深夜の雑感(87) みんな死んじゃうんだよ | 私のおべんきょうノート(ma-windのブログ)

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何でも自分で調べて、自分で考えよう。
本でもブログ記事でも、丁寧に読み込むことで新たに見えてくることがある。そういうものを少しずつメモしていこう。
分野は多岐にわたります。

 タイトルのこのセリフは今日の電話で母が言っていたもの。フォークダンスの仲間の1人が最近亡くなり、しょっちゅう電話でおしゃべりしていた生け花の仲間とも最近電話が通じない…と母はこぼしていた。父は父で、G.W.に再会を楽しみにしていた別荘での木工仲間にメールを送っても戻って来てしまうという。まあ、83歳の母と87歳の父なのでいたしかたない...とも言える。ワクチンも関係ありそうだけど…。

 

 「みんな死んじゃうんだよ」と母に言われ、そりゃ真実だわねと思いつつ、「そうねぇ」とも言えず、「うーん」としか返せなかった。年老いた両親2人で、心にぽっかり空いた穴をお互い埋め合って暮らしているんだろう…。近くにいてあげられたらいいけど、我が家は弟も私も東京に出て来てしまった。

 そんな両親の先の楽しみは、来年の春、私の娘(つまり両親にとっては孫娘)が近くに就職すること。「まあちゃんが来るまで頑張って元気に生きる」と母は言っている。そう言えば、東京オリンピックの前に、母は「東京オリンピックまでは頑張って生きる」と言っていたっけ。この調子で行けば、パリオリンピックも十分楽しめそうだ。

 

 さて、「死」は多分、今までも何度も経験しているはずで、決して悲しいものではないという。死ぬことは恐怖!? にもメモしたけれど、稲葉耶季氏と矢作直樹氏はこんなふうに語っている。上記記事より再掲。

 

    

 

------------- ここから

 

稲葉

 拙著にも書きましたが、「死はふるさとに帰るうれしい門出」。私はそうとらえています。私たちの肉体が死んでも、本質(魂)は死ぬことなく、ふるさとに帰り、やがてまた次の生を生きます。死はいっときの里帰りのようなものですよ。

 

矢作

 誕生は「こっちの世界にくること」、死は「あっちの世界に行くこと」と言い換えられます。そして、それぞれの世界に役割があります。「誕生が始まりで死が終わり」ではなく、稲葉先生もおっしゃったように、私たちはあちらとこちらを行ったり来たりしているだけ。この世とあの世を隔てたドアを開けて出入りしているだけなんですね。

 

稲葉

 そうですね。

 

矢作

 死は肉体という着ぐるみを脱ぐプロセスです。肉体という着ぐるみがなくなることで、私たちはあっちの世界に戻ることができ、あちらでは私達の帰還を迎え入れてくれます。こっちの世界での死は、あっちの世界での「再誕」なのです。そして、いずれのときか、また、この世のやってきて、前とは別の不自由な着ぐるみを着て、しばらくの間生きていく。

 

稲葉

 みんな何度も経験しているはずなのに、覚えていないから、誰しも今生(この世に生きている間)では初めて。自覚的には初体験だから、死が怖いと思うのもわかります。でも、本当は怖いどころか、ワクワクするすばらしい体験ですよ。今生では私もまだ行ったことありませんが、確信しています。

 

矢作

 私は、競技場にいるプレーヤーと観客にもよくたとえます。この世で生きていることを競技場でのプレーにたとえると、あの世は観客席のようなもので、みんなリラックスして競技を観戦しています。一生懸命走ったり、いろんな競技をしたりする私たちを、あの世から「がんばれ~」と応援してくれています。

 

稲葉

 そのたとえはわかりやすいですね。

 

矢作

 やがて競技を終えるときが来たら、「お疲れ様でした」とねぎらわれ、今度は自分が観客席から応援することになります。しかし、あの世からはこちらの様子は見えますが、こちらからは見えないので、「ああ、いずれあのゆったりとくつろげる場所に自分も行くのだな」というイメージを持ちにくいんですね。

 

稲葉

 向こうに行って、何かの修行をするそうですよ。向こうからメッセージを受け取っている人の本などを読むと。それでまたこっちに生まれ変わって来ると。将来、いろいろなことが大いにあるのだから、楽しみに行けばいいのであって、死は何も悪いことではないですね。そこが納得できたら、死に対する意識はものすごく変わるはずですよ。

 

司会

 死は怖くないと本当に納得できたら、どんなにらくで自由になれるだろうかと思います。でも、理屈でわかったと思ってもやはり…。

 

稲葉

 もともと自分のいたところですよ。そこに帰るだけ。なぜそんな変なところだと思うんでしょう。

 

矢作

 いやあ、神様のつくった安全装置はすごいですね。向こう側が見えないようにしたという安全装置。

 

稲葉

 そんなに向こうがよければ、みんな帰ってしまいますからね。

 

矢作

 無理して延命なんかしないですよね。

 

稲葉

 早く帰ろうとなってしまうかもしれない。

 

矢作

自殺はしないけれども、無理なとどまり方をする必要はなくなるということです。終末期の無理な延命措置は、最近は問題視することもふえてきましたが、まだまだやるのが一般的です。

 

稲葉

 医師にも患者にも死の本当の意味がわかってきたら、そういう無理な延命はしなくなるでしょう。早くそうなってほしいものです。

 

矢作

 ついでにいえば、生と死の位置づけが本当に理解できたら、自殺という選択肢もあまり選ばないはずです。この世に誕生して生きることには、「さまざまな経験をする」という大切な目的があります。毎日を生ききる、執着を手放す、他人や自然や神様に感謝する…。生きるということは、死ぬまでの自分自身の壮大な物語ですから。

 

---------- ここまで

 

 そして、臨死体験の木内鶴彦氏のように、宇宙の始まりまで行ってみたり、生物の始まりの瞬間に行ってみたり、肉体という着ぐるみを脱ぎ捨てたら魂は自由自在に時空を超えられるらしいので、そんなことを楽しみにしておくのもいいかも…。(参照:私達は1つの同じ意識。悪も善も同じ意識。ならばどうするのか…?

 

 そして死ぬ瞬間にはラヴェルの「ボレロ」が聞こえるそうで、私はそれもちょっと楽しみにしている。(参照:ラヴェルの「ボレロ」とともに…

 

 こんなふうに「死ぬことも楽しそうだよ」なんて言ったら母には怒られるかな。しかし…、亡くなった後は、時空を自由自在に超えて、母も父もしょっちゅう私のところに来そうだな。「また、こんなにだらしなく散らかして…」と怒られそうで、いやなんだけど…。