瞑想をより深めるための「意識の拡大」とは… | 私のおべんきょうノート(ma-windのブログ)

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何でも自分で調べて、自分で考えよう。
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分野は多岐にわたります。

 こうして、1つにつながっている大いなる意識の波動について見てくると、結局、瞑想だとか祈りの力が重要なんだろうと漠然と思う。私たちが、いかに自我を消して、正の波動、愛の波動を奏でることができるか…。きっとその波動が世界を創っていく。私達の見ている世界は私達の意識の中にある幻なのだから、(参照:目に見えない世界の話(9) 世界という幻 )当然と言えば当然なのかもしれない。

 

実際、ヨーガ行者の成瀬雅春氏はこう書く。

 

「瞑想能力は悪用すると危険です。国家元首が、必ず瞑想家をブレーンにしているというのも、その表れです。ヨーガの瞑想能力があれば、国家を動かすぐらいは簡単なことです。ただし、そうして動かされる国家は、悪い方向に進みます。なぜなら、自国の繁栄のみに邁進するからです。国家の繁栄は周辺諸国との共存共栄を図らなければ、自滅します。」

 

 国家を動かすほどの瞑想能力までは行かなくとも、より良い世界に結び付く瞑想ができたら良いなと思う。

 さて、成瀬氏と、最近取り上げている周藤丞治氏、ともに瞑想において、「意識の拡大」ということに触れていることに気付いた。瞑想の大きなポイントかも…。これ、私自身の体験に基づいていないので、あくまで著書からの抜粋だけで言葉に重みがないけど…。(私の瞑想は雑念のオンパレードになっちゃう...)

 

周藤丞治著「いざ高次元世界へ」にはこのように記されている。

 

   

 

------- ここから

 

 指導霊はそれだけ説明すると、「意識の中心を」うつすために瞑想をしてみなさい」と言いました。高校生のころから瞑想をしてきた私にとっては慣れたものです。いつものように瞑想に入る準備を始めました。

 すると、彼はそんな私に待ったをかけ、驚くほど細かい指示をたくさん出してきました。座布団を半分に折って、厚くした状態で座ること。背筋は力を入れず自然に伸ばすが、そのとき下は地球の中心、上は地球の大気を超えて宇宙の奥深くを意識すること。全身の力を抜いていくとき、まず手から抜いていくこと。その他、力を抜いていく順番、そのときの呼吸の仕方、そのときイメージする事柄などを、一つ一つ手取り足取り教えてくれたのでした。

 全身から力がきれいに抜けたことが確認できたら、自分が肉体からすっかり解放されて大きく広がっていく様子をイメージします。部屋を超え、街を超え、日本を超え、地球を超えて、宇宙に大きく広がっていくイメージです。次々と出される指示に戸惑いつつも、指導霊に言われた通りに瞑想すると、実に気持ちよく深い瞑想へと入っていくことができました。

 

---------- ここまで

 

 一方、成瀬雅春著「時間と空間、物質を超える生き方」にはこんな感じで「意識の拡大」について記されている…。

 

   

 

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 人間以外の動物や植物などの気持ちを考え、自分自身がその動植物の意識を持つということは、「意識の拡大」の本質部分ですが、その前にまず「意識の拡大」の説明をします。

 パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』によるとサマーディ(悟り)に至る最後の三段階が、集中(ダーラナー)、瞑想(ディヤーナ)、三昧(サマーディ)となっています。しかし瞑想を実践し続けているヨーガ行者は、集中から瞑想に入るということをしていません。集中から意識の拡大に入るのです。

 意識を限りなく拡大していくと、その先に瞑想の深い状態が確実にやってくるのです。ところが、意識の拡大というのは、具体的につかみにくいし、理論家にとってはピンとこないやっかいなテクニックです。たぶん、そのためだと思うのですが、『ヨーガ・スートラ』では、意識の拡大に触れずに、集中から瞑想に至るとしているのです。

 そのことが瞑想を「捉えどころのないもの」と思われてしまう原因ではないかと、私は考えています。判りやすい、確実な瞑想指導をする瞑想家や瞑想の指導者が少ないのも、そのせいではないでしょうか。ただ黙って座り続けていれば悟れる、というような指導をされても、普通の人にはさっぱり判らないでしょう。実際、そういう指導を受けたら、私もさっぱり判りません。

 そこで、瞑想に熟達するのになぜ、「意識の拡大」が必要なのかというと、意識できるスペースが瞑想スペースなので、それが広いほど瞑想の世界が広がるからなのです。

 瞑想スペースを部屋にたとえて説明します。

 たとえば六畳間で、集中に一畳使うと、残りの五畳が瞑想スペースです。しかし初心者はその五畳のうち四畳が雑念のスペースだとすると、瞑想スペースは一畳だけです。

 集中力がついてきて、想念(=雑念)の湧くスペースが少なくなって一畳だけになれば、四畳が瞑想スペースになります。さらに想念がほとんど湧かなくなれば、瞑想スペースは五畳までになりますが、どんなにがんばっても六畳以上にはなりません。

 そこで「意識の拡大」というテクニックを身につけると、八畳、十二畳、二〇畳と全体のスペースを拡げられるようになるのです。そうすると当然、瞑想スペースが拡がることになり、確かな悟りを得られる土台が出来上がるのです。

 一〇〇畳の大広間で、集中に一畳使って、想念がほとんど湧かなければ、九九畳が瞑想スペースとなります。だから、意識を宇宙いっぱいに拡げられれば、宇宙のすべてを知る「悟り」に至れるのです。

 

 これまで私が話したり書いたりした「意識の拡大」はこの通りで、瞑想能力を高めるには必要不可欠なものです。しかし私やエミール師の起こす数々の奇跡は、この意識の拡大の延長線上にはないです。

 瞑想能力を高めてサマーディ(悟り)に至るための道程として、これまで説明してきた「意識の拡大」があるのです。人間として生まれて、人間として成長し、人間として霊性を高めて、最終的には人間を卒業するために、この「意識の拡大」は必要なのです

 それはヨーガの王道でもあります。なので、私が説明してきた「意識の拡大」が間違いということではないです。人生を全うするためには、むしろ正しいといえます。

 そして、ここから説明する「意識の拡大」の本質部分というのは、「人生を全うする」ということから離れて、人間以外の視点で物事考えるのです。

 

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 そうかぁ…。成瀬氏ですら、「ただ黙って座り続けていれば悟れる」と指導されても、それでは瞑想はわからない…と言っている。「意識の拡大」かぁ。やってみようかな。瞑想能力が上がるかな。

 

 そして、動植物など人間以外の物も視点に立つということが本質だと語られている。牛や豚の視点になったら、それらを食べることができなくなる。ヒンズー教やイスラム教で牛や豚を食べない…というのは、この「意識の拡大」に関係しているという。成瀬氏は5歳の時に、豚の視点に立ったら豚肉が食べられなくなったそうで、それからだんだんと肉、魚が食べられなくなったという。

 ここでは動植物の視点...と書かれているけれど、私達の意識として近しいものだから、例として挙げられているのだと思う。例えば、鉱物だとか空気だとか…、ひょっとしたらあらゆるものの視点に立てるのではないか…と勝手に推測する。

 

さて、より良い世界を創る瞑想ができるようになるかな…。