こんにちは。
たまたま見た記事が、面白かったので、
それについて、書こうと思います。。
伊達政宗は、(大坂城にいる)秀頼の身を、だいぶ案じていたらしい。 (記事こちらです(リンクあり))
手紙が残っているらしい。(1601年 4月18日付書状)
それは、伊達政宗が、堺の商人に宛てた手紙で、 (今井宗薫宛)
「(西軍が負けた今となっては)
秀頼の身が、このままでは危ないと思うから、
もう大坂城を出て、江戸とか、もっと安全な場所に移った方がいいんじゃないかと自分は思う」
という感じの内容の書状だったらしい。
ほかにも、
「秀頼が幼少の時は、(例えば)家康殿に預けて、
その後は、もし統治能力がないなら、
もう政治は家康に任せて、2.3カ国を治める、くらいのがいいんじゃないか」
何度も、政宗は、今井宗薫にこんな手紙を書いてたらしい。
伊達政宗は、
どうもこの書状を、
(家康側近の)本多正信を通して、家康に伝えてほしかったらしい。
この伊達政宗の書状は、たぶん家康に届いたんじゃないかな、と思う・・
でも、この伊達政宗の考えが、
はたして大坂城の淀君の耳に入ったのかどうかは、わからない・・
でも、最後大坂城がどうなったか、その結末を見ると、
淀君には、「息子の秀頼をどこか安全な所に避難させる」という行動には出なかったのが分かる・・
そこには、
どこまでも、
徹底抗戦の構えを見せる淀君の姿が、浮かんでくる・・
淀君にとっては、
家康の元に下るというのは、
ありえない選択だったんだろう・・
武家出身の淀君の、誇りが伝わってくる・・ (「どうする家康」では、茶々の役を、北川景子さんが演じられ、とてもはまり役でしたね。)
たまたま見たんですが、とても興味の惹かれる記事でした。
まず伊達政宗が、
関ヶ原の戦いの直後、非常に秀頼の身を案じて、秀頼の命を守りたい、という思いを、家康に伝えたがっていた
という事は、知りませんでした・・
とても興味深いです。
伊達政宗が、直接家康に書状を出すのではなく、まず堺の商人に頼んで、家康の側近から、家康に伝わるようにしている、
この伝達の仕方も、興味深いです。正面から行かずに、外堀から行ってる・・
そして、この伊達政宗の心配は、
見事に的中してしまう事になるのですが・・・
そして、
当時の武家出身の女性(淀君)の
覚悟のある、強い心も、よく伝わってきました・・
記事の中にあったんですが、
武家の息子は、普通は女房達に育てさせる、
その理由は、
実の母が直接育てると、どうしても、母子の情が生まれてしまい、
いざ戦いとなると、
その母子の情のせいで、肝心の戦争の時に、影響がでてしまうからだそうで・・
なるほど、
この事も、興味深いなと思いました。
秀吉と茶々の第一子、鶴松は、女房達の手で育てられたが、
ほどなくして亡くなってしまう・・
そのせいか、
第二子の秀頼の時は、
秀吉は、「もう茶々が、こんどは直接自分の手で育てるのがいいのではないか」という考えだったらしい。
そして、朝鮮出兵の本陣を敷いてた佐賀県から、北政所(秀吉の正妻)宛てに、そう手紙を送っていたらしい。。
それも知らなかったので、興味深いです。
それで、淀君の、わが子秀頼を思う強い気持ちが、よく分かりました・・
今回はこの辺にしたいと思います。
今日も読んで下さり有難うございます。
今年も大変有難うございました。
どうか良い年末年始をお過ごし下さい。
来年も皆様にとって良い年になりますようお祈り致します。