目に見えない世界の話(9) 世界という幻 | 私のおべんきょうノート(ma-windのブログ)

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何でも自分で調べて、自分で考えよう。
本でもブログ記事でも、丁寧に読み込むことで新たに見えてくることがある。そういうものを少しずつメモしていこう。
分野は多岐にわたります。

 この話は、ある程度はちゃんと理解してメモしたい…ずっとそう思っていた。過去記事 目に見えない世界の話(6) 自分の中にある宇宙

にメモした内容だけど…、上記過去記事から再掲。 ここは、保江邦夫著「人間と空間をつなぐ透明ないのち」からの抜粋。

 

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 量子モナド理論は、それとは逆で「唯心論」です。つまり、すべての存在が「心」の現れであると捉える考え方です。

 もちろん、二元論的な考え方もあって、一般的には「物と心の両方がある」と二元論的な解釈がなされていますが、普通の物理学者はそうではなくて、あるのは物だけで、心などというものは存在しないと考えている、つまり、唯物論物理学です。

 しかし、量子モナド理論では、それとは逆で、物というものは存在せず、宇宙の森羅万象は心の作用であると捉えるのです。ですから、この理論は、別名「唯心論的物理学」とも呼ばれます。

 

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 もう1つの過去記事 私たちの認識があって初めて存在する宇宙 そして、私たちの認識によって変わる細胞の働き にもメモした「人間原理」もほぼ同様のこと。こちらも再掲。こちらも保江邦夫・はせくらみゆき著「こころの神秘と量子の力」からの抜粋。

 

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 これを言い始めたのは、イギリス生まれの物理学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドという優秀な方です。

彼が、「まず、『人間原理』を主張しないと物理学は始まらない」と言いました。物理学の一番根底にある、最初に仮定しなくてはいけない原理であるとのことなのです。

 

これがどういう原理なのか説明しましょう。

 

この宇宙は存在しています。宇宙の中の森羅万象全て、あらゆる現象は存在しています。それについて、

「この宇宙、自然界の全ての現象、あらゆるものは、人間がそれを認識して初めて存在する。人間が認識しなければ、存在しない」という無茶苦茶な主張をするわけです。

 つまり、我々がこの宇宙の森羅万象を認識しなくなった時点で、この宇宙はなくなるということなのです。

 

ヨガ行者のジッドゥ・クシュナムルティがアインシュタインにこういった。

「あそこにある月は、我々が見ているときは存在しているかもしれませんが、我々が見ていないときに存在しているという保証はどこにもありません」

 

今から60年前にそれが提唱された当時は、科学的に検証しようにも、その方法すらありませんでした。ところが、科学技術が進歩して、やっと最近、非常に制限された状況下ではありますが、検証ができるようになってきたのです。そして、どうやら本当らしいとわかってきたのですね。

 

--------------- ここまで

 

 私が、なぜ、こういった考え方にこだわるか…ということなんだけど…。

 多くの人がコロナ騒ぎはワクチンを打たせるための茶番で、今後、私達がほんの一握りの人々の奴隷として扱われるような超管理社会がやってくるかもしれない…と思い始めている昨今、そんな多くの人々が不幸に陥るような世界を何とか回避するためのヒントがここに無いだろうか?

 

 この量子モナド理論で語られる世界観(物というものは存在せず、宇宙の森羅万象は心の作用であると捉える)は、実は突拍子も無いようでいて、様々な物理学の問題をきれいに解決するらしい。それと…上記過去記事にもあるように「人間原理」はどうやら確からしい…と実験で確かめられつつあるらしい。ならば、それが真実なのではないのか?

 私たちは、絶対的な世界が存在すると思い込んでいる。それを、皆がそれぞれの目で見て、それぞれの耳で聞いていると思い込んでいる。でも、本当にそうなの?私達が世界を見る目を変える、心に描く世界観を変えることで、世の中が変わっていかないだろうか…。

 

 なんてわけで…そんなことに淡い期待を持っていたりするのである。簡単に答えが出るとも思えないけど…。

 

 今日は上のような内容を、もうちょっと理解を深めるために、また、別の言葉で表したものをメモしてみたい。

 

今日は葦原瑞穂著「黎明 」より…。

 

  

 

 この黎明」と言う本は矢作直樹先生の愛読書であり、理論物理学者の保江邦夫先生が著書「神の物理学」において「現代物理学における物質観を詳細に解説している第2章において、ここまで奥深い内容を物理学的な正確さを壊すことなく平易に誰もが正しく理解できるように記述していることに大いに驚かされた」と驚嘆し、また、葦原瑞穂氏のことを、それこそ「知の巨人」と絶賛していた。

 

 実はこの本の第1章が「世界という幻」というタイトルで(1)見ているもの、(2)聞いているもの がいかに自分の頭の中で認識しているだけのものだ…ということを克明に説明している。今日はその一部を抜粋。

 

--------- ここから

 

(1)見ているもの

「私達の大半は、自分の外側に「世界」が確かに存在していると、無条件に思い込んで毎日の生活をしていると思います。しかし、本当に世界はあるのでしょうか。

 私達の多くが、日常の感覚でそこに確かに存在していると思っているもの、ひとつひとつの存在物。そうしたものはほとんどの場合、あなたの過去の記憶に基づいて、それが何であるかを判断しているということに気づいて頂きたいと思います。つまり、過去にある時点でいったん「これは何々である」という観念を持つと、次にそれを見る時には、既に作られたそれについての観念を自動的に引き寄せてそれを通してみていることになるわけです。これは結局のところ、過去に造り上げたものの見方を現在に再現しているだけであって、そこに有るものを在るがままに観ているわけではないということに注意してください。

 

 更に気を付けて観ていくと、こうした判断の材料になっている様々な情報、つまり色や形等、具体的な感覚として心の中に近くされている映像(表象と呼びます)は、私達の身体に備わっている知覚器官が、外の世界から入ってくる光(ある範囲の波動を持った電磁波)に反応した結果として心の中に造り出したものであって、自然界に実際に存在するものではないという事実が解ってきます。つまり私達が日常の生活の中で、そこに有ると思っているもの、見ていると思っているもの、触っていると思っているもの、知っていると思っているものの一切が、実在しているものとは懸け離れた出来事であるということなのです。
 

 これは外から入ってくるあらゆる情報について共通していることですが、私達が自分の外側の世界を意識しているとき、それは外の世界そのものを知覚しているわけではなく、五官を通して入ってきた情報が、知覚システムの基本的なはたらきや、過去に造られた認識の様式の影響を受けながら、心の中に無意識のうちに表象を造り上げていること、つまり、自分の心の創作物を知覚しているに過ぎないということを、注意深く理解するようにしてください。

 

---------- いったんここまで

 

 この後、色や形を見る視覚については…

 

・色は可視光(ある範囲の電磁波)を人間の網膜の神経細胞(3原色に対応して3種類)が興奮し、その刺激が脳に送られて知覚される

・形は様々な方向から入って来る可視光(電磁波)の強弱、波動の分布の偏り(スペクトルの偏り!?)、コントラスト、や色の違いとそれらを認識する知覚システムによる

 

というように説明がなされ、例えば、同じ動物でも猫と人間では認識している世界はかなり異なるんだよ…というお話が続く。細かな部分を見分けられないけれど、広い範囲に渡って微妙な明暗を見分けられる猫と人間は同じものを見ても心に知覚される映像は全く違うものになるらしい。また、超音波で空間を把握する蝙蝠と、可視光で見る人間とは、その心に知覚する空間はまるで違ったものになるという。

それで…

 

------------------- ここから

 

同じものであっても、見る側の知覚器官の機能や性能によって、全く違う様相に見えてくるわけですから、私達が見ている(と思っている)ものはそこに存在しているものの実態ではなく、そこに存在するものと知覚器官との相互作用によって、心の中に造り出された映像(表象)に過ぎないことがお解りになると思います。

 

------------------- ここまで

 

 聞くこと、触ること、他、全ての知覚において、これらは同じことだという。以下、それらをまとめて…

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 この五官による表象の相対、つまり私たちが眼で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、手で触れることによって知覚している世界があまりに現実感を伴っているために私たちの多くは、それが外の世界として実際に存在しているものと思い込んでしまっているわけです。このような仕組みで造られる世界観は、当然のことながら知覚器官の機能や能力に影響を受けますし、心の中で造られるものである以上、個人差があり、また同一人物であっても、その時の意識の状態や、経験の積み重ねによって異なったものとなります。

 

 このように世界観とは、ある面では極めて個人的で再現性の乏しい、主観的なものにすぎませんが、その一方で、共同幻想とも言える、限られた範囲の中では一般性を持つようなものもあります。

 例えば、机の上に置いてある一個の林檎の存在は、人間に限って言えば、見る人の年齢や性別、民族の違いや主義主張等には余り影響されませんから、「林檎がある」という事実に関しては、多分反論する人はいないでしょう。

 こうした一般性は、共通の感じ方や考え方をする人達の数が多ければ多いほど、またそのことに関する確信の度合いが強ければ強い程、その表象にはっきりと現実感を伴ってきます。

 しかし、この「一個の林檎の存在」という一般性のある表象にしても、ある程度共通した意識状態において、似通った機能と能力の知覚器官から入ってきた、共通の情報を基に造り上げている共同幻想なのであって、そこに実在しているものを観ているわけではないのです。

 

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 この「黎明」で述べられていることは、最初に書いた「人間原理」

「この宇宙、自然界の全ての現象、あらゆるものは、人間がそれを認識して初めて存在する。人間が認識しなければ、存在しない」

そのもの…でもあるし、

 

量子モナド理論で語られる世界観(物というものは存在せず、宇宙の森羅万象は心の作用であると捉える)そのもの。

 

 とすれば、私達の心の作用というものが、この世の在り方にとても大きな影響を与える…はず…だよね。

 

この世という幻…、それはそうかもしれないけれど、実生活では先の林檎の例のように、現実感を伴うものばかり。視覚から入って来るだけの情報は「ああ、幻か…」と思えば、思えないことも無い。

 でも、使う物、作った物、そういった物全てが幻なの?ニンジンとゴボウで作ったキンピラゴボウも幻?すっごくうまいんだけど…それも幻?

 

それが幻だとするならば…世界っていうのは、実によくできている。

 

ならば…、洗濯物の山とか、片付け物の山とか、洗い物の山とか…

全て幻! であって欲しい…という主婦の毎日。

 

まだまだ理解が足りない…。