死ぬことは恐怖!? | 私のおべんきょうノート(ma-windのブログ)

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何でも自分で調べて、自分で考えよう。
本でもブログ記事でも、丁寧に読み込むことで新たに見えてくることがある。そういうものを少しずつメモしていこう。
分野は多岐にわたります。

 今日は、今までの健康志向の話とは違う話をメモしてみようと思う。ここ1年あまり、夢中になって読んできたスピリチュアル系の本の中では、あたりまえに語られてきたことだけれど…。死について…。

 

 昨今のコロナウィルスに人々の心が囚われているのは、やっぱり死に結び付く病気だという意識があるからだろう。でも、死のとらえ方次第では、この状況をもう少し俯瞰して見られるのではないかな。最近、読んだ稲葉耶季×矢作直樹対談「こっちの世界、あっちの世界 -元東大病院医師と元裁判官が語る「生」と「死」-」におもしろいことが書かれていたので、今日はそこからメモしてみよう。

 

 

------------- ここから

 

稲葉

 拙著にも書きましたが、「死はふるさとに帰るうれしい門出」。私はそうとらえています。私たちの肉体が死んでも、本質(魂)は死ぬことなく、ふるさとに帰り、やがてまた次の生を生きます。死はいっときの里帰りのようなものですよ。

 

矢作

 誕生は「こっちの世界にくること」、死は「あっちの世界に行くこと」と言い換えられます。そして、それぞれの世界に役割があります。「誕生が始まりで死が終わり」ではなく、稲葉先生もおっしゃったように、私たちはあちらとこちらを行ったり来たりしているだけ。この世とあの世を隔てたドアを開けて出入りしているだけなんですね。

 

稲葉

 そうですね。

 

矢作

 死は肉体という着ぐるみを脱ぐプロセスです。肉体という着ぐるみがなくなることで、私たちはあっちの世界に戻ることができ、あちらでは私達の帰還を迎え入れてくれます。こっちの世界での死は、あっちの世界での「再誕」なのです。そして、いずれのときか、また、この世のやってきて、前とは別の不自由な着ぐるみを着て、しばらくの間生きていく。

 

稲葉

 みんな何度も経験しているはずなのに、覚えていないから、誰しも今生(この世に生きている間)では初めて。自覚的には初体験だから、死が怖いと思うのもわかります。でも、本当は怖いどころか、ワクワクするすばらしい体験ですよ。今生では私もまだ行ったことありませんが、確信しています。

 

矢作

 私は、競技場にいるプレーヤーと観客にもよくたとえます。この世で生きていることを競技場でのプレーにたとえると、あの世は観客席のようなもので、みんなリラックスして競技を観戦しています。一生懸命走ったり、いろんな競技をしたりする私たちを、あの世から「がんばれ~」と応援してくれています。

 

稲葉

 そのたとえはわかりやすいですね。

 

矢作

 やがて競技を終えるときが来たら、「お疲れ様でした」とねぎらわれ、今度は自分が観客席から応援することになります。しかし、あの世からはこちらの様子は見えますが、こちらからは見えないので、「ああ、いずれあのゆったりとくつろげる場所に自分も行くのだな」というイメージを持ちにくいんですね。

 

稲葉

 向こうに行って、何かの修行をするそうですよ。向こうからメッセージを受け取っている人の本などを読むと。それでまたこっちに生まれ変わって来ると。将来、いろいろなことが大いにあるのだから、楽しみに行けばいいのであって、死は何も悪いことではないですね。そこが納得できたら、死に対する意識はものすごく変わるはずですよ。

 

司会

 死は怖くないと本当に納得できたら、どんなにらくで自由になれるだろうかと思います。でも、理屈でわかったと思ってもやはり…。

 

稲葉

 もともと自分のいたところですよ。そこに帰るだけ。なぜそんな変なところだと思うんでしょう。

 

矢作

 いやあ、神様のつくった安全装置はすごいですね。向こう側が見えないようにしたという安全装置。

 

稲葉

 そんなに向こうがよければ、みんな帰ってしまいますからね。

 

矢作

 無理して延命なんかしないですよね。

 

稲葉

 早く帰ろうとなってしまうかもしれない。

 

矢作

自殺はしないけれども、無理なとどまり方をする必要はなくなるということです。終末期の無理な延命措置は、最近は問題視することもふえてきましたが、まだまだやるのが一般的です。

 

稲葉

 医師にも患者にも死の本当の意味がわかってきたら、そういう無理な延命はしなくなるでしょう。早くそうなってほしいものです。

 

矢作

 ついでにいえば、生と死の位置づけが本当に理解できたら、自殺という選択肢もあまり選ばないはずです。この世に誕生して生きることには、「さまざまな経験をする」という大切な目的があります。毎日を生ききる、執着を手放す、他人や自然や神様に感謝する…。生きるということは、死ぬまでの自分自身の壮大な物語ですから。

 

---------- ここまで

 

 そうそう、以前の記事 ラヴェルの「ボレロ」とともに… で読んだ保江邦夫著「せめて死を理解してから死ね」にも、死ぬ時は「ただいま」と言って死ぬのが良いと書かれていたっけ。だから、普段から「ただいま」と言う練習をしておくといいのだとか。

 

 そして、このブログで何度か取り上げているドクタードルフィンこと松久正氏も、「様々な修行をして魂を成長させるために、この地球に生を受ける」のだと述べている。彼によれば、「地球はとてもつらい場所であって、そこに生まれてこようとすることそのものが果敢な挑戦」なのだそう。

 

 そんなことを思うと、今のコロナウィルス騒ぎ…。これも魂の修行ととらえたらどうだろう。数少ないマスクを譲り合って、互いの身体を思いやり合って乗り越える良い機会に…。

 

 そして、基本的なうがい、手洗い、健康的な生活をして、あとは運を天に任せるしかないかな。騒いでも、不安がっていても仕方ない。そうやって、「コロナウィルスが爆発的感染を起こすのでは…」と注目していると、それが集合意識を作ってしまうかもしれないし…。

(参考記事:集合意識が動かすものもある…。だから、不幸のたねには囚われない。 )

人は必ずいつかは死ぬのだもの…。