と言うと、おじさんは、グーを出した。
何だかどうでもいいことだが、こういう陽気なおじさんに会うと、悩んでいたことを忘れられる。この先の旅の不安も忘れされてくれる。
旅人には、陽気なテンションに流されて、陽気に旅をできる人もいるようだが、僕は残念ながらそういうタイプではない。常に旅の行先を不安に感じながら、恐れながら進んでいる。
だからたまに陽気な気持ちにさせてくれる人に出会うと嬉しい。
ウァダラナラは、メキシコ第2の都市。きっと治安も悪いはずだ。一方で、そんな不安が頭にはあった。不安を感じながらバスは出発する。
海辺の都市マサトランを離れ、ついに海岸沿いから内陸へと向かう。思えばこの旅、ここまでずっと海岸沿いを旅してきた。メキシコはアメリカ合衆国ほど内陸が広いわけでもないけれど、日本に比べればはるかに内陸が多い。海岸沿いの街と内陸の都市とでは標高差が2,000メートル程度ある街もある。ウァダラハラもそこまではないけれど、1,000メートルよりは高かったはずだ。
バスはサボテンの生える荒野を少しずつ上っていった。特に途中休憩もなく走り続ける。一等の良いバスだったから乗り心地は良い。トイレも付いているからその心配も要らない。
ウァダラハラが近づいてきて、渋滞に嵌ってしまった。バスは動かない。予定では夕暮れ前には着くはずだったけれど、どうやら遅れそうだ。渋滞の原因はわからない。第2の都市だけあって、いつもこんな風に混んでいるのかもしれない。
バスターミナルへ着いたのは、20時近くだった。2時間近く遅れた気がする。
すでにバスターミナルの機能は停止していて、売店やインフォメーションは閉まっている。頼りになる人はいない。頼りのガイドブックでは、バスターミナルから街の中心地まではかなりの距離がある。専用のバスもあるようだが、すでに動いていないのか、ただ乗り場がわかりにくいだけなのか、見つかりそうにない。タクシーを使うしかない。
本来ならタクシーチケットを使って乗るのだが、それもどこで売っているのかわからない。すでに閉まっているようだ。
路上の止まっているタクシーに声を掛ける。
タクシーの後部座席は空いた。髭のタクシードライバーは「乗れ」というような態度を取る。あまりちゃんとしたタクシードライバーには見えない。こういう時間の旅行者を狙っていたようにも見える。
助手席には先客がいた。女の人が座っている。乗り合いタクシーなのだろうか?
何だかわからないが、今更別のタクシーには変えられない。荷物があることを言うと、下りてきてガラの悪そうなドライバーは荷物をトランクに入れ、すぐに乗るように言った。
後部座席に乗る。
混み合う道路をタクシーは走り出す。ガラの悪いドライバーは助手席の女性と話をしている。やけに会話が多い。
やがてハッと気づく。この女性はガラの悪いドライバーの女か何か、ただナンパして乗せているだけかもしれないが、そんな関係だ。
やれやれ、とんでもないタクシーに乗ってしまった。
いずれにしても無事にここから解放されればいい。とんでもないぼったくりタクシードライバーもいると聞く。
乗る時に値段交渉もしておいた。本来なら900円くらいらしいが、交渉では1,200円程度になった。もはや面倒なんで譲った。そして街のホテルまで行ってほしいと話している。せめてちゃんとしたホテルに行ってほしい。
こいつはちゃんと街中のホテルまで連れて行ってくれるのか心配した。それから30分以上。タクシードライバーは一応ちゃんとホテルに下ろしてくれた。そして「ちゃんと泊まれるのか?」というような質問をしてみた。するとドライバーは意外にも運転席を下りて、ホテルに入り、ちゃんと空いているかも確認してくれた。
危険な雰囲気はしたが悪人ではないようだ。ただ自分が下りるときに、「プラス200円だ」と言ってきた。ホテル紹介料かなんだか知らないが、やれやれ。ただの親切ではなかったらしい。
女づれタクシードライバーから解放されて、ホテルに入る。一泊4,000円くらいのホテルで、2~3,000円のところに泊まりたかったので予定より少し高いホテルになってしまったが仕方がない。宿泊の準備が整うとボーイが付いてきて、別に運ばなくてもいいのに荷物を運び出す。そして、部屋まで行って指先をもんでチップを要求する。
文化の違いだ。チップを出す。
何だかこれになれない。
面倒だ。余計な金を取られている気がする。気を遣う。できれば自分で出来る事は自分でしたい。
おおよそ日本のようにサービスでやってくれることはない。そこにはいつも、チップが必要なのだ。日本のおもてなしは、世界ではチップくれ!だ。優しさだと思ってはいけない。
あの日僕は、不安と緊張の中で、そんな文化について学んだのだった。
ふとそんな事を思い出す。緊張と解放の連続。でもそこに、旅の楽しみがあったのかもしれない。
メキシコ回想記12.ラパス~マサトランの船旅
今日もいつもと変わらない一日だ。体調の良し悪しはあるし、食べた物も違う。でもいつもと変わりのない土曜日だった。
メキシコで旅をしている時は、毎日が違う。毎日、やる事は異なる。毎日、新しい何かに出会うこととなる。
ラパスからマサトランへはフェリーで渡る。夕方に出て、翌朝に着くフェリーだ。
ラパスの西へ続く海岸沿いをバスに乗ってゆくと、ピチリンゲ港に辿り着く。
それなりに大きいターミナルに、それなりに大きいフェリーに乗ることとなる。
ターミナルにはたくさんの人がいる。何だかたくさんの電化製品があって、これを積み込むのだろう。バハカリフォルニアでは電化製品が安いのだろうか?個人の荷物のようだ。そんな事を考えながら、ターミナルで出発の時を待つ。
何だか人が並んでいるので、僕も並ぶ。X線の荷物検査があるようで、それに時間が掛かるのか、順番待ちをしているようだ。後ろに並んだ眼鏡の白人の小柄なおじさんが話しかけてくる。おじさんはやけに笑顔だ。トランクを差し、「これを見ていてくれ」というような事を言っている。「トイレに行ってくるんだ」とトイレの方を差す。
なぜ僕に?と思うが、とりあえず、「OK」と答える。
彼はしばらくして戻ってきた。今度は、「君のも見てるから、しばらく離れていても大丈夫だよ」と言う。僕の汚いバックに大したものは入っていない。このバックはヨーロッパを旅した時に使ったものだから本当に汚い。何かの詐欺か?とも少し疑うが、まあトイレにも行きたかったし、昼飯も食べていなかったので、何か軽いものが買いたかった。
荷物から離れ、トイレに行って、売店でカップラーメンを買う。
メキシコのカップラーメンは、日本の「マルちゃん」が人気、これにライムを掛けて食べる。カップヌードルもあるが、カップヌードルより味が薄く、麺が柔らかい。ライムが合い、メキシコ人は柔らかい麺が好きだ。だから、マルちゃんが人気だ。
荷物に戻ってきたが、おじさんはちゃんと荷物を見張っていてくれた。たぶん僕が日本人で、一人だったから話し掛けてきたのだろう。
それからどこへ行くのかとか、うまく通じない会話をしていたら、やがて検査が始まり、フェリーへと入れるようになった。
フェリーでは部屋付きのクラスにした。二人部屋だが、中には誰もいなかった。個室で使用できそうだ。荷物を置き、座席の一般席に行くと、人がいっぱいいた。ここではゆっくり眠れそうにない。部屋付きにして正解だった。
金持ちの日本人。でもいいか。
たくさんのメキシコ人がいる中、フェリー内を散策した。
最後に、後部の甲板に着いた。ここにも多くのメキシコ人がいて、カフェテラスのようになっている。小さな売店で、カフェやビールや軽食を売っている。僕は売店で、コロナビールを買って、大量に用意されていたライムをビール瓶に放り込んだ。
やがてフェリーは動き出す。少しずつ空は夕空に変わる。
オレンジ色の空をフェリーに止まっていたカモメが飛び立つ。
カモメは少しずつフェリーの速度に付いていけずに、遠ざかってゆく。それでもフェリーに忘れ物でもしたかのようにフェリーを追い続け、飛んでいる。
僕はどこまでも追い続けてくるカモメを見つめながら、しばらくのその場からフェリーの波しぶきと沈む夕陽を、ビール瓶を手に眺めていた。
やがてカモメはフェリーに追い付くのをあきらめ、海に浮いていた。
メキシコの陽気なラテン音楽が流れていて、あちこちでメキシコ人たちがスペイン語で陽気なテンポの口調で会話をしている。
とてもいい雰囲気だ。とてもいい雰囲気だけど、僕は独りだ。
きっと誰かと一緒だったら。
そんな事を思いながら、やがて日が沈み、ライトがフェリーを照らすまで、ずっと一人、部屋でも一人だ。
フェリー内の食堂で、ケッサリージャ(チーズを包んだトルティーリャ)を買って、夕食とする。
静かな時間が流れた。
やがて、翌朝となった。
朝を迎え、フェリーがマサトラン港に辿り着く。フェリーを下りると昨日のメガネのおじさんに会った。僕を待っていたのだろうか?彼は、「ここからバスターミナルへ行って、その後は、グアダラハラへ向かう」というような事を言う。僕も、この先、「グアダラハラに行く」と彼には行っていたのだが、マサトランには一泊するつもりだ。
だがその部分は、彼に通じなかったのか、「一緒にバスターミナルへ行こう」と言う。バスターミナルまでは遠いからタクシーで向かう。
そのタクシー代を半分にしたいのだろう。
僕は、「途中のホテルで下りるがそれでもいい」と言う。彼は、僕の会話を理解しているのかわからないが、タクシーチケットを買ってきて、僕に半分のお金を払わせる。
そして、何だか陽気に微笑むメガネのおじさんとタクシーに乗る。窓のないゴルフカートみたいなタクシーに乗る。マサトラン港を出て、海岸沿いの道を走ってゆく。バカンス気分だ。
少し走った所で、海岸沿いのホテルに着く。僕はそこで下りる。
「どうするんだ?」とおじさんが僕に尋ねる。
おじさんは僕が一泊するのをうまく理解できていない。
ホテルに入って、僕はホテルの人に一泊することを答える。おじさんは外で待っている。ホテルの人が出て行って、おじさんに、僕がここで一泊することを伝えてくれた。
そして、メガネのおじさんと別れた。なんだかよくわからないが、面白い出会いでもあった。
でも、スペイン語を勉強しないとならない。あらためてそう思わされた。
勉強してきて、少しはわかるつもりでいたが、残念ながらうまく通じない。ガナファトという町にスペイン語を押してくれる日本人学校がある。急いでそこを目指すことに決定した。
思い立ったが吉日、ホテルからガナファトの日本人学校へ電話をする。
スペイン人が出て、何だかわからないと話していると、やがて日本人の女の人の声がした。
「あの、日本語を勉強したいのですが。今、マサトランにいます。来週あたりに行きます」
「ええ、大丈夫です」
たぶんそんな会話だったろう。
少しだけほっとした。この先は、もう片言の英語も通じなくなるだろう。スペイン語の習得が第一だ。
言葉のわからない街にいる。言葉のわからない場所にいる。
今、日本にいても一人暮らしで、そんなに誰かと会話をする事のない日もあるけど、全く言葉がわからないことはない。
あの時は、テレビを見てもわからない。お店も最低限の会話に苦労する。僕はそんな会話のない生活に疲れていた。
寂しく、不安になっていた。
今、日本には、同じ言葉を話す、なんとなくツーカーの関係になれる日本人がたくさんいる。その事がいかに幸せな事か、2004年12月、僕はそんな事を感じていた。
日本に帰って、日本語で、日本の文化で、日本で暮らしたい。
僕はつくづく海外にはなじめない日本人だと、あの旅の中で思っていた。
つづく
メキシコで旅をしている時は、毎日が違う。毎日、やる事は異なる。毎日、新しい何かに出会うこととなる。
ラパスからマサトランへはフェリーで渡る。夕方に出て、翌朝に着くフェリーだ。
ラパスの西へ続く海岸沿いをバスに乗ってゆくと、ピチリンゲ港に辿り着く。
それなりに大きいターミナルに、それなりに大きいフェリーに乗ることとなる。
ターミナルにはたくさんの人がいる。何だかたくさんの電化製品があって、これを積み込むのだろう。バハカリフォルニアでは電化製品が安いのだろうか?個人の荷物のようだ。そんな事を考えながら、ターミナルで出発の時を待つ。
何だか人が並んでいるので、僕も並ぶ。X線の荷物検査があるようで、それに時間が掛かるのか、順番待ちをしているようだ。後ろに並んだ眼鏡の白人の小柄なおじさんが話しかけてくる。おじさんはやけに笑顔だ。トランクを差し、「これを見ていてくれ」というような事を言っている。「トイレに行ってくるんだ」とトイレの方を差す。
なぜ僕に?と思うが、とりあえず、「OK」と答える。
彼はしばらくして戻ってきた。今度は、「君のも見てるから、しばらく離れていても大丈夫だよ」と言う。僕の汚いバックに大したものは入っていない。このバックはヨーロッパを旅した時に使ったものだから本当に汚い。何かの詐欺か?とも少し疑うが、まあトイレにも行きたかったし、昼飯も食べていなかったので、何か軽いものが買いたかった。
荷物から離れ、トイレに行って、売店でカップラーメンを買う。
メキシコのカップラーメンは、日本の「マルちゃん」が人気、これにライムを掛けて食べる。カップヌードルもあるが、カップヌードルより味が薄く、麺が柔らかい。ライムが合い、メキシコ人は柔らかい麺が好きだ。だから、マルちゃんが人気だ。
荷物に戻ってきたが、おじさんはちゃんと荷物を見張っていてくれた。たぶん僕が日本人で、一人だったから話し掛けてきたのだろう。
それからどこへ行くのかとか、うまく通じない会話をしていたら、やがて検査が始まり、フェリーへと入れるようになった。
フェリーでは部屋付きのクラスにした。二人部屋だが、中には誰もいなかった。個室で使用できそうだ。荷物を置き、座席の一般席に行くと、人がいっぱいいた。ここではゆっくり眠れそうにない。部屋付きにして正解だった。
金持ちの日本人。でもいいか。
たくさんのメキシコ人がいる中、フェリー内を散策した。
最後に、後部の甲板に着いた。ここにも多くのメキシコ人がいて、カフェテラスのようになっている。小さな売店で、カフェやビールや軽食を売っている。僕は売店で、コロナビールを買って、大量に用意されていたライムをビール瓶に放り込んだ。
やがてフェリーは動き出す。少しずつ空は夕空に変わる。
オレンジ色の空をフェリーに止まっていたカモメが飛び立つ。
カモメは少しずつフェリーの速度に付いていけずに、遠ざかってゆく。それでもフェリーに忘れ物でもしたかのようにフェリーを追い続け、飛んでいる。
僕はどこまでも追い続けてくるカモメを見つめながら、しばらくのその場からフェリーの波しぶきと沈む夕陽を、ビール瓶を手に眺めていた。
やがてカモメはフェリーに追い付くのをあきらめ、海に浮いていた。
メキシコの陽気なラテン音楽が流れていて、あちこちでメキシコ人たちがスペイン語で陽気なテンポの口調で会話をしている。
とてもいい雰囲気だ。とてもいい雰囲気だけど、僕は独りだ。
きっと誰かと一緒だったら。
そんな事を思いながら、やがて日が沈み、ライトがフェリーを照らすまで、ずっと一人、部屋でも一人だ。
フェリー内の食堂で、ケッサリージャ(チーズを包んだトルティーリャ)を買って、夕食とする。
静かな時間が流れた。
やがて、翌朝となった。
朝を迎え、フェリーがマサトラン港に辿り着く。フェリーを下りると昨日のメガネのおじさんに会った。僕を待っていたのだろうか?彼は、「ここからバスターミナルへ行って、その後は、グアダラハラへ向かう」というような事を言う。僕も、この先、「グアダラハラに行く」と彼には行っていたのだが、マサトランには一泊するつもりだ。
だがその部分は、彼に通じなかったのか、「一緒にバスターミナルへ行こう」と言う。バスターミナルまでは遠いからタクシーで向かう。
そのタクシー代を半分にしたいのだろう。
僕は、「途中のホテルで下りるがそれでもいい」と言う。彼は、僕の会話を理解しているのかわからないが、タクシーチケットを買ってきて、僕に半分のお金を払わせる。
そして、何だか陽気に微笑むメガネのおじさんとタクシーに乗る。窓のないゴルフカートみたいなタクシーに乗る。マサトラン港を出て、海岸沿いの道を走ってゆく。バカンス気分だ。
少し走った所で、海岸沿いのホテルに着く。僕はそこで下りる。
「どうするんだ?」とおじさんが僕に尋ねる。
おじさんは僕が一泊するのをうまく理解できていない。
ホテルに入って、僕はホテルの人に一泊することを答える。おじさんは外で待っている。ホテルの人が出て行って、おじさんに、僕がここで一泊することを伝えてくれた。
そして、メガネのおじさんと別れた。なんだかよくわからないが、面白い出会いでもあった。
でも、スペイン語を勉強しないとならない。あらためてそう思わされた。
勉強してきて、少しはわかるつもりでいたが、残念ながらうまく通じない。ガナファトという町にスペイン語を押してくれる日本人学校がある。急いでそこを目指すことに決定した。
思い立ったが吉日、ホテルからガナファトの日本人学校へ電話をする。
スペイン人が出て、何だかわからないと話していると、やがて日本人の女の人の声がした。
「あの、日本語を勉強したいのですが。今、マサトランにいます。来週あたりに行きます」
「ええ、大丈夫です」
たぶんそんな会話だったろう。
少しだけほっとした。この先は、もう片言の英語も通じなくなるだろう。スペイン語の習得が第一だ。
言葉のわからない街にいる。言葉のわからない場所にいる。
今、日本にいても一人暮らしで、そんなに誰かと会話をする事のない日もあるけど、全く言葉がわからないことはない。
あの時は、テレビを見てもわからない。お店も最低限の会話に苦労する。僕はそんな会話のない生活に疲れていた。
寂しく、不安になっていた。
今、日本には、同じ言葉を話す、なんとなくツーカーの関係になれる日本人がたくさんいる。その事がいかに幸せな事か、2004年12月、僕はそんな事を感じていた。
日本に帰って、日本語で、日本の文化で、日本で暮らしたい。
僕はつくづく海外にはなじめない日本人だと、あの旅の中で思っていた。
つづく
メキシコ回想記11.ロスカボス~ラパスへ戻る
翌日は、ロスカボスの、カボサンルーカスから、サンホセデルカボに移動した。
ロスカボスにはカボサンルーカスという金持ちの観光地と、一般の人が生活するサンホセデルカボがある。
二つの場所を通る海岸沿いには、さらに金持ちが観光に来る高級リゾートホテルが建ち並んでいる。バスは岩場から広がる太平洋を臨む道を通り、サンホセデルカボに着く。
サンホセデルカボでは一泊した。
暗いホテルだった。そこで「メキシコ版クイズ百人に聞きました」を観たり、古い映画を観たりして、ダラダラ過ごした。
特に観光の場所はない。
サボテン博物館があったので、ここに行く。観光客は少ない。ただサボテンにもたくさんの種類があるのを知った。
夜は、イタリアンレストランに行った。ここでは、2,300円くらいしてしまった。意外といいレストランだったが、パスタはやたらと柔らかい。後で知るが、メキシコではアルデンテより、柔らかい麺が好みのようだ。
そして翌日は再びラパスに戻った。
ラパスでは、カフェタイムを取ったカフェに行って、再びオムレツを食べた。
また、ロリマルに戻った。お髭のお兄さんは「戻ってきたのか?」と言った。僕は「イエス」と答えるが会話は続かない。
その日も、また海岸沿いで有意義な一人時間を過ごした。
さて、僕は再び半島を離れ、大陸へと戻る。
ラパスからはフェリーが出ていて、ロスチモスか、マサトランという町へと渡ることができる。最初はロスチモスへ行くつもりでいた。ここからはチワワ太平洋鉄道という鉄道があるので、それに乗ってみようと考えていたからだ。
ちなみにチワワはメキシコの犬で、このチワワ州に由来するのだろう。メキシコには昔、大型の動物がいなかったらしく、動物といえばチワワみたいな感じだったらしく、スペイン人が馬に乗って現れたのに、かなり恐れたらしい。
それはそれとして、僕は方向転換し、マサトランへと渡ることとした。これはロスカボスで会ったインターネット屋のおじさんが、「チワワの鉄道は良くないよ」とか言っていたからだ。この情報は疑わしいが、僕はその情報に恐れていたのか、サンホセデルカボで泊まった夜に悪い夢を見た。
チワワ鉄道は、メキシコの高地を抜けてゆく鉄道なのだが、僕はそこで崖から落ちる夢を見た。現地の人間に追われ、崖から飛び降りなくてはならないのだ。夢は崖から飛び降りて終わる。
何の根拠もないけど、不安ばかりが募った。とても怖い夢だった。
そして、マサトランへと渡ることとなった。
切符は、ラパスの切符売り場で買った。また、少しいい旅をしようと、ベッド付きの部屋にした。夕刻に出て、一日明け、翌朝にマサトランへと着くのだ。
その旅については、また次の話としよう。
メキシコのメキシコとはまだこの先にある。バハカリフォルニアは、まだアメリカ合衆国との深い繋がりを感じる。
そこはメキシコであってメキシコではないかのようだ。ロサンゼルスからの延長上にあるように思えた。
ロスカボスにはカボサンルーカスという金持ちの観光地と、一般の人が生活するサンホセデルカボがある。
二つの場所を通る海岸沿いには、さらに金持ちが観光に来る高級リゾートホテルが建ち並んでいる。バスは岩場から広がる太平洋を臨む道を通り、サンホセデルカボに着く。
サンホセデルカボでは一泊した。
暗いホテルだった。そこで「メキシコ版クイズ百人に聞きました」を観たり、古い映画を観たりして、ダラダラ過ごした。
特に観光の場所はない。
サボテン博物館があったので、ここに行く。観光客は少ない。ただサボテンにもたくさんの種類があるのを知った。
夜は、イタリアンレストランに行った。ここでは、2,300円くらいしてしまった。意外といいレストランだったが、パスタはやたらと柔らかい。後で知るが、メキシコではアルデンテより、柔らかい麺が好みのようだ。
そして翌日は再びラパスに戻った。
ラパスでは、カフェタイムを取ったカフェに行って、再びオムレツを食べた。
また、ロリマルに戻った。お髭のお兄さんは「戻ってきたのか?」と言った。僕は「イエス」と答えるが会話は続かない。
その日も、また海岸沿いで有意義な一人時間を過ごした。
さて、僕は再び半島を離れ、大陸へと戻る。
ラパスからはフェリーが出ていて、ロスチモスか、マサトランという町へと渡ることができる。最初はロスチモスへ行くつもりでいた。ここからはチワワ太平洋鉄道という鉄道があるので、それに乗ってみようと考えていたからだ。
ちなみにチワワはメキシコの犬で、このチワワ州に由来するのだろう。メキシコには昔、大型の動物がいなかったらしく、動物といえばチワワみたいな感じだったらしく、スペイン人が馬に乗って現れたのに、かなり恐れたらしい。
それはそれとして、僕は方向転換し、マサトランへと渡ることとした。これはロスカボスで会ったインターネット屋のおじさんが、「チワワの鉄道は良くないよ」とか言っていたからだ。この情報は疑わしいが、僕はその情報に恐れていたのか、サンホセデルカボで泊まった夜に悪い夢を見た。
チワワ鉄道は、メキシコの高地を抜けてゆく鉄道なのだが、僕はそこで崖から落ちる夢を見た。現地の人間に追われ、崖から飛び降りなくてはならないのだ。夢は崖から飛び降りて終わる。
何の根拠もないけど、不安ばかりが募った。とても怖い夢だった。
そして、マサトランへと渡ることとなった。
切符は、ラパスの切符売り場で買った。また、少しいい旅をしようと、ベッド付きの部屋にした。夕刻に出て、一日明け、翌朝にマサトランへと着くのだ。
その旅については、また次の話としよう。
メキシコのメキシコとはまだこの先にある。バハカリフォルニアは、まだアメリカ合衆国との深い繋がりを感じる。
そこはメキシコであってメキシコではないかのようだ。ロサンゼルスからの延長上にあるように思えた。
メキシコ回想記10.ロスカボスでの出会い
スキューバダイビングは思った以上に楽しい。楽しいというか、今までに味わったことのない空間に入り込める。音はない。自分が呼吸する「すー、はー」という音だけが聞こえる世界に入り込む。
僕は耳貫きが上手らしいし、スキューバの姿勢も良い。
パートナーとなってくれたイングランド人のマークさんは僕をそう褒めてくれた。
海は綺麗で澄んでいる、というわけでもなかった。どちらかというと濁っていた。
僕は深海10mの世界で、合図や呼吸の仕方を学びながら、静かな海の中の時間を味わっていた。
久々に日本人の旅行者にも会った。広島辺りに勤めている会社員で、スキューバを趣味としている男一人、女三人という何ともアンバランスな四人組だった。彼らには、英語で下ネタばかりを言っているメキシコ人が付いて、女子三人を笑かしていた。男一人はどちらかというと、女子たちにとっては、『安全のため』というような感じだった。
彼らとは少々話をしたが、まるで別の世界に住む人に感じられた。普通に会社に行っていて、バカンスを楽しむ人たちと、会社を辞めて、何か新しい道を模索している人では、まるで感覚が違う。どちらかというと、スキューバのインストラクターとしてメキシコにいる日本人のマサさんの方がより近いように感じられた。
初スキューバは簡単な訓練みたいな感じで終了した。10m程度潜って、少しウロウロして、ゆっくり上がって、終る。
マークさんは僕が上手だから明日も来てくれれば、一般コースを案内すると言った。僕はそれを許諾して、もう一度一日スキューバをすることとなった。
翌日まではまだ時間があった。
日本人の経営するインタネットカフェがあるとの事だったので、そこを訪れた。少し話好きのようなおじさんは日本人の僕に話をしてきた。
「これからメキシコを横断するんです」という話をする。
「メキシコは危険だから、気を付けた方がいいよ」と言う。それからいろいろとあれやこれや危険だと言う。
「横断鉄道があるんで、そっちへ行こうと思うんですけど」
「あの辺りは危険だからやめた方がいいよ」
おじさんはそう言う。僕は何だか、あれこれと不安になってきた。
それから、街のオープンテラスの食堂で食事をしていると、小さな男の子と女の子がやってきた。彼らはたくさんの腕輪を持って僕のところにやってきた。女の子は、本当にまだ6、7歳の幼い感じで、それだけで心を締め付けられる。男の子はたぶんその子のお兄ちゃんで、10歳くらいに見える。
片言の英語で、「これを買ってくれ」と可愛い声でお願いしてくる。一個一ドルだ、と言う。
メキシコではこんな光景は日常茶飯事だ。よくガムを売り回っている少年や少女がたくさんいる。
10ペソ=1ドル相当があったので、それで1個買ってやろうと出す。女の子はお兄ちゃんの方を見て、それでいいか、聞きたそうにしている。男の子は、それでは足りない、と言ってきた。
ドルが欲しいらしい。ドルはあいにく5ドルしかなかった。それを出すと、男の子はその5ドルを指先で強く掴んだ。差し出した5ドルはしっかりと指で掴まれて離そうとしない。
「さあ、選んでくれ。交換だ」
僕は1個のプラスチックでできたイルカのブレスレットを選び、5ドルから手を離す。すっと5ドルが少年の手に渡る。
「おつりをくれ」と、僕は言う。
「他を選べ」と、男の子は言う。
「僕は、もう要らない」と言う。
そう言うと、少年は少しにこりとして何も言わず、少女を連れて、僕から去っていき、また別の白人の観光客に売り歩いて行った。
何だか、とても、心が痛かった。彼らにおつりなんていう考えはない。それならむしろちゃんと5個選べばよかったのかもしれない。
インターネット屋のおじさんは言っていた。「君はこの国じゃあ、とってもお金持ちなんだから、気を付けた方がいい」と。
もちろん、僕にとっては、たかが5ドルだ。でも正当な売買を行わなかったことは何となく間違えだったような気がする。
アメリカの白人、アメリカのヒスパニック系、メキシコの一般人、メキシコのお金持ち、メキシコの貧乏人、家もない貧しい子たち。貧富の差。
海外へ行けばよくある事だ。でも、まざまざと感じた。何ともいえない生まれ持った運命の差。その日、僕は明確に感じた。なぜだかとても悲しかった。
初めての事ではないのに、その日の、その出来事はなぜだか、いつもより心に強く残った。
日本から来た、貧富の差をよく知らない金持ちがいた。
貧しい少年は、いつものようにブレスレットを売っていた。
貧富の差をよく知らない日本人は、1ドルのブレスレットに5ドルを差し出したので、5ドルを手に取った。
5ドルもらったから、5個のブレスレットを売って良かったけれど、彼は1個しか要らないと言ったから5ドルを1個のブレスレットと交換できた。
11年前の、あの少年が、今は立派になったとは、想像しにくい。バスで会った科学好きのアマのように、勉学も学んでいない。それでも、彼らは商売をし、生きなくては死んでしまう。盗人として暮らすよりはずっといい。
生まれついた命を想う。生まれ生きる運命を想う。
翌日もスキューバをした。
一般コースを、4人の日本人も行く、同じコースでスキューバをした。フィンを使って、深海10mを泳ぐ。岩場には眠りザメがいた。動かずにじっとしていた。彼らはアシカを見たと言う。自分の事に精いっぱいだった僕にはよくわからなかった。アシカは相当泳ぐのが速く、活発だったらしい。
コースの途中で、マークが僕を海上に戻した。どうやら呼吸が早かったらしい。タンクの酸素が無くなってしまいそうになっていたようだ。
それでも、僕は一般のスキューバを楽しむことができた。そして、昨日の心切ない想いも忘れることができた。
コンドミニアムの部屋にはもう一泊した。
洗濯をしたり、飯を作ったり、少しスペイン語の勉強をしたり、旅のルートを設定し直したりして、また一日が過ぎた。
僕は耳貫きが上手らしいし、スキューバの姿勢も良い。
パートナーとなってくれたイングランド人のマークさんは僕をそう褒めてくれた。
海は綺麗で澄んでいる、というわけでもなかった。どちらかというと濁っていた。
僕は深海10mの世界で、合図や呼吸の仕方を学びながら、静かな海の中の時間を味わっていた。
久々に日本人の旅行者にも会った。広島辺りに勤めている会社員で、スキューバを趣味としている男一人、女三人という何ともアンバランスな四人組だった。彼らには、英語で下ネタばかりを言っているメキシコ人が付いて、女子三人を笑かしていた。男一人はどちらかというと、女子たちにとっては、『安全のため』というような感じだった。
彼らとは少々話をしたが、まるで別の世界に住む人に感じられた。普通に会社に行っていて、バカンスを楽しむ人たちと、会社を辞めて、何か新しい道を模索している人では、まるで感覚が違う。どちらかというと、スキューバのインストラクターとしてメキシコにいる日本人のマサさんの方がより近いように感じられた。
初スキューバは簡単な訓練みたいな感じで終了した。10m程度潜って、少しウロウロして、ゆっくり上がって、終る。
マークさんは僕が上手だから明日も来てくれれば、一般コースを案内すると言った。僕はそれを許諾して、もう一度一日スキューバをすることとなった。
翌日まではまだ時間があった。
日本人の経営するインタネットカフェがあるとの事だったので、そこを訪れた。少し話好きのようなおじさんは日本人の僕に話をしてきた。
「これからメキシコを横断するんです」という話をする。
「メキシコは危険だから、気を付けた方がいいよ」と言う。それからいろいろとあれやこれや危険だと言う。
「横断鉄道があるんで、そっちへ行こうと思うんですけど」
「あの辺りは危険だからやめた方がいいよ」
おじさんはそう言う。僕は何だか、あれこれと不安になってきた。
それから、街のオープンテラスの食堂で食事をしていると、小さな男の子と女の子がやってきた。彼らはたくさんの腕輪を持って僕のところにやってきた。女の子は、本当にまだ6、7歳の幼い感じで、それだけで心を締め付けられる。男の子はたぶんその子のお兄ちゃんで、10歳くらいに見える。
片言の英語で、「これを買ってくれ」と可愛い声でお願いしてくる。一個一ドルだ、と言う。
メキシコではこんな光景は日常茶飯事だ。よくガムを売り回っている少年や少女がたくさんいる。
10ペソ=1ドル相当があったので、それで1個買ってやろうと出す。女の子はお兄ちゃんの方を見て、それでいいか、聞きたそうにしている。男の子は、それでは足りない、と言ってきた。
ドルが欲しいらしい。ドルはあいにく5ドルしかなかった。それを出すと、男の子はその5ドルを指先で強く掴んだ。差し出した5ドルはしっかりと指で掴まれて離そうとしない。
「さあ、選んでくれ。交換だ」
僕は1個のプラスチックでできたイルカのブレスレットを選び、5ドルから手を離す。すっと5ドルが少年の手に渡る。
「おつりをくれ」と、僕は言う。
「他を選べ」と、男の子は言う。
「僕は、もう要らない」と言う。
そう言うと、少年は少しにこりとして何も言わず、少女を連れて、僕から去っていき、また別の白人の観光客に売り歩いて行った。
何だか、とても、心が痛かった。彼らにおつりなんていう考えはない。それならむしろちゃんと5個選べばよかったのかもしれない。
インターネット屋のおじさんは言っていた。「君はこの国じゃあ、とってもお金持ちなんだから、気を付けた方がいい」と。
もちろん、僕にとっては、たかが5ドルだ。でも正当な売買を行わなかったことは何となく間違えだったような気がする。
アメリカの白人、アメリカのヒスパニック系、メキシコの一般人、メキシコのお金持ち、メキシコの貧乏人、家もない貧しい子たち。貧富の差。
海外へ行けばよくある事だ。でも、まざまざと感じた。何ともいえない生まれ持った運命の差。その日、僕は明確に感じた。なぜだかとても悲しかった。
初めての事ではないのに、その日の、その出来事はなぜだか、いつもより心に強く残った。
日本から来た、貧富の差をよく知らない金持ちがいた。
貧しい少年は、いつものようにブレスレットを売っていた。
貧富の差をよく知らない日本人は、1ドルのブレスレットに5ドルを差し出したので、5ドルを手に取った。
5ドルもらったから、5個のブレスレットを売って良かったけれど、彼は1個しか要らないと言ったから5ドルを1個のブレスレットと交換できた。
11年前の、あの少年が、今は立派になったとは、想像しにくい。バスで会った科学好きのアマのように、勉学も学んでいない。それでも、彼らは商売をし、生きなくては死んでしまう。盗人として暮らすよりはずっといい。
生まれついた命を想う。生まれ生きる運命を想う。
翌日もスキューバをした。
一般コースを、4人の日本人も行く、同じコースでスキューバをした。フィンを使って、深海10mを泳ぐ。岩場には眠りザメがいた。動かずにじっとしていた。彼らはアシカを見たと言う。自分の事に精いっぱいだった僕にはよくわからなかった。アシカは相当泳ぐのが速く、活発だったらしい。
コースの途中で、マークが僕を海上に戻した。どうやら呼吸が早かったらしい。タンクの酸素が無くなってしまいそうになっていたようだ。
それでも、僕は一般のスキューバを楽しむことができた。そして、昨日の心切ない想いも忘れることができた。
コンドミニアムの部屋にはもう一泊した。
洗濯をしたり、飯を作ったり、少しスペイン語の勉強をしたり、旅のルートを設定し直したりして、また一日が過ぎた。
メキシコ回想記9.南国バカンス-ラパス~ロスカボス
ラパスの海岸沿いは、12月でも暖かかった。風は心地よく、ラパス湾の海は穏やかだった。海岸沿いの長い通り、ラパス湾を囲うように東の先端まで数十キロにわたって伸びている。砂浜には弱い波が打ち寄せる。
雑踏のティファナとは、全く違う静かなメキシコがそこにはあった。
深い思い出があるわけではない。
ホテルロリマルはパテオの造りをしていて、その周りを2階建ての部屋が取り囲んでいる。南国のホテルの雰囲気があって、居心地がいい。
ホテルの人は小麦色の笑顔でにこやかに迎え入れてくれた。片言のスペイン語(英語?)で挨拶するしかできなかったけど、とてもイイ感じのお髭のお兄さんだった。僕が日本人だという話と、彼がサーフィンやスキューバをするという話をしただけだ。
一人、異国情緒を楽しみながら歩いていた。ここまで来ると東洋人の観光客はもういない。ラパスはバハカリフォルニア南端のロスカボスほどの観光地ではないから、落ち着いた時間を過ごせる。
もっとスペイン語を話せたなら、もっといろいろと現地の人と会話ができたかもしれない。ふとそんな事を思ったのも、この頃だ。
レストランでオムレツを食べても、カフェでコーヒータイムを取っても、静かな一人の時間を過ごす。けだるく自由な時間だった。
翌日はロスカボスまでバス移動した。
ラパスからは2時間半くらいだったろうか。
バハカリフォルニアの南端にあるリゾート地だ。ここはまたアメリカ人の賑わうメキシコの観光地であり、アメリカ人が多い。ティファナのように雑多な感じはないが、お金を持っていそうな白人さんたちがTシャツやキャミソールに、短パン姿でバカンスを楽しんでいる。
位置的にラパスと変わらないから、気候はここも暖かい。Tシャツで過ごせる。朝晩は少し涼しくなるので、シャツを一枚羽織る。12月だからだ。
高級リゾートホテルや高級メキシコレストランが並ぶ白壁の街並みは、貧乏旅行に似合わないが、お金はそこそこ持っていたので、一泊くらいはいいだろうとやってきた。それでもあまり高いところには泊まらず、安めのホテルを探す。ホテルというかコンドミニアムのようなところがあったのでそこに2泊することとした。一泊六千円くらいだったと思う。その辺りではとてもリーズナブルだ。
ラパスでは十分にぼぉーっと過ごしたので、少しアクティブな事もしたくなり、ここではスキューバダイビングに挑戦することとした。日本人のダイバーがいるらしく、そこを訪れた。
ダイビングハウスを訪れるとダイバーのマサは耳をやられてしまっていて、今は潜れないと言っていた。ダイビングはパートナーと二人一組で潜るのがルールであるため、一人で来ている僕は潜れない。ライセンスがあれば別の客とペアになって潜れるが、体験ではそうもいかない。
とりあえず、その日は予約だけして、翌日パートナーを探してくれるということで潜ることとした。
部屋にはキッチンが付いていたので、その日は高そうなレストランを避け、小さなマーケットでハムやコーン、アボカドを買ってきて、適当に味付けして食べた。メキシコビールを飲みながら、一人南国ライフを楽しむ。
白いタイルに囲まれた部屋で、何だかとても快適だ。このままここに住み着いてしまいたくなるような気分だった。
学生終りのただの貧乏旅行とも少し違う。20代後半の余暇を楽しもうとしていた。
深い出会いも運命もない旅となっていた。ただの長い余暇を楽しむ旅。それもまた悪くない。
日は、2014年12月6日。すでに旅を始めて、12日が経っていた。
雑踏のティファナとは、全く違う静かなメキシコがそこにはあった。
深い思い出があるわけではない。
ホテルロリマルはパテオの造りをしていて、その周りを2階建ての部屋が取り囲んでいる。南国のホテルの雰囲気があって、居心地がいい。
ホテルの人は小麦色の笑顔でにこやかに迎え入れてくれた。片言のスペイン語(英語?)で挨拶するしかできなかったけど、とてもイイ感じのお髭のお兄さんだった。僕が日本人だという話と、彼がサーフィンやスキューバをするという話をしただけだ。
一人、異国情緒を楽しみながら歩いていた。ここまで来ると東洋人の観光客はもういない。ラパスはバハカリフォルニア南端のロスカボスほどの観光地ではないから、落ち着いた時間を過ごせる。
もっとスペイン語を話せたなら、もっといろいろと現地の人と会話ができたかもしれない。ふとそんな事を思ったのも、この頃だ。
レストランでオムレツを食べても、カフェでコーヒータイムを取っても、静かな一人の時間を過ごす。けだるく自由な時間だった。
翌日はロスカボスまでバス移動した。
ラパスからは2時間半くらいだったろうか。
バハカリフォルニアの南端にあるリゾート地だ。ここはまたアメリカ人の賑わうメキシコの観光地であり、アメリカ人が多い。ティファナのように雑多な感じはないが、お金を持っていそうな白人さんたちがTシャツやキャミソールに、短パン姿でバカンスを楽しんでいる。
位置的にラパスと変わらないから、気候はここも暖かい。Tシャツで過ごせる。朝晩は少し涼しくなるので、シャツを一枚羽織る。12月だからだ。
高級リゾートホテルや高級メキシコレストランが並ぶ白壁の街並みは、貧乏旅行に似合わないが、お金はそこそこ持っていたので、一泊くらいはいいだろうとやってきた。それでもあまり高いところには泊まらず、安めのホテルを探す。ホテルというかコンドミニアムのようなところがあったのでそこに2泊することとした。一泊六千円くらいだったと思う。その辺りではとてもリーズナブルだ。
ラパスでは十分にぼぉーっと過ごしたので、少しアクティブな事もしたくなり、ここではスキューバダイビングに挑戦することとした。日本人のダイバーがいるらしく、そこを訪れた。
ダイビングハウスを訪れるとダイバーのマサは耳をやられてしまっていて、今は潜れないと言っていた。ダイビングはパートナーと二人一組で潜るのがルールであるため、一人で来ている僕は潜れない。ライセンスがあれば別の客とペアになって潜れるが、体験ではそうもいかない。
とりあえず、その日は予約だけして、翌日パートナーを探してくれるということで潜ることとした。
部屋にはキッチンが付いていたので、その日は高そうなレストランを避け、小さなマーケットでハムやコーン、アボカドを買ってきて、適当に味付けして食べた。メキシコビールを飲みながら、一人南国ライフを楽しむ。
白いタイルに囲まれた部屋で、何だかとても快適だ。このままここに住み着いてしまいたくなるような気分だった。
学生終りのただの貧乏旅行とも少し違う。20代後半の余暇を楽しもうとしていた。
深い出会いも運命もない旅となっていた。ただの長い余暇を楽しむ旅。それもまた悪くない。
日は、2014年12月6日。すでに旅を始めて、12日が経っていた。